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その男㉕

新記録達成だ。

 

一日で四度の更新。

 

実は、前回の記事でも記録を更新していたことも、一つある。

 

文字数だ。

 

余白なども含めてだが、文字数がアップできる上限を超えたため、文章を消去しなければならなかった。

 

時間が現在に追いついて来るにつれ、記憶も鮮明になってきている。

 

そのため、書くことが増えたのだろう。

 

「その男」の振り返りは、2014年まで来た。

 

現在に追いつくまで残り7年

 

「その男」のホテルでの生活は残り5日。

 

残りのホテル生活は、時間に追われることになりそうだ・・・

 

ツールドスキーが終わり、「その男」は帰国をした。

 

悔しさしか残らない遠征が終わった。

 

だが、落ち込んでいる暇はない。

 

ツールドスキーの最終レース終了後、車に向かうときに山口さんが言った一言。 

 

「まだだ、オリンピック前最後のワールドカップが残ってる」

  

「その男」は勘違いしていた。

 

ツールドスキーが、オリンピック出場をかけた最後のレースだと。

 

オリンピック直前に、イタリアのトブラで15㎞クラシカルが行われることになっていたが、そこまで選考レース対象となるようだった。

 

日本に帰国をしてから、一週間ほどして再度出国をすることとなった。

 

わずかな日本滞在間も、練習に集中した。

 

オリンピックの事は考えずに、トブラのワールドカップに集中した。

 

最終選考レース。

 

レース中の事はあまり覚えていない。

 

覚えているのはゴール後の出来事。

 

ゴールをした段階の順位、タイム差では、12位以内は絶望的だった。

 

悔しくて、叫ばずにはいられなかった。

 

周りに聞こえないように、手袋を口に入れて叫んだ。

 

その様子を見たチェコのレジェンド、ルーカス・バウアーが肩をたたいて、

 

「落ち着け、大丈夫だ。いい走りだったぞ。」

 

と励ましてくれた。

 

スキーが世界トップクラスなら、優しさも世界トップクラスだ。

 

ここで一つ訂正しなければならないことがあるようだ。

15㎞クラシカル、インディビジュアルスタートでは、このシーズンのリレハンメル以来ワールドカップポイントを獲得してないと前回書いた。

 

しかし確認をしたところ、このトブラのワールドカップで30位に入っていたようだ。

 

このレースは31位だったと記憶していた「その男」

 

おかしい。

 

なぜかと思い、リザルトを細かくチェックした。

 

理由が分かった。

 

「オーストリア選手のドーピング違反による繰り上げ」

 

のためだった。

 

正々堂々と戦いたい、戦ってもらいたい。

 

オリンピックに向けた挑戦が終わった。

 

 

「個人戦出場」

 

に向けての挑戦がだ。

 

このシーズンの夏にオリンピック派遣標準が発表されたとき、リレーの派遣標準も明示されていた。

 

ワールドカップ(世界選手権)で8位以内。

 

前シーズンに行われた世界選手権で、日本チームは8位に入っていた。

 

そのため、オリンピック派遣標準をクリアしていたのだ。

 

2006年トリノオリンピック

FISレースの段階で、選考から早々に脱落した。

 

2010年バンクーバーオリンピック

ワールドカップ組まで上がることができた。

国内の参考レースで優勝したものの、あと一歩で出場を逃した。

 

2010年ソチオリンピック

団体種目での出場が決定した。

しかし、個人種目でも出場を目指していた「その男」の心境は複雑だったようだが。

 

オリンピックは現地に行く前から特別だった。

 

五輪マークの付いたウェアが支給される。

 

スーツが支給される。

 

レーススーツも、ワールドカップモデルから、オリンピック仕様に変更される。

 

携帯電話まで支給された。

 

初めてのオリンピックは全く知らないことだらけだった。

 

現地に入り選手村に入ってからもワールドカップで宿泊する施設との違いに驚いた。

 

食事はいつでも食べられる。

 

世界各国から選手が参加するため、各地方に合わせた食事を選ぶことができるバイキングスタイル。

 

コーラのキーホルダーを自動販売機にかざすと、お金を入れなくても飲み物が出てくる。

 

床屋もある。

 

クリーニング屋もある。

 

なんだこれ?

 

文字通り、一つの小さな村のようだった。

 

現地に入ってから、リレーに出場するまでの数日間は、精神的につらい時があったのを覚えている。

 

選手村からすぐそこの会場でレースは行われていた。

 

しかし、レースが行われている時に「その男」がいたのは部屋の中。

 

個人戦出場権のない「その男」は、部屋のテレビでそれを観戦することしかできない。

 

もどかしかった。

 

このオリンピックにリレーメンバーとして選出されたのは、前シーズンの世界選手権でリレーを走った四人。

 

そして、個人戦とチームスプリントで権利を獲得した恩田さんだ。

 

このシーズン、ワールドカップを転戦した5人が、そのままオリンピックの舞台へ立った。

 

もどかしい時もあったが、「その男」の出番もついに来た。

 

結果を先に書いておきたい。

  

周回遅れ。

  

 

その当時の事を思い出しながら、ブログを更新している「その男」

 

「周回遅れ」という言葉を打ってから、次の文章になかなか進めなかったようだ。

 

文章を書き進めると断片的、しかし鮮明な記憶がよみがえってくる。

 

 

「その男」にはゲン担ぎのようなことがあった。

 

「その男」にとって最も印象に残っているレース、全国中学3年生のスケーティング優勝。

 

そのレースで初めて身に着けたもの。

 

それがハチマキだ。

 

このハチマキを付けて、レースに挑むことが、「その男」にとってのゲン担ぎのようなものだ。

 

全国中学で高橋から借りたそのハチマキ。

 

高校に進学すると、高橋はスキーをやめて陸上に専念した。

 

夏は高橋がハチマキを付けていた。

 

しかし、「その男」にとって、そのハチマキはゲン担ぎだったので、冬になると高橋からハチマキを借りて、レースに挑んだ。

 

高校生の時はそれを繰り返していたが、いつの間にか高橋からそのハチマキを受け継いだ。

 

社会人になってからも、ゲン担ぎを信じる「その男」は、ワールドカップや世界選手権といった国際大会の時にはいつもそれを付けていた。

 

しかしこのオリンピック。

 

緊張していたのだろうか?

 

部屋にそのハチマキを忘れてしまった。

 

それがレースに影響したかと言えば、そうではないかもしれない。

 

しかし、いつものリズムではなかったことは確かだ。

 

ゲン担ぎをできなかったことは確かだ。

 

1走の宮沢が遅れた。

 

スタート後から集団の後ろにいたが、世界選手権の時のように粘って集団で来ると思っていた。

 

しかし、今回は違った。

 

そのままズルズルと遅れていった。

 

2走の「その男」にバトンが渡った。

 

全くリズムに乗れていない。

 

さっきまで前にいたはずの選手が、周回を追うごとに小さくなっていく。

 

すれ違う場所がどんどん遠くなっていく。

 

いいところがなかった。

 

3走の成瀬さんにタッチ。

 

「憧れのライバル」

 

このレースが、成瀬さんと走る最後のレースとなるということはわかっていた。

 

花道を飾りたかったが、まったく予想もできない位置でのバトンタッチとなってしまった。

 

同様に成瀬さんもリズムに乗ることができなかった。

 

走り終えた「その男」は着替えてコースに応援へ向かった。

 

アンカーのレンティングがなかなか来ない。

 

少し離れたところにファビオがいた。

 

状況を聞いてみる。

 

衝撃の一言が帰ってきた。

 

Over lap

 

「周回遅れ」

 

だ。

 

周回遅れによる、出走停止。

 

アンカーのレンティングはオリンピックの舞台を走ることができなかった。

 

「周回遅れ?嘘だろ?」

 

言っている意味が分からなかった。

 

混乱した。

 

気がおかしくなりそうだった。

 

いや、気がおかしくなった。

 

「こんなにも自分の実力のなさを恨んだ日はない」

 

「その男」が新聞記者に言った言葉だ。

 

「憧れのライバル」と一緒にするスキーがこんな形で終わってしまったのだ。

 

レンティングを走らせることもできずに、終わってしまったのだ。

 

「その男」が挽回していれば、宮沢を悲しませることもなかったはずだ。

 

リレーが終わってからは絶望的な時間が過ぎていた。

 

携帯を見るのも怖かった。

 

食事に行ってたまたま恩田さんと会った時、何も言わずに肩をたたいて励ましてくれた。

 

嬉しかった。

 

しかし、それさえも苦しかった。

 

リレーが終わってから、レンティングとは会えていなかった。

 

すぐに謝りたかった。

 

しかし、彼の姿がどこにも見えない。

 

宿に戻ってもいない。

 

しばらくしてから、外で彼にあった。

 

練習の格好をしていた。

 

「何やってたの?」

 

と聞いたところ驚く答えが返ってきた。

 

「いや、今日走れなかったですし、この後のワールドカップもあるんで練習してきました」

 

この男は本当に強い。

 

「その男」がもし時間を戻すことができるなら、この日の朝まで時間を戻すだろう。

 

振り返って改めて気持ちが強くなった。

 

もう一度宮沢、「その男」、成瀬さん、レンティングの四人でリレーが走りたい。

 

気が狂ってしまうほどの強烈な印象を残し、「その男」の初めてのオリンピックは終わった。

 

イメージしていたものとは、残酷なまでに違った形で。

 

 

その男㉔

「文を書くの、日に日にうまくなっていないか?」

 

朝起きるとラインが入っていた。

さすが大学の先輩、後輩をよくご理解されているようで。

 

「その男シリーズを読むのが日課になている。面白い」

 

ツイッターで紹介してくれた。

さすが「その男」がカッコいい生き方をしていると思う後輩。

 

「皆さん、お手隙の際にはぜひ」

 

大先輩のこと先輩とも思っていない、生意気な後輩が彼のブログで紹介してくれた。

 

「その男」はノッた。

 

お気づきだろうか?

 

いつも以上に更新のペースが早いことに。

 

「猿もおだてりゃ木に登る。」

 

「その男」もおだてりゃ木に登るようだ、張り切って。

 

 

またこのシーズンがやってきた。

 

4年に1度のオリンピックシーズンだ。

 

社会人も5年目を迎えていた。

 

その夏。

 

「昨、今シーズンのワールドカップ(世界選手権)合計で、12位以内3回、10位以内2回8位以内1回

 

オリンピック出場の派遣基準が明確に示された。

前2大会とは比べ物にならないくらいハードルが上がっている。

 

もしこの基準を、過去全てのオリンピック派遣基準としていたら、出場できた選手は数えるくらいしかいないだろう。

 

「その男」は昨シーズンのダボスでのワールドカップで11位。

世界選手権で12位に入っている。

 

そのため、もう一度12位以内に入ることができれば、オリンピック出場がきまる。

 

しかし、12位を取ることがどれだけ困難かということは、「その男」の経験からわかっている。

 

この派遣標準を見た時には相当動揺していたようだ。

 

だが、数字での明記はわかりやすい。

改めて腹をくくった。

 

夏のトレーニングにも例年以上に力が入った。

 

いつものようにシーズンが始まる。

 

フィンランドのルカから始まり、ノルウェー・リレハンメル、スイス・ダボスと流れていく1ピリ。

 

1ピリのターゲットは、ダボス。

昨シーズン、11位のベストリザルトを出している会場だ。

 

このシーズンはダボスでのレースは30㎞スケーティングと距離も長かったため、長距離を得意とする「その男」にとってはチャンスだった。

 

ワールドカップ初戦のルカ。

ポイントを獲得することすらできなかった。

 

このレース後、ある種の違和感のようなものを覚えた。

 

「外さない。みんな力通りに走ってきている。」

 

オリンピックの選考があるのは、日本チームに限ったことではない。

強豪国の選手たちにも、国によっては日本チームよりも、さらに過酷な条件の下で選考レースに臨んでいる。

 

そのため、1レースも外すことができなかっただろう。

レベルが上がっているというよりも、それぞれがレベル通りの力を発揮しているが故に、全体的にレベルが上がっているように感じた。

 

ただでさえ、上位に行けば行くほど些細なミスが命取りとなる。

今シーズンに至っては、些細なことが例年以上に順位を左右した。

 

ワールドカップ2戦目、リレハンメルでの15㎞クラシカル、インディビジュアル。

 

最後のレースのようだ。

その時を振り返っている今日に至るまで、「その男」が15㎞クラシカル、インディビジュアルで30位以内に入ったのは。

 

この時は27位くらいだったはずだ。

 

良い順位ではないが、流れとしては悪くない。

 

ルカと比べて確実に調子は上がっているからだ。

 

翌週のダボスに向けて、順調に仕上げていった。

 

そして、1ピリのターゲットレース、ダボス。

 

6時前くらいだっただろうか?

 

「その男」の姿は、真っ暗で人気のないダボス市内にすでにあった。

 

スタート時間が早かったため、いつも以上に早く起き、体を起こすために軽くランニングをしていた。

 

否応なしに気合が入っていた。

  

  

空回った。

 

一つ後ろの選手に抜かれた。

 

おかしい。

 

最後の周回に向かうときには二つ後ろの選手にも抜かれた。

 

結果は29位。

 

目標とする12位からは遥かに遅れた。

 

1ピリで12位に入ることができず、オリンピック出場権はこの時点では獲得できなかった。

 

しかし、まだチャンスはある。

 

年末年始にあるツールドスキーに参戦することになっていた。

 

落ち込んでいる暇はない。

 

ツールドスキーに向けて気持ちを入れ替えた。

 

9日間で7レース。

 

短期決戦だ。短期決戦で大切なのは勢い。

 

しかし、出鼻をくじかれた。

 

このシーズンのツールドスキーは、初戦の4.5㎞スケーティングを皮切りに始まった。

 

2レース目はスプリントスケーティング。

 

3レース目も会場を変えて、再度スプリントスケーティング。

 

会場が雪不足だったため、コースの設営が難しく、距離の短い種目に変更がとなった。

 

長距離を得意とする「その男」には苦手なスピード系の種目が続き、流れに乗ることができなかった。

 

始めの3レースは70~80位くらいが続いた。

 

4レース目からは、やっとディスタンス。

 

15㎞クラシカルマススタート。

 

28位だったが、トップとのタイム差が少なく、総合順位を一気に上げた。

 

5レース目。

 

35㎞スケーティング、パシュートスタート。

 

うまく周りの流れに乗ることができた。

 

総合で25位、35㎞スケーティング単体では21位。

 

しかし、総合、単体順位ともに12位以内にはまだ遠い。

 

6レース目。

 

10㎞クラシカル。

 

27位。

 

決して悪いわけではない。

 

数年前までは「夢のような話」だった、30位以内にコンスタントに入っている。

 

しかし、今求めているのは、当時夢のように思っていたそこではない。

 

最終レース。

 

スケーティング9㎞

 

9㎞のレースのうち、はじめの6㎞ほどはほとんど平地。

 

そこからスキー場を逆走するコースプロフィールだ。

 

この日までの総合タイムの良い順番でスタートしていき、一番初めにゴールした選手が、晴れてツールドスキーの覇者となる。

 

「その男」は23番目のスタートだった。

 

総合12位までは1分30秒ほど。

 

正直厳しいタイム差だった。

 

しかし、単体のタイムでは12位は十分に狙える。

 

なんといっても、3㎞近く上りが続く超がつくほどハードなコース。

 

「その男」が得意なのは、まさに上りである。

 

4人ほどで同時スタートとなったため、先頭を変えながら、前を追うのがセオリーだ。

 

スキー場の上り初めまで、タイムを落とさないようにしながら、いかに楽をしてたどり着くか。

 

例外なく、先頭を交代しながらレースが進んだ。

 

「その男」が先頭を引っ張り、後ろに下がった直後、異変が起きた。

 

 

集団についていけない。

 

  

スピードの出ている平地は、後ろを滑るほうがよほど楽だ。

 

さらにこの日は天候が悪く、風も吹いていたので、後ろにいる選手はいつも以上に楽ができる。

 

その平地ですらついていけなかった。

 

スキー場の上りパートに入っても、状況が全く変わらない。

 

ドンドン抜かれていく。

 

何を考えて滑っていたか、まったく覚えていない。

 

頭の中が真っ白だった。

 

総合32位。

 

その日単体のレースタイムは48人中45位。

 

ゴールしてから動けなかったのは、上り続けて体力がもうなかったからか?

 

それとも、自分の走りに絶望していたからか?

 

ゴール地点はスキー場の上のため、スタート地点まで車で降りていかなければならない。

 

「いつも通り」泣いていた、「その男」は。

 

泣きながら車までの道のりを歩いていた。

 

一緒に無言で車に向かう山口さん。

 

「その男」は、何とか言葉を振り絞った。

 

 

「山口さん、もう4年待ってください」

 

 

と。

 

何も言わずに山口さんはうなずいてくれたことが、悲しみに暮れていた「その男」にとって唯一の救いだった。

 

その後、一言言葉をくれた。

 

 

片づけを終え、宿に戻った。

 

シャワー室。

 

「その男」は一人で体を震わせていた。

 

悔しさからか。

 

悲しさからか。

 

ただの寒さからか。

 

どんなに温かいお湯を浴びても、とにかく震えが止まらなかった。

 

この時も何を考えていたかはあまり覚えていない。

 

ただ、体の震えが止まるまで、相当の時間を要したことだけはしっかりと覚えている。

 

その男㉓

今日もまた朗報が。

 

 

「その男」の所属するチームの「エース田中」が、全日本選手権で初優勝をした。

 

「その男」も出場した1月の全日本選手権最終日。

 

パシュート形式での15㎞だった。

 

ミニツール形式のレースだったため、3日間総合の順位と、その日単体の順位がある。

 

15㎞スケーティング単体でラップをとったエース田中。

 

どうやら、結果を見る前はあまり自信がなかったようで、

 

 

「今日よかったんじゃない?」

 

 

と監督の本田さんが聞いたところ、自信無さげな返答があったようだ。

 

しかし、結果を見て自分がラップをとったと分かった途端に

 

 

「あたりまえですよ!」

 

 

と、急に強気になっていたとか。

 

「エース田中」おめでとう。

 

 

さぁ、次は蛯名の番だ。

 

 

 

 

「宮沢、その男、成瀬さん、レンティング」

 

ヴァルディフィエメ世界選手権のリレーで初めて組んだオーダー。

 

このオーダーは翌年のソチオリンピックまで固定された。

 

このメンバーで、表彰台や上位入賞を果たしたわけではない。

 

だが、ある程度のポジションで「戦える」メンバーだった。

 

掛け算とならなくても、足し算でだ。

 

 

 

宮沢に勢いがあった。

 

集団からなかなか離れない。

 

一人、また一人と脱落していく選手がいるなか、粘っている。

 

彼が一緒に走っている選手は、個人戦では到底かなうことのないような選手。

 

表彰台や上位入賞経験者だ。

 

粘り続けた彼は、最後の上りでは前に出ていた。

 

ダブルポールで抜かれたものの、3位で「その男」にタッチ。

 

 

「その男」もトップ集団でしばらくレースを走った。

 

その集団の中でも、実力者による振るい落としが始まる。

 

必死にしがみついた。

 

もがきながらついていった。

 

残り3㎞を切ったあたりだろうか?

 

「その男」が徐々に離れ始めた。

 

各国のエース級が集うこの区間。

 

力が及ばなかった。

 

一人で走り始めると、集団との距離が一気に離れた。

 

最後の上り坂が終わってからの平地。

 

今振り返ると「その男」が過去に経験したレース中の苦しさで、最もつらかったのはこの平地のようだ。

 

上りと下りのつなぎの100mくらいの平地だろうか?

 

何十キロにも及ぶ重りを担いだかのように、急に体がつぶれた。

 

腕も足も前に出すことだけでもつらく、力を加えることができなかった。

 

なんとかバトンをつないだが、30秒は遅れていたかと思う。

この遅れが15~20秒に抑えることができていたら、その後のレース展開は全く違っただろう。

 

振り返るたびに悔やまれる。

 

 

「その男」から成瀬さんへ。

 

けん制する先頭集団目がけて、得意とする前半の突っ込みを見せてくれた。

 

わずか集団に追いつくことができず、ペースアップした集団からは離されてしまったものの、順位を一つ上げてレンティングへ。

 

この時、日本チームは7位

 

アンカーのレンティングは、フィンランド、フランス、アメリカの三チームに抜かれた。

 

この段階で10位だ。

 

勢いのある三チームは、けん制する先頭集団を目指した。

 

それがオーバーペースだったのだろう。

 

その3チームのうちトップレベルの選手はフィンランドのみ。

 

フィンランドの選手は追いついてからも集団でレースを展開したが、フランス、アメリカの2チームは脱落した。

 

それとは逆に、レンティングのペースは上がる。

 

ラスト1㎞ほどの上り坂で、アメリカを抜きなおしたシーンを宮沢とみていたが、興奮したのを覚えている。

 

フランスをどこで抜き返したかは覚えていない。

 

だが、最後の直線で決して彼が得意としないスプリント勝負を制したシーンは覚えている。

 

チームは8位でゴールをした。

 

オスロ世界選手権の6位入賞以上に「その男」にとってはインパクトのあるレースだった。

 

オスロの世界選手権は、「その男」はチームを引っ張った。

 

しかし、ヴァルディフィエメのリレーでは足を引っ張った。

 

「その男」のロスを、ほかの三人がカバーしてくれた。

 

周りに助けられたことを強く感じたこのレースは、「その男」にとって印象深いレースだったようだ。

 

このリレーの2日後。

 

グランドフィナーレ。

 

50㎞クラシカルだ。

 

このレースにかけていた。

 

準備は一カ月以上前に始まっていた。

 

 

「省エネで走る」

 

 

2時間を超える長時間のレースとなる50㎞。

 

大量のエネルギーを消費することは容易に想像できるだろう。

 

それを最小限に抑える。

 

最小限のエネルギーで走ることができる体にする。

 

食事量を減らした。

 

練習量を増やした。

 

体重が減った。

 

空腹は増した。

 

お腹が鳴る音を聞きながら練習をした。

 

 

「集中、集中。」

 

 

お腹が鳴るたびに言い聞かせた。

 

それが運動生理学的に良いのか、悪いのかはわからない。

 

しかし、「その男」にとっては間違いなく良い方向に働いていた。

 

年内のカナダで行われたワールドカップの成績は、散々だったことは書いたとおりだ。

 

しかし、「省エネ」を目指して取り組んでからのレース。

 

プレオリンピックレースとなる、ソチでのワールドカップ

 

終盤までトップ集団で走った。

 

ダボスのワールドカップ。

 

ベストリザルトを更新して、ペッテルに勝ってしまった。

 

ヴァルディフィエメ世界選手権初戦のスキーアスロン30㎞。

 

トップから25秒ほどとよいレースができた。

 

 

そしていざ50㎞。

 

スウェーデンのオルソンが中盤から単独で走り、最後まで逃げ切った。

 

終始集団でレースが進み、ラスト数キロで勝負が決まるという、今までの50㎞のセオリーを覆すようなレースだ。

 

彼は単独で走っていたものの、後ろは集団。

 

 

集団の10~15番目で待機、タイミングとついていく相手を見極めろ」

 

 

山口さんからの指示だ。

 

同じレーンを走る選手の見極めの間違えは、致命傷となる。

 

誰かが勝負を仕掛けた時に、自分の前を走っている選手がそれに瞬時に対応できなければ、気が付けば勝負を仕掛けた選手との差は一気に広がっているからだ。

 

揺さぶりにすぐ対応できるであろう選手を、走りながら判断するのだ。

 

過去の実績などや、得意、不得意を加味して、誰の後ろを走るのが正解なのかを判断しなければならない。

 

 

 

レベルは違うが・・・

 

「その男」が優勝した、ヴァルディフィエメ世界選手権から数年後の全日本選手権。

 

猛烈な吹雪の中行われた10㎞クラシカルマススタート。

 

その後「人工圧雪者」と、「その男」に名付けらえることとなる宇田が、不利となるラッセルをすることを自ら選んで先頭を走った。

 

開始1㎞ほどだった。

 

宇田が決して得意としない前日のスプリントでも良い走りをしており、さらに今日は勢いよく前に出た宇田。

 

その動きを見て、「その男」は

 

 

「とりあえずこいつについていけばある程度は集団がばらける」

 

 

と判断し、すぐ後ろについた。

 

しかし、残念なことに予想は外れた。

 

誰もついてこなかった(ついて来られなかった?)からだ。

 

集団がばらけるどころか、二人きりになってしまったのだ。

 

このことについては思うことがある。

 

後日詳細を書くようだ。

 

 

 

さて、話は戻りヴァルディフィエメ。

 

なかなかばらけない集団だったが、周回を重ねるごとに確実に集団は小さくなっていった。

 

気温が高かったこのレース。

 

雪が溶け、滑走性が悪くなる日向を避け、わずかな日影を求めて、コースを何度も変更した。

 

少しでも楽に、1秒でも早くゴールへ。

 

考えることは皆同じだ。

 

同じコース取りをする。

 

ベストレーンを選択しながら選手が滑ったスキーの跡はやがて、クラシカルのカッターをもう一本形成していた。

 

残り2~3㎞ほどだっただろうか?

 

レースが一気に動いた。

 

ランキングトップのダリオを筆頭に、上位選手が仕掛けた。

 

そこについていく力はなかったが、なんとか粘る「その男」

 

必死に踏ん張った。

 

一カ月間準備してきたおかげか?

 

エネルギー切れはない。

 

必死に体を動かした。

 

13番目に最後の上り坂へ入った。

 

いつも以上に急に感じた。

 

1人を抜かし12位。

 

目標のトップ10の選手は目の前だ。

 

すぐそこだ。

 

 

 

だが、力が足りなかった。

 

12位でフィニッシュ。

 

10位の選手との差はわずか。

 

しかし、タイム差以上の実力の差を感じた。

 

当時は悔しかったが、今振り返るといいレースをしたと思っているようだ。

 

 

余談だが、この1週間後、その男はオスロで50㎞を走ることとなる。

 

オスロの50㎞が終了すると帰国。

 

オスロの50㎞からさらに1週間後、「その男」の地元で行われた全日本選手権で再度50㎞を走ることになる。

 

3週連続の50㎞。

 

シーズンオフ間近は、毎週のように過酷を楽しんだようだ。