1日10分、ただ坐る | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

1日10分、ただ坐る

また南直哉さんの話になって我ながら気持ち悪いが、

全著作を読んではいないのでストーカーではない。

そういうわけで南さんが十数年前に書かれた本、

『日常生活のなかの禅』(2001年、講談社選書メチエ)を

今ごろ読んでいる。


これは名著だ。

タイトルや帯文からは全然わからないが、

この本は南さん流の、いわゆる“初期仏教”解釈、

お釈迦さまの教えをどう血肉化するか、という本だった。

お釈迦さま―龍樹―道元をひとつの線で繋ぐ、

“宙ぶらりん派”の真骨頂。


現実の仏教の歴史には、この縁起至上主義とは違う要素がいっぱい入ってくるのだが、南さんはそれを百も承知で、自分の問いからテキストを読み解いているのだと思う。


仏教は真理から始まったのではない。釈尊の苦悩、生への問いから始まったのだ。その同じ問いを持つ人に、私は勧めるだけである


信じるという態度、「根拠なき決断」。

でね、在家の人も、1日10分でも20分でもいいから、ただし毎日、坐禅をせよ、と書いてありました。


本格的な坐禅にまでいたらなくても、1日のうちの決まった時間をただ坐ることに割く。仕事でも遊びでも運動でもない、何かの『ためになる』一切のことをしない時間。それは非己の影である。退屈かもしれない。しかし、人はなぜ退屈を嫌うのか。無常の自己、限界としての非己が浮き出てくるからである。我々はそれを見、味わうべきなのだ



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