「三斗小屋温泉」 と消えた街道 ── 3 | げたにれの “日日是言語学”

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やたらにコトバにコーデーする、げたのにれのや、ごまめのつぶやきです。

   パンダ こちらは 「三斗小屋温泉と消えた街道」 の 2 でござる。 1 は↓

              http://ameblo.jp/nirenoya/entry-10606645050.html




    げたにれの “日日是言語学”-五十里ダム   五十里ダム




  【 道草 ── 葛老山と五十里村の語源 】


〓ここで、毎度おなじみ、道草であります。


〓日光大地震で崩壊した 「葛老山」。この山名の語源は、比較的わかりやすい、と言えましょう。

〓おそらく、


   かづら (葛) + ふ (生) → かづらふ (葛生)


ではないかと。 「生」 (ふ) という地名をつくる接尾辞については、先だって説明いたしました。




    げたにれの “日日是言語学”-クズ
     クズ (クズカズラ)



〓「かずら」 というのは、「くずかずら」、すなわち、「くず」 のことで、山里の人々にとっては重要な植物資源でした。ツルで行李 (こうり) を編んだり、その繊維で布を編んだり、あるいは、葛根 (カッコン) という根は薬用・食用として使われました。


葛根は、食用としては、本葛 (ほんくず) 製の 「葛餅」 の原料となりますし、また、薬用としては、漢方のカゼ薬である 「葛根湯」 (カッコントウ) の原料となります。


〓落語好きのヒトならば、医者の噺 (はなし) のマクラによく出てくる


   “葛根湯医者” (カッコントウ イシャ)


をご存知でしょう。すべての患者にカタッパシから 「葛根湯」 を処方するヤブ医者です。


   シラー  「ほうほう、足の骨を折った。じゃあ、葛根湯をお飲み。
         そちらは? 付き添いのカタ、じゃあ、ついでに葛根湯をお飲み」


〓「かづら」 の採れる山が 「かづらふ山」 であったのでしょう。それが、後世、音声が変化し、語源が不明となり、「葛老」 の字を宛てられ、読みも 「かつろう」 となってしまった、と考えるとわかりやすい。
〓「葛」 を “カツ” と読むのは音読みであって、訓読みの 「かずら (かづら)」 とは似ているだけでまったく関係がありません。


   かづらふ → かづらう → かずろう 【 葛老 】 → かつろう


〓アタマにかぶる 「カツラ」、ええ、ウィッグ wig のことですが、あのカツラは、古代から、「カヅラ」 と濁ることがあり、また、「カツラ」 と書かれるいっぽう、「カヅラ」 とも書かれ、どうも、「カツラ」 と 「カヅラ」 はコンガラカリやすかったかもしれません。


〓漢字の 「曼」 (マン・バン) という字には、そもそも、「豊かである、広い、長い」 と言う意があり、それゆえに、「・かづら」 も 「・かつら」 も音符として同じ文字を含むわけです。そして、それぞれ意味を限定する “限定符” (部首) である 「艸」 (くさかんむり=草の原字) と 「髟」 (かみがしら) を加えて字義を区別しているんですネ。


〓また、クズカズラとは別に、ツヅラフジというツル性の植物もあり、こちらは 「つづら」 という “かぶせフタのカゴ” を編むのに使われました。「つづら」 も 「葛」 という字で書かれたために、「くず、かずら」 とコンガラガッてきます。


〓この 「ツヅラフジ」 でこさえたカゴが 「ツヅラ」 であり、たとえば、昔話の 『舌切り雀』 の話で、オジイサンがスズメにもらってくる、おみやげの入った 「つづら」 というカゴが、まさしく、この 「ツヅラフジ」 からつくった 「つづら」 なんですネ。



               クローバー               クローバー               クローバー



〓「葛老山」 と同工異曲 (ドウコウイキョク) の地名は、日本全国にかなり分布しており、「かずろう」 という音変化を起こしているものもあります。



   葛生 (くずお) …… 宮城県 (← くず+ふ)
   葛生 (かずろう) …… 茨城県 (← かづら+ふ)
   葛生 (くずう) …… 栃木県、徳島県 (← くず+ふ)
   葛生 (かずらはえ) …… 福岡県 (← かづら+はえ)
   …………………………
   葛尾 (かつらお) …… 福島県、長野県 (← かづら+ふ)
   葛尾 (くずお) …… 三重県、奈良県 (← くず+ふ)
   葛尾 (つづらお) …… 兵庫県 (← つづら+ふ)
   葛尾 (つづろお) …… 徳島県 (← つづら+ふ)
   葛尾山 (つづらおさん) …… 島根県 (← つづら+ふ)



               富士山               富士山               富士山



〓また、ここに登場した 「五十里」 (いかり) という地名もフシギです。


〓多くの場合、江戸から五十里であったから、と説明されていますが、これはムチャクチャな説です。だいたい、


   江戸~日光 …… 三十六里 三町 二間 = 141.7 km


です。もし、五十里宿 (いかりじゅく) が江戸から五十里だとすると 196.4 km になります。


〓日光街道と会津西街道が分岐する 「今市宿」 は江戸から34里13町で、134.9 km でありますから、それだと、


   今市宿~五十里宿 …… 15里23町 (61.4 km)


となります。
〓山道がいくらアップダウンし、曲りくねっていたとしても、今市から五十里の距離が60キロもあるハズがありません。


〓江戸~今市~会津若松が約 240 km だったと言いますから、今市~会津若松は約 105 km となります。
〓今市~五十里が約61kmとすると、


   今市~五十里    61 km
   五十里~会津若松  44 km


となります。これでは、


   今市~五十里 : 五十里~会津若松 = 58 : 42


になってしまう。



               霧               霧               霧



〓そもそも、「五十里」 を “イカリ” と読むことじたいがアヤシイ。すなわち、


   日本語で、50里 (ごじゅうり) を “いかり” と称したことはない


のです。
〓「50」 という数は、古くは、単に 「い」 と言いました。前後の数が、


   30 …… みそ / 40 …… よそ / 60 …… むそ /
   70 …… ななそ / 80 …… やそ


であっても、「50」 は 「い」 だったんです。「いそ」 じゃない。これは、以前、


   山田五十鈴 (やまだ いすず)


さんについて書いたときに説明しました。「50=い」 だから、「五十鈴=いすず」 なわけです。


〓のちに、前後の数詞にあわせて 「50=いそ」 という言い方も生まれましたが、「50=いか」 となったことはありません。それに、助数詞が漢語の 「里」 (リ) である以上、その前に来る数詞は漢語の 「ゴジュウ」 でなければなりません。



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〓この誤った宛字は、「五十嵐」 (いがらし) という名字に触発されたものではないか、と思います。


〓新潟県に 「五十嵐川」 (いからしがわ=イガラシではない) という川がありますが、これは、新潟県三条市に現存する 「五十嵐神社」 (いからしじんじゃ) の名をとったものです。


〓現在、「五十嵐」 (いがらし・いからし) の名字を名乗る 「五十嵐氏」 の発祥の地は、この五十嵐神社のある 「三条市 下田 (しただ) 地区」 とされています。


〓「五十嵐神社」 の祭神 (さいじん) は第十一代 垂仁 (すいにん) 天皇の第八皇子 (おうじ) である


   五十日足彦命 いかたらし ひこの みこと


で、下田地区の開拓者と伝えられています。この 「五十日足」 (いかたらし) の転訛が 「いからし」 であり、その宛字が 「五十嵐」 と考えられます。ただし、本来、


   「五十日」 = “イカ”
   「足」 = “タラシ”


であり、


   「五十日」 = “イカ”
   「嵐」 = “アラシ”
      → 「五十日嵐」 = “イカラシ”


となるべきだったんですね。ところが、


   「五十」 = “イカ”


という誤分析がおこなわれたために 「五十嵐」 = “イカラシ” になってしまったんす。



〓先ほども申し上げたとおり、古代では 「五十」 = “イ” です。

〓「日」 = “カ” というのは、二日 (フツカ)、三日 (ミッカ) という読みでわかるとおり、日本語本来の 「日にちを数えるための助数詞」 です。

〓つまり、


   「五十」 = “イカ” という誤読は、「五十嵐」 以外からは生まれない


んですね。


〓五十嵐氏は、新潟県三条市 下田地区の発祥だと申し上げましたが、その一派の中には、東進して会津に移住した人々がいたようです。
〓福島県の南会津郡・大沼郡には 「五十嵐」 という姓のヒトが多いんです。これは、まさに、五十里宿のあった地域の北隣であり、会津西街道によって頻繁な交流のあった地域です。


〓実を申しますと、この南会津郡・大沼郡など、現在の福島県南西部は、もともと、会津藩の領地ではありませんで、天領 (テンリョウ=幕府直轄地) でした。その名を、


   南山御蔵入地 (みなみやま おくらいりち)


と言いました。会津西街道を 「南山通り」 と呼ぶは、これに由来します。


〓「御蔵入(地)」 とは、今で言う 「オクライリ」、つまり、“作品の公開中止” のことではなく、戦国時代や江戸時代に、大名や将軍 (幕府) の直領 (じきりょう) のことを言いました。


〓そして、この 「南山御蔵入地」 は、現在の福島県~栃木県境を越えて、栃木側に突き出していました。ちょうど、会津西街道および男鹿川に沿って▼の形に天領が南に向かって突出しており、その突端にあったのが 「五十里宿」 でした。つまり、「五十里宿」 は南会津郡・大沼郡などと同じ領地内にあったのです。



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〓1643年 (寛永20年)、会津藩は、加藤氏が大名家として致命的な不始末である 「御家騒動」 (おいえそうどう) を起こし、改易 (カイエキ=武家に対する刑罰で、所領・家禄・家屋敷を没収し、平民へ格下げすること) されました。つまり、会津の城が “空き家” になったわけです。


〓それにともない、同年、二代将軍 徳川秀忠 (ひでただ) の子で、三代将軍 家光 (いえみつ) の異母弟 (イボテイ) である


   保科正之 (ほしな まさゆき)


が会津藩に入封 (ニュウホウ=領主として与えられた領地に入ること) しました。


〓この人は、家光の “異母弟” という複雑な地位に生まれたがゆえに、生まれ落ちるとすぐに極秘裏に高遠藩 (たかとおはん) の藩主、保科正光 (まさみつ) に預けられました。それゆえに、名字が 「徳川」 ではなく、「保科」 なんですね。本来から言うと、「徳川家」 の血筋の大名です。


〓こうした歴史があるゆえに、会津藩は、幕府の 「親藩」 (シンパン=徳川家康の男子直系の末裔が始祖である藩) なのであり、また、それゆえに、幕末に 「京都守護職」 (きょうと しゅごしょく) に任ぜられ、「新撰組」 を組織して “尊王攘夷派” (そんのうじょういは) を弾圧し、また、それゆえに、薩長の怨みを買い、朝敵のレッテルを貼られ、会津戦争へと至ったわけです。


〓会津藩は親藩のゆえに、「南山御蔵入地」 の管理をまかされていました。ですから、天領であるはずの五十里宿の水没に際し、その処置をさまざまに指示していたわけです。



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〓「いかり」 というコトバは、方言においては、


   【 いかり 】
   「田に引く水路の堰 (せき)」 長崎県、熊本県
   「増水、洪水」 青森県、鳥取県


という語例があります。
〓動詞だとさらに多くの地点で、以下のような語例があります。



   「水の流れが堰 (せ) かれて、逆流したり、あふれたりする」
      …… 【 いがえる 】 山形県、福島県、神奈川県
      …… 【 いかる 】 青森県・鳥取県・島根県


   「洪水になる、増水する」
      …… 【 いがえる 】 山形県
      …… 【 いかる 】 青森県、岩手県、秋田県、静岡県、鳥取県、高知県



〓これは、おそらく、「帰る、返る」 という動詞に、接頭辞 “い” が付いたものと見えます。古日本語では、移動をあらわす動詞に、しばしば、“い” が接頭することがありますが、その意味はあきらかではありません。単に、「語調をととのえる」 とされています。


〓「いかる」、「いかり」 は、庶民の言語レベルで 「いがえる・いがえり」 が 「怒る・怒り」 と混淆 (こんこう) した可能性も考えられます。


〓「水が逆流する」 ことを 「い返る」 と表現し、それが、さらに、「洪水」 に転用されたものでしょう。五十里宿あたりは、もともと、台風などが来ると出水しやすい地形であったらしく、あるいは、その意味で、「いかり」 という地名になったのかもしれません。



               波               波               波



〓五十里 (いかり) に天然の湖が出現して40年目、また、会津中街道が開通して 28年目、1723年 (享保8年) 8月10日、例年にない連日の長雨により増水した五十里湖は、とうとう耐えきれずに海尻が決壊しました。つまり、40年ぶりに、天然のダム湖が崩壊したんです。


〓これは、五十里宿の人々にとって歓迎すべきことでしたが、これによって生じた、五十里洪水は、下流域に甚大な被害をもたらしました。


〓水がすっかり抜けた五十里湖の跡は、砂・石・泥の堆積した平地としてあらわれ、土地では、ここを 「海跡」 (うみあと) と称しました。


「上の屋敷」「石木戸」 に移転していた、もとの五十里宿の住人は、さっそくもとの土地である海跡に移住しましたが、その後も、たびかさなる出水で定住がかなわず、今度は西側の山の高台に移転しました。


〓この移転先が、“ダム建設による五十里湖” が出現する前の五十里村の位置で、現在の地図には何の痕跡も残っていません。昭和31年までの五十里村の痕跡は、現在、五十里湖畔を走る会津西街道の 「唄ノ沢橋」、「大塩沢橋」 の対岸あたりの山肌にあり、村の一部は今でも水没せずに残っていますが、ここに通じる道路は水没してしまっています。




    
    げたにれの “日日是言語学”-五十里湖周辺



〓1956年 (昭和31年) に竣工 (シュンコウ) した 「五十里ダム」 は、日光大地震で生じた天然ダム (海尻) の遙か下流につくられました。治水と水力発電が主な目的でしたが、そのために、五十里村の住人は、またも移転を迫られました。
〓当時、五十里村には85戸の家があったと言いますが、このたびばかりは村民は四散し、地元に残ったのは八戸のみ、と言います。






  【 会津中街道と三斗小屋温泉 】


〓かように、文化が爛熟しつつあった江戸時代中期、五十里湖によって会津西街道が閉鎖せられていたあいだ、「会津藩の物流をになっていた新大動脈」 こそが 「会津中街道」 であったわけです。
〓そして、驚くべきことに、その 「会津中街道」 は、現在、山奥の秘湯と言われる 「三斗小屋温泉」 を通っていたんです。


三斗小屋宿 (さんどごやじゅく) は、会津中街道の宿場として、また、あとで申し上げる、とある山岳信仰の参詣口 (さんけいぐち) として栄えることになりました。


〓しかし、幕末の戊辰戦争で、街道は会津藩と新政府軍との攻防の地となり、宿場は廃墟と化しました。

〓現在の三斗小屋温泉は、地図上の直線距離で、もとの三斗小屋宿から1.8キロほど東へ沢を登った地点にあります。



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〓「会津中街道」 は、会津と江戸を最短距離でつなぐとは言え、もともと険しい山道であるため、暴風雨があると崩壊しやすかったし、積雪期には通行不能となりました。
〓そのため、 1704年 (宝永元年) には、早くも “脇街道” へと格下げになっています。それでも、「会津中街道」 は、その後も盛んに使われ、むしろ、会津西街道と会津中街道のあいだで、激しい積荷の奪い合いが続きました。
〓農耕地が限られる山間の民にとって、自分の土地を通る道が “主要街道” であることは駄賃 (ダチン=物品の輸送料) 稼ぎなどの経済効果をもたらしたんですネ。


〓幕末の慶応4年 (明治元年、1868年)、つまり、会津中街道完成の 173年後、すでに申し上げたとおり、戊辰戦争 (ボシンセンソウ) が起こり、新政府軍は、会津藩へ向かって、「会津西街道」、「会津中街道」 を北上しました。


〓街道沿いの宿場、村々は、この戦争で会津藩と新政府軍の板挟みになり、家屋を焼き払われたり、敵軍に荷担した罪で処刑されたり、ひどい被害を蒙 (こうむ) りました。


〓三斗小屋宿はすべての家屋が焼き払われました。そのうち、旅館は5軒であり、「大黒屋」 は、そのうちの1軒でした。

〓会津中街道は、そののちも明治中ごろまでは細々と使われたそうです。


「大黒屋」 は、戊辰戦争の翌年の明治2年に、現在の地に新館を再建し、現在まで続いてきました。「煙草屋」 は、明治44年に黒磯駅前から進出したものです。


「三斗小屋宿」 は、その後、復興しましたが、街道の衰退とともに徐々にさびれていって、1957年 (昭和32年) 12月8日に最後の一戸がここをあとにして、爾来 (じらい)、無人の村となっています。


〓地図を見ると、「三斗小屋温泉」 の少し西に、ポツンと 「三斗小屋宿」 という名前と、幾棟かの “家屋の影” のようなものが記してありますが、今では住む人はありません。この地名と “家屋の影” とがどんな歴史を経てきたのか、地図は何も語りません。

〓けっきょく、細々と使われていた 「会津中街道」 にとどめを刺したのは、1899年 (明治32年)、会津若松と東北本線の郡山とのあいだに開通した 「磐越西線」 (ばんえつさいせん) でした。





    げたにれの “日日是言語学”-三斗小屋宿地図       

     「会津中街道」 と、現在の 「三斗小屋温泉への登山道」 の関係。 両者は接してもいないし、交わりもしない。






  【 しかし、峰の茶屋は街道筋ではなかった 】


〓ところが、ここに、また、フシギなことがあります。つまり、


   会津中街道は、“峰の茶屋” を通っていなかった


ということです。
〓つまり、会津中街道は、三斗小屋宿は通っていましたが、そののち、南下するにあたって、目前にそびえる那須岳の山塊を越えたりはしなかったのです。そりゃあ、ごもっとも。

〓三斗小屋宿は、現在の三斗小屋温泉から西へ向かって沢を下った谷底にありました。会津中街道は、そのまま、谷沿いに、那須岳の山塊を大きく西に巻いて 「板室宿」 (いたむろじゅく) に出ます。

〓つまり、「峰の茶屋」 は会津中街道とは関係がなかったのです。


〓ならば、「峰の茶屋」 とは何だろう?



               お茶               お茶               桜餅



〓「登山の歴史」 ってなことについて、フツーのヒトはあまり考えたことがござらんでしょう。日本では、明治時代以前に、


   スポーツとしての 「近代登山」 の概念が存在しなかった


んですね。
〓江戸時代まで、山に分け入るというのは、猟師とか樵 (きこり) などが山の資源を得るためとか、はたまた、修験者 (シュゲンジャ) が山岳信仰のゆえにその山の頂 (いただき) を目指す、というのが主なものでした。ときに、古くは軍事戦略として山越えがおこなわれることもありました。


〓江戸時代は、庶民 ── と言っても、山は女人禁制で、男しか登れませんでしたが ── が山岳信仰の形をとり、講 (コウ) という参詣者 (サンケイシャ) の団体を組んで、物見遊山 (ものみゆさん) の旅行をするようになりました。しかし、それでも、その目的地は、江戸で言うと、大山 (おおやま) とか富士山など、一部の山にかぎられ、


   登山というより、伊勢神宮に参るのと同じく、娯楽としての旅行の行程が目的であった


と言えます。たとえば、落語の 『大山参り』 (おおやままいり) などを聴くと、それが、今で言う 「登山」 とはまったく異なる娯楽であったことがわかります。



〓昨年、公開された木村大作監督の映画 『劒岳 点の記』 (つるぎだけ てんのき) を見たヒトもいると思いますが、あれが、まさに、


   “近代化する日本・近代化する登山” と
   “古い日本・宗教としての登山”


とが交錯する時代を描いた映画ですネ。そして、近代登山が、山岳信仰の前に打ち砕かれる、というショッキングなラストが用意されているわけです。



               富士山               富士山               富士山



〓そもそもの三斗小屋宿というのは、「会津中街道」 の整備にともない会津藩によって宿場として設けられたもので、それ以前に人家はなかった、と言います。残念ながら、「三斗小屋」 という地名の由来は伝えられていません。


〓「三斗小屋温泉」 じたいは、12世紀に発見された、という記録があるようです。


〓また、日光大地震が起こる11年前の 1672年 (寛文12年) に板室 (三斗小屋宿の1つ手前の宿) の猟師が、熊獲りで山に入ったところ、茶臼岳の西側の山腹で 「仏と菩薩」 の姿を見かけました。それゆえ、爾来 (じらい)、この山は霊場とされます。
〓宗海なる行者 (ぎょうじゃ) が、「仏と菩薩」 のあらわれた地点を 「白湯山」 (ハクトウサン/ハクユサン) と名付け、修行者の参拝所としました。


〓「白湯山」 とは言い条 (じょう)、これは、山ではありませんで、茶臼岳の牛ヶ首 (うしがくび) から三斗小屋宿跡へと、西に向かって下って行く沢の途中にある源泉の噴出口を言います。「白湯山」 は寺院の称号である “山号” (さんごう) のようなものでありましょう。


〓白湯山信仰が一般化したのは、幕末、ペリーが浦賀に来た嘉永・安政 (1850年代) のころです。


〓それも、昭和初期には廃れてしまい、かつての参拝所であった 「白湯山」 も、現在では訪れるヒトもなく、国土地理院の地図を見ても、旧参詣道はその痕跡すらなく、現実に、ヤブコギをしなければ辿り着けないような場所になっています。



               温泉               温泉               温泉



〓ハナシは、ふたたび、江戸時代に戻ります。


〓「白湯山信仰」 は、当初、三斗小屋宿を起点とした霊場でしたが、少なくとも、 1774年 (安永3年)、には、「白湯山」 と茶臼岳を挟んで反対側にある 「湯本村」 から入る経路も整備されたようです。


〓こちらから入る場合は、「白湯山信仰」 とは言わず、「高湯山信仰」 と言いました。参道には2つの経路がありました。

〓1つは、湯本から見て、茶臼岳の左肩を越えて牛ヶ首から 「白湯山」 に至る道、そして、もう1つは、大丸から 「峠の茶屋」 → 「峰の茶屋」 という現在の主要登山ルートと同じ道でした。

〓ただ、この 「峰の茶屋」 というのが、いつからあって、いつなくなったのか、マルッキリ資料がありません。少なくとも、1990年ころには、


   どこに建物があったかさえわかないほど、カゲもカタチもなかった


んですね。

〓ありうることは、この 「峰の茶屋」 というのが、幕末の白湯山参詣ブームの中で、「高湯山詣り」 の参詣者のノドを潤すために設けられた、ということです。
〓はたまた、明治以降、近代登山ブームの一貫として、登山者のノドを潤すためにつくられたものだったかもしれません……


〓「三斗小屋温泉宿」 とか、「白湯山信仰」 とか、そういったことがらについては、調べると、それなりにいろいろわかるんですが、あんがい、峠に建っていた平凡な茶屋のことなど、誰も覚えていないんですね。今となっては、「峰の茶屋」 という名前が残るのみです。



               クローバー               クローバー               クローバー



〓以上が、「峰の茶屋」 がキッカケとなって、歴史の向こうから芋ヅル式にあらわれてきた 「三斗小屋温泉」 の物語なのであります。