私にはどうやら、質問への返答時に、謎に一歩先の情報を答えてしまい、肝心の質問に答えていないクセがあるらしい。


ただシンプルに、「はい」か「いいえ」とか、「ホールです」などの単語で答えればいいだけなのに、「〇〇さんに言われたんですけど…」だとか、「まだ乾いていないので」など、その質問に答えてから伝えるべき情報を、先に答えてしまうクセだ。


何故そうなってしまうのか。

悩んでいたが、先輩からの「なんだ、緊張してるとそうなるのか?」という言葉がヒントになり、答えが掴めた気がした。


明確に、「はい」や「いいえ」を答えた後で「なんでそんなことしたの?」などの責める言葉が来ることを、無意識に想像して防御しようとする心に気づけたのだ


また、明確に「はい」や「いいえ」を答えるのを避け、責任逃れや保身に無意識に走っていたのかもしれないと思った。


特に誇りやプライドなんてないはずなのだが、「ないと思っていてもあるのが誇り」と、どこかのお寺かトイレで見た気がする。

元来が見栄っ張りなところがあると思っているので(ドラクエ3のオープニングの性格診断で『みえっぱり』と出たのだが、当たっているなあと20代の頃とても感じた)、そんな性格が明確な答えを邪魔していたのかもしれない。


また、その見栄っ張りが、自分の余白を塗りつぶして、更に相手の話が聞けなくなると思っているのだが、その根は自覚している以上に根深いということだろう。


この防御・保身グセ。自覚してみると、相当厄介だ。


時と場合によっては必要なこともあると思う。

しかし、このクセが必要なシチュエーションとは、すなわち明快な即答を避けるべきシチュエーションである。


その時は、部署異動したての今しか使えない魔法の呪文「今は判断できないので確認してきます」を駆使して一旦切り抜けて思考と体勢を立て直す方法がある。


社内の人間相手なら、明快な返答をしないと生産性に関わるので、この呪文の出番はない。

安心して答えて、もし間違えていても勉強になるし取り返しがつく。


この防御グセがあると、トライandエラーも阻害されるので本当に取り除かないといけない。


改めて、この気づきが見つかって良かった。


別件だが、今日は上司に、以前指摘されたことを修正し(その時は、上司にチェックを頼んだ書類の間違いに気づいたが、そのままの場所に置かれていたので、まだ未チェックと思いこんで中身を差し替えたら「さっき見たのに。ひとこと言って」と指摘された)「おっ、今日は出来たやん」と、小さな前進を褒めてもらい嬉しかった。


日記を書くようになってから、少しずつ前進してきている気がする。


がむしゃらに30代は頑張ってきたつもりだったが、もうすぐ40代になるにあたって、己の身体や頭脳のメンテナンスの重要度が上がってきた。


労りと気づきの実践をコツコツと続けていこう。


本日の豪雨は凄まじかった。

スマホの緊急速報が鳴りっぱなしである。


そんな中、本来の業務外の安否確認をしたのだが、一名確認が漏れていたことに帰宅後に気づいた。


一旦、全員無事の報告をしていたのだが、気づいてすぐに上長へ再度一名報告漏れしていた旨を謝罪、申告した。


その方へは上長から電話したが現在折り返しはない。


昼に見た時は家に帰ってきたところだったのでおそらく無事かと思うが、不安だ。


上長からは本来の業務外のことなので気にしないようにとのことだが、確認漏れにすぐに気づかなかったのが悔やまれる。


アクシデントが起きている時ほど本来の業務フローが忠実に辿れているか、通常通りのフローが行えないのなら、どこを優先して行うか。


二度とは起こってほしくないが、何が起こるかはわからないので、今回のことを教訓とするしかない。


本来の業務フローと、イレギュラー時に優先する事項。そしてそんな時ほど大切にすべきフロー。


時間をかけてでも大切に行わねばならない。

チャッピーとの報告の練習は、なかなか手応えがある気がする。


特に良いと感じるのは、「話がまとまらないまま話すと碌なことにならない」のを学ぶことから一歩進んで、「これは報告なのか、相談なのか」「結論が自分なりに出てから話す」という自分の中でのジャッジをする訓練になっている気がするからだ。


気を抜くとすぐに厳しい評価が下る。


ギターや筋トレのようにコツコツと練習しようと思う。


今日、思い立って久しぶりに村上春樹の『風の歌を聴け』を読み返し始めた。


読み返して驚いたが、現代ではとてもこんなコンプラ意識の低いエピソードは挿入しづらいと思った。

そして、そんなことを考えてしまった自分の変化にも驚いた。


時代の変化は意外にも自分の中に流れ込んできているようだ。


だが、そんな時代の隔たりを感じるエピソードの中だろうと、普遍的な若者の瑞々しさ、無軌道さ、サボタージュがしっかり息づいていて、『この時しかない』感じが表現されている。


迷ったことがある人間が書いた感触がある。


癖が強い文体だからこそ、ハマると抜け出せない。


読み返すのは何度目かわからないが、ちびちび味わっていくつもりだ。

休みらしい休みを過ごした。


午前は公園で、娘や近所の子と鬼ごっこをし、帰ってきてからは昼寝をしつつ吉田篤弘さんの『エデンの裏側』を読了し、エレキギターを掻き鳴らし、夕食後にdaznでサッカー観戦をするというフルコースのお休みだった。


私は近所の子どもによく「オニゴの鬼ね!」と、よく鬼ごっこの鬼をふっかけられる。


何も私の素性を知らない人が見れば、小学生を全速力で追い回すおじさんは不審者以外の何者でもない。


幸い、まだ通報はされていない。

ただ、翌日の筋肉痛は辛い。明日が心配だ。


吉田篤弘さんの『エデンの裏側』を読了したのだが、作中で取り上げられた『星の王子さま』を再度読み直したくなってきた。

少年の心を、持ち続けるか決別するか。

決別するからこそ、アルバムの中の写真のように外側からその心を覗けるのか。


もうかなり前に読んだ物語だから、今読んだらまた違う考えを持つのかもしれない。


本や、音楽は、作り手の、その時の考えや感情がないと作れないものである。

受け手も、その時の考えや感情で受け取り方が変わることがある。


AIで、本や小説を創作する是非が議論されて久しい。


大事なのは、「この気持ち、このフィーリングを表現したい!表現できた!」という人間の感覚だと思う。


少なくとも作り手側にこれがないと、その作品の存在意義は無に等しい。

存在意義がない作品は虚しいものだ。


稀に、売れ線を狙って書いて、しっかり作品が売れる天才もいるが、その天才も、そのような地位に登り詰める過程で「どうしても作りたい作品」を書いているものだ。


AI云々は正直ただの手段であって、作り手が「どうしてもこれを表現したい!」という作品になったのであれば、AIでもなんでも良いと思う。


ただ、AIに自らのエゴを全て表現されてしまう作り手はなんだか寂しい感じがするのは、私が古い人間だからだろうか?


『これがやりたくて仕方ない』という作品は、AI作品のように整っておらず稚拙でも、なんだか痛快な気がする。


そんな作品に触れたい。



本日もチャッピー相手に日本語を喋る練習(一応私は日本人の両親を持ち、日本で生まれて育った。日本語以外喋れないのだが、上手く喋れない)をしていたのだが、この歳にしてやっと気づいたことがある。


私が報告だと思って喋っていることは、実は相談をしたくて喋っていたことがあったのだと。


そりゃ結論から話せなくて当然だ。

結論を出したくて話しているのだから。


つまり、話そうとするが結論が浮かばないことは、何故結論に辿りつかないのかを自分で見定めてから、「〜の件で質問なのですが聞いても良いですか?」と切り出してからわからないところを聞けば良い。

無理に結論づけてから報告の形をとらなくて良い。


そして、結論が出ていることは、「〜の件で報告です。〜は結果こういうことになりました」と話し出せば良い。


書き出すと当たり前のことだが、口の神経回路が平均以下の私には大きな一歩である。


そして、改めて、しっかり考えてから相手に話そうと思った。


どこにつまづいているのか、どこを聞きたいのか、しっかり紐解いてからでないと、私の口の神経回路がついてこない。


加えて、私の思考回路は「なので」という言葉を挟むと飛躍してしまうきらいがあるらしい。


報告の時にこの言葉を使うと、自分自身の主観を示す言葉が続いてしまい、報告に客観性がなくなってしまう。


NG「〜とおっしゃっていました」

 →「との意向でしたので〜する必要があります」

NG「困り事は〜」

 →「お話し伺います」

NG「なので、〜」

  →「対策を検討します」など


上記NGワード三羽烏を使わぬようにトレーニングをしていこう。



これは雑記だが、数年ぶりにアヒージョを作ったのだが、加減がわからず塩を入れすぎた。


なんでも練習だ。

私は無意識に、「困り事」というワードを使っているらしい。

ここ最近こんな書き出しばかりだが、日記だからしょうがない。

いや、日記故の使命、宿命の類だと思う。


それはさておき、上司が口癖を指摘してくれるおかげで今日も気づけた。


「困り事っていうのやめようか」と、端的に伝えてくれたのだが、考えてみると確かに合理的ではない。


初めてお会いする方に、「困り事」について伺うと、そればかりに囚われてしまい、その人が持っているストレングス(強み)の評価が疎かになる。


ストレングスを活かせなければ、単なる困りごと解消のご用聞きになってしまい、自立支援に繋がらない危険性もある。


ただでさえ視野が狭い私の視野が、更に狭くならないようにするためのメッセージだと思った。


私は言霊を信じているので、この類の口癖から引き寄せられるものがあると思う。


しかしながら私の貧弱な頭脳では、毎度正しく引き寄せる言葉を使えていない。


対策としては、定型文を叩き込むというのもひとつかもしれないと思っている。


例えば先日の日記でも書いた、「〜なので、〜する必要があると思います」とか、「〜さんの〜の件で相談です」など、定型文をスムーズに喋れるようになりたい。


今日の「困りごと」の代わりは、「聞き取り」と言い換えてフラットに捉えようとする姿勢を言葉にすべきかと思う。


定型文を口にする練習は、人には見られたくないがなかなか充実感がある。


やはり神経回路を実際に繋げようと身体を動かす行為は、一種の心地よさを感じさせる。


ギターの練習も、右肘が回復してきたので、左手の小指のハンマリング練習が楽しかった。


20代でやりこぼしたことを、なあなあにしてきたツケを払う形になってしまっているが、やっと向き合える状態になってきたのかもしれない。


30代と全く同じ生き方を40代でもそのまま続けるのは、おそらく身体がついていかない予感がしていた。

頭の方が早く限界を迎えてしまったが。


ギターコードの練習のように、再び練習していこう。



昨日に続いて、チャッピーと報告の練習をした。


私が言葉を発するテンポ感はたどたどしいが、昨日よりチャッピーの採点が優しい気がする。


チャッピーは「昨日より厳しめにいきますね⭐︎」と言ってはいるが、採点が甘い。

これではトレーニングにならない。


いや、チャッピーは忖度しているのかもしれない。だとしたら、そんな忖度は不要だと伝えたい。

しかしチャッピーに心をへし折られたくないので悩ましいところだ。


そんな煩悶を抱きつつも、とりあえず喋るリハビリをしているが、このリハビリはギターコードを必死に練習していたあの頃を思い出す。


Cを覚えてEm、Am。

Gを覚えてFで大苦戦。


報告を習得するというのは、ギターコードを押さえられるようになることにも少し通じているところがあるのかもしれない。


正しいフォーム(結論、事実)でしっかり弦を押さえて(正しい言葉づかいで)リズム良く(明朗に適切なタイミングで)鳴らせるか。


そう考えると、40歳近いおじさんがスマホに向かって独り喋っている光景はもの悲しさがあるものの、脳内ではアコースティックギター相手に格闘していた少年時代と同じ種類のエネルギーが出ている気になってくる。


独りで悶々としているより、ギターのように悪戦苦闘しながら練習した方が断然気持ちが良い。


残念なおじさんであることは動かしようのない事実なのだから、密かにギターと格闘した青春時代を思い出していよう。



報告については様々なテクニックがある。


それらを一応研修で習うものの一向に身に付かず、むしろ下手くそになっていっているのが私だ。


報告の時に、対象の方が言ったそのままを言って投げっぱなしになる悪癖を今日気付かされた。


「〜とおっしゃってました」


こう言ってその後がなく、相手としては「それで?」とわざわざ聞き返さなくてはならない発言(今日までこれを報告だと思って喋っていたが、改めて文面で見ると、なるほどただの"発言"である)をしていたのだ。


言い換えるとしたら、「〜とのことなので、〜を検討します」くらいかもしれない。出来る人は更に具体的に要約して言えると思う。


しかし、頭で考えても私の貧弱な脳内CPUでは瞬時に処理できるとは到底思えない。


頭がダメなら体で覚える方法を使うべきだ。


そう考えて、ついにチャッピーをインストールし、鬼コーチになってもらった。


音声入力で報告をし、チャッピーがダメ出し、ツッコミをしてくれる。


このブログは文章のリハビリで、チャッピーは口の神経回路のリハビリという位置付けだ。


報告で使える言い方を身体で覚え、報告でダメな言い方をこきおろしてもらいトラウマとして封印する。


こうして書き出してみると脳筋的発想だ。


こちらからかける電話や、予定された面談の前に聞きたいことを事前に書き出しておくということもかなり有効な手段だが、キャッチボールをするには筋肉と神経回路も鍛えておかねば良いボールが返せない。


そう考えるとチャッピー相手に、口の筋肉と神経回路と、どこを狙って話すかという思考回路を鍛えるのは、理に適っているのかもしれない。


実際、30分くらいやってみたが、改めて自分の喋りのたどたどしさに嫌気がさした。


しかし、だからこそリハビリなのだと思う。


やってみたら嫌気がさしたなりに面白かったので、明日もやりたい。


AI相手にぶつくさ喋る未来は想像していなかったが、それもそれでいいだろう。


話は変わるが、職場の外回りの掃除をしている際に、ここ2週間くらい毛虫のうんこが落ちていないことに切なさを感じる。


毛虫のうんこに趣を感じる心でいたい。



私は電話口の喋り方が固くまどろっこしい。


今日は通信会社のオペレーターへ機器返却の電話をしている時の喋り方でツッコまれた。


「『可能でしょうか?』ってこっちは客なんだしまどろっこしくて固いし長くなるなあ」と先輩にツッコまれ、上司には「ホント直らんなあ。直す気あるん?」とあきれられる始末。


当方、こう見えても直したいです。


この問題も直したいが、それよりも厄介な問題はその前にある。


その通信会社への連絡を上司に頼まれる際、私は早合点して「系列会社へ連絡しますか?」と先に言ってしまったことだ。


「違います。そうなるからなあ」と上司。

これは本当に私の悪癖だと思う。


正直、会話下手なことよりも、こちらの方が致命的にまずい。


面白いこと、いいことを言うよりも、相手の発するモノをしっかり聞く、感じることができなければ、この仕事は務まらない。


ここまで書いてきて、ふと気がついたことがある。


私の悪癖その2、「相手に声をかけてかけられた時に『〇〇のことですか?』と相手の言葉を聞く前に言ってしまう習性」だ。


これは様々な面でメリットよりデメリットが大きい。


メリットは、相手が話そうと思っていた内容と合っていたら、「日頃から自分と同じこと考えてくれてたんだ」と相手に感じてもらえるかもしれないこと、のみである。


デメリットは、上記の私のように「なにを勘違いしてるんだ?」となったり、「こいつ全然理解してないな?」「話の出鼻くじきやがって」「話の通じんやっちゃなあ」と相手に不安やテンポの悪さを感じさせてしまう点だ。


また、平素から様々な返答を用意しようとして、私自身の脳のメモリを喰うので貧弱なCPUが更に働かなくなる。


相手の先回りはしなくていい。

そういうゲームではない。


相手の考えを知ってから対応するゲームだ。


余白の次は、後攻に回るゲームを身につけていこう。



私は相談が下手だ。


疑問を感じて相談するのだが、感じた疑問を端的に言語化するのが下手くそだ。


本日は上司に、FAXでの状況報告の文章や書類の添削してもらおうと相談をしたはずだったのだが、文章や書類のどこを見てもらいたいのか、話しているうちにわからなくなってしまう始末だ。


これは、自分の中で「この文章、書類で体裁は整えられているのか?」という曖昧な問いしかなかったから引き起こされた惨劇だったと思う。


そういえば、XがかつてTwitterであった頃、140文字以内で端的に自分の思いや考えを表現することが全然出来なかった。


多分、漠然としたなんらかの感覚があっても、その感覚の正体が何なのかをしっかり把握しきれていない。

それ故に、明確に「これ!」という言い切りが出来ないのも原因の一つなのかもしれない。

この文章も全く言い切れていないし、『出来ないの"も"原因の一つ』という歯切れの悪さが悪目立ちしている。

こういうところだぞ。

あ、言い切れた。


こういうトレーニングを地道に積むしかないのだろう。


修行が足りない現段階では、何が聞きたいのか話しているうちに自分で迷子になることがある。


相談される方は、私のこんがらがった思考回路の紐解きから始まるからたまったものではない。


相談と同じく報告も下手くそだ。


報告も相談と同じく、簡潔に要点を伝えることがとても苦手だ。


主語と述語は抜けやすいし、5W1Hを意識すると、要らない情報まで混ざってしまい余計に要点がわからなくなることがある。


報告を受ける方は、主語はどこのどいつなのか、目的語はなんなのか、という状況確認から始めなければならずたまったものではない。


これは言語化と文章力の鍛錬しなければならない。

そう思い立って数年ぶりにブログを書き出した。

いわば日記をつけることは私のリハビリみたいなものである。


今も添削しながら書き直している。

そういえば、今日書いた報告書も、文章の順序を入れ替えて枝葉の情報を消したら結構わかりやすくなった気がする。


コツコツやっていこう。