最初の海外派兵 | 久蔵

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落語と歴史のブログ

日本最初の海外派兵は、滅亡しかけた百済を救済復国するため唐・新羅連合軍との白村江の戦いだった

 


大陸・半島連合軍の強大な軍事力すら把握できていなかった大和朝廷軍は無謀で大敗北したという

百済は滅び敵対していた新羅が朝鮮半島を統一した、このため遣唐使は半島経由は困難となり危険な南海周りの航海となった

以降の日本の軍事は海に囲まれた立地を利用し攻めるより守りを固める国防に徹した

大宰府に防人を置いて防塁や水豪を築き隣国の上陸を防いだ、これが近畿まで続いていたのかどうか?

 

 

大和朝廷の所在地論争には近畿説と九州説があり、未だにどこにあったのか判明していないという


奈良朝の防人護衛の大宰府の任期は3年だったようで、主に東国の郡司の子が任に就いたという

東国の良家の若者が数年もの間、慣れない土地に赴き苦労する様子は万葉集の防人の歌でも伺える

西国の郡司の子は都の護衛任期1年の任務だったという、当時の律令の徴兵は地方郡司の子が兵役にあたった

 


と軽く諸々資料に書かれているが東西格差の不満があっただろうと推察される

現在の東京多摩地区の武蔵国府の府中からも大宰府に赴く地方役人や郡司の子息たちもたくさんいたのだろう

平安朝になると公家役人の兵部省に雇われた武士が誕生する

大宰府は遠の朝廷(とおのみかど)と呼ばれ大陸の唐の都の窓口となり栄えた

 



京の都と往来する山陽道が整備され、摂関藤原家からも武闘派を派遣していたという

その頃、都の政争に敗れ大宰府の権帥待遇で左遷させられたのが右大臣の菅原道真

京の都から離れるということは公家にとっては九州のトップといえど地獄に行くような事だったという

やがて藤原道長の摂関政治全盛期には、朝鮮半島から侵攻されるという事件(刀伊の入寇)があり防人が防御撃退した

 



平安時代末期は決して王朝貴族の平和な時代ではなかった、海域から大陸・隣国からの侵攻ばかりではなく海賊の脅威も絶えなかったという

大宰府の防人が国防の重要な役割を果たしていた

一方、北方からの夷敵の侵攻は初代征夷大将軍の坂上田村麻呂から征夷武将が国境警備をしていた

 

平安朝の頃の日本の北端は東北あたりで、陸の城で護りを固めていたという

 

坂上田村麻呂と阿弖流為


北海道は蝦夷が島と呼ばれ和人はまだ進出していなかった、アイヌも和人もお互い文化的な衣食住があり

相互に侵略する必要性もなかった、阿弖流為たちが野盗からの国境防護していたという

武家の棟梁である征夷大将軍の幕府政治が始まると、国内の治安維持と国境防衛が本業となった

天皇がいる京都の護衛や北九州や日本南端、東国や東北の護りは幕府の管轄になった

 


鎌倉時代には元寇の脅威で鎌倉幕府には鎮西探題が置かれ、一回目の元寇ではあまりにもかけ離れた騎馬軍の軍事力を目の当たりにし

 

更なる護りに徹した、異国警固番役という専門部隊を配備し二度目の元寇では武力に勝る自然の脅威の台風神風によって日本は護られたことになっている

三回目の元寇が計画されていたようだが、大陸内の混乱で元が滅亡し明が建国され国内は幕末まで警固は続いたが鎌倉幕府も滅亡した


引き続き室町幕府は九州探題が置かれ大宰府を護った

 

 

江戸時代には豊富な海洋資源がある蝦夷に進出し、箱館は幕府所轄の松前藩が経営したという