「アジサイの話・5」 ── シーボルトは、なぜ、「お滝さん」 を otaksa と書いたのか 3 | げたにれの “日日是言語学”

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     あじさい  こちらは 「アジサイの話・5」 です。 1 は ↓

             http://ameblo.jp/nirenoya/entry-10593295874.html





〓わかりやすい例で言うと、標準語で 「~です」 と言うときに、決して、


   [ -desɯ ]  [ ɯ ] は東京方言の “ウ”。関西方言の “ウ” [ u ] のように唇を丸めない。


とは発音されません。最後の [ ɯ ] において声帯が震えず、


   [ -des:: ]


となります。つまり、“ウ” が落ちて、 s ばかりが延長されるんですね。


〓一般に、日本語に関する専門書では、


   / -desɯ̥ /


というぐあいに / ˳ / で無声化を示していますが、少なくとも東京方言の場合、イ段・ウ段の 「無声化」 と言われているものは、実際には、次のように実現されています。



   (a) 母音が無声化しているのではなく、母音が脱落し、先行する子音のみの拍となっている。
   (b) その子音は、イ段の場合、「硬口蓋化子音」、ウ段の場合、

          「非口蓋化子音」 であり、それにより、イ段とウ段を区別する。



〓チョイと言い方がムズカシイですが、具体例を挙げると、こういうことです。



   【 アの無声化 】
   「~とか、~とか」 ~○○ ※ものごとを列挙するときのきわめて低く発音される 「とか」。
   / -tokḁ /


   【 アの無声化 + ウ・イの脱落 】
   「かつおぶし」 ○●●●●
   / katsɯobɯɕi̥ / → [ kḁts:oβɯɕ: ] 実際の発音


   【 イの脱落 】
   「かっきてき」 (画期的) ○●●●●
   / kakki̥teki̥ / → [ kakkʲʰtekʲʰ(ç) ] 実際の発音


   【 ウの脱落 】
   「ハバロフスク」 ○●●●○○
   / habaɾoɸɯsɯ̥kɯ̥ / → [ haβaɾoɸskʰ(x) ] 実際の発音



〓「母音の無声化」 が起こる方言というのは、かように、「無声化」 どころではなく、母音の脱落を、実際には、かなりキッカイな音声で補完しています。


〓もう一度申し上げますが、このように母音を脱落させてしまっても意味が通じるのは、音声学的に、次のようなしくみが成立しているからです。



   【 “イ” [ i ] の脱落 vs “ウ” [ ɯ ] の脱落 】

     / 子音 + i / → / 硬口蓋化した子音 + 母音ゼロ /
     / 子音 + ɯ / → / 硬口蓋化していない子音 + 母音ゼロ /


      キ / ki / → [ kʲʰ(ç) ]
      ク / kɯ / → [ kʰ(x) ]

      シ / ɕi / → [ ɕ(:) ]  ※ [ ɕ ] はこの子音じたい硬口蓋化しているので [ ʲ ] は付かない
      ス / sɯ / → [ s(:) ]
      シュ / ɕɯ / → [ ɕʷ(:) ]  ※日本語の無声化の中でも特殊な例。

      チ / tɕi / → [ tɕ(:) ]  ※ [ ] はこの子音じたい硬口蓋化しているので [ ʲ ] は付かない
      ツ / tsɯ / → [ ts(:) ]

      ヒ / çi / → [ ç(:) ]  ※ [ ç ] はこの子音じたい硬口蓋化しているので [ ʲ ] は付かない
      フ / ɸɯ / → [ ɸ(:) ]



〓無声化した 「キ」、「ク」 の発音については、


   母音のかわりに、激しい気息をともない、語末では、摩擦子音 [ ç ], [ x ] で拍を延長する


というクセがあるようです。実は、シーボルトはこれも 「原理はわからないまま、現象としては観察していた」 ようで、次のようなキッカイな日本語の転写形があります。



   die Sjukʼkagos [ ディ シュッカゴス ] 「宿駕籠」 の複数形
      ※通例、「しゅくかご」 と書かれるが、実際の発音は、「しゅっかご」 だったのだろう。
       宿駅に待機する垂れなどがない粗製の駕籠 (かご)。
   
   Sitsidankwʼa [ シチダンクヮ ] 「七段花」
      ※「七段花」 はヤマアジサイの園芸品種。この当時の長崎方言では、
       激しい気息をともなった合拗音が発音されていたのだろう。 [ kʰwa ] である。


   Mokkokʼ [ モッコク ] 「木斛」
      ※語末の “ク” が無声化し、激しい気息をともなっていたのだろう。


   Kifune-Gikʼ [ キフネギク ] 「貴船菊」 (きぶねぎく)
      ※「シュウメイギク」 の異称。



               あじさい               あじさい               あじさい



〓長崎方言というのは、東京方言と同様、「母音の無声化」 が起こる方言です。


〓「シキミ」 (樒 = モクレン科の木) が Skimi になるのはオカシイと思うかもしれません。しかし、これには、日本語特有の 「口蓋化」←→「非口蓋化」 という対立がからんできます。これについては、先ほど申し上げました。


〓たとえば、「式」 ○● (低高)、「好き」 ○● (低高) という2つの語で比べてみましょ。標準語および東京方言では、どちらも語末が高く発音されるので、ともに、語末の -ki の i は無声化しません。しかし、


   アクセント核でなく、低く発音される語頭の shi-, su- は、それぞれ無声化する


のです。そのときの発音は、


   「式」  [ ɕ̩ki ]
   「好き」 [ s̩ki ]
       ※ [ ˌ ] は子音が音節を成すことを示す。


となります。この2語を東京人がどこで区別しているか、と言えば、それは、


   語頭の sh [ ɕ ] と s [ s ] の対立


です。前者は 「硬口蓋化された s 」 であり、後者は 「硬口蓋化していない s 」 です。つまり、 s が口蓋化しているか、していないか、それだけが2つの単語を区別する拠り所なんですね。


〓ところが、ヨーロッパの多くの言語では、「硬口蓋化」-「非硬口蓋化」 という対立で単語を区別する習慣がなく、そうした言語の話者にとっては、


   この2つを区別するのがムズカシイ


のです。とりわけ、「シュー音・チュー音」 を音素として持たないオランダ語では区別は困難であるし、表記し分けることもできません。



〓ヨーロッパの言語でも、ロシア人・ポーランド人などスラヴ語の話者や、アイルランド語の話者は、こうした音韻体系を自身の言語にも持つので、おそらく、これを区別することができるでしょう。また、軟母音 я, и, ю, е, ё や軟音符 ь によって、これを書き分けることもできます。


〓しかし、西ヨーロッパのほとんどの言語にはこの区別がありません。たとえば、フランス人は、語末の [ -k ] を硬口蓋化音で発音するクセがあります。たとえば、 -ique で終わる語は、日本人には 「~イッキ」 に聞こえます。


   Dominique [ domi'niᵏkʲ ] [ ドミ ' ニッキ ] 「ドミニク」。男性・女性の名前


〓しかし、これはそういうクセがある、というだけで、 [ domi'niᵏk ] [ ドミ ' ニック ] と発音しても、なんら意味は変わらないし、「~イック」 と 「~イッキ」 で単語を区別することはできません。


〓西ヨーロッパの言語の話者は、


   「子音が口蓋化しているか/していないか」 よりも、

                「母音があるのか/ないのか」 のほうに注意が向く


のです。その結果、「シキミ」 は Skimi になってしまうんですね。つまり、


   語頭の “シ” が [ s ] ではなく [ ɕ ] だということより、
   [ ɕi ] の母音 [ i ] が落ちている、ということのほうが聞こえてくる


という耳しか持っていないんです。


〓実は、日本語の音声について、こういう観察をしたのはシーボルトが初めてではありません。


   Skimmia Thunb. (1783)
      [ ス ' キンミア ] 「ミヤマシキミ属」


〓シーボルトよりも先に出島に赴任し、植物の標本を採集したスウェーデンのテュンベリーによる造語です。シーボルトの出島到着の40年前に立てていた属です。おそらく、テュンベリーは、「ミヤマシキミ」 について、土地のヒトから、


   シキンミ [ ɕkĩmi ] [ シキんミ ]


というような発音を聞いたんでしょう。
〓シーボルト同様に、「シキミ」 の語頭の “シ” の無声化を、シーボルトとそっくりに観察・表記しているんですね。


〓語末の -a はラテン語化し、単語の変化を可能にするために必要でした。 Skimmius でも、 Skimmium でもよかったかもしれない。何らかの思いから女性形にしたんでしょう。


〓シーボルトの Skimi はテュンベリーの Skimmia に引きずられたんじゃないか、というふうに考えるヒトもいるかもしれない。しかし、そうでない証拠があります。
〓すなわち、シーボルトは、「ミヤマシキミ」 の表記では、 i を落とさずに記述しているのです。


   Mijama Sikimi 「ミヤマシキミ」 …… シーボルトの表記



               あじさい               あじさい               あじさい



〓日本人があまり知らない 「日本語から英語に入った借用語」 があります。


   skosh [ 'skoʊʃ ] [ ス ' コウシュ ]


ってんですね。


〓日本語の 「少し」 を借用したものです。第二次大戦後、日本に進駐した米国・英国・オーストラリア・ニュージーランドなどの兵士が、日本人とじかに接することで覚えて帰った単語です。1940年代の後半から俗語として使用されています。


skosh じたいは名詞ですが、英語の文脈では、通例、 a を冠して使われます。



   a skosh of  a little bit of / a little amout of  「少量の」
   a skosh  a little / a little bit 「少し」 (副詞的)



   That's a water with a skosh of lemon juice, in case you were wondering what the cloudy liquid is.
   その濁った液体が何なのかと怪しむ人のために言っておくと、それは少量のレモンジュースを加えた水だ。


   “Could you move your chair just a skosh to the right? -- We can't see the TV.”
   「イスを少し右に移動してもらえますか? テレビが見えないんです」



〓ペットに Skosh という名前を付けるヒトもいるようです。日本語でイヌやネコの名前が 「スコシ」 というのはヘンですが、英語のネイティヴにとって skosh = little ですからオカシナ名前ではないんです。

〓この skosh は、東京方言の


   スコシ [ s̩koɕ̩ ]
      ※一拍ずつゆっくり発音すると [ sɯkoɕi ] となる。関西では [ sukoɕi ]


を英語のネイティヴが写したものですね。これが日本人にとってキミョウなのは、


   スコシ → skosh → スコウシュ


というぐあいに、


   自分たちにとって 「シュ」 に聞こえる音で 「シ」 が写されている


からなんです。しかし、英語のネイティヴにとって、これはいっこうにフシギではないんですネ。シーボルトが 「シキミ」 を Skimi (スキミ) と写したのと同じです。


   英語のネイティヴにとっては、母音のない [ ɕ ] は sh に他ならない


のです。
〓日本語の東京方言の話者は、英語の -sh に終わる単語の借用語を、「円唇化した (唇を丸めた) ɕ 」 を使って発音します。たとえば、


   フィニッシュ ●○○○ [ ɸiniɕɕʷ ]
      cf. 「釣りバカ日誌」 ○●●●●○○ [ ~niɕɕ ]


というぐあいです。


〓しかし、こういう音の使い分け・聞き分けをするのは、日本語のネイティヴであって、


   英語のネイティヴにとっては、 [ -ɕʷ ] も [ ] も母音のない -sh にすぎない


んです。だから、


   スコシ → skosh


となるわけです。


〓ついでに申し上げますが、以前、


   日本人は英語の [ z ] を努力なしで発音できていると思い込んでいるだけで、
   実は、主として語頭で、摩擦音 [ z ] を破擦音 [ dz ] で発音しており、チッとも発音できていない


ということを申し上げました。


〓これと同様に、


   日本人は英語の [ ʃ ] を努力なしで発音することができない


ということができます。英語の [ ʃ ] は非硬口蓋化音であり、日本人が生まれたときから発音している硬口蓋化音 [ ɕ ] とはかなり異なる音です。


〓帰国子女と呼ばれる “日本人” のなかには、


   「シャシシュシェショ」 の発音が、なんか、バタ臭い


というヒトたちがいます。コモッたような、舌が長いような、違和感のある 「シャシシュシェショ」 に聞こえます。これは、日本語の [ ɕ ] 音ではなく、英語などの [ ʃ ] 音を身につけてしまっているからです。


〓純日本語ネイティヴは、かなり、英語を勉強したヒトでもこんなふうに発音しています。


   ship [ 'ɕip ]  ※正しくは [ 'ʃɪp ]
   sheep [ 'ɕi:p ]  ※正しくは [ 'ʃi:p ]
   fish [ 'fiɕɕʷ ]  ※正しくは [ 'fɪʃ ]
   pushed [ 'pʊɕɕʷt ]  ※正しくは [ 'pʊʃt ]



               あじさい               あじさい               あじさい



〓長崎方言で 「お滝さん」 と言った場合、その発音は、


   オタキサン [ otasaɴ ] [ オタキサン ]


のごとくなります。つまり、“キ” が無声化するんですね。クドイようですが、


   日本人は、無声化した “キ” と “ク” を口蓋化の有無で聞き分ける


ので、「オタクサン」 [ otaksaɴ ] と 「オタキサン」 [ otakʲsaɴ ] の区別ができます。しかし、こと k 音については、西ヨーロッパ出身の西洋人には、これの区別は不可能だったでしょう。耳で聞こえないものを文字で書き分けることは、なおさらできません。つまり、


   “キ” ki の母音が落ちていることは聞いて、すぐにわかる


ものの、それが 「硬口蓋化している」 ということは認識できないし、ましてや、文字であらわす方法はまったくありません。
〓つまり、シーボルトが 「オタキサン」 というコトバを、耳で聞いたままに書き記そうとすると、どうしても、


   Otaksan


になってしまう、のです。


   「そんなこと、ホントにあるのか?」


とナットクできないヒトは、もう一度、シーボルトの奇妙な表記例を眺めてみてください。


    Skimi [ スキミ ← シキミ ] 「シキミ」
    do-bats [ ドバツ ← ドーバチ ] 「銅鉢」 (ドウバチ=仏具)
    Akejumats [ アケユマツ ← アゲヤマチ ] 「揚屋町」 (新吉原の町名)
    Kiōmats [ キヨーマツ ← キョーマチ ] 「京町」 (新吉原の町名)
    Fusimimats [ フシミマツ ← フシミマチ ] 「伏見町」 (新吉原の町名)


〓いっぽう、語末であろうとなかろうと、シーボルトが日本語の “ン” を落とした例は1つもなく、さすれば、


   シーボルトが otaksan ではなく、 otaksa としたのは、ラテン語として語末が -a で

   終わらないと、女性の名前にならないし、ラテン語による記述で文法的に変化させられない


からだろう、と推測されます。つまり、以前、申し上げた


   natsumi 「ナツミ」 という名前は、とりあえず、 natsumia としてラテン語化する


というのと同じ対応だと考えられます。

otaksa というのは otaksae という属格形ではありませんし、 otaksus という形容詞の女性形でもありません。つまり、 Hydrangea 「ヒュドランゲーア」 “アジサイ属” という属名と otaksa 「オタクサ」 という種小名は、「同格 (主格) の名詞の並記」 とみなすべきでしょう。


〓こうした、主格の並記というタイプの学名は決して少なくなく、特に、動物の学名に多い。ニシローランドゴリラの学名 Gorilla gorilla gorilla などというタイプは、亜種名まで種小名がくりかえされており、主格が3つ並んでいることになります。



               あじさい               あじさい               あじさい



〓ということで、「アジサイ」 にまつわるニレノヤ式アレヤコレヤの解説をしてみました。ドウデガシタデショ?