桓武天皇系譜の武家で公家社会に入り込み、太政大臣にまでなった平清盛、清和天皇系譜の源氏が平家を滅ぼした
源頼朝ではないらしいことが近年判明した、よって伝がつく
院政を敷いていた後白河上皇は死ぬまで頼朝に征夷大将軍を任じなかった、公家としての意地をみせた
頼朝は実質的な政権を握っていたが、後白河上皇が崩御してようやく次の天皇がやむなく叙任し、鎌倉に開幕できたのが1192年
初めての武家政治が始まるが、頼朝没後は妻の政子に実権が移った、女子の地位は日本史上前後にないくらい最高潮になったという
男女同等の相続もでき女性御家人もいたよう、北条政子没後は女子の地位は落ちざるを得ない武士の世の中になった
武家は儒教を旨としたため男尊女卑となった、男女格差があったのは武家社会だけで大多数の農民と商人・職人の町人は制限はあるものの男女の地位差はさほどなかったという
鎌倉時代は公武両立の時代でもあった、再び桓武天皇系譜の政子の親元の北条家が執権として政治を行い将軍は公家化した
栄枯盛衰は平家のみならず、やがて執権北条家と鎌倉幕府も衰退していく
「吾妻(東)鏡」は日本で初めて東日本に政権ができた物語、源頼朝のサクセスストーリーで家康も愛読し座右の書にしていたという
京の都からではなく、東(あづま)の鎌倉北条得宗家の側から記述した「四鏡」に並ぶ歴史書
東(あづま)下りとは京の公家が鎌倉や江戸の武家に輿入れしたり将軍家に下向すること
だいこんみずまし(大・今・水・増)の四鏡
京都祇園の都をどりに対して、東京新橋には東(あづま)をどりがある、新橋花街は大正期に興り約百年の歴史があるという
祇園にはない東独特の形を踊りに取り入れているという
東(あづま)をどり
新橋は明治に東海道線始発で上り駅になったが、日本文化の都や上方とは京大坂の方