げたにれの “日日是言語学”

げたにれの “日日是言語学”

やたらにコトバにコーデーする、げたのにれのや、ごまめのつぶやきです。

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   パンダ こちらは 「三斗小屋温泉と消えた街道」 の 2 でござる。 1 は↓

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    げたにれの “日日是言語学”-五十里ダム   五十里ダム




  【 道草 ── 葛老山と五十里村の語源 】


〓ここで、毎度おなじみ、道草であります。


〓日光大地震で崩壊した 「葛老山」。この山名の語源は、比較的わかりやすい、と言えましょう。

〓おそらく、


   かづら (葛) + ふ (生) → かづらふ (葛生)


ではないかと。 「生」 (ふ) という地名をつくる接尾辞については、先だって説明いたしました。




    げたにれの “日日是言語学”-クズ
     クズ (クズカズラ)



〓「かずら」 というのは、「くずかずら」、すなわち、「くず」 のことで、山里の人々にとっては重要な植物資源でした。ツルで行李 (こうり) を編んだり、その繊維で布を編んだり、あるいは、葛根 (カッコン) という根は薬用・食用として使われました。


〓葛根は、食用としては、本葛 (ほんくず) 製の 「葛餅」 の原料となりますし、また、薬用としては、漢方のカゼ薬である 「葛根湯」 (カッコントウ) の原料となります。


〓落語好きのヒトならば、医者の噺 (はなし) のマクラによく出てくる


   “葛根湯医者” (カッコントウ イシャ)


をご存知でしょう。すべての患者にカタッパシから 「葛根湯」 を処方するヤブ医者です。


   シラー  「ほうほう、足の骨を折った。じゃあ、葛根湯をお飲み。
         そちらは? 付き添いのカタ、じゃあ、ついでに葛根湯をお飲み」


〓「かづら」 の採れる山が 「かづらふ山」 であったのでしょう。それが、後世、音声が変化し、語源が不明となり、「葛老」 の字を宛てられ、読みも 「かつろう」 となってしまった、と考えるとわかりやすい。
〓「葛」 を “カツ” と読むのは音読みであって、訓読みの 「かずら (かづら)」 とは似ているだけでまったく関係がありません。


   かづらふ → かづらう → かずろう 【 葛老 】 → かつろう


〓アタマにかぶる 「カツラ」、ええ、ウィッグ wig のことですが、あのカツラは、古代から、「カヅラ」 と濁ることがあり、また、「カツラ」 が 【 鬘 】 と書かれるいっぽう、「カヅラ」 は 【 蔓 】 とも書かれ、どうも、「カツラ」 と 「カヅラ」 はコンガラカリやすかったかもしれません。


〓漢字の 「曼」 (マン・バン) という字には、そもそも、「豊かである、広い、長い」 と言う意があり、それゆえに、「蔓・かづら」 も 「鬘・かつら」 も音符として同じ文字を含むわけです。そして、それぞれ意味を限定する “限定符” (部首) である 「艸」 (くさかんむり=草の原字) と 「髟」 (かみがしら) を加えて字義を区別しているんですネ。


〓また、クズカズラとは別に、ツヅラフジというツル性の植物もあり、こちらは 「つづら」 という “かぶせフタのカゴ” を編むのに使われました。「つづら」 も 「葛」 という字で書かれたために、「くず、かずら」 とコンガラガッてきます。


〓この 「ツヅラフジ」 でこさえたカゴが 「ツヅラ」 であり、たとえば、昔話の 『舌切り雀』 の話で、オジイサンがスズメにもらってくる、おみやげの入った 「つづら」 というカゴが、まさしく、この 「ツヅラフジ」 からつくった 「つづら」 なんですネ。



               クローバー               クローバー               クローバー



〓「葛老山」 と同工異曲 (ドウコウイキョク) の地名は、日本全国にかなり分布しており、「かずろう」 という音変化を起こしているものもあります。



   葛生 (くずお) …… 宮城県 (← くず+ふ)
   葛生 (かずろう) …… 茨城県 (← かづら+ふ)
   葛生 (くずう) …… 栃木県、徳島県 (← くず+ふ)
   葛生 (かずらはえ) …… 福岡県 (← かづら+はえ)
   …………………………
   葛尾 (かつらお) …… 福島県、長野県 (← かづら+ふ)
   葛尾 (くずお) …… 三重県、奈良県 (← くず+ふ)
   葛尾 (つづらお) …… 兵庫県 (← つづら+ふ)
   葛尾 (つづろお) …… 徳島県 (← つづら+ふ)
   葛尾山 (つづらおさん) …… 島根県 (← つづら+ふ)



               富士山               富士山               富士山



〓また、ここに登場した 「五十里」 (いかり) という地名もフシギです。


〓多くの場合、江戸から五十里であったから、と説明されていますが、これはムチャクチャな説です。だいたい、


   江戸~日光 …… 三十六里 三町 二間 = 141.7 km


です。もし、五十里宿 (いかりじゅく) が江戸から五十里だとすると 196.4 km になります。


〓日光街道と会津西街道が分岐する 「今市宿」 は江戸から34里13町で、134.9 km でありますから、それだと、


   今市宿~五十里宿 …… 15里23町 (61.4 km)


となります。
〓山道がいくらアップダウンし、曲りくねっていたとしても、今市から五十里の距離が60キロもあるハズがありません。


〓江戸~今市~会津若松が約 240 km だったと言いますから、今市~会津若松は約 105 km となります。
〓今市~五十里が約61kmとすると、


   今市~五十里    61 km
   五十里~会津若松  44 km


となります。これでは、


   今市~五十里 : 五十里~会津若松 = 58 : 42


になってしまう。



               霧               霧               霧



〓そもそも、「五十里」 を “イカリ” と読むことじたいがアヤシイ。すなわち、


   日本語で、50里 (ごじゅうり) を “いかり” と称したことはない


のです。
〓「50」 という数は、古くは、単に 「い」 と言いました。前後の数が、


   30 …… みそ / 40 …… よそ / 60 …… むそ /
   70 …… ななそ / 80 …… やそ


であっても、「50」 は 「い」 だったんです。「いそ」 じゃない。これは、以前、


   山田五十鈴 (やまだ いすず)


さんについて書いたときに説明しました。「50=い」 だから、「五十鈴=いすず」 なわけです。


〓のちに、前後の数詞にあわせて 「50=いそ」 という言い方も生まれましたが、「50=いか」 となったことはありません。それに、助数詞が漢語の 「里」 (リ) である以上、その前に来る数詞は漢語の 「ゴジュウ」 でなければなりません。



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〓この誤った宛字は、「五十嵐」 (いがらし) という名字に触発されたものではないか、と思います。


〓新潟県に 「五十嵐川」 (いからしがわ=イガラシではない) という川がありますが、これは、新潟県三条市に現存する 「五十嵐神社」 (いからしじんじゃ) の名をとったものです。


〓現在、「五十嵐」 (いがらし・いからし) の名字を名乗る 「五十嵐氏」 の発祥の地は、この五十嵐神社のある 「三条市 下田 (しただ) 地区」 とされています。


〓「五十嵐神社」 の祭神 (さいじん) は第十一代 垂仁 (すいにん) 天皇の第八皇子 (おうじ) である


   五十日足彦命 いかたらし ひこの みこと


で、下田地区の開拓者と伝えられています。この 「五十日足」 (いかたらし) の転訛が 「いからし」 であり、その宛字が 「五十嵐」 と考えられます。ただし、本来、


   「五十日」 = “イカ”
   「足」 = “タラシ”


であり、


   「五十日」 = “イカ”
   「嵐」 = “アラシ”
      → 「五十日嵐」 = “イカラシ”


となるべきだったんですね。ところが、


   「五十」 = “イカ”


という誤分析がおこなわれたために 「五十嵐」 = “イカラシ” になってしまったんす。



〓先ほども申し上げたとおり、古代では 「五十」 = “イ” です。

〓「日」 = “カ” というのは、二日 (フツカ)、三日 (ミッカ) という読みでわかるとおり、日本語本来の 「日にちを数えるための助数詞」 です。

〓つまり、


   「五十」 = “イカ” という誤読は、「五十嵐」 以外からは生まれない


んですね。


〓五十嵐氏は、新潟県三条市 下田地区の発祥だと申し上げましたが、その一派の中には、東進して会津に移住した人々がいたようです。
〓福島県の南会津郡・大沼郡には 「五十嵐」 という姓のヒトが多いんです。これは、まさに、五十里宿のあった地域の北隣であり、会津西街道によって頻繁な交流のあった地域です。


〓実を申しますと、この南会津郡・大沼郡など、現在の福島県南西部は、もともと、会津藩の領地ではありませんで、天領 (テンリョウ=幕府直轄地) でした。その名を、


   南山御蔵入地 (みなみやま おくらいりち)


と言いました。会津西街道を 「南山通り」 と呼ぶは、これに由来します。


〓「御蔵入(地)」 とは、今で言う 「オクライリ」、つまり、“作品の公開中止” のことではなく、戦国時代や江戸時代に、大名や将軍 (幕府) の直領 (じきりょう) のことを言いました。


〓そして、この 「南山御蔵入地」 は、現在の福島県~栃木県境を越えて、栃木側に突き出していました。ちょうど、会津西街道および男鹿川に沿って▼の形に天領が南に向かって突出しており、その突端にあったのが 「五十里宿」 でした。つまり、「五十里宿」 は南会津郡・大沼郡などと同じ領地内にあったのです。



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〓1643年 (寛永20年)、会津藩は、加藤氏が大名家として致命的な不始末である 「御家騒動」 (おいえそうどう) を起こし、改易 (カイエキ=武家に対する刑罰で、所領・家禄・家屋敷を没収し、平民へ格下げすること) されました。つまり、会津の城が “空き家” になったわけです。


〓それにともない、同年、二代将軍 徳川秀忠 (ひでただ) の子で、三代将軍 家光 (いえみつ) の異母弟 (イボテイ) である


   保科正之 (ほしな まさゆき)


が会津藩に入封 (ニュウホウ=領主として与えられた領地に入ること) しました。


〓この人は、家光の “異母弟” という複雑な地位に生まれたがゆえに、生まれ落ちるとすぐに極秘裏に高遠藩 (たかとおはん) の藩主、保科正光 (まさみつ) に預けられました。それゆえに、名字が 「徳川」 ではなく、「保科」 なんですね。本来から言うと、「徳川家」 の血筋の大名です。


〓こうした歴史があるゆえに、会津藩は、幕府の 「親藩」 (シンパン=徳川家康の男子直系の末裔が始祖である藩) なのであり、また、それゆえに、幕末に 「京都守護職」 (きょうと しゅごしょく) に任ぜられ、「新撰組」 を組織して “尊王攘夷派” (そんのうじょういは) を弾圧し、また、それゆえに、薩長の怨みを買い、朝敵のレッテルを貼られ、会津戦争へと至ったわけです。


〓会津藩は親藩のゆえに、「南山御蔵入地」 の管理をまかされていました。ですから、天領であるはずの五十里宿の水没に際し、その処置をさまざまに指示していたわけです。



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〓「いかり」 というコトバは、方言においては、


   【 いかり 】
   「田に引く水路の堰 (せき)」 長崎県、熊本県
   「増水、洪水」 青森県、鳥取県


という語例があります。
〓動詞だとさらに多くの地点で、以下のような語例があります。



   「水の流れが堰 (せ) かれて、逆流したり、あふれたりする」
      …… 【 いがえる 】 山形県、福島県、神奈川県
      …… 【 いかる 】 青森県・鳥取県・島根県


   「洪水になる、増水する」
      …… 【 いがえる 】 山形県
      …… 【 いかる 】 青森県、岩手県、秋田県、静岡県、鳥取県、高知県



〓これは、おそらく、「帰る、返る」 という動詞に、接頭辞 “い” が付いたものと見えます。古日本語では、移動をあらわす動詞に、しばしば、“い” が接頭することがありますが、その意味はあきらかではありません。単に、「語調をととのえる」 とされています。


〓「いかる」、「いかり」 は、庶民の言語レベルで 「いがえる・いがえり」 が 「怒る・怒り」 と混淆 (こんこう) した可能性も考えられます。


〓「水が逆流する」 ことを 「い返る」 と表現し、それが、さらに、「洪水」 に転用されたものでしょう。五十里宿あたりは、もともと、台風などが来ると出水しやすい地形であったらしく、あるいは、その意味で、「いかり」 という地名になったのかもしれません。



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〓五十里 (いかり) に天然の湖が出現して40年目、また、会津中街道が開通して 28年目、1723年 (享保8年) 8月10日、例年にない連日の長雨により増水した五十里湖は、とうとう耐えきれずに海尻が決壊しました。つまり、40年ぶりに、天然のダム湖が崩壊したんです。


〓これは、五十里宿の人々にとって歓迎すべきことでしたが、これによって生じた、五十里洪水は、下流域に甚大な被害をもたらしました。


〓水がすっかり抜けた五十里湖の跡は、砂・石・泥の堆積した平地としてあらわれ、土地では、ここを 「海跡」 (うみあと) と称しました。


〓「上の屋敷」 や 「石木戸」 に移転していた、もとの五十里宿の住人は、さっそくもとの土地である海跡に移住しましたが、その後も、たびかさなる出水で定住がかなわず、今度は西側の山の高台に移転しました。


〓この移転先が、“ダム建設による五十里湖” が出現する前の五十里村の位置で、現在の地図には何の痕跡も残っていません。昭和31年までの五十里村の痕跡は、現在、五十里湖畔を走る会津西街道の 「唄ノ沢橋」、「大塩沢橋」 の対岸あたりの山肌にあり、村の一部は今でも水没せずに残っていますが、ここに通じる道路は水没してしまっています。




    
    げたにれの “日日是言語学”-五十里湖周辺



〓1956年 (昭和31年) に竣工 (シュンコウ) した 「五十里ダム」 は、日光大地震で生じた天然ダム (海尻) の遙か下流につくられました。治水と水力発電が主な目的でしたが、そのために、五十里村の住人は、またも移転を迫られました。
〓当時、五十里村には85戸の家があったと言いますが、このたびばかりは村民は四散し、地元に残ったのは八戸のみ、と言います。






  【 会津中街道と三斗小屋温泉 】


〓かように、文化が爛熟しつつあった江戸時代中期、五十里湖によって会津西街道が閉鎖せられていたあいだ、「会津藩の物流をになっていた新大動脈」 こそが 「会津中街道」 であったわけです。
〓そして、驚くべきことに、その 「会津中街道」 は、現在、山奥の秘湯と言われる 「三斗小屋温泉」 を通っていたんです。


〓三斗小屋宿 (さんどごやじゅく) は、会津中街道の宿場として、また、あとで申し上げる、とある山岳信仰の参詣口 (さんけいぐち) として栄えることになりました。


〓しかし、幕末の戊辰戦争で、街道は会津藩と新政府軍との攻防の地となり、宿場は廃墟と化しました。

〓現在の三斗小屋温泉は、地図上の直線距離で、もとの三斗小屋宿から1.8キロほど東へ沢を登った地点にあります。



               クローバー               クローバー               クローバー



〓「会津中街道」 は、会津と江戸を最短距離でつなぐとは言え、もともと険しい山道であるため、暴風雨があると崩壊しやすかったし、積雪期には通行不能となりました。
〓そのため、 1704年 (宝永元年) には、早くも “脇街道” へと格下げになっています。それでも、「会津中街道」 は、その後も盛んに使われ、むしろ、会津西街道と会津中街道のあいだで、激しい積荷の奪い合いが続きました。
〓農耕地が限られる山間の民にとって、自分の土地を通る道が “主要街道” であることは駄賃 (ダチン=物品の輸送料) 稼ぎなどの経済効果をもたらしたんですネ。


〓幕末の慶応4年 (明治元年、1868年)、つまり、会津中街道完成の 173年後、すでに申し上げたとおり、戊辰戦争 (ボシンセンソウ) が起こり、新政府軍は、会津藩へ向かって、「会津西街道」、「会津中街道」 を北上しました。


〓街道沿いの宿場、村々は、この戦争で会津藩と新政府軍の板挟みになり、家屋を焼き払われたり、敵軍に荷担した罪で処刑されたり、ひどい被害を蒙 (こうむ) りました。


〓三斗小屋宿はすべての家屋が焼き払われました。そのうち、旅館は5軒であり、「大黒屋」 は、そのうちの1軒でした。

〓会津中街道は、そののちも明治中ごろまでは細々と使われたそうです。


〓「大黒屋」 は、戊辰戦争の翌年の明治2年に、現在の地に新館を再建し、現在まで続いてきました。「煙草屋」 は、明治44年に黒磯駅前から進出したものです。


〓「三斗小屋宿」 は、その後、復興しましたが、街道の衰退とともに徐々にさびれていって、1957年 (昭和32年) 12月8日に最後の一戸がここをあとにして、爾来 (じらい)、無人の村となっています。


〓地図を見ると、「三斗小屋温泉」 の少し西に、ポツンと 「三斗小屋宿」 という名前と、幾棟かの “家屋の影” のようなものが記してありますが、今では住む人はありません。この地名と “家屋の影” とがどんな歴史を経てきたのか、地図は何も語りません。

〓けっきょく、細々と使われていた 「会津中街道」 にとどめを刺したのは、1899年 (明治32年)、会津若松と東北本線の郡山とのあいだに開通した 「磐越西線」 (ばんえつさいせん) でした。





    げたにれの “日日是言語学”-三斗小屋宿地図       

     「会津中街道」 と、現在の 「三斗小屋温泉への登山道」 の関係。 両者は接してもいないし、交わりもしない。






  【 しかし、峰の茶屋は街道筋ではなかった 】


〓ところが、ここに、また、フシギなことがあります。つまり、


   会津中街道は、“峰の茶屋” を通っていなかった


ということです。
〓つまり、会津中街道は、三斗小屋宿は通っていましたが、そののち、南下するにあたって、目前にそびえる那須岳の山塊を越えたりはしなかったのです。そりゃあ、ごもっとも。

〓三斗小屋宿は、現在の三斗小屋温泉から西へ向かって沢を下った谷底にありました。会津中街道は、そのまま、谷沿いに、那須岳の山塊を大きく西に巻いて 「板室宿」 (いたむろじゅく) に出ます。

〓つまり、「峰の茶屋」 は会津中街道とは関係がなかったのです。


〓ならば、「峰の茶屋」 とは何だろう?



               お茶               お茶               桜餅



〓「登山の歴史」 ってなことについて、フツーのヒトはあまり考えたことがござらんでしょう。日本では、明治時代以前に、


   スポーツとしての 「近代登山」 の概念が存在しなかった


んですね。
〓江戸時代まで、山に分け入るというのは、猟師とか樵 (きこり) などが山の資源を得るためとか、はたまた、修験者 (シュゲンジャ) が山岳信仰のゆえにその山の頂 (いただき) を目指す、というのが主なものでした。ときに、古くは軍事戦略として山越えがおこなわれることもありました。


〓江戸時代は、庶民 ── と言っても、山は女人禁制で、男しか登れませんでしたが ── が山岳信仰の形をとり、講 (コウ) という参詣者 (サンケイシャ) の団体を組んで、物見遊山 (ものみゆさん) の旅行をするようになりました。しかし、それでも、その目的地は、江戸で言うと、大山 (おおやま) とか富士山など、一部の山にかぎられ、


   登山というより、伊勢神宮に参るのと同じく、娯楽としての旅行の行程が目的であった


と言えます。たとえば、落語の 『大山参り』 (おおやままいり) などを聴くと、それが、今で言う 「登山」 とはまったく異なる娯楽であったことがわかります。



〓昨年、公開された木村大作監督の映画 『劒岳 点の記』 (つるぎだけ てんのき) を見たヒトもいると思いますが、あれが、まさに、


   “近代化する日本・近代化する登山” と
   “古い日本・宗教としての登山”


とが交錯する時代を描いた映画ですネ。そして、近代登山が、山岳信仰の前に打ち砕かれる、というショッキングなラストが用意されているわけです。



               富士山               富士山               富士山



〓そもそもの三斗小屋宿というのは、「会津中街道」 の整備にともない会津藩によって宿場として設けられたもので、それ以前に人家はなかった、と言います。残念ながら、「三斗小屋」 という地名の由来は伝えられていません。


〓「三斗小屋温泉」 じたいは、12世紀に発見された、という記録があるようです。


〓また、日光大地震が起こる11年前の 1672年 (寛文12年) に板室 (三斗小屋宿の1つ手前の宿) の猟師が、熊獲りで山に入ったところ、茶臼岳の西側の山腹で 「仏と菩薩」 の姿を見かけました。それゆえ、爾来 (じらい)、この山は霊場とされます。
〓宗海なる行者 (ぎょうじゃ) が、「仏と菩薩」 のあらわれた地点を 「白湯山」 (ハクトウサン/ハクユサン) と名付け、修行者の参拝所としました。


〓「白湯山」 とは言い条 (じょう)、これは、山ではありませんで、茶臼岳の牛ヶ首 (うしがくび) から三斗小屋宿跡へと、西に向かって下って行く沢の途中にある源泉の噴出口を言います。「白湯山」 は寺院の称号である “山号” (さんごう) のようなものでありましょう。


〓白湯山信仰が一般化したのは、幕末、ペリーが浦賀に来た嘉永・安政 (1850年代) のころです。


〓それも、昭和初期には廃れてしまい、かつての参拝所であった 「白湯山」 も、現在では訪れるヒトもなく、国土地理院の地図を見ても、旧参詣道はその痕跡すらなく、現実に、ヤブコギをしなければ辿り着けないような場所になっています。



               温泉               温泉               温泉



〓ハナシは、ふたたび、江戸時代に戻ります。


〓「白湯山信仰」 は、当初、三斗小屋宿を起点とした霊場でしたが、少なくとも、 1774年 (安永3年)、には、「白湯山」 と茶臼岳を挟んで反対側にある 「湯本村」 から入る経路も整備されたようです。


〓こちらから入る場合は、「白湯山信仰」 とは言わず、「高湯山信仰」 と言いました。参道には2つの経路がありました。

〓1つは、湯本から見て、茶臼岳の左肩を越えて牛ヶ首から 「白湯山」 に至る道、そして、もう1つは、大丸から 「峠の茶屋」 → 「峰の茶屋」 という現在の主要登山ルートと同じ道でした。

〓ただ、この 「峰の茶屋」 というのが、いつからあって、いつなくなったのか、マルッキリ資料がありません。少なくとも、1990年ころには、


   どこに建物があったかさえわかないほど、カゲもカタチもなかった


んですね。

〓ありうることは、この 「峰の茶屋」 というのが、幕末の白湯山参詣ブームの中で、「高湯山詣り」 の参詣者のノドを潤すために設けられた、ということです。
〓はたまた、明治以降、近代登山ブームの一貫として、登山者のノドを潤すためにつくられたものだったかもしれません……


〓「三斗小屋温泉宿」 とか、「白湯山信仰」 とか、そういったことがらについては、調べると、それなりにいろいろわかるんですが、あんがい、峠に建っていた平凡な茶屋のことなど、誰も覚えていないんですね。今となっては、「峰の茶屋」 という名前が残るのみです。



               クローバー               クローバー               クローバー



〓以上が、「峰の茶屋」 がキッカケとなって、歴史の向こうから芋ヅル式にあらわれてきた 「三斗小屋温泉」 の物語なのであります。



   こちらは 「三斗小屋温泉と消えた街道」 の 2 でござる。 1 は↓

            http://ameblo.jp/nirenoya/entry-10606645050.html




    
    げたにれの “日日是言語学”-煙草屋露天風呂にてスリーショット2
     山田べにこサン、三宅健くん、加納ディレクターのスリーショット。煙草屋の露天風呂にて。





  【 「峰の茶屋」 という名の何もない峠 】


〓やっと、今日の本題に入りまッす。


〓6月17日の 「新知識階級クマグス」、山田べにこサン、3度目の登場でした。今回はスタジオ収録ではなくロケ。すなわち、


   べにこサン
   V6の三宅健くん
   AD、もとい、ディレクターに昇進した加納 (かのう) くん


の3人で 「三斗小屋温泉」 (さんどごやおんせん) という、徒歩でしか行くことのできない山奥の温泉に行こう、という企画なんどす。ガイドブックでは、 「さんとごやおんせん」 と清音で書かれていることが多いようですが、現地の石碑には 「さんどごや」 と刻まれています。

〓番組としては、べにこサンとディレクターの加納くんの仲がアヤシイ、という設定でして、三宅健くんは、2人の仲を暴こうという、クラスのオセッカイモノ的な役回りです。


〓もっとも、 ディレクターの 加納くんは、この3ヶ月のあいだに結婚していて…… チャンチャン。それで、今度は、べにこサン、傷心、という設定です。



    げたにれの “日日是言語学”-加納ディレクターの告白   加納ディレクター、衝撃の告白




               温泉               温泉               温泉




    げたにれの “日日是言語学”-三斗小屋温泉歩程図
     3人が歩いた 「三斗小屋温泉」 へ向かうコース。



〓栃木県の北端、福島県との県境あたりに、


   那須岳 (なすだけ)


という “山塊” (さんかい) があります。「那須岳」 というのは、「八ヶ岳」 (やつがたけ) などと同様に、複数の山の総称であって、「那須岳」 という山があるわけではありません。


〓最高峰は 「三本槍岳」 (1916.9m) ですが、三斗小屋温泉からは離れていて、今回のハナシには登場しません。主役は、2番目に高い


   茶臼岳 (ちゃうすだけ) 1915メートル


です。


〓一時期、


   「皇太子さま」 と 「雅子さま」 のお気に入りの山


という謳 (うた) い文句で、登山のようすがたびたびワイドショーで紹介されていました。覚えているヒトもいるかもしれまへん。



〓 JR を黒磯駅で降りて、路線バスで那須温泉郷を抜け、ロープウェーで 「茶臼岳」 の頂上直下に登ると、そこからは、最初にじゃっかんの登りはあるものの、そのあとは、ほぼ2時間、山を下るだけで 「三斗小屋温泉」 (さんどごやおんせん) に到着します。

〓「クマグス」 で、“山田べにこ+三宅健+D加納” のパーティが歩いたのも、このアンチョクコースです。




    げたにれの “日日是言語学”-茶臼岳ロープウェイ山麓駅   べにこサンとロープウェイ山麓駅前で待ち合わせ
    げたにれの “日日是言語学”-駅の駐車場で待つ三宅健   1時間遅刻しているべにこサンにブータレる健くん

    げたにれの “日日是言語学”-茶臼岳ロープウェイ   茶臼岳ロープウェイ



〓この温泉、チョイと冒険気分で行くのにいいんすね。


〓歩いて行く以外、辿り着くことのできない山の中の温泉であるうえ、「軽装の登山装備」 では、やや危険なくらいの場所にあります。だからといって、ものすごく危険というわけでもないし、ものすごく歩程 (ほてい) が長い、というわけでもない。




    げたにれの “日日是言語学”-ロープウェイ内2   茶臼岳ロープウェイの内部は広い。
    げたにれの “日日是言語学”-ロープウェイ内1   大きなロープウェイにカンドーする健くん
    げたにれの “日日是言語学”-茶臼岳登山道   茶臼岳頂上駅でロープウェイを降りて歩き始める

    げたにれの “日日是言語学”-延命水   その昔、岡村隆史さんも汲みに来た湧き水。位置は後掲の地図を参照




〓三斗小屋温泉には、「大黒屋」、「煙草屋」 (たばこや) という2軒の温泉宿があります。番組の中では、べにこサンが両方紹介し、一行は両方の温泉につかっていました。しかしネ、一般のヒトは両方の温泉につかる、ということはでけへんのです。詳細を申し上げましょ。



    げたにれの “日日是言語学”-三斗小屋温泉
     三斗小屋温泉の入口。 「温泉の入口」 という感じがしないが、普通の温泉街のようにはいかない。

     山の中で山小屋のある場所というのは、“歓迎ゲート” みたいなのはないのである。



〓この2軒の温泉宿は、向かい合って建っているものの、その性格はまったく異なります。



    げたにれの “日日是言語学”-大黒屋

   【 大黒屋 】 江戸時代からこの地にあった旅館。定員あり。予約がないと泊まれない。露天風呂なし。



    げたにれの “日日是言語学”-煙草屋  げたにれの “日日是言語学”-煙草屋入口
   【 煙草屋 】 明治に進出した実質的な “山小屋”。つまり、定員なしで、緊急ならば予約なしでも泊まれる。露天風呂あり。



という構成なんですね。

〓「大黒屋」 は、山の奥フトコロとは思えないような、立派なヒノキ風呂に、立派な食事が出ます。本館は明治2年に建てられたもの。しかし、風光明媚なる露天風呂に入ろうと思えば 「煙草屋」 にしかない。
〓この2軒、入口が向かい合っていて、たがいに競い合っているようです。



    げたにれの “日日是言語学”-煙草屋露天風呂  げたにれの “日日是言語学”-晴れた日の煙草屋露天風呂
     煙草屋の露天風呂。この日は天候不順。晴れていれば、その見晴らしは右の写真のとおり。



〓ワタクシ、今から20年くらい前、運よく 「大黒屋」 の予約が取れ、友人2人と1泊してきました。もちろん、ロープウェーは使わず、バスを降りたあと、那須ロープウェーの山麓駅から、まっつぐ 「峰の茶屋」 という鞍部 (あんぶ) を目指しました。


〓「峰の茶屋」 というのは、


   「茶臼岳 ←→ 朝日岳」 という2つの山を結ぶ尾根道
   「ロープウェー山麓駅←→三斗小屋温泉」 を結ぶ尾根越えの道


という2つの登山道が交差する十字路にあたっています。




げたにれの “日日是言語学”-三斗小屋温泉への地図
     茶臼岳を越えて三斗小屋温泉に向かうコース。 青いコースは、今回の 「クマスグ」 のチームが歩いたもの。

     赤いコースは、その昔、アッシが歩いたコース。赤いコースと青いコースの出会う地点が 「峰の茶屋」。




〓「峰の茶屋」 というからにはチャミセでもあるのかと思いきや、


   何もない、吹きさらしの峠


なんすよ。建物が建っていた形跡さえない。しかも、地形的に、年中、強風が吹き荒れている。


〓ワレワレ一行は、「なんつーヒト騒がせ」 な地名をつけるんだ、とブータレながら、ここはアンチョクに三斗小屋へとは下らず、「峰の茶屋」 で右折して朝日岳 (1896m) という山に寄り、ちょっくら大きく迂回して、東側の尾根から三斗小屋温泉を襲う、というコースを取りました。ちょいとガレガレのアルペンムード漂う尾根道です。


〓このコースには、途中、隠居倉 (いんきょぐら、1819m) という小ピークがあるんすが、ワレワレ一行は、


   カッコ、インキョグラ、カッコ、インキョグラ


というダジャレを輪唱しながら温泉へと下っていったのでした。山っていうのは、いいかげんクタビレてくると、口からダダラにダジャレが漏れるんすね。


〓当時、ホンダ・インテグラの CM で、マイケル・J・フォックスが、


   カッコ、インテグラ  車


という決まり文句を言うのが流行ってました。今から20年くらい前です。
〓マイケル・J・フォックスがパーキンソン病を発症する直前でしょう。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』 のパート2・3があいついで公開されたころです。



               温泉               温泉               温泉



〓「大黒屋」 に着いてから、ヒノキの内風呂で汗を流し、そろそろ、夏の夕方です。こちらは、旅館ですんで、


   山小屋のように、自分のフトンにしがみついていないと寝る場所がなくなる


なんてことはありません。
〓かねてより、「大黒屋」 と 「煙草屋」 は張り合っていて、あまり、仲がよろしくない、というウワサを聞いておりましたので、それじゃあ、チョイと確かめてみよう、ってんで、ちょいと手ぬぐいを引っかけて、「煙草屋」 を訪ね、


   「日帰り入浴したいんですが」  シラー
       ※当時は、登山者の日帰り入浴ができた。
        現在、三斗小屋温泉では、日帰り入浴はできない。


というと、番頭サンだかが、


   「あんた、どこから来たの?」  むっ


と訊きます。そりゃそうです。山の中で、手ぬぐい一丁のニンゲンが降って湧くわけがない。


   「大黒屋から」 得意げ


というと、「じゃあ、ダメでしょ」 とアッタリマエダロ的な口調で断られたネ。まあ、そりゃそうか。でも、風光明媚なる露天風呂は 「煙草屋」 のほうにしかないのよ。




  【 一幕見 / 山田べにこと三宅健 】

     三宅健くんは、べにこさんといっしょだと、いつもこの調子なのである。



    げたにれの “日日是言語学”-三宅健の質問1
    げたにれの “日日是言語学”-三宅健の質問2

    げたにれの “日日是言語学”-三宅健の質問3

    げたにれの “日日是言語学”-三宅健の質問4

    げたにれの “日日是言語学”-三宅健の質問5






  【 消えた会津中街道 】


〓ヨタ話を申し上げました。

〓三斗小屋温泉から東京へ帰っても、なんとなく、


   何もない 「峰の茶屋」 が頭のスミに引っかかってた


〓「峰の茶屋」。先ほど申し上げたとおり、何もない。いや、登山者が休憩するためのじゃっかんの木製のテーブル、ベンチはありましたがな。でも、秋なんぞ、風がピュウピュウで、寒くて休んでなんぞいられない。

〓 1999年ごろ、この 「峰の茶屋」 に立派な 「避難小屋」 ができたそうです。アッシは見てない。


   避難小屋 (ひなんごや)


と言っても、登山をしないヒトにはピンと来んでしょう。早く言うと、「無人の山小屋」 のことです。山小屋といっても、小屋の主 (あるじ) も従業員もいないから、もちろん、フトンもなければ、食事も出ないし、トイレもない。

〓本来は、ホントウにピ~ンチのとき ── たとえば、道に迷ってしまったとか、日が暮れてしまったとか、天候が悪化して動けないとか、ケガをしてしまったとか、そういうときに 「避難」 するシェルターが “避難小屋” なんすね。


〓避難小屋は、たいてい狭いし、床は土間だったりして、アンチョクに寝られる場所があるという保証はありません。
〓そういうのが “避難小屋” です。


〓「峰の茶屋」 の避難小屋は、定員20名で、“宿泊不可” とされているそうです。



〓まあ、そういう立派な避難小屋ができる前は、


   「峰の茶屋」 は、茶屋なんぞ、カゲも形もない吹きさらしの峠


だったのです。小屋の立っていた痕跡さらになし。



               富士山               富士山               富士山



〓山には、よく、ケーブルカーもしくは積出し用トロッコの線路跡とか、ロープウェーの鉄塔・駅舎跡、あるいは、管理人がいなくなって朽ち果てた山小屋の残骸なんてえのが残っていることがあります。
〓伸びるにまかせた草叢 (くさむら) のあいまに、そういう人工物の残滓 (ざんし) を見つけると、あるいはハッとし、あるいはギョッとし、近くに彷徨 (さまよ) える魂の気配を感じたり、『平家物語』 ではないが、“諸行無常” の感慨に襲われ、気が遠くなったりします。


〓こういう残骸は、地図に何も記されていないことが多いんですね。それだけに、余計に驚く。



〓しかしですね、わざわざ 「茶屋」 と書かれているのに、礎石の1つ、柱の1本の痕跡も見当たらないというのは奇妙なハナシです。登山ガイドは、行程のアップダウンとか、難所とか、そういうことは説明しているのに、


   なぜ、何もない所が茶屋なのか


については、ひと言も触れていません。すべての登山ガイドが何も教えてくれなかった。



               富士山               富士山               富士山



〓この謎を解くヒントをくれたのは、意外にも、“ナインティナイン” でした。2007年1月、日本テレビの 「ナイナイサイズ!」 で、岡村隆史さんが那須岳の奥に 「名水」 (延命水) を汲みに行くという企画でした。三斗小屋温泉も登場しました。(延命水の位置は、地図の中で 「水」 で示している。三斗小屋の少し手前)


〓30分のバラエティ番組に過ぎないんですが、


   「昔は、ここは、会津と江戸を結ぶ街道で…… 云々」


というナレーションが入ったんですね。 Ηὕρηκα! Hēúrēka! [ ヘー ' ウレーカ ] ってんで、突然、光明が射した。


〓調べてみると、「三斗小屋」 というのは、どうも、


   会津中街道 (あいづ なか かいどう)


という江戸時代中期に整備された会津と江戸とを結ぶ幹線道路の一宿場であったらしい。


〓これは意外でした。なぜって、


   ワリと本格的な登山装備がないと歩けないような山岳地帯を、江戸時代の幹線道路が貫いていた


というのが意外だったからです。アップダウンが激しく、物流に適しているとは思えない。


〓しかし、史実、ここは主要な街道として機能していたことがあり、会津藩の参勤交代 (さんきんこうたい) にさえ使われたのです。つまり、大名行列が通ったわけ。


〓三斗小屋温泉に行ったことあるヒト、信じられまっか?



               富士山               富士山               富士山




げたにれの “日日是言語学”-会津西街道と会津中街道
     「会津西街道」 と 「会津中街道」 の位置関係。




〓会津藩の城下町であった 「会津若松」 と 「江戸」 とを結ぶ幹線道路は、もとは、


   会津西街道 (あいづ にしかいどう)


でした。今、話題にしている 「会津中街道」 と1字違いですんで気をつけてチャブダイ。


〓この 「会津西街道」 という呼称は明治時代に使われるようになったもので、会津藩では、「南山通り」 (みやみやまどおり)、「南通り」 (みなみどおり) と呼んでいました。この “南山” の由来は、あとで説明しますけん。


〓この街道は縄文時代から使用されていた痕跡があるそうです。つまり、ヒトが自然と往来するような山間の谷間を抜けている。


〓江戸時代になると、江戸近郊屈指の米生産地である会津から、大消費地 江戸へと米を輸送する 「廻米」 (カイマイ=消費地への陸海運による米の輸送) の大動脈として機能していました。


〓この 「会津西街道」 のルートを “南から北へ” 向かって記すと、ほぼ、現在の


   国道121号線
     【 栃木県の今市 (いまいち) ~ 福島県の会津下郷 (あいづしもごう) 】

   国道131号線
     【 福島県の会津下郷 ~ 会津若松 】


にあたります。
〓江戸と、会津西街道の起点である今市とを結んでいたのは 「日光街道」 でした。つまり、日光街道からの延長道路として会津まで延びていたのが 「会津西街道」 だったんすね。



               霧               霧               霧



〓「会津西街道」 は、今市から北へ向かって、男鹿川 (おじかがわ) 沿いを進み、福島県と栃木県の県境にあたる “山王峠” (さんのうとうげ) に至ります。
〓この間、“新藤原” (しんふじわら) までは東武鬼怒川線 (きぬがわせん)、その先は、第三セクター方式で運営されている “野岩鉄道” (やがんてつどう) の 「会津鬼怒川線」 (あいづきぬがわせん) と、ほぼ、並行しています。


〓東京近郊のヒトですと、あるいは、尾瀬 (おぜ) に出かけるときに、東武浅草駅から、野岩鉄道直通の 「尾瀬夜行」 なんぞに乗って出かけたことがあるやもしれません。まったく、そのコースです。


〓この沿線には、有名・無名の温泉が連なっとります。南から温泉に関係ある駅名を並べるとこうなります。


   鬼怒川温泉 → 川治温泉 → 湯西川 (ゆにしがわ) 温泉 →
     中三依 (なか みより) 温泉 → 上三依 (かみ みより) 塩原温泉口
         → 「会津高原尾瀬口」


〓「湯西川温泉駅」 は、これから話題にする 「五十里湖」 (いかりこ) のほとりにあります。


〓また、「上三依 (かみみより) 塩原温泉口駅」 は温泉のある町の駅ではありませんで、ここから “塩原温泉郷” に延びる道がある、という意味です。 1988年 (昭和63年) に、ここ上三依 (かみみより) から塩原温泉に抜ける 「国道400号 尾頭 (おがしら) トンネル」 が開通したために、駅名に “塩原温泉口” の句を添えたわけですね。

〓実は、この上三依 (かみ みより) から塩原へと抜ける脇道は、江戸時代には、塩原の先、さらに関谷 (せきや=現在は那須塩原市関谷) を経て、石上 (いしがみ=現在は大田原市上石上・下石上にわかれる) で 「会津中街道」 と接続する抜け道でした。


〓言ってみれば、


   「会津西街道」 と 「会津中街道」 を結ぶアミダクジの横棒のような道


だったんすね。その名を 「尾頭道」 (おがしらみち) と言います。今、地図を見ると、国道400号 尾頭トンネルの上に


   尾頭峠を越える道は記されていない


ので、廃道になって久しいのでしょう。





    げたにれの “日日是言語学”-五十里湖と三斗小屋温泉



  【 わずか3ヶ月で降って湧いた巨大湖 】


〓江戸時代が始まって、約 1/3 の時期である 1683年 (天和 <テンナ> 3年) 9月1日、日光を震源とする “日光大地震” が発生しました。マグニチュードは6.8とか7.6とかいう説があるようです。
〓関東大震災が、相模湾沖を震源とするマグニチュード7.9の地震、阪神・淡路大震災が、明石海峡を震源とするマグニチュード7.3の地震ですから、かなりの大地震だったようです。


〓この “日光大地震” により、会津西街道の宿場 「五十里宿」 (いかりじゅく=現在は栃木県日光市五十里) の南西にそびえる葛老山 (かつろう・かずろう/やま・さん=1123.7m) が崩落し、現在の海尻橋 (うみじりばし) 付近で男鹿川を大規模に堰き止めました。


〓堰き止められた男鹿川は、しだいに水かさを増し、天然の湖が姿をあらわし始めました。


〓もとの五十里宿は、川が堰き止められた地点 ── すなわち、「海尻」 の遙か 3.5キロの上流にありましたが、葛老山の崩落から90日で水没しました。


〓当時、五十里宿は31戸でしたが、会津藩の指図によって、21戸は 「上の屋敷」 (かみのやしき) と呼ばれることになる地点に移転しました。残り10戸は 「独鈷沢 (とっこざわ) の石木戸」 に移って、「石木戸~上の屋敷」 間の船輸送の船頭をつとめることになりました。
〓宿屋業や、農地を失った五十里宿の住民の生活は困窮をきわめました。




    げたにれの “日日是言語学”-五十里湖と五十里宿

     五十里湖と五十里宿。 周辺の位置関係。


               波               波               波



〓「上の屋敷」 は、現在の地図で言う 「五十里海渡り大橋」 (いかり うみわたり おおはし) のたもとの集落にあたります。「独鈷沢の石木戸」 は、現在の地図でいう 「独鈷沢」 の集落ではなく、それより下流の 「鬼怒木」 (きぬもく) と記されているあたりのことです。


〓日光大地震で生じた湖は、昭和になってできたダム湖 「五十里湖」 (いかりこ) よりも大きかったようで、この 「鬼怒木」 のあたりまで湖面が広がっていました。それゆえ、この地点と 「上の屋敷」 とを船で結ばねばならなかったわけです。



〓この湖は、五十里宿のほか、湯西川沿いの西川村、そして、当然、会津西街道をも飲み込んでしまったため、このルートを使った物流はストップしてしまいました。


〓会津藩の財政をになう江戸への廻米 (カイマイ) ── すなわち、江戸への米の輸出 ── は、会津若松から遙か東まわりで 「白河街道」 を通り、奥州街道へと振り替えられたり、はたまた、五十里湖を船で渡したりしましたが、いっこうに能率はあがりませんでした。
〓先に申し上げた、尾頭道 (おがしらみち) も五十里湖の迂回路として、米の輸送に試用されたものの、あまりに険しく実用にならなかったようです。


〓当時、


   年間 12万俵
     ※ 1俵を60キロとすると 7,200トン


に達していた会津藩の廻米を、こうした迂回路のみでさばくのは困難でした。
〓会津の現金収入を支える米を江戸に売らなければ、藩の財政は逼迫してしまいます。



               おにぎり               おにぎり               おにぎり



〓会津藩は、幕府に願い出て、地震から12年後の1695年 (元禄8年 <赤穂浪士の討入りが元禄15年>)、従来の 「会津西街道」 よりも遙かに短い距離で会津と江戸を結ぶ


   会津中街道 (あいづ なかかいどう) の開鑿 (カイサク)
       ※「開鑿」 (カイサク) は土地を切り開いて道をつくること


にとりかかりました。
〓工事は、若松の町人、横山九兵衛が 1669両 (約1億2,500万~1億7,000万円) で落札し、なんと、


   工事開始 9月5日、完成 10月9日


という1ヶ月余の突貫工事で完成させました。


〓会津中街道は、中間地点の 「塩生村」 (しおのうむら) で、会津西街道とX字形に接触していました。クロスしていたんではなく、接触していたんです。つまり、「><」 というふうに、たがいに出会って、すぐに西と東に分かれていたんです。
〓会津から南下する 「会津中街道」 は、塩生村を出ると、南東にある次の 「松川宿」 へと向かったので、会津藩では、


   「会津中街道」 を 「松川通り」  と呼んでいた


ようです。「松川宿」 は、現在、大松川と地名を変えています。




    げたにれの “日日是言語学”-塩生付近

     塩生付近




   パンダ いつも、すんめへん、「3」 に続きます。 ↓

          http://ameblo.jp/nirenoya/entry-10609655660.html



   げたにれの “日日是言語学”-山田べにこ1  げたにれの “日日是言語学”-山田べにこ2

    2010 / 3 / 26  「僻地温泉」 について講義する山田べにこサン。





〓今年、3月26日の深夜、 TBS の



   げたにれの “日日是言語学”-クマグス


   「新知識階級クマグス」



をネハンブツ (涅槃仏) よろしく寝っ転がってボーッと見ておりました。でね、思わぬキャラの出現に色めき立ちました。最後は正座して見ておりましたよ。


〓その出色のキャラこそ、今や、知るヒトぞ知る、はたまた、知らないヒトは “ナンじゃそりゃ” の


   山田べにこ ニコニコ


さんですわいな。



               温泉               温泉               温泉




   げたにれの “日日是言語学”-南方熊楠
    南方熊楠



〓「クマグス」 ってコトバに耳ナジミのないムキもござりましょう。“クマグス” というのは、日本の博物学の巨人 「南方熊楠」 (みなかた くまぐす) のことでありんす。

〓博物学 (はくぶつがく) natural history / historia nātūrālis というのは、近代までの学問のジャンルで、現在の 「生物学」 (動物学・植物学)、「鉱物学」、「地質学」 などをオールマイティにこなす学問でした。
〓学問のタテワリが進む以前の 「広汎な知識を必要とした学問」 でした。そういえば、「言語学」 linguistics もかつては 「博言学」 philology と呼ばれておりましたよ。


〓南方熊楠という名前はヘンテコですが本名です。和歌山の生まれなので、熊野本宮大社 (くまのほんぐうたいしゃ) の神木の楠 (くすのき) にちなんだ、と言います。
〓まさに幕末の幕末、明治が始まる前年の生まれで、昭和天皇と同じく “粘菌” (ねんきん) の研究で有名です。「粘菌」 というのは、みずから動き回る菌類で、


   動物のようで動物でなく、植物のようで植物でない


それはナニかと尋ねたら、あ、ネンキン、あ、ネンキン、というフシギな生物です。


〓つまり、「クマグス」 という呼び名はですね、オタクという呼び名では片づけられないような


   顕微鏡的に物事に凝るヒト


を指すらしいんすよ。



               温泉               温泉               温泉



〓 3月26日の 「グマグス」 は、


   僻地温泉のクマグス


でした。
〓つまり、気軽にクルマでヒョイと行けるような温泉ではなく、ササヤブを漕 (こ) いだり、滝や崖を登ったりして、ようやくたどり着けるような、秘湯とさえ呼ばれないような珍湯をたずね、ひとっ風呂あびてくるのが趣味というヒトなんすね。



   げたにれの “日日是言語学”-竹内香苗inクマグス


〓 番組の MC は TBS の局アナにして、酒豪とのウワサを取り、番組ゲストの放つシモネタなんぞキントウンのごとくにあしらう 「竹内香苗」 (たけうちかなえ) アナウンサーでございますよ。
〓でね、番組のレギュラー出演者である V6 が、この 「山田べにこ」 さんにゲキハマリなわけです。「クイツイタ、クイツイタ、クイツイタ」。







  【 山田べにこサン、登場 】


〓むむ~、アッシャあ、この僻地温泉のクマグスこと、


   僻地温泉をもとめて海山をめぐる 「山田べにこ」 さん


にホレテしまったのですよ。ふだんは OL だそうで。現在28歳。二十歳のときから温泉巡りをやっているといい、いつも単独行だそうです。


   いっしょに行ってくれるヒトがいないから


とのこと。

〓美人サンではないが、チャーミングであります。いかにも “山女” (やまおんな) という風貌でもありません。


〓登山をしないヒトにはピンと来ないであろうけれども、山には20代・30代の女性は絶えて居ない。アッシが25年前に山に登り始めたころからそうなんですね。まあ、オトコでも若いのは少ない。アッシらなんぞ、山小屋でオバサマたちに珍しがられて、オモチャにされたもんでした。


〓あるいは、このセツ、富士山や高尾山に登ったヒトは、山にも若い女性はいるよ、と言うかもしれない。しかし、それは、ひとり、最近の富士山と高尾山にかぎったことで、一時的な流行りでげすよ。一過性のブーム。他の山には、低山であろうと、高山であろうと、いないものはいない。


〓そして、たまに若い女性がいると、それは、アッシら登山仲間が名付けたところの


   “ヤマオンナ”


なのです。つまり、単独行で、たくましく、日焼けして、体型と言えば 「アスリートタイプ」 で、オンナッケさらになし。


〓べにこサンは、山登りでなく、僻地温泉行 (コウ) が趣味なんですが、僻地温泉へのルートというのは、あきらかに、


   フツーの登山道よりも 「さびれて、ササに覆われ、
            迷いやすく、人跡絶え、薄気味悪く、歩きにくい」


にちがいないんですね。そういうルートをこういうオネエサンが歩いているのか、と思うと、ちょいと、ゾクゾクッとするわけですよ。


〓べにこサン、やっていることのスゴサに比べると、外見・容貌は、むしろ、マギャクのテンネン系。声はアニメ声で、じゃっかん、落ち着きがなく、ウッカリものです。

〓う~ん、いっしょに山に行くなら、こういうヒトと行きたいなぁ、と。 ラブラブ!



               温泉               温泉               温泉



〓番組では、スタジオに、温泉行の際の装備一式をならべて見せてくれたんですが、これがスゴイ。ただごとじゃない。



   げたにれの “日日是言語学”-べにこ装備4  げたにれの “日日是言語学”-べにこ装備3
   げたにれの “日日是言語学”-べにこ装備1  げたにれの “日日是言語学”-べにこ装備2


   山歩きの装備一式 (ザックとか、そういうもの)
      +
   キャンプの装備一式 (炊事用の食器、火器、テント、寝袋など)
      +
   写真撮影の道具一式 (カメラ、三脚など)
      +
   風呂道具一式 (プラスチックおけ、簡易浴槽にする巨大なブルーシート)
      +
   クマ避けスプレー、クマ避け鈴、GPS受信機、ガスマスク、PH計など



〓ありえへん。まあ、行く先によって装備は選ぶとは思うけれども、これ、フルで背負ったら、極力、軽量化しても、60キロは超えると思う。米一俵の重さですよ。



               温泉               温泉               温泉



〓「山田べにこ」 というのはペンネーム。実家のイヌの名が “べにこ” なんだそうです。このヒトの HP はココ。


   http://www2.ocn.ne.jp/~veniko/index.html


〓 URL からすると、本来、「山田ヴェニコ」 なんだろうか。







  【 山の中の地名はヘンなのが多い 】


〓ハナシは変わりますでゲスが、地名というのは妙なもので、人の住んでいない山の中にもあります。


〓樵 (きこり) が名付けたもの、猟師が名付けたもの、登山家が名付けたもの、あるいは、里の人たちが 「麓から見た姿」 で名付けたものなど、いろいろあります。

〓方言なのか、あるいは、単に符丁みたいなものなのか、はたまた、古語なのか、ときどき、奇妙な地名に出くわすことがあります。


〓たとえば、山では、


   乗越 (ノッコシ)


という地名によく出会います。

〓山では、峠とか、尾根の鞍部 (アンブ=いちばん低い箇所) に 「○○のノッコシ」 とか、単に 「ノッコシ」 という地名が付いていることが多いのです。これは 「乗り越し」 の音便形です。


〓「乗り~」 で音便形を取るものには、日常語で、


   乗っかる (←乗りかかる ?)
   乗っ取る (←乗り取る)


などがありますが、古語・方言・専門用語には、「乗っ切る」、「乗っ込む/乗っ込み」、「乗っ付ける」、「乗っ伏せる」 (~ぷせる) などがあります。


〓現代標準語では、「乗り越す」、「乗り越し」 を 「のっこす」、「のっこし」 とは言いません。しかし、山の地名にはこれが残っているわけです。


〓今では、バスや電車で目的地を越えてしまうことを 「乗り越す」 と言いますが、これは明治時代後期からの用法で、本来の意味は、「物を乗り越える」、「乗り物 (駕籠・馬) で他者を追い越す」、「他者の地位・身分を追い越す」 という意味でした。


〓つまり、“峠を越える” というのは、「乗り越す」 のいちばん古い語義なんですね。江戸ッ子なんぞにとっては、峠を越えるなんて体験じたいが、日常、皆無なので、標準語には残らなかったんでしょう。普通の国語辞典には 「のっこし」 は出ていません。
〓逆に言うと、文語に残らず、地方の口語 (方言) にのみ残ったので、「乗り越し」 ではなく、「乗っ越し」 となるんでしょう。



               富士山               富士山               富士山



〓尾根の鞍部を 「コル」 と呼ぶ場合もあります。「~のコル」 ってヤツ。たとえば、北アルプスには 「天狗のコル」 なんてところがあります。チョイと聞くとヘンな名前です。これは、登山家が名付けたもの。フランス語です。
〓つまり、地元の人たちが古くから歩いていた道筋につけられた名前が 「ノッコシ」 で、明治以降、登山というスポーツが日本に導入されてのち、登山コースにつけられた名前が 「コル」 となるんです。


〓これは、


   col [ 'kɔl ] [ ' コる ] ビンのクビ、衣服の襟、物のくびれた部分、峠・鞍部。


というフランス語に由来します。つまり、“山の稜線のくびれ” という意味でしょう。


〓フランス語には、


   cou [ 'ku ] [ ' クゥ ] 頸 (くび)。


という単語もあります。


〓どちらもラテン語の collum [ ' コッるム ] 「頸」 (くび) に由来するもので、フランス語における、その最初の用例は、


   col [ ' コる ] 1080年初出


でした。
〓しかし、古フランス語には、当時、きわめて退化したとは言え、格変化が残っており、2格 (主格/斜格) と2数 (単数/複数) を区別しました。ゆえに、


   cols [ ' コるス ] 「クビは」。単数主格
   col [ ' コる ] 「クビを」。単数斜格


だったんです。


〓しかし、古フランス語の後期に、子音の前にある L が [ w ] に変化しました。同じような変化が、現代では、ブラジルポルトガル語やポーランド語で観察できます。あるいは、英語でもぞんざいな発音では feel, people といった単語の、いわゆる dark L [ ɫ ] が [ w ] 化します。「フィーオ」、「ピーポー」 ですね。


〓古フランス語でこうした変化が起こったため、単数主格が、


   cous [ ' コウス ] 「クビは」


となりました。
〓古フランス語で格変化が消滅すると、通例は、斜格形が残りました。すなわち、 col が残るハズでした。しかし、この単語の場合は、


   cols [ ' コるス ] → cous [ ' コウス ] → cou [ ' クゥ ] 「頸」 (くび)
   col [ ' コる ] → col [ ' コる ] 「服の襟、ビンのクビ、物のくびれ」


というふうに “意味が分化した” んでゲス。


〓英語の collar 「襟」 (えり) は、ラテン語 collum の派生形 collāre [ コッ ' らーレ ] 「襟、首輪」 がフランス語を経由して入ったものです。
〓 collum [ ' コッるム ] から -āris で派生する形容詞が、


   collāris, -is, -e [ コッ ' らーリス、~リス、~レ ] 「頸に関係する」


です。 -āris は、本来、 -ālis であり、英語の形容詞 final, national などに現れる -al と同じものですが、


   語幹に l が含まれる場合に、異化 (いか) を起こして -āris となる


のです。「異化」 は先だって grammar と glamour でやりましたネ。


〓この形容詞の中性形が collare [ コッ ' らーレ ] “頸に関係するもの” です。


〓ただし、古フランス語 colier [ コり ' エル ] に対して、英語に入ったのは、英国の支配階級の使っていたフランス語、「アングロフレンチ」 の coler [ コ ' れル ] でした。中期英語では colēr [ ' コれール ]。異綴は coller, col(l)ar, culer。 現代英語の綴り collar はラテン語の原綴 collare を復元したものです。






  【 「ニュウ」 の話 】


〓ヘンな山の地名のハナシをもう1つ。

〓八ヶ岳 (やつがたけ) を北上して行くと、南北の八ヶ岳を区切る麦草峠 (むぎくさとうげ) の手前に


   ニュウ


という名前の岩があります。これは地図にも 「ニュウ」 と書いてある。たぶん、八ヶ岳を歩いた人なら、たいてい一度は、「ニュウ」 ってナンだろう? と思ったはずです。


   岩がニュウっと突き出ているからか?


なんて考えたりします。
〓登山道を歩いていると、道案内の立て札に、


   乳 (ニュウ)


と書いてあるので、たいていのヒトは、そうか、「オッパイ」 に似た岩ということか、とナットクしてしまいます。しかし、この岩、とくにオッパイに似ているわけではありません。



               富士山               富士山               富士山



〓福井県に 「丹生」 (にゅう) という地名があります。これは、


   【 丹 】 [ ニ ] “辰砂” (しんしゃ=硫化水銀 HgS から成る鉱物)
     +
   【 生 】 [ フ ] “ある種の植物・鉱物などを産する場所” を意味する接尾辞
     ↓
   【 丹生 】 [ ニフ ] “辰砂の産地”


という地名です。


〓単純に、「芝の生えている場所」 が “芝生”。 12世紀から用例があります。


〓地名で言うと、川崎の “麻生” (あさお) は 「麻が生えている場所」。そして、この麻生には “柿生” (かきお)、「柿の生えている場所」 もあります。


〓「生」 (ふ) は接尾辞なので、 h 音が語中に立つことになります。日本語は、語頭以外の h 音が脱落したので、次のような変化が起こりました。



   【 丹生 】 ニフ → ニウ → ニュー
   【 瓜生 】 ウリフ → ウリウ → ウリュウ  ※食用になる 「マクワウリ」 の生えている場所の意。地名・名字に多い。
   【 麻生 】 アサフ → アサウ → アサオ  ※川崎の地名の場合
                          → アソー  ※名字の場合
   ――――――――――――――――――――
   【 芝生 】 シバフ → シバフ



〓“芝生” の場合も、「シバウ」 という発音を生じたようですが、けっきょく、残ったのは 「シバフ」 という音でした。合成語であることが意識される場合、あるいは、 h を落とすことで不都合が生じる、と感じられた場合は、日本語でも h 音が残りました。



   【 ごはん 】 [ ご飯 」 「ご+はん」 とわかるので 「ごあん」 とはならない。
   【 はは 】 [ 母 ] 江戸初期の 『日葡辞書』 には、 Fafa 「ファファ」、 Faua 「ファワ」 の両形がある。
     歌舞伎が好きなヒトなら、「ハワサマ」 という発音をよく聞くだろう。
     しかし、けっきょく、生き残ったのは 「ハハ」 (←ファファ) だった。
   【 あふれる 】 [ 溢れる ] 「あうれる」 という発音は生じなかった。むしろ、 h を強化した 「あぶれる」 が生じ、別語として分岐した。



〓では、八ヶ岳の 「ニュウ」 は “丹生” と関係あるのか、というと、そうではありません。八ヶ岳のニュウで 「辰砂」 が採れた、などという記録はないようです。



               温泉               富士山               富士山



〓実は、長野県の佐久 (さく) あたりの方言に面白いコトバがあるんすよ。


   【 にゅう 】 刈り取った稲を円錐形に高く積み上げたもの。稲むら。


〓おそらく、「ニュウ」 というのは形から言ってもこれでしょう。


〓本来の語形は、


   【 にほ 】 [ 堆 ]


と言います。


   ニホ → ニオ (→ ニウ → ニュー)


という変化ですね。


〓「稲堆」 (いなにお)、「藁堆」 (わらにお) などとも言い、方言には、実に、さまざまな語形があります。



   イナニエー  飛騨
   イナニョ  富山県
   ニエ  三重県志摩郡
   ニオ  青森県津軽、岩手県上閉伊郡、新潟県、福井県、山梨県、長野県佐久、
       岐阜県北飛騨、滋賀県甲賀郡、和歌山県東牟婁郡
   ニオニオ  三重県一志郡
   ニゴ  山梨県、長野県
   ニゴボーズ 愛知県東加茂郡
   ニュー  群馬県伊勢崎市・勢多郡、福井県、長野県佐久、静岡県賀茂郡、滋賀県
   ニヨ  青森県南部、秋田県、新潟県中頸城郡、長野県佐久、和歌山県東牟婁郡
   ニョー  山形県米沢市、富山県西礪波郡、福井県、山梨県、長野県、岐阜県吉城郡、静岡県
   ニヨシ  山梨県中巨摩郡
   ノ  千葉県印旛郡
   ノー  茨城県、栃木県河内郡、千葉県、島根県鹿足郡、山口県玖珂郡
   ノーグロ  山口県玖珂郡
   ノーツンバ  茨城県稲敷郡
   ノーボッチ  茨城県稲敷郡
   ミョーブラ、ミョーツンブラ 静岡県富士郡
        ※「ミョー」 は 「ニョー」 の転訛。「ブラ」 は “稲叢” (いなむら) の “ムラ” の転訛
   ワラニグ  飛騨
   ワラニョ  岩手県
   ワラニョー  静岡県
   ワラネ  飛騨
   ワラノー  茨城県



〓フダンならば、ヨーロッパの言語について説明するような 「多彩な音変化」 が見られます。たとえば、


   ニホ → ニゴ、ニグ


というのは、「ニオ」 となってしまうと、聞き分けづらいコトバになってしまうことを恐れて、逆に、 h を脱落させずに g に強化したもの、でしょう。とてもオモシロイ例です。

〓また、静岡県富士郡に見える 「ミョー」 というのは、 n と m の交替です。これは、やはり、世界中の言語にときどき見えるもので、たとえば、ギリシャ語で、


   Νικόλαος Nīkólāos [ ニー ' コらーオス ] 「ニーコラーオス」


というと、4世紀、小アジアの司教で、サンタクロースのモデルとなった人物の名前ですが、この名前はヨーロッパの諸言語でこんなふうに男子名として採用されています。



   Nicholas [ ' ニクらス ] 英語  ※ -ch- は c と ch を混同したラテン語綴りに由来する
   Nicolas [ ニコ ' ら ] フランス語
   Николай Nikoláj [ ニカ ' らーイ ] ロシア語
   ――――――――――――――――――――
   Mikołaj [ ミ ' コワイ ] ポーランド語



〓ご覧のとおり、ポーランド語で、 N → M という置き換えが起こっています。


〓また、関東各地に 「ニョー → ノー」 という変化が見えます。以前、何度か申し上げた 「直音化」 (ちょくおんか) ですね。主として、関東に見られる、というところが、とても興味深い。


〓八ヶ岳の 「ニュウ」 にいちばん近い大きな町は佐久です。甲州街道の側の 「茅野」 (ちの) や 「諏訪」 となると、山の反対側になってしまうんですね。




   パンダ 毎度おなじみ、「2」 に続きます。 ↓

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