その男㉓
今日もまた朗報が。
「その男」の所属するチームの「エース田中」が、全日本選手権で初優勝をした。
「その男」も出場した1月の全日本選手権最終日。
パシュート形式での15㎞だった。
ミニツール形式のレースだったため、3日間総合の順位と、その日単体の順位がある。
15㎞スケーティング単体でラップをとったエース田中。
どうやら、結果を見る前はあまり自信がなかったようで、
「今日よかったんじゃない?」
と監督の本田さんが聞いたところ、自信無さげな返答があったようだ。
しかし、結果を見て自分がラップをとったと分かった途端に
「あたりまえですよ!」
と、急に強気になっていたとか。
「エース田中」おめでとう。
さぁ、次は蛯名の番だ。
「宮沢、その男、成瀬さん、レンティング」
ヴァルディフィエメ世界選手権のリレーで初めて組んだオーダー。
このオーダーは翌年のソチオリンピックまで固定された。
このメンバーで、表彰台や上位入賞を果たしたわけではない。
だが、ある程度のポジションで「戦える」メンバーだった。
掛け算とならなくても、足し算でだ。
宮沢に勢いがあった。
集団からなかなか離れない。
一人、また一人と脱落していく選手がいるなか、粘っている。
彼が一緒に走っている選手は、個人戦では到底かなうことのないような選手。
表彰台や上位入賞経験者だ。
粘り続けた彼は、最後の上りでは前に出ていた。
ダブルポールで抜かれたものの、3位で「その男」にタッチ。
「その男」もトップ集団でしばらくレースを走った。
その集団の中でも、実力者による振るい落としが始まる。
必死にしがみついた。
もがきながらついていった。
残り3㎞を切ったあたりだろうか?
「その男」が徐々に離れ始めた。
各国のエース級が集うこの区間。
力が及ばなかった。
一人で走り始めると、集団との距離が一気に離れた。
最後の上り坂が終わってからの平地。
今振り返ると「その男」が過去に経験したレース中の苦しさで、最もつらかったのはこの平地のようだ。
上りと下りのつなぎの100mくらいの平地だろうか?
何十キロにも及ぶ重りを担いだかのように、急に体がつぶれた。
腕も足も前に出すことだけでもつらく、力を加えることができなかった。
なんとかバトンをつないだが、30秒は遅れていたかと思う。
この遅れが15~20秒に抑えることができていたら、その後のレース展開は全く違っただろう。
振り返るたびに悔やまれる。
「その男」から成瀬さんへ。
けん制する先頭集団目がけて、得意とする前半の突っ込みを見せてくれた。
わずか集団に追いつくことができず、ペースアップした集団からは離されてしまったものの、順位を一つ上げてレンティングへ。
この時、日本チームは7位。
アンカーのレンティングは、フィンランド、フランス、アメリカの三チームに抜かれた。
この段階で10位だ。
勢いのある三チームは、けん制する先頭集団を目指した。
それがオーバーペースだったのだろう。
その3チームのうちトップレベルの選手はフィンランドのみ。
フィンランドの選手は追いついてからも集団でレースを展開したが、フランス、アメリカの2チームは脱落した。
それとは逆に、レンティングのペースは上がる。
ラスト1㎞ほどの上り坂で、アメリカを抜きなおしたシーンを宮沢とみていたが、興奮したのを覚えている。
フランスをどこで抜き返したかは覚えていない。
だが、最後の直線で決して彼が得意としないスプリント勝負を制したシーンは覚えている。
チームは8位でゴールをした。
オスロ世界選手権の6位入賞以上に「その男」にとってはインパクトのあるレースだった。
オスロの世界選手権は、「その男」はチームを引っ張った。
しかし、ヴァルディフィエメのリレーでは足を引っ張った。
「その男」のロスを、ほかの三人がカバーしてくれた。
周りに助けられたことを強く感じたこのレースは、「その男」にとって印象深いレースだったようだ。
このリレーの2日後。
グランドフィナーレ。
50㎞クラシカルだ。
このレースにかけていた。
準備は一カ月以上前に始まっていた。
「省エネで走る」
2時間を超える長時間のレースとなる50㎞。
大量のエネルギーを消費することは容易に想像できるだろう。
それを最小限に抑える。
最小限のエネルギーで走ることができる体にする。
食事量を減らした。
練習量を増やした。
体重が減った。
空腹は増した。
お腹が鳴る音を聞きながら練習をした。
「集中、集中。」
お腹が鳴るたびに言い聞かせた。
それが運動生理学的に良いのか、悪いのかはわからない。
しかし、「その男」にとっては間違いなく良い方向に働いていた。
年内のカナダで行われたワールドカップの成績は、散々だったことは書いたとおりだ。
しかし、「省エネ」を目指して取り組んでからのレース。
プレオリンピックレースとなる、ソチでのワールドカップ
終盤までトップ集団で走った。
ダボスのワールドカップ。
ベストリザルトを更新して、ペッテルに勝ってしまった。
ヴァルディフィエメ世界選手権初戦のスキーアスロン30㎞。
トップから25秒ほどとよいレースができた。
そしていざ50㎞。
スウェーデンのオルソンが中盤から単独で走り、最後まで逃げ切った。
終始集団でレースが進み、ラスト数キロで勝負が決まるという、今までの50㎞のセオリーを覆すようなレースだ。
彼は単独で走っていたものの、後ろは集団。
「集団の10~15番目で待機、タイミングとついていく相手を見極めろ」
山口さんからの指示だ。
同じレーンを走る選手の見極めの間違えは、致命傷となる。
誰かが勝負を仕掛けた時に、自分の前を走っている選手がそれに瞬時に対応できなければ、気が付けば勝負を仕掛けた選手との差は一気に広がっているからだ。
揺さぶりにすぐ対応できるであろう選手を、走りながら判断するのだ。
過去の実績などや、得意、不得意を加味して、誰の後ろを走るのが正解なのかを判断しなければならない。
レベルは違うが・・・
「その男」が優勝した、ヴァルディフィエメ世界選手権から数年後の全日本選手権。
猛烈な吹雪の中行われた10㎞クラシカルマススタート。
その後「人工圧雪者」と、「その男」に名付けらえることとなる宇田が、不利となるラッセルをすることを自ら選んで先頭を走った。
開始1㎞ほどだった。
宇田が決して得意としない前日のスプリントでも良い走りをしており、さらに今日は勢いよく前に出た宇田。
その動きを見て、「その男」は
「とりあえずこいつについていけばある程度は集団がばらける」
と判断し、すぐ後ろについた。
しかし、残念なことに予想は外れた。
誰もついてこなかった(ついて来られなかった?)からだ。
集団がばらけるどころか、二人きりになってしまったのだ。
このことについては思うことがある。
後日詳細を書くようだ。
さて、話は戻りヴァルディフィエメ。
なかなかばらけない集団だったが、周回を重ねるごとに確実に集団は小さくなっていった。
気温が高かったこのレース。
雪が溶け、滑走性が悪くなる日向を避け、わずかな日影を求めて、コースを何度も変更した。
少しでも楽に、1秒でも早くゴールへ。
考えることは皆同じだ。
同じコース取りをする。
ベストレーンを選択しながら選手が滑ったスキーの跡はやがて、クラシカルのカッターをもう一本形成していた。
残り2~3㎞ほどだっただろうか?
レースが一気に動いた。
ランキングトップのダリオを筆頭に、上位選手が仕掛けた。
そこについていく力はなかったが、なんとか粘る「その男」
必死に踏ん張った。
一カ月間準備してきたおかげか?
エネルギー切れはない。
必死に体を動かした。
13番目に最後の上り坂へ入った。
いつも以上に急に感じた。
1人を抜かし12位。
目標のトップ10の選手は目の前だ。
すぐそこだ。
だが、力が足りなかった。
12位でフィニッシュ。
10位の選手との差はわずか。
しかし、タイム差以上の実力の差を感じた。
当時は悔しかったが、今振り返るといいレースをしたと思っているようだ。
余談だが、この1週間後、その男はオスロで50㎞を走ることとなる。
オスロの50㎞が終了すると帰国。
オスロの50㎞からさらに1週間後、「その男」の地元で行われた全日本選手権で再度50㎞を走ることになる。
3週連続の50㎞。
シーズンオフ間近は、毎週のように過酷を楽しんだようだ。