大和国のホツマツタヱ⑦ ~大和神社~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

奈良県天理市にある
大和(おおやまと)神社です。



創建は、第10代・
崇神(すじん)天皇の
世だといいますから、

 

およそ

2000年前ですね。



この時代は、
天災や疫病によって
人口が半減するという

国家存亡の危機
だったといいます。



そこで天皇は、
祭祀によって治めるべく
宮中で祀っていた

天照大神
(あまてらすおおみかみ)と

倭大國魂
(やまとのおおくにたま)を

宮中の外で
祀ることに決めたのでした。



天照大神の御霊は、
笠縫邑(かさぬいむら)に遷し

豊鍬入姫(とよすきいりひめ)
祀らせたといいます。

倭大國魂の御霊は、
長岡岬(ながおかみさき)に遷し

渟名城入媛(ぬなきいりひめ)に
祀らせたといいます。



天照大神の御霊は、
この後に各地を巡り
三重県の伊勢(いせ)にて
伊勢神宮となりました。

倭大國魂の御霊は、
長岡岬から遷座して
大和神社となりました。

ですから本来なら、
伊勢神宮とおなじく
盛大に祀られるべき神社です。

しかし

そうなっていないのは、

 

古事記・日本書紀では
祭神がよくわからないから

ではないでしょうか?


 

『天照大神』と
ならび祀られていた

『倭大國魂』は
いったいどなたか?

 

これはおそらく、
天つ神の長と
国つ神の長を
祀っていたということでしょうが、


ホツマツタヱからすれば
クシヒコさまといわれています。



大和国のホツマツタヱ⑥ ~事代主クシヒコ~
でも書きましたが、

国つ神である
出雲(いずも)大社の

オオナムジの御子です。

 



その称え名として
大地主(をこぬし)や
大国主(ををくにぬし)、

そして
大國魂神
(やまとををこのみたまかみ)
を賜っています。



大和神社の由緒をみると、

祭神は
皇居内で祀っていた
大地主(おおとこぬし)とあり、

ホツマの記述とも
一致するようです。

 



とすれば、
配祀されている

八千戈大神(やちほこがみ)や
御年大神(みとしがみ)は

天の逆矛(あめのさかほこ)
父・オオナムジのこと
かもしれません。

 

拝殿奥の本殿は

3棟がならんでおり、

3座が祀られているといいます。



往古は

皇室からも崇敬され、


二十二社にも

名をつらねています。



また、
神社が鎮座する
橘森(たちばなのもり)には
霊鶏が住んでいるといわれ、

上古の天皇はみな
この霊鶏を食したために

長命であった、

ともいわれているようです。

橘森というように、
神紋も橘のようです。


この森や境内は、
かつてはもっと広大で
八町四方あり、

その四隅を
神社でかためていた
といいます。

 

こうみると、

とても広い社領を

もっていたようです。

しかしそれも
近代のことであり、

往古は、

空海(くうかい)が開いた
長岳寺(ちょうがくじ)も
神宮寺だったといいます。

 



さらに、旧社地である

長岡岬に比定されるのは、

長岳寺や

穴師坐兵主神社
(あなしにますひょうずじんじゃ)、

笠縫邑に比定される
檜原(ひばら)神社のとなり、

 

大神(おおみわ)神社

となりにある

狭井(さい)神社、

 

纏向山(まきむくやま)

ともいわれています。

 


三輪山(みわやま)の

登拝口がある

狭井神社はかつて、

 

大和神社の摂社でも

あったようです。


ますます、

ホツマツタヱめいてきます。



それでは

境内摂末社を

みていきます。



本殿のとなりにある
高龗(たかおかみ)神社は、

全国の高龗神社の
総本社だといいます。

 



丹生川上(にうかわかみ)神社も
ここから

勧請されたそうです。

 



創建も
大和神社とおなじ
崇神天皇の世だといい、

渟名城入姫命(ぬなきいりひめ)に
よって

穂積長柄岬(現新泉星山)に
祀られたといいます。

 

このあたりは、

饒速日(にぎはやひ)の末裔である

穂積(ほづみ)氏も

勢力をもっていたようです。

 



大和盆地は雨が少なく
龍王山という名もあるように
祈雨の地だったようです。

3世紀ごろまでは
湖があったというのに、
そう上手くは
いかないようですね。

 

「岬」という旧名が多いのも

この古代湖に

よるのでしょう。



高龗神社のとなりには、
末社の

朝日(あさひ)神社
厳島(いつくしま)神社
事代主(ことしろぬし)神社が
ならんでいました。

 



朝日神社は
朝日豊明神(あさひとよのあかり)
を祀っているそうですが、

ホツマツヱによるなら、
アサヒ神の

豊受(とようけ)大神でしょうか?

朝日神社は
佐保庄町にあり、

そこには
佐保(さほ)一族がくらし、
豊受大神を祀っていた
という話もあるようです。



また、クシヒコが
大物主に就任してからは、

息子のコモリが
事代主になったので、

もしかすると、

事代主神社には、
子孫を祀っているのかも
しれませんね。



参道には、
増御子(ますみこ)神社があり、

猿田彦神(さるたひこ)
天鈿女命(うずめ)
市磯長尾市命(いちしのながおち)
が祀られていました。



市磯さんは、
最初の斎女である
渟名城入媛(ぬなきいりひめ)に
かわって

祭祀されたといいます。

その祖先は、
椎根津彦(しいねづひこ)
またの名を
珍彦(うずひこ)といい、

ホツマツタヱをたどるなら、
海幸彦(うみさちひこ)の

火進(ほのすすみ)とも
繋がりそうです。



祖霊社(それいしゃ)には、

社家や氏子らの
祖先の御霊が祀られています。

 



また、

戦艦大和の

英霊2736柱と、


随伴した
巡洋艦矢矧(やはぎ)
駆逐艦8隻の


英霊985柱が

合祀されているといいます。



戦艦大和には、
大和神社の分霊が
祀られており、

堂本印象(どうもといんしょう)画伯が、
大和神社を描いた
「戦艦大和守護神(しゅごしん)」は

戦艦大和の艦長室に
掲げられていたようです。



境内には
小さな展示館もあり
必見でした。

 

 

このほかにも、

模型や絵画や資料が

たくさん展示されていました。



ではなぜ、
戦艦大和が
分霊を申し出たかといえば、

それは
万葉集にものこる

古くからの謂れが
あったからだといいます。



かつて、遣唐使として

海外に派遣される人は


大和神社を

参詣したといいます。



山上憶良(やまのうえのおくら)は
旅立つ友人に、

『好去好来』の歌を
送ったといいます。

「好去」は、
「どうかご無事で」

「好来」は
「またここで合おう」
だそうです。(超訳)

 



危険をかえりみず
国のために

尽くすものであれば、

だれもが、

倭大國魂の神徳に

あやかることができる、

 

それも、

倭大國魂の事跡をおもえば、

納得できます。

 


さて、
もうひとつ。

境内には
大和神道御霊社
(おおやまとしんとうみたまのやしろ)

があります。

 

大和神社が

国家の祭祀を

行うのにたいして

 

大和神道御霊社は

それ以外の、

地元や個人の祭祀を

神道形式でおこなう神社

のようです。

 


こちらの宮司さんには、
以前から懇意に

していただいていまして、

大和神社にきたので
ご挨拶させていただきました。

そうしましたら、
御霊社の神殿にまで
通していただきました。

 

こちらでのお話は、

今回ご一緒させていただいた

なぁぶぅさんのブログにも

詳しく載っています。

 

 

 

素敵なお話を
たくさん伺うことができました!

 

ありがとうございますキラキラ爆  笑キラキラ

 

 

大和国のホツマツタヱ⑧ へ つづく

 

 

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大和国のホツマツタヱ② ~石上神宮 その1~
大和国のホツマツタヱ③ ~石上神宮 その2~
大和国のホツマツタヱ④ ~桃尾の滝~
大和国のホツマツタヱ⑤ ~石上神社~
大和国のホツマツタヱ⑥ ~事代主クシヒコ~
大和国のホツマツタヱ⑦ ~大和神社~
大和国のホツマツタヱ⑧ ~大神神社~
大和国のホツマツタヱ⑨ ~久延彦神社~
大和国のホツマツタヱ⑩ ~鳥見社の勾玉池~
大和国のホツマツタヱ⑪ ~小夫天神社~
大和国のホツマツタヱ⑫ ~三輪恵比須神社~
大和国のホツマツタヱ⑬ ~志貴御縣坐神社~