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ニュースの天気予報で見たのだけれど、この二週間は全14日のうち雨天が13日という異常な天候。
そして寒い。わずかに晴れた昨日も肌を切りつける冷たい風が勝ち誇るように鳴り続けていた。
それでも久しぶりの晴天。わずかでもいい、遠くを見ようと例によって例の風景である海へ。
ダルマ富士(日没時、水面に太陽が映るさまがダルマに似ているそう)で有名らしい、播磨灘の新舞子から少し東の港湾工業地帯(このあたりのコンビナートは工場見学ツアーなどもあるらしい)を対岸に見据える海岸へ。
そもそもひと気の少ない場所なうえ、潮干狩りにも早く、また、夕方なので僕以外は誰もいなかった。
無人を心地よく感じる。誰のおしゃべりも聞こえてはこない。呼び出しのケータイも鳴らない。
慣れてしまえばそれがあることを忘れてしまいそうな波音を聞く。
どのようなかたちであれ、生きている以上は喧騒と離れることはない。
人は話す。沈黙を恐れ空白を塗り潰すようになにかを語る。
話すことがなければ無言でいいんじゃないかと思うのだけど(僕はそうしている)、無言は苦痛を伴うことなのか、とにかく、誰もかもが不必要なほどなにかを喋る。
そして適当な相槌が要求される。
ほぼ毎日会っていれば(挨拶や用事を抜きにすれば)話すことなどそうはないような気がするのだけれど、そんなこともないのだろうか。
よくわからない。わからないが耳と神経はそれなりに疲れるので、人のいないところへ行こうと思う。
騒々しさを苦手にするくせに、聴く音楽は騒々しいロックンロールだ。そして、毎日観ている野球は連日何万人もの人が来場する喧騒そのものだ。
外部であるぶんには騒々しくてもいいのかもしれない。
内側に取り込まれるのが苦手なのだ、取り込もうとする場所や関係性を疎ましく思うだけなのだ。
外側がいい。異端でいい、環境に慣れることができなくても仕方がない。
外の存在でいることが自分に合うのだと知っている。群れることを好む、そのことに無自覚である人とはうまくいかない。
それでいいのだと思う。
私たちは誰もが個々だ、それぞれが別々の存在である。
「誰とでも仲良く」なんて年端もいかない子供でさえできない。
歴史的にそれができたことはないし、これからもないだろう。人類も動物でしかない。闘争本能を削除することはできない。
誰彼なく親しくできるわけではない。誰もがそのことを知っている。
独りでいるときは誰とも話さず、いい加減な相槌もいらない。もちろん、咎める誰かもいない。
風景の前で僕は完全に外部者である。
なにを成し、なにに生きたとしても、やはり人は独りである。その想いを確認するために、僕は独りになれる場所を欲し続けるのだろう。
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