釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -23ページ目

2月15日、お釈迦さま入滅の「涅槃会」と「絵解き涅槃図」

2月15日は「涅槃会」。我らがスーパースター、お釈迦さまが亡くなった日です。
陰暦の2月15日だから本当は別の日だと思いますが、
日本では2月15日に全国のお寺が涅槃図をかけて、法要をします。

南伝仏教では「ヴァイシャーカ月の満月の日」とされてて、
だからスリランカ仏教のテーラワーダ協会では
毎年5月に「ウーサーカ祭」というのをやってます。

さて、「涅槃図」を一度は見たことがあるでしょう
たくさんの弟子や動物が描かれていて、誰が誰だかわかりませんよね。

本も出ていますが、ネットをいじってたら、こんなサイトがありました。
「WEB版 絵解き涅槃図」
http://www.rinnou.net/nehanzu/

これは涅槃図をかなり詳しく説明していて面白いです。


<妙心寺派教化センター・花園大学国際禅学科・禅文化研究所の三者共同事業にて、

中山寺(三重)蔵および少林寺(岐阜)蔵の二幅の画像をデジタル化して、

そこに描かれている人や物、そしてそれに関しての妙心寺派布教師の法話もリンクし、

知識向上の一助になればと考え、「WEB版 絵解き涅槃図」を構築いたしました>

という本格派です。

たとえば、十大弟子のアヌルッダさんが2か所に描かれているんですって。
ひとつは雲に乗って駆け付けた摩耶夫人を先導している姿、

もうひとつは悲しみのあまりに気を失って倒れた阿難尊者を介抱している姿。



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~
三重・中山寺蔵 クリックで拡大します。



しかしツイッターもない時代にこれだけの人数が駆けつけるのは難しかったはずで、

実際のお釈迦さまの死は、もっと静かな行き倒れだったと想像します。


15日は、ブッダ最後の旅』(岩波文庫)を読み、

どこかで涅槃図を見ながら、お釈迦さまに思いを馳せたいものでございます。


さらにはパーリニッバーナ 終わりからの始まり』(下田正弘著、NHK出版)も。

http://ameblo.jp/nibbaana/entry-11287921987.html

http://ameblo.jp/nibbaana/entry-11292941384.html




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地獄図で参拝を勧める仏教説話画

根津美術館(東京・青山)の「国宝那智瀧図 仏教説話画の名品とともに」に行ってきた(2月12日で終了)

美術館の所蔵品だけなので小規模な展覧会だったけれど、仏教説話画というのはなかなか面白い。文字が読めない普通の人たちに、どうやって絵で仏教を伝えたか、というのがわかるから。



絵過去現在因果経」(1254年、鎌倉時代)は、お釈迦さまの伝記を、お経と絵で解説した絵巻物。図版は、出家を決意したお釈迦さまが愛馬に乗って城を出た場面。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ クリックで拡大




強烈だったのは「矢田地蔵縁起絵巻」(16世紀、室町時代)

大和郡山市にある金剛山寺(通称、矢田寺)本堂に祀られる地蔵尊の縁起の絵巻物。

パッと見は、地獄図なのだ。

1~12月の一月ごとに、「○月は×日に参拝すると、こんな責め苦から救われる」という文章(詞書)があって、月ごとに獄卒に舌を抜かれたり煮られたりしている亡者の絵がある。横には地蔵菩薩。

要は月に1度は参拝しよう、と勧めているわけだ。

こんな恐ろしい拷問図で月詣でを勧めるとは、なかば脅しのようだが、数多く描かれて流布したそうだ。

洋の東西を問わず、地獄による脅しっていうのは、

布教にずいぶん効果的だったのだろう。



http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=218440

(根津美術館所蔵のものは、8月以前を欠失)




釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~


この図版はたぶん別本




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1日10分、ただ坐る

また南直哉さんの話になって我ながら気持ち悪いが、

全著作を読んではいないのでストーカーではない。

そういうわけで南さんが十数年前に書かれた本、

『日常生活のなかの禅』(2001年、講談社選書メチエ)を

今ごろ読んでいる。


これは名著だ。

タイトルや帯文からは全然わからないが、

この本は南さん流の、いわゆる“初期仏教”解釈、

お釈迦さまの教えをどう血肉化するか、という本だった。

お釈迦さま―龍樹―道元をひとつの線で繋ぐ、

“宙ぶらりん派”の真骨頂。


現実の仏教の歴史には、この縁起至上主義とは違う要素がいっぱい入ってくるのだが、南さんはそれを百も承知で、自分の問いからテキストを読み解いているのだと思う。


仏教は真理から始まったのではない。釈尊の苦悩、生への問いから始まったのだ。その同じ問いを持つ人に、私は勧めるだけである


信じるという態度、「根拠なき決断」。

でね、在家の人も、1日10分でも20分でもいいから、ただし毎日、坐禅をせよ、と書いてありました。


本格的な坐禅にまでいたらなくても、1日のうちの決まった時間をただ坐ることに割く。仕事でも遊びでも運動でもない、何かの『ためになる』一切のことをしない時間。それは非己の影である。退屈かもしれない。しかし、人はなぜ退屈を嫌うのか。無常の自己、限界としての非己が浮き出てくるからである。我々はそれを見、味わうべきなのだ



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