縄文型と弥生型 | 久蔵

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落語と歴史のブログ

言い換えると、東国の吾妻美人と都の平安美人

 

 

坂上田村麻呂らは都の居心地が悪く一族は東北蝦夷征伐という名目で都から離れて東国や東北に進出したという

 

宮中の美意識と吾妻・東北の美意識は異なるようで、平安美人と東北美人などとは現代でも対比される


史料から縄文人と弥生人との特徴の違いの分布がみられる、さらにアイヌ系の北海道美人や琉球の沖縄美人ともだいぶ異なる


人それぞれの好みではあるが、平安美人は現代ウケしないのはよく聞く話である、なぜか?

 

太古の日本には様相の異なる移民混合人種がいたことがはっきりしている

渡来系弥生人と縄文時代からの倭人との混合の血統がある、平安京に遷都した桓武天皇の母は高野新笠で百済人を祖としているという

 

 

一族は渡来系百済人と親交を深めた蘇我氏で聖徳太子を立て推古天皇の摂政にしたのはあまりにも有名な史実

ヤマト政権は推古天皇と聖徳太子と蘇我馬子の三頭体制で実質は蘇我一族が邪馬台国を牛耳ったとされている

百済から仏教を導入した崇仏派の蘇我氏に対立した排仏派の物部氏は滅亡したが中臣氏らが蘇我氏を破り天智天皇を擁立した

 

 

この大化改新もあまりにも有名な史実、奈良朝と平安朝の皇族貴族の仏教に対する考え方や大陸・朝鮮半島との付き合い方は対立していた

奈良王朝から平安王朝への過渡期の貴族役人の主流派は相容れず遷都を繰り返したという、皇族一族も一枚岩ではなかった

中世には奈良の吉野と京都に別れ南北朝が存在し日本の権威は分裂していたことは明らかで皇族内は対立乖離していた、現在の奈良と京都の生活文化風習も異なる

 

 

平安京には朝鮮半島の百済からの渡来系の平安美人が誕生した、しかしその頃には百済は朝鮮半島の一大勢力の新羅に滅ぼされていた

百済を復興すべくヤマト政権は派兵したが大陸との唐・新羅連合軍に大敗し新羅は朝鮮半島を統一した

 

以降、ヤマト政権と新羅王朝は相容れず朝鮮半島を経由しないで遣唐使を派遣した、唐の都でも新羅と大和は朝貢の順や席次で対立したという

 


見兼ねた菅原道真は遣唐使を廃止し朝鮮半島との交流も辞めた結果、平安王朝には日本有史以来の国風文化が栄え漢字は劣化しひらがなカタカナが生まれた

 

さらに男尊女卑の大陸文化は廃れ女流文学など女性の地位が向上した、現代の時代劇で観る武家は男尊女卑として描かれているが中世初期は真逆だった

 

女性優位(レディーファースト)は既に平安後期から鎌倉前期に存在した、太古のシャーマンには卑弥呼らが古代王朝には女帝が多く存在している



中世以降の弥生系と縄文系のお面

 

その頃の東西洋は男尊女卑だった、これらは公家や武家の社会であって一般の農民や職人や商人の町人の男女は古代から近世まではほぼ対等だったという

 

中世日本の中央政府は大陸や朝鮮半島との国交を断絶していた、やがて京の公家文化から武家が台頭し平安貴族は廃れた

 

平安朝の美意識は武家の鎌倉の美意識に移った、その象徴が源頼朝の妻となった北条政子、尼御台所は当時の政権のトップで武家の女性の地位は最高潮となった
 

 

モンゴル民族の元寇の回避と元に屈服した朝鮮半島との付き合いは避けていた、しかし国家間の交流はなくても国境のない海域での漁民や商人は交易していたという

 

元に滅ぼされる前に構築した南宋貿易は継続し元寇に加担し負傷した漢民族の南宋兵は擁護保護したという

元寇の脅威によって鎌倉幕府は大陸とは国交断絶し平安後期の国風王朝文化に次ぐ鎌倉国風文化が花咲いた

 

原始、女性は太陽だった、今は月

 

支配者が被支配者の男女に格差をつける意味合いはなかった、庶民が公家や武家に倣い真似る事はあったという

近代明治の男女同権とは支配者だった華族・士族社会のことを指し平民はもともとほぼ平等だった
 

戦後の民主化でも繰り返したが庶民の男女は厳しい環境での平等だった、むしろ社会主義や資本主義による偏向格差が広がったという

 

 

近代の欧化主義や戦後の米一国統治による弊害格差は戦後の日本にはあまり知らされていない

奈良時代までは全国に縄文時代からの縄文型美人がいたが農耕文化が進んだ近畿圏、特に平安京には弥生型美人が強く残った

 

都に対立した一派が地方の縄文型倭人と混合して和美人のDNAが継承された、北ほどロシア系のアイヌとの混合が誕生し南ほど琉球との混合が誕生したことになる

 


日本古代史には実は三系統ある、①本州・四国・九州と周辺諸島の本土の歴史

②北方のアイヌの歴史と③南方の琉球の歴史の三系統あったという、ともに近代に日本民族となったがなぜ古代・中世・近世まで一緒ではなかったのか?

南と北は本土中央政府が統一して統治できる文化圏ではなかった、とされている

 

時間軸推移と空間軸分布

 

独自の文化があり、本土に依存しなくても衣食住の生活ができていたからだとされている

遥か昔の縄文時代は同じような生活をしていたが、農耕中心となった弥生時代は北と南には農耕文化は伝わらなかった
 

農耕しなくても衣食住できる豊かな自然環境があったからだという、なので弥生時代には北と南には本土からは移住せず弥生型は存在しないという


 

日本の古代王朝発祥の近畿圏は細い目の細面が美形とされたのはなぜか?それは仏教美術の弥勒菩薩半跏思惟像の風貌を美の象徴としていたからだという

 

百済から仏教が入る前の縄文系は目元パッチリが美形とされていた手がかりの像が出土されているまた、中世からあるお伽草子やお伽噺には鬼が出てくる

 

桃太郎の噺の鬼が島の鬼は世間様だと例えられている、世間と渡り合って立派な大人になることを願った噺として物語が凝縮されているという

 

 

都から離れ遠方の世間には鬼のような形相の人間がいる、実は青鬼は優しかったり赤鬼は泣いたりする噺もある

 

渡る世間は鬼ばかりということを、京の都の子らに話していたという、それが中世には日本全国に伝わったとされている


歌舞伎で二枚目とは上方なら細面の和事、江戸ならギョロ目の荒事というスタイルの違いがある、ギョロ目ではない役者は江戸の歌舞伎役者には現在もなれないという

 

 

吾妻は渡来系弥生人の流れではなく京の公家は下向せず武家中心で全国諸藩から集まり大江戸となった、近代以降は欧米亜との混血が増加し大東京となった