私はfacebookで流れてきたこの記事を目にしました。あちこちの媒体で取り上げられているようです。
何故か出典元は不明です。
私もそろそろ一生をいつ終えてもおかしくない年齢になり、今自分につきつめられている問題の答えのような気がしています。
一生を終えてのちに残るのは
会社員 野崎 佳宏
(神奈川県 50)
20歳のころ、三浦綾子さんの小説
を夢中で読みました。「続氷点」に
「一生を終えてのちに残るのは、わ
れわれが集めたものではなくて、わ
れわれが与えたものである」という
言葉が出てきます。
当時はよく理解していませんでし
た。お金がたまれば車を買い、家を
買い、果てしないコレクション魂が
人間の悲しい性ではないかと。
20代後半で父が、数年後に母が他
界しました。苦労を重ねた両親の人
生は何だったのか。かわいそうに思
えてきました。いずれ身内や友人も
この世から消え、両親が人々の記憶
からも消えていくことが。
30代後半になり、あの言葉を思い
出しました。手元に「集めた」もの
は、自らの死とともに消えてなくな
るでしょう。でも、「与えた」ものは
そうではないと考えるようになりま
した。両親から受け取った有形無形
の施しを、自らの肥やしにするだけ
でなく、たすきリレーのように次の
世代に伝えていく。これこそ、自分が
生を受けた意味なのかもしれない。
自分のしがない人生は、何百万年
と続く人類の営みのほんの一瞬で
す。残したいものは何なのか。考え
ながら子どもと接する日々です。
「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」『続氷点(上)』 pic.twitter.com/lbuQq669Uz
— 正木伸城 (@nobushiromasaki) July 31, 2024
一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである。(ジェラール・シャンドリ)(三浦綾子「続氷点」)
— ヤギティ (@yagi_ty) November 23, 2025
Citation de Gérard Chaudry sur Vie, Reste et Donné
Ce n'est pas ce que nous avons amassé qui reste après cette vie, mais ce que nous avons donné.

