真理に抱かれて自意識を溶かしちゃう「抱きつき心中」
今年初めての、南直哉禅師の講座「仏教・私流」があった。
まったくもって癒されも励まされもしない、むしろ平穏を破壊される南さんのお話をしばらく聞かないとホルモンバランスが狂うというのは、人としてどうなのか。
この日のお題は、空海の話の前段として、密教経典の金剛頂経のこと。
このお経はすごいよ。
大日如来が、一切義成就菩薩(成道する前のお釈迦さま)に対して、悟りの真髄や修行法を説教してしまうのだ。ほとんどインド仏教最終段階のお経とはいえ、創始者のお釈迦さまに教えを垂れてしまうとは、これいかに。というか大日如来って誰なのさ。
それに、十六大菩薩といって、なんだかわからない菩薩がいっぱい登場する。
たとえば、それまでの大乗仏教で「普賢菩薩」だったのが、このお経では、ややこしい過程を経て「金剛手菩薩」になっていたり。
もっと大事なのは、無我とか無常とかと、思想のパラダイムが全く違って、南さんいわく「自覚的に大乗仏教と手を切ったとしか思えない」と。
※ 以下は、お話を私が脳内再構成したもので、間違いがあっても私の責です。
南さんいわく、あらゆる思想の根っこにあるのは、「自意識にどう始末をつけるか」。その方法にはいろいろあるでしょうが・・・A,B、どっちが魅力的でしょうか。
A)自意識を消し去ってしまう涅槃
(ただし、涅槃がどういう状態なのかは、よくわからない。
ひたすら静かな寂静、というぐらいのことしか書かれていない)
B)絶対的な存在に自意識を溶かし込んでしまう
(大日如来と一体化=真理に抱きついて、自意識を溶かし込む)
お釈迦さまのいう(A)を支持する者としても、(B)の魅力は想像がつく。
南さんいわく「抱きついて溶けちゃえば安心だろう。相手は“真理”なんだから」というわけで、「抱きつき心中」。
これが密教(金剛頂経)の成仏観だ。
たしかに、犀の角のように独りぼっちで自意識を消しにかかるより、
世界そのものである真理に抱かれてメルトダウン(即身成仏)するほうが幸福感があるかもしれない。
そういうことが信じられる人間になりたいぐらいだ。
でも、絶対・普遍・根源のようなものは「ない」と言ったのがお釈迦さまの凄さ(A)なのに、それが「ある」と言っちゃう(B)は“普通”だよね。
南さんいわく、空海さんはその点に自覚的で、「どこかでタガをはめないと仏教じゃなくなっちゃう、と意識していたのではないか」という。
次回ぐらいから、空海の中国での師匠・恵果と、そして空海さんの話になるのかな。
仏教にはまだまだ新事実が出てくる(「中央アジアの仏教写本」)
仏教の解説本やお坊さんの話で、「○○です」「○○しました」と表現されることが、実際には「○○した(ということになっている)」「○○です(と信じられている)」
ということは少なくない。
なにせ大昔の話なので真偽不明のことだらけだが、「ということになっている」といちいち付けるのもシラけるので、言い切っておくわけだ。
ところが、考古学的な資料――碑文、遺跡、写本などが出てくると、伝説と全然違うやんけ、という話になったりする。宗教だから真偽不明でいいんだ、という立場もあるだろうが、私は意地が悪いので事実を知りたいクチだ。
『新アジア仏教史05 中央アジア』第3章「中央アジアの仏教写本」(著:松田和信先生)には、たとえばこんなふうに書いてあった。
◆結集伝説
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ブッダの死後にラージャグリハで開かれた弟子の集まり「第一結集」でブッダの法(経)と律、ひいては三蔵が結集されたという伝説でも、あくまで神話学の領域の話で、史実として評価するに値しない。
そもそもブッダの死の100年後に記された最古の文字資料であるアショーカ王の碑文の中には仏教に対する多くの言及が見られるが、その中には三蔵に対する言及は認められず、経典の原型が数点成立していた可能性を伺わせる記述が知られるのみである。(125P)
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◆法隆寺伝説
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かつて法隆寺の「般若心経」「仏頂尊勝陀羅尼」は、現存する最古の伝世写本と言われていたが、これは誤りであるといわざるを得ない。
(貝葉に似た葉だがターラ椰子の葉には見えないし、文字も稚拙で専門の書写生が書いたものではない)
小野妹子が将来したなどという伝説があるらしいが、書体から判断して9世紀を遡ることはありえない。インドで書写された写本かどうかという観点からすれば、はっきり言って、これは偽写本である。(P128-129)
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この第3章「中央アジアの仏教写本」は、1996年以降、“衝撃的な写本”が次々に発見されたことの興奮が伝わってきて、すごく楽しい。発見のたびに、世界の研究者が「マジ!?」「amazing!」と絶叫したんだろうな。この期に及んで、「未知の仏典」まで出てきてしまうとは、なんてエキサイティングなのでしょう。
バーミヤンの石窟。内戦で破壊されたのは酷いことだが、
皮肉にもそこから写本がいっぱい出てきた
松田教授が解読した、2~3世紀に書写された賢劫経。ガンダーラ語でカローシューティ文字で書かれている。スコイエンコレクション(たぶんバーミヤン出土?)
以下は同書からの備忘メモ。読んでも面白くないと思います。
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<1996年以前>
バウアー写本(1890年)、20世紀初頭の英・仏・独・日の探検隊が発見した大量の写本、1930年代初めのキルギット写本・バーミヤン写本など。
その後に、中央アジアから写本が発見されるとは、誰も考えていなかった。
<1996年以後>
ところが1996年、イギリスの大英図書館がいきなり記者発表をする。
アフガニスタンで発見された「現存する最古の仏教写本(紀元1世紀)」を古美術マーケットから入手したと発表した。世界に衝撃が走る。
↓
ロンドンを中心とする古美術マーケットと写本収集家の情熱に火をつけ、仲介業者が膨大な量の写本を買いあさる(パキスタン、アフガニスタン出土のもの)
↓
ノルウエーの実業家・スコイエンが買い集めた2000点以上の写本を、国際的な研究グループが分析開始(多くはバーミヤーン出土のものらしい)
この章を書いた松田和信先生は、スコイエン・コレクション研究グループの一員。
そういうわけで、1996年以降にそれらを解読するなかで、驚くべき写本がザクザクと出てきているそうだ。スコイエン・コレクション以外も含めて、同書で挙げてある例でいうと
・
因縁物語つきの「法句経」(漢訳の対応文献なし。大衆部のものと思われる)
・
相当崩れた俗語による「般若経」
(おそらく3世紀のブラーフミー文字による「八千頌般若経」。
きれいなサンスクリット語の「般若経」に先立って、崩れた俗語の般若経がインドで成立していた直接の証拠。
これが現存最古の大乗仏典かと思ったら、10年後にもっと古い年代の、
カローシュティー文字によるガンダーラ語の般若経まで見つかった)
・
「無量寿経」の別バージョン(7世紀)
12世紀以降の漢訳、ネパール写本、チベット語約と全く違うバージョン
・
「長阿含経」の別バージョン
今まであったのはパーリ語(南方上座部)、漢訳(法蔵部)だったが、
説一切有部の長阿含が見つかった。これで3バージョンを比較できる
エトセトラ

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中央アジアでの仏教の変容@NHKスペシャル210円で
昨日、中央アジアの仏教のことを書いたのだが、
こういうのはやっぱり映像で見たほうが早い。
10年前のNHKスペシャル「文明の道」シリーズで
中央アジアの仏教のことをやっていて、
ちゃんとNHKオンデマンドにあるのを発見しました。
1番組210円で見られて、とっても便利。
NHKスペシャル「文明の道」第3集 「ガンダーラ 仏教飛翔の地」
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2011035556SA000/
さっそく見てみたら、仏教の変容、端的にいうと大乗仏教の源流を
騎馬民族であるクシャン朝(2世紀)が支配するガンダーラに
辿っている。コンパクトにツボを押さえていて楽しめた。
(10年前の番組なので、説が変わってるところもあるのかもしれない
けれど。この番組を書籍化した『文明の道 (2)ヘレニズムと仏教』
という本は前に読んで、写真がいっぱいあって面白かった)
番組の最後に出て来るのは、東大寺のお水取り。
火で浄化するのは、もとを辿ればゾロアスター教(拝火教)だと。
上記のクシャン人たちはゾロアスター教から仏教に改宗したために、
当時生まれたばかりの仏像は肩から炎が出ているものもあった。
その炎信仰がお水取りにまで受け継がれてるんだって。
思えばバラモン教も祭壇の火を神に捧げていた。
お釈迦さまは、それを揶揄して、「火」を煩悩のメタファーに使い、
涅槃(吹き消す)を至上のものとした。
だけど騎馬民族のヤンキーは火が好きなので、
中央アジアで炎信仰は復活して、密教の護摩焚きもその流れだ。
人類はだいたい火が好きだと思う。
お釈迦さまの考えることって、何かと少数派な気がしてならない。
そこがいいのだけれど。

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