〓今では、バッグとジュエリーのブランドとして、すっかり有名になった “サマンサタバサ” ですが、アッシがこの名を初めて目にしたのは、2002年か、2003年の冬の寒い日でした。
新宿のモザイク通り
ですよ。あのビルとビルの谷間の 「ここ抜けられます」 みたいなところ。新宿駅南口と西口とのあいだの行き来をするのに便利な 「フシギな空間」 です。このモザイク通りの両側には若い女性向けのお店がたくさん並んでます。
〓で、とあるロゴが目に留まりました。
Samantha Thavasa
〓あんね、立ち止まりました。これは、アッシのような言語ニンゲンにとっては立ち止まるにあたいするロゴでした。
〓たとえばですよ、アァタが、ヨーロッパの街角なんぞで、ふと、
フォテル・ヴェルリン
などというカタカナで書かれたホテルのロゴを目にしたらどうします? 立ち止まるでしょ。それに似た感じなんですね。
【 「サマンサタバサ」 の擡頭 (たいとう) 】
〓2005年10月、「サマンサ タバサ」 は大攻勢に出ていました。当時、飛ぶ鳥を落とす勢いのビヨンセ、マリア・シャラポワなどを起用して TV CM を打っていました。
〓オトウサンたちは、そういう CM を横目で見て、
「ふ~ん、アメリカのブランドか」
と思ったに違いありませんやね。もちろん、そうではないんで。純日本産のブランドですよネ。
〓この年の4月には、すでに表参道に “旗艦店” (きかんてん) をオープンしていました。
〓そして、同年の12月に東証マザーズに上場しています。
〓2005年10月31日、「朝日新聞 土曜版 “be on Saturday”」 に、2面をついやして 「サマンサタバサ ジャパン リミテッド」 の社長、寺田和正 (てらだ かずまさ) 氏のインタビューが掲載されていました。
〓そのインタビューにこういうクダリがありました。
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質問──海外ブランドだと思っている人が多いようです。
寺田──創業時からジャパンリミテッドという社名で、日本の会社だとはっきりさせていますが、誤解をあえて正していませんでした。聞かれなくても、日本のブランドだと言い出したのはここ3年ぐらいです。日本の企業でも、ブランド力はあると内外に伝えたかったのです。
――――――――――――――――――――
〓同じ記事で、
社名の由来 ── 『奥様は魔女』 とは無関係。由来は秘密。
となっていました。秘密も何もありゃしませんで。前後関係を見れば、その仕組みは一目瞭然です。
【 「サマンサ」 と 「タバサ」 】
〓アッシがモザイク通りで目にして、立ちすくんでしまったロゴですね。
Samantha Thavasa
〓「サマンサ タバサ」 と聞いたら、誰だって 『奥さまは魔女』 の 「奥さまサマンサ」 と 「娘のタバサ」 だと思いますよね。ネットで検索すると、
"サマンサタバサ" "奥さまは魔女" …… 2,460件 (Google 2010/6/2)
"サマンサタバサ" "奥様は魔女" …… 1,630件 (同上)
というヒット数です。
〓「社長が関係ないったって信じてるヒトはいないよ」 という意見もあるし、「関係あるんですか?」 という疑問を呈しているヒトもいるし、あるいは、「両者は関係ありません。社長がそう言ってます」 というオメデタイ意見もあります。
〓2005年10月に、 Google で 「サマンサタバサ」、「奥さまは魔女」 を検索したときにはヒット数 194件で、むしろ、
“サマンサタバサ” って、『奥さまは魔女』 から取ったんだよ、知ってる?
式の書き込みが多かった。その当時の 「サマンサタバサ ジャパン リミテッド」 のホームページでは 『奥さまは魔女』 のことはいっさい触れていませんでした。関係あるとも、ないとも書かれていなかった。
〓「関係ありません」 という明言に接したのは、この2005年10月31日の 「朝日新聞 土曜版」 が初めてでした。
〓つまり、「サマンサタバサ」 が飛躍する 2005年の秋までは、ダンマリで通していたんでしょう。ここにトリックがあったんですね。
〓わざわざ、「サマンサタバサ」 は 『奥さまは魔女』 から取った、とか、取らなかった、とか言及しなくとも、「みんなが勝手に、早合点 (はやがてん) してくれた」 わけです。
〓『奥さまは魔女』 というのは、1964~1972年にアメリカの ABCで放送された、いわゆる、シチュエイション・コメディ situation comedy / sitcom ですね。原題は、
“Bewitched” [ bɪ'wɪtʃt ] [ ビ ' ウィッチト ]
です。
〓このタイトルは、一種のシャレになってるんです。「魔法にかけられて」 と 「魅惑されて」 の両方の意味にとれます。つまり、ダンナさんのダーリンは、奥さんのサマンサに二重の意味で bewitch されていたんです。日本では 1966年から吹き替えで放映されました。
左からダーリン、タバサちゃん、サマンサ。 ワンちゃんは飼ってなかったと思うんだけど……
〓このコメディの主人公が、魔法使いの奥さま 「サマンサ」 でした。1965年の第2シーズンでサマンサに女の子が生まれます。それが、小さな魔女の 「タバサ」 ちゃん。
〓この第2シーズンでは、「タバサ」 のクレジット表記は、
Tabatha
でした。第6シーズン (1969~) から
Tabitha
と綴りが変わります。
〓英語のみならず、「強さアクセント」 (←→ 日本語や中国語などは高さアクセント) を有する言語には、
アクセントのない音節の母音が弱化する
という現象があります。言語学ではそういう母音を 「弱化母音」 reduced vowel と呼びます。たとえば、ドイツ語だと、
Hose [ 'ho:zə ] [ ' ホーゼ ] 「ズボン」
Vater [ 'fa:tɐ ] [ ' ファータァ ] 「父親」
といった単語の語末にあらわれる [ -ə ], [ -ɐ ] は、それぞれ、 [ -e ], [ -er ] が弱化したものです。
〓あるいは、標準ロシア語では、
Москва Moskvá [ mʌsk'va ] [ マスク ' ヴァー ] 「モスクワ」
のように、アクセントのない о が 「ア」 に弱化する、という性質があります。これを 「アーカニエ」 аканье ákan'je (アーアー弁) と言います。
〓つまり、「強さアクセント」 を持つ言語は、アクセントがある音節の強烈さゆえに、逆に、アクセントのない音節の母音がゆるんでしまうんですね。
〓英語の America という単語を、アァタ、どう発音します?
America [ ə'meɹɪkə ] [ ア ' メリカ ]
ですか? もちろん、この発音は 「米国標準音」 (General American / GA) として問題ありません。
〓しかし、以前、外国人タレント、ケント・デリカットさんが、TV バラエティで、何度も何度も、
America [ ə'meɹəkə ] [ ア ' メラカ ]
と発音するのを聞いたことがあります。これも間違いではありません。米国などでこの発音がなされることも決して少なくないのです。
〓現代英語では、アクセントのない音節にあらわれる [ ɪ ] について、 [ ɪ ] を保つ方言と、 [ ə ] に同化させてしまう方言とがあります。この区別を持たない方言だと次のようなことが起こります。
Rosa's [ 'ɹoʊzəz ] [ ' ロウザズ ] 「ローザの」
roses [ 'ɹoʊzəz ] [ ' ロウザズ ] 「(複数の) バラ」
〓 [ ɪ / ə ] の区別を持つ方言の話者だと、
roses [ 'ɹoʊzɪz ] [ ' ロウゼズ ] 「(複数の) バラ」
ですネ。
〓つまり、 Guns N' Roses は 「ガンズンロウゼズ」 だったり、「ガンズンロウザズ」 だったりするわけです。
〓この区別を持たない方言の話者だと、同じように、 America は 「アメラカ」 だし、 Tabitha は、
Tabitha [ 'tæbəθə ] [ ' タバさ ]
となるわけです。つまり、彼らにとっては、 Tabatha と Tabitha は綴りが違っても同じ音なんすネ。
〓英語の名前では、 Tabitha, Tabatha, Tabytha のように、弱化した音節の綴りを i, a, y などで交替するものがよく見られますが、その理由の1つは、そうした音を発音し分けない人々が、綴りのバリエーションをつくり出しているからなんです。
〓日本人は気づかないんですが、たとえば、ロシア革命を起こしたレーニンと、ジョン・レノンの姓の発音が同じである、という英語のネイティヴも多いんです。つまり、
Lenin [ 'lenən ] [ ' れナン ] 「レーニン」
Lennon [ 'lenən ] [ ' れナン ] 「レノン」
ですね。
〓それとか、米国のバンド 「リンキン・パーク」 とかね。このバンド名は、 Lincoln Park 「リンカーン・パーク」 のモジリです。カタカナにすると、「リンキン」-「リンカーン」 とあまり似ていませんが、英語ではこうです。
Lincoln [ 'lɪŋkən ] [ ' りンカン ]
Linkin [ 'lɪŋkɪn / 'lɪŋkən ] [ ' りンキン / ' りンカン ]
〓つまり、英語のネイティヴでも [ ɪ / ə ] を区別するヒトにとっては、「リンカン / リンキン」 ですが、区別しないヒトにとっては “まったく同じ音” なんですね。
〓歴史的な流れから言うと、
この変化は [ ɪ / ə ] → [ ə ] という方向で合流が進んでいる
状態です。この区別の消滅は、すでに、オーストラリア、ニュージーランド、アイルランドで完了しており、米国標準音 GA でも [ ɪ ] と [ ə ] は入れ換え可能になっています。
【 Samantha Thavasa のしかけ 】
〓気づいているヒトには、とうにアッタリマエダのクラッカーかもしれないっすが、ブランド名の 「サマンサタバサ」 とドラマの 「サマンサ、タバサ」 の綴りは以下のように異なっています。
Samantha - Thavasa 「サマンサ タバサ」 ブランド名
Samantha - Tabatha 「サマンサ」 「タバサ」 ドラマの役名
〓どうです、「タバサ違い」。英語の b に v を当て、 th に s を当てています。この音声認識が可能なのは、世界広しといえども日本人くらいです。この 「すり替え」 のためには、
[ b ] と [ v ] を混同する言語
でなければならないし、
[ θ ] を [ s ] に聞き取る言語
でなくてはならないんです。
〓2005年当時、「サマンサ タバサ」 は翌年の海外進出をにらんで、ヴィクトリア・ベッカム、ビヨンセ、ヒルトン姉妹、シャラポワなどを起用して、ボチボチと布石を打ち始めていました。
〓2005年10月の段階でネットで調べると、確かに “Samantha Thavasa” に関する記述は多くなっていました。 Google における 「日本語のページを完全に排除したうえでの検索結果」 は 111,000件 (Google 2005/10/31) でした。
〓現在の検索数は 1/4 ほどに減っています。
"Samantha Thavasa" …… 27,200件
※ Google 2010/6/2 英語・米国限定
〓アッシは、2005年10月当時、英語のページで、 “Samantha Thavasa” と “Bewitched” との関連に触れたページがあるか調べてみました。
結果は0件
だったんです。
〓つまり、海外では、「サマンサタバサ」 と 「奥さまは魔女」 のあいだに関係があると、誰一人、気がついていなかったんです。今いちど調べてみると、じゃっかんの言及はあるとは言え、やはり、一般には気づかれていません。
"Samantha Thavasa" Bewitched Tabitha …… 17件
"Samantha Thavasa" Bewithche Tabatha …… 16件
※ Google 2010/6/2 英語・米国限定
〓つまり、ここに Thavasa という綴りの “ゼツミョーさ” があります。
〓『イソップ物語』 に 「コウモリとイタチ」 という話があります。
〓コウモリがイタチに捕らえられ、“仇敵の鳥だから” という理由で殺されそうになると、コウモリは、「わたしはネズミです」 と言って逃れます。
〓また、このコウモリは、こんどは、別のイタチに捕らえられ、“仇敵のネズミだから” という理由で殺されそうになります。すると、「わたしは鳥です」 と言って逃れるんですね。
〓つまり、見ようによって2通りに解釈できる外見を持つのがコウモリ。 “Samantha Thavasa” というブランド名は、まさにコウモリなんすよ。
「サマンサタバサ」 は日本では 『奥さまは魔女』 のキャラの名前
でしょう。そうとしか思えません。ところが、英語のネイティヴが見れば、
“Samantha Thavasa” というのはブランドを立ち上げた女性デザイナーの名前
としか解釈できないんです。
〓 Thavasa [ 'θævəsə もしくは 'tævəsə ] [ ' さヴァサ、' タヴァサ ] なんていう姓は誰も聞いたことがないでしょうが、米国は移民の国ですから、
誰も聞いたことのない姓に出くわしても疑問をいだかない
んですね。英語のネイティヴにとって [ b ]-[ v ]、[ θ ]-[ s ] は全然別の子音ですから、 “Bewitched” の 「タバサちゃん」 の名前など、アタマの隅さえよぎらないんです。
【 「サマンサ」 と 「タバサ」 の意味 】
〓「サマンサ」 Samantha [ sə'mænθə ] という名前は、聖書に出てこない語源の不明の名前です。18世紀、アメリカ南部で使われ始めました。現在、英語やそれ以外の言語でも使われるようになったのは、実は、『奥さまは魔女』 以降のことです。
〓「タバサ」 Tabatha [ 'tæbəθə ] というのは、聖書に出てくる女性の名前 Tabitha 「タビタ」 の綴り換えです。
〓さきほど申し上げたとおり、現代英語では、アクセントのない [ ɪ ] 音の [ ə ] 音化が進んでおり、 Tabitha の発音としては、米国標準音でも、 [ 'tæbəθə ] [ ' タバさ ] と [ 'tæbɪθə ] [ ' タビさ ] とは “等価” と判断されます。つまり、 Tabatha は単なる Tabitha の異綴 (いてい) となりつつあります。
〓 Tabitha は、日本語の聖書では 「タビタ」 です。この女性は 『新約聖書』 の 「使徒言行録 (しとげんこうろく) 9:36-43」 にたった一度だけ登場します。
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「ペトロ、タビタを生き返らせる」 ヤッファにタビタ──訳して言えばドルカス、すなわち 「かもしか」──と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。 ……(中略)…… ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」 と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。 (新共同訳)
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〓 Tabitha は、『新約聖書』 のギリシャ語
Ταβιθά Tabithá [ taβi'θa ] [ タび ' さ ]
を写したものです。イエスの時代にメソポタミア、シリア地域で広く通用していた共通語、アラム語の名前です。英語圏では17世紀から流行を始め、しだいに廃れて19世紀初頭に使われなくなっていました。現在、 Tabitha, Tabatha という名前が使われるようになったのも、『奥さまは魔女』 の影響です。
〓余談でありますが、サマンサのダンナさんの名前 「ダーリン」 は Darling ではありません。
Darrin [ 'dɛᵊɹən ] [ ' デァラン ] 「デアリン」
という男子名です。
〓おそらく、1960年代に日本の TV で吹き替え版が制作されたときに、脚本の翻訳家が Darrin の発音をチャンと調べなかったか、調べがつかなかったんでしょう。ローマ字読みすると確かに 「ダーリン」 です。
〓この名前の基本の語形は Darren です。異綴 (いてい) に Daren, Darin, Darran, Darrin, Daron, Darron などがありますが発音は全部同じです。これも 「母音の弱化」 のなすイタズラです。
〓すなわち、アクセントのない母音がすべて [ ə ] になってしまう英語の欠点が招いた混乱であり、とりわけ、辞書によって “正しい綴り” が定義されていない固有名詞ではこうした混乱は深刻です。名前の綴りに異綴が多いのは英語の特徴の1つです。
〓「サマンサタバサ」 が 『奥さまは魔女』 に由来するなら、米国に進出したときに問題が起こってしかるべきでした。それが起こらなかったのは、英語では、両者のあいだに関係があるなどとはまったく感じさせないからです。
〓そこがそれ、「サマンサタバサの智略」 なんですね。