釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -25ページ目

中央アジアのダイナミック仏教が面白い(『新アジア仏教史05』その1)


初期仏典こと「阿含経典」を読んで、日本の仏教を振り返ると、そのあまりの違いにびっくりするだろう。日本でお馴染みの、阿弥陀仏や観音さんは、お釈迦さま時代の仏教には出てこないのに、いつどこから出てきたの?



それから、「阿含経典」のあと、大乗仏典たとえば「法華経」を読むと、そのあまりの違いにびっくりするだろう。

初期仏典は、欲望は苦のもとです己を抑制せよと、悪く言えば辛気臭い。それが法華経になると、いろんな貴金属でキンキラキン、数は膨大、なんでもデカくて派手。



この間に仏教に何が起こったのだろう?と不思議ですよね。

その謎を解くキーは「中央アジア」にあり!『新アジア仏教史05 文明・文化の交差点』(佼成出版社)を読み始めてそう思った。



近年、中央アジア(カシミールとかガンダーラとかタクラマカンとか、いわゆるシルクロードとして知られるあたり)の発掘が進んで、とんでもない数の仏教遺跡や、腰が抜けるような写本(樺皮などに阿含や大乗仏典を書いたものとか)がザクザク出てきている。そこからわかる中央アジアの仏教は、めちゃくちゃダイナミックで精力に溢れていて、想像するだに興奮してしまう。


仏教は、インド→中国→日本と伝わってきたわけだが

実際には、インド→中央アジア→中国→日本であって、

この中央アジア時点で、ものすごく変質をした上で、中国・日本に伝わったことがよくわかった。


よく知られているように、このあたりはローマ・ペルシア・インド・中国を結ぶ交易路で、いろんな国の商人が行きかう人種のるつぼ。『新アジア仏教史05』の巻末には、軽く立体的に表された地図があって、それを見ながら読むと、わくわくする。よくもこんな地球のシワみたいにややこしい場所に人が行きかって、仏教が伝わってブレンドされたものだなあ。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~
ヒンドゥークシュ山脈。よく仏教はこんなのを越えたいったよ・・・。


以下は、同書1章「インダスを越えて―仏教の中央アジアー」(山田明爾先生)を読んでの、ざっくりしたメモ・・・


遊牧民のクシャーン朝(2世紀頃)のあたり、中央アジアでは仏教が花開いて、ギリシャ神話・キリスト教・ゾロアスター教などがどんどん混じって、その過程で阿弥陀仏とかも着想されたという。



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クシャーン期に花開いた中央アジア仏教は、やがてインド仏教の模倣を脱してそれぞれの風土の中で独自の仏教を作り上げて中国に送り届け、中国側はそれをインド直伝の仏教と理解した。



中央アジアに強く見られる傾向は、思索による教理の展開や、修行による解脱への精進であるより、仏菩薩による直接的な保護や救済への希求であった

         (同書1章「インダス河を超えて」より)

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この当時の中央アジアはいろんな異民族のるつぼで、命懸けで旅をしている商売人だったりする。その人たちに「欲望は苦のもと」とか言っても、ふざけんなという話です。インドの言葉もよくわからないから、称名念仏(ナミアミダブツと言えばOK)というのも中央アジアから出てきた。

というようなことが、同書1章に書いてあって、たいへん面白かった。



功徳があるなら、キリスト教のゴッドでも、アブラマズダでも、シャカでもアミダでもカンノンでもかまわないふうで、

しかも、交易商人は金持ちなんですよね。



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富裕な信者の熱狂的な布施は、在家仏教の大きな特徴の一つである。

「無遮大会」とは、仏教と外教とを問わず、無差別かつ無制限な一大布施大会のことで、国王は妻子も国有財産も布施し、国庫がつきれば我が身をも布施し、家臣たちがそれらを買い戻すことを努めとしたと伝えられる。 (同上)

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そんな「無遮大会」を5年に1度もやっていたんですって。




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釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~








女性の坐禅はノーブラで(『新アジア仏教史04』ぞの3)

『新アジア仏教史04』(佼成出版社)の9章「女性と仏教寺院」(高橋美和先生)を、わたくしもいちおう女であるからして、興味深く読んだ。



いまの上座仏教の国で、実際に仏教を支えてるのは、かなり女性の力が大きいそうだ。

タイやカンジアでお寺に来ている在家信者は女性(中高年)のほうが多いし、お坊さんの托鉢に食物を持って出て来るのは女性だし、息子を一時出家させると母親に功徳がいくということで母が頑張ったり。



ところが、出家して比丘尼になるという段では、端的にいって女性差別は現代も根強いらしい。

お釈迦さま時代から比丘尼はいたけれど、律で「10人以上の同性による受戒」が決められていた。その後、たとえばスリランカでは仏教が衰退して坊さんが減って、比丘尼も10人を切り、受戒する人がいないために11世紀に比丘尼が消滅。

タイでもミャンマーでも比丘尼は消滅してしまった。


近現代になって、比丘尼復興の動きが出てきたが、とってもひどい実例が書いてあって、びっくりした。


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1928年 タイのパーシット姉妹(サーラとチョンディー)



僧侶である父による儀式をへて、姉妹はいったん黄衣の比丘尼になった。けれども、比丘尼による受戒という正式な過程を経ていないために、当時のサンガはこの出家を無効として、すぐに黄衣を脱ぐよう通告した。

最終的には警察によって黄衣を剥奪されたうえ数日間投獄された。父もサンガから追放された。釈放後、サーラの方はさらに茶色い衣の私度比丘尼として2年間の寺院生活を送ったが、一般社会からの支持を得られず結局還俗した。


(同書より、言葉尻は一部てきとう)

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ね、ひどいと思いません?投獄ですってよ。



その語、1980年代半ばに比丘尼復興運動が盛り上がって、

1990年代にスリランカの女性修行者が韓国曹渓宗のサンガから具足戒を受けて比丘尼になったり、台湾+スリランカで受戒したりで、2008年2月までにスリランカでは約600人の比丘尼が生まれているそうだ。



ところがミャンマーでは

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ミャンマーでは、スリランカで比丘尼受戒した修行者ティーラシンが、国家サンガ大長老委員会に対し、ミャンマーで比丘尼の存在を認めるかどうかの決定を求める質問状を送付したところ、従来どおり比丘尼の存在を認めないという回答がなされ、ミャンマー・サンガが比丘復興を支持しないことが公的に明らかにされた。

(同書より)

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あ~あ。



一方で、韓国・台湾では尼僧の数も多くバリバリやっているそうで、この点では大乗仏教国のほうがお釈迦さまの真意(=生まれでなく行い)を汲み取っていたとも言える。

ただ、初期仏典でお釈迦さまが女性の出家をめんどくさがった、と書いてあったり、律が(いまの基準から見れば)明らかに女性差別的なので、そっちが真意だ!という根強い伝統もあるのでしょうけれど。



若かりし頃は、差別っぽいことが頭に来たのだけれど、もうどうでもよくなってきた。

人間を含む動物には、オスとメスで役割に違いがあるのは当然で、どちらが上でも下でもないのは当たり前。ところが面白いことに、人間の世界ではアジア・欧米・アフリカそのほか、いつでもどこでも女性を下と見て何かしら拘束する決まりごとがある。

てことは、人類の社会が(現代基準から見て)女性差別とされるシステムを必要としたということで、その必要性、そのメリットって何なんだろう? 

最近、そのメリットが薄れてきて「差別」はダメということになったのでしょうが、どういうメリットがなぜ薄れたんだろう。



ところで、坐禅・瞑想会などに行く女性は、必ずノーブラのほうがいいですよ。

男性僧侶が語るどの本・雑誌にも書いてないけど、ブラジャーは気道を狭めて、坐禅には大変よくないと思います。あと、ジーンズとか緩めのパンツも気が散るので、くるぶしまであるロングスカートが一番いいと思います。ロングスカートなら、脚を組んでも、ガビガビのかかとを隠すことができます。

あくまで個人的な感想です。



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出たっ「般若心経」(NHK Eテレ『100分de名著』)

16日朝5時というとんでもない時間にテレビをつけたら、

NHK・Eテレ「100分de名著」の再放送で佐々木閑先生が出てらした。


テーマは、出たなっ日本人の大好きな「般若心経」だ。


http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/19_heart-sutra/index.html#box01

放送日は1/9・16・23・30(毎週水曜 午後11:00~11:25)、

再放送が翌週水曜に2回ずつあるので、まだ間に合います。

玄人筋には毀誉褒貶がある感じの般若心経だけれど

「空」がどのように解説されるか見てみようと思います。

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(番組HPより)


日本人にとって最もなじみが深いお経であり、今、改めてその価値が見直されている「般若心経」。「100分 de 名著」1月シリーズでは、新しい年の始まりにあわせ、「般若心経」を取りあげます。
「般若心経」の「般若」とは「知恵」を意味する言葉です。その般若心経で最も強調されているのは「空」という概念です。
世の中は、様々な複雑な要因がからみあいながら、常に移り変わっています。そして世の中の変化のすべてを、人間が完全に予測することはできません。
例えば気候変動にしても、宇宙や気象のメカニズムからある程度のことは予想できます。しかし次の氷河期がいつになるか、はっきりとしたことはいえません。つまり人間は、何がいつどのような形で起きるかを、正確に知ることは出来ないのです。
古代インドの仏教徒たちは、この不確かな世の中をどうとらえるべきか、様々な考察をめぐらしました。その中から生まれてきたのが「空」の思想です。変化し続ける世の中の背後には、複雑すぎるがゆえに、人智が及ばない何らかの法則がある。その「見えない変化の法則」を「空」と呼んだのです。
「般若心経」は、私たちは「空」のもとで生きているとしています。そして人間が、どのような心構えで人生をおくるべきなのかを語っています。
番組では、日本人の心の原点ともいえる般若心経を読みときながら、「空」の思想を今どのように受けとめるべきかを考え、生きるヒントを探っていきます。

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