その男㉔
「文を書くの、日に日にうまくなっていないか?」
朝起きるとラインが入っていた。
さすが大学の先輩、後輩をよくご理解されているようで。
「その男シリーズを読むのが日課になている。面白い」
ツイッターで紹介してくれた。
さすが「その男」がカッコいい生き方をしていると思う後輩。
「皆さん、お手隙の際にはぜひ」
大先輩のこと先輩とも思っていない、生意気な後輩が彼のブログで紹介してくれた。
「その男」はノッた。
お気づきだろうか?
いつも以上に更新のペースが早いことに。
「猿もおだてりゃ木に登る。」
「その男」もおだてりゃ木に登るようだ、張り切って。
またこのシーズンがやってきた。
4年に1度のオリンピックシーズンだ。
社会人も5年目を迎えていた。
その夏。
「昨、今シーズンのワールドカップ(世界選手権)合計で、12位以内3回、10位以内2回、8位以内1回」
オリンピック出場の派遣基準が明確に示された。
前2大会とは比べ物にならないくらいハードルが上がっている。
もしこの基準を、過去全てのオリンピック派遣基準としていたら、出場できた選手は数えるくらいしかいないだろう。
「その男」は昨シーズンのダボスでのワールドカップで11位。
世界選手権で12位に入っている。
そのため、もう一度12位以内に入ることができれば、オリンピック出場がきまる。
しかし、12位を取ることがどれだけ困難かということは、「その男」の経験からわかっている。
この派遣標準を見た時には相当動揺していたようだ。
だが、数字での明記はわかりやすい。
改めて腹をくくった。
夏のトレーニングにも例年以上に力が入った。
いつものようにシーズンが始まる。
フィンランドのルカから始まり、ノルウェー・リレハンメル、スイス・ダボスと流れていく1ピリ。
1ピリのターゲットは、ダボス。
昨シーズン、11位のベストリザルトを出している会場だ。
このシーズンはダボスでのレースは30㎞スケーティングと距離も長かったため、長距離を得意とする「その男」にとってはチャンスだった。
ワールドカップ初戦のルカ。
ポイントを獲得することすらできなかった。
このレース後、ある種の違和感のようなものを覚えた。
「外さない。みんな力通りに走ってきている。」
オリンピックの選考があるのは、日本チームに限ったことではない。
強豪国の選手たちにも、国によっては日本チームよりも、さらに過酷な条件の下で選考レースに臨んでいる。
そのため、1レースも外すことができなかっただろう。
レベルが上がっているというよりも、それぞれがレベル通りの力を発揮しているが故に、全体的にレベルが上がっているように感じた。
ただでさえ、上位に行けば行くほど些細なミスが命取りとなる。
今シーズンに至っては、些細なことが例年以上に順位を左右した。
ワールドカップ2戦目、リレハンメルでの15㎞クラシカル、インディビジュアル。
最後のレースのようだ。
その時を振り返っている今日に至るまで、「その男」が15㎞クラシカル、インディビジュアルで30位以内に入ったのは。
この時は27位くらいだったはずだ。
良い順位ではないが、流れとしては悪くない。
ルカと比べて確実に調子は上がっているからだ。
翌週のダボスに向けて、順調に仕上げていった。
そして、1ピリのターゲットレース、ダボス。
朝6時前くらいだっただろうか?
「その男」の姿は、真っ暗で人気のないダボス市内にすでにあった。
スタート時間が早かったため、いつも以上に早く起き、体を起こすために軽くランニングをしていた。
否応なしに気合が入っていた。
が
空回った。
一つ後ろの選手に抜かれた。
おかしい。
最後の周回に向かうときには二つ後ろの選手にも抜かれた。
結果は29位。
目標とする12位からは遥かに遅れた。
1ピリで12位に入ることができず、オリンピック出場権はこの時点では獲得できなかった。
しかし、まだチャンスはある。
年末年始にあるツールドスキーに参戦することになっていた。
落ち込んでいる暇はない。
ツールドスキーに向けて気持ちを入れ替えた。
9日間で7レース。
短期決戦だ。短期決戦で大切なのは勢い。
しかし、出鼻をくじかれた。
このシーズンのツールドスキーは、初戦の4.5㎞スケーティングを皮切りに始まった。
2レース目はスプリントスケーティング。
3レース目も会場を変えて、再度スプリントスケーティング。
会場が雪不足だったため、コースの設営が難しく、距離の短い種目に変更がとなった。
長距離を得意とする「その男」には苦手なスピード系の種目が続き、流れに乗ることができなかった。
始めの3レースは70~80位くらいが続いた。
4レース目からは、やっとディスタンス。
15㎞クラシカルマススタート。
28位だったが、トップとのタイム差が少なく、総合順位を一気に上げた。
5レース目。
35㎞スケーティング、パシュートスタート。
うまく周りの流れに乗ることができた。
総合で25位、35㎞スケーティング単体では21位。
しかし、総合、単体順位ともに12位以内にはまだ遠い。
6レース目。
10㎞クラシカル。
27位。
決して悪いわけではない。
数年前までは「夢のような話」だった、30位以内にコンスタントに入っている。
しかし、今求めているのは、当時夢のように思っていたそこではない。
最終レース。
スケーティング9㎞
9㎞のレースのうち、はじめの6㎞ほどはほとんど平地。
そこからスキー場を逆走するコースプロフィールだ。
この日までの総合タイムの良い順番でスタートしていき、一番初めにゴールした選手が、晴れてツールドスキーの覇者となる。
「その男」は23番目のスタートだった。
総合12位までは1分30秒ほど。
正直厳しいタイム差だった。
しかし、単体のタイムでは12位は十分に狙える。
なんといっても、3㎞近く上りが続く超がつくほどハードなコース。
「その男」が得意なのは、まさに上りである。
4人ほどで同時スタートとなったため、先頭を変えながら、前を追うのがセオリーだ。
スキー場の上り初めまで、タイムを落とさないようにしながら、いかに楽をしてたどり着くか。
例外なく、先頭を交代しながらレースが進んだ。
「その男」が先頭を引っ張り、後ろに下がった直後、異変が起きた。
集団についていけない。
スピードの出ている平地は、後ろを滑るほうがよほど楽だ。
さらにこの日は天候が悪く、風も吹いていたので、後ろにいる選手はいつも以上に楽ができる。
その平地ですらついていけなかった。
スキー場の上りパートに入っても、状況が全く変わらない。
ドンドン抜かれていく。
何を考えて滑っていたか、まったく覚えていない。
頭の中が真っ白だった。
総合32位。
その日単体のレースタイムは48人中45位。
ゴールしてから動けなかったのは、上り続けて体力がもうなかったからか?
それとも、自分の走りに絶望していたからか?
ゴール地点はスキー場の上のため、スタート地点まで車で降りていかなければならない。
「いつも通り」泣いていた、「その男」は。
泣きながら車までの道のりを歩いていた。
一緒に無言で車に向かう山口さん。
「その男」は、何とか言葉を振り絞った。
「山口さん、もう4年待ってください」
と。
何も言わずに山口さんはうなずいてくれたことが、悲しみに暮れていた「その男」にとって唯一の救いだった。
その後、一言言葉をくれた。
片づけを終え、宿に戻った。
シャワー室。
「その男」は一人で体を震わせていた。
悔しさからか。
悲しさからか。
ただの寒さからか。
どんなに温かいお湯を浴びても、とにかく震えが止まらなかった。
この時も何を考えていたかはあまり覚えていない。
ただ、体の震えが止まるまで、相当の時間を要したことだけはしっかりと覚えている。