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一期一会

本も人の出会いも一期一会。時々読者、時々物書き。好きな本やコミック感想を中心に、日常のつれづれと共につぶやいていきます。

   8


 ミサトは冷たい雪交じりの雨もかまわず、裏庭から病棟のある方へ手探りで進んだ。
 真っ暗な外は、時折、斜めに吹き付ける冷たい水滴によって視界は遮られる。タートルセーターに白衣をまとっただけの姿のミサトは、すぐにびしょ濡れになり、それらは体に張り付いた。
 すでに上下の歯が合わないくらいの寒さだが、今のミサトにとってはそんな事は些細な事だった。
 アンドリューさんを救いたい――。
 ただ、それだけだった。
 今、ミサトの頭の中にはそれしか思いつかず、どうやったら軍人がやってくるより早くアンドリューのところへ行き、ここから逃してあげられるかそれしか頭にない。
 ミサトは全身びしょ濡れになりながらどうにかアンドリューの病室のある辺りに行くと、暗くなったケースメントの窓ガラスをコンコンと叩いた。
 すでに消灯時間を過ぎた病室は真っ暗で外からは何も見えない。
 アンドリューが起きているのかもわからないが、今はそんな心配している余裕はなかった。
「アンドリューさん! アンドリューさん!」
 ミサトはガラスが割れない程度に窓を叩きつけるが、何の反応もない。
(早くしないと軍人が来てしまう)
 何の反応もない真っ暗なままの病室を、焦りと不安が入り交じった面持ちで見つめる。見つめている時間さえ、今のミサトには長時間に思えた。
 じりじりと心が焦る。しばらくすると、やっと部屋の灯りが見えた。
 やっとアンドリューが気づいてくれた。ミサトは中を覗こうとするが、窓が開く様子はないかわりになにやら騒ぎ声が聞こえてきた。
 外にいるミサトからは窓にひかれたカーテンのせいで部屋の中がどうなっているかは伺い知る事はできなかった。
 悪い予感がする……。
 耳を澄ませても騒ぎ声は聞こえるのだが、雨の音に消されてよくはわからない。
 胸騒ぎがして、慌ててミサトが玄関に回って部屋に戻ってみると、アンドリューのベッドの周りに人垣が出来ていて、人混みの中から別の医師が戻ってきたミサトの姿を見つけると声をかけられた。
「おい、ミサト! アンドリューが居ないんだ!」
「アンドリューさんが?」
「ああそうなんだ……。お前どうしたんだ?なんでそんなに濡れているんだ?」
「これは……」
 ミサトが説明しようとしたところに先程の軍人が声を掛けた医師とミサトの前に割って入った。
「お前、もしかしてヤツを逃がしたのか?」
「いいえ。私はけしてそんな……」
「言い訳をしようとしても無駄だ。どうしてそんなに全身濡れているのだ? ヤツは足が不自由だった。手助けして外へ出たのではあるまいな? これから取調を行う。独房へ連れて行け!」
 ミサトは咄嗟に返事をする事が出来なかった。
 確かに自分はアンドリューをここから逃そうとした事実は否めない。けれどそれを安直に言いたくはなかったし、実際には出来なかった。
 結局は何の役にも立たない自分を腹立しく思いつつ、アンドリューが一体どんな手段でここを去ったのかはわからないが、軍人の手の届かない所へと行ってくれればいいと願わずにはいられない。
 ミサトはアンドリューが自分に黙っていなくなった事のショックが大きくてなにか適当な言い訳を考える事もできない。
 軍人が大声で怒鳴りつけるのをどこか遠くに聞き流しながら、ミサトはアンドリューともう二度と会えなくなってしまった悲しみをかみしめていた。

to be  continued……





    7


 ミサトはいっこうに進まない時計の針を再び見つめて、早く交代時間にならないかと時計を見やる。けれど、時間はほとんど変わらなかった。
 うらめしく時計を眺めるのも何十回目となった時だった。誰かが病院の玄関ドアを激しく叩く音がした。急患かと急いでドアを開けてみると、そこには、頭からつま先まで、ぐっしょり濡れた軍人が立っていた。
「ここにアンドリュー・リトルはいるか?」
 軍服の上に合羽を着ているものの、冷たく体に刺すような鋭い雨を全身に受けた軍人は厳しい顔でミサトを見据えたまま尋ねた。
「ええ……。彼がなにか?」
「アンドリュー・リトルに逮捕状が届いている。ここに運び込まれたと報告が入たのだが、本人をすぐに連れて来い」
 軍人は合羽を脱ぎもせず濡れた身体のままドアを大きく開き、床が濡れるのもおかまいないしに、部屋の中まで入ってきた。
 ミサトはそれを聞いていきなり目の前が暗くなった。
逮捕状だって?
アンドリューさんに?
「あの、何かの間違いではないでしょうか? いきなり逮捕と言われても。彼は確かにここにいますが今は患者としてこの病院に入院していますので。すみませんが逮捕令状を見せてもらえますか?」
軍人は「うむ」と納得したように低く返事をすると、濡れないように懐にしまっていた紙包みをミサトの前につきだした。
 ミサトはそれを受け取ると封筒に入ったそれを目の前で広げて読んでみる。見ると確かに逮捕状の名目でアンドリュー・リトルの名前が書き込んであり、慌てて文面を眼で追うと、その理由に『スパイ行為の疑い』と記されてある。
(スパイ行為……?)
「居るのなら、早く連れてこい。でないとお前も一緒に連行する事になるぞ」
 軍人は固まったままのミサトから逮捕状を奪うと、ミサトを無視して部屋の奥へと入っていく。他の当直の医師が、騒がしい様子を察してすぐに駆け寄り軍人に対応すると、何も知らない別の新米の医師はそのままアンドリューのベッドを案内しようと廊下を先導していた。
「待ってください! 何かの間違いでは?」
軍人はミサトのその言葉が耳に入っているのにも関わらず無視して先導する医師の後を追う足を休めない。
「すいません、きっとそれは間違いです!」
 ミサトはすでに消灯時間を過ぎているのにもかかわらず大声を張り上げた。廊下の先を進む軍人の足を止めようと軍人の肩を止めたが、ミサトが肩にかけた手を簡単に振り払い、「邪魔をするな。でないとお前も連行するぞ」との捨てセリフを言うと軍人は薄暗い廊下を進んでいった。
(そうだ、こうしている間に、アンドリューさんに早く知らせないと!)
 ミサトは何かの間違いであって欲しいと心の奥で願いながら、頭の中ではどうしたらアンドリューを救えるのか考えをめぐらす。
 けれど日頃から横暴な軍のやり方を見ているミサトは、一度連行さえたらそう簡単には釈放されない事も重々承知している。
 どうやったらアンドリューを軍に連行されずに済むのかミサトは考える暇もなく、思いついたアンドリューを救い出す唯一の方法を実行するため、迷わず急いで裏庭に出た。


to be  continued……





 

   6



とても寒い夜だった。
 朝から降り始めた雨はやむ事はなく、日没を過ぎても一行に雨足の強さは衰えるどころか段々と強くなっていく。外はいつしか雪交じりの雨が降りはじめていた。
 寒い季節の雨は一気にあたりを冷やし、暖房設備もろくに整わない野戦病院では、暖をとるのにも自分にあてがわれたベッドと布団でしのがなければならなかった。
 安普請な設えの病院でも、診察室と談話室だけにはかろうじてスチームの暖房が入る。
 先日、もうすぐ本格的な寒さがやってくるからと、スチームの試運転をする為軍から派遣された整備士が病院にやってきた際、気の付く医師の一人がアンドリューの義手と義足もみてもらえるように手配してくれたおかげで、義手義足はどうにか簡単な間接運動が出来るほどに調整してもらえた。
 久しぶりにアンドリューはそれらをつける事ができるようになった。だが、こんな寒い夜は金属でできている義手、義足は余計に冷たく感じる。普通の人間なら、こんな時くらいははずしたいと思うに違いない。
 すでにアンドリューの怪我の状態は殆ど治っていて、周りの病院スタッフは言葉には出さないが、いつも空きベッド数を気にしている様子だった。
 一日も早く此処を出て行かなければならないだろうと、予測できるアンドリューにとってそれは、やんわりとした退院への序曲にしか思えなかったのかもしれない。
 寝る時ぐらいは義手、義足もはずしてかまわないのだろうが、アンドリューにとってはこんな時でも躊躇する事なくそのままにしていた。
 ミサトには、アンドリューなりに、少しでも義手と義足の感覚を早く取り戻し、ここを早く出て行く事考えているのだろうと予測がついた。
 慣れない義手と義足の生活が始まってからは、今までの車イスだった生活からはずっと身の回りも軽くなり自分の事は自分でできる事が多くなる。
 自然とアンドリューとミサトとの接触も減っていく傾向にあった。
 他の患者の世話に忙しいミサトと、段々と回復に向かい自分の事ができるようになっていくアンドリューの関係は、看護する側と患者の領域を超える事はなく、月日だけが確実に流れていき二人は自然と一緒にいる時間が減っていく。
 あれから特に進展のない二人の関係をミサトは寂しいと思いつつ、一向に減らない患者の数と、ボランティアとは名ばかりの、人手が足りないと殆ど医師まがいの処置をしなければ間に合わない日常に疲れていた。機会があれば、自分と同じ名のもう一人の《サト》について、アンドリューに尋ねて見たいと思いながら、結局出来ないままになっていた。
 今日もアンドリューの顔を見て挨拶といくつか病院スタッフと患者としての会話は交わしたものの、ミサトリの心を満たすものではなかった。
(ああ……このまま私とアンドリューさんはすれ違いのまま会わなくなってしまうのだろうか)
 最近こんな考えがミサトの頭を支配する。
『人間不思議なもので、言葉には出さなくても自分が思っている事を、相手も同じように思っていると言うことがあるものだよ』と、ミサトは以前学校の先生からそんな風に聞いた事があった。
(自分と同じ想いをアンドリューさんもしていると嬉しいのに)
 慌ただしい仕事の合間にミサトはそう思ってはみるが、結局ゆっくり二人で話す暇もなくそれをアンドリュー本人に確かめる術もない。
 心の焦りと日常の自分の行動が一致しないまま、こんな気持ちでいるのは自分だけでなければいいのにと、ミサトは寝る前に毎夜マリア様に願わない日はなかった。
 こんな寒い夜の当直は、余計に夜が長く感じられる。
 ミサトは当直の仮眠時間の交代を、今か今かと時計を見ながら大きくため息をついた。
 ちょうど当直に入る前の夕方、たまたま夕食を終えたアンドリューと食堂ですれ違い、誰に聞いたのかミサトが今夜当直当番だと言う事を彼は知っていて呼び止められた。
「なあ、今夜当直当番なんだって?」
「ええ。そうですけど……よくわかりましたね」
「ああ……ちょっと時間作れないか?」
「時間? 今じゃダメですか? このあと知ってのとおり明日の朝までは僕は……」
「知ってる。できれば今夜の当直時間の間がいいんだけど」
「当直時間ですか?……いいですよ。仮眠時間は交代でありますから」
「悪りぃ、じゃその時でも頼む」
 アンドリューは軽く言うと、片足を少し引きずるように自分の病室へと廊下を去ってった。
 時間とるのに、なぜ今でなく今夜の当直時間の間がよいのか検討もつかなかったが、引き継ぎの時間と夕食前後の慌ただしい食堂の人の出入りに気をとられて、ミサトは理由について考える余裕などなかった。

to be  continued……





     5


 ミサトとアンドリューは、歳も一つしか違わず、アンドリューが担ぎ込まれた時のやり取りをみていた医師の計らいで、アンドリューの看護担当はミサトになっていた。
 アンドリューの義手と義足は戦闘の末一部壊れている事と衛生上の問題もあり、整備士が病院に常駐していないここ野戦病院ではそれらを整備される事もなくアンドリューの体から取り外されたままベッドの横に横たわっていた。それがアンドリューの身体にいつ納まるとも予定はない。
 アンドリューは右足の負傷の他はそう大きな怪我はなかった。だが、元々義手と義足の生活をしていたため、残っていた生身の右足まで負傷した今は車いすの生活を余儀なくされた。
 義手のない生活は、単に怪我の看護だけでなく食事や排泄、入浴までの生活の殆どの介護をおのずとミサトが担う事になっていた。
「アンドリューさん、また牛乳残してる」
「うへぇ。見つかっちゃったか……」
「もう、ダメですよ。ちゃんと飲まないと骨にもよくないですから」
「はいはい……。先生、わかってますよ」
ぷっ……
くっくっくっくっ……
いつしか二人は仲の良い友人になっていた。
周りの医師や病院スタッフは、最初体のハンディも大きく、未成年の志願兵だというのに両親とも連絡がとれず親元にも帰省できないアンドリューの扱いを、どうしたらよいのか心配していたようだった。だが、アンドリューと、ここのところミサトとのやり取りを見ているうちに、最悪このまま両親と連絡がとれずとも怪我が治るまで、ここに滞在させればよいかと二人のじゃれ合う姿を温かい目で見ていた。
 最初のうちはアンドリューもミサトに対して遠慮がちにものを頼んでいたのだが、日数を重ねるうちに、ミサトもアンドリューが次に何をして欲しいかわかるようになるほど仲もよくなっている。
アンドリューが多少ベッドから起き出しても大丈夫なくらいに足の怪我が回復する頃は、すっかりうち解けてお互い軽口をたたき合ったり、ミサトの仕事のない晴れた日には病院の裏庭へと車イスを使い、二人して散歩する事もあった。
「なあ……あれってナンだ?」
ある時、アンドリューを車いすに乗せてミサトが裏庭を散歩している時だった。
裏庭に面する雑木林は葉っぱを落とし、寂しい風情になりすっかり秋から冬へと姿を変えていた。
裏庭から少し入った小道に入りミサトがアンドリューの車いすを押していると、目の前に転がるいくつかの大きなクルミの実を見付けた。
 通常よりもかなり大きいそれは、大きな青い実のまま地上に転がっている。
 ミサトは車いすを押す手を休めてくるみを拾い上げ、車イスに座るアンドリューの膝の上にいくつかそれを並べ置いた。アンドリューは左手で一つそれを掴むと、澄みきった青空に掲げて車イスを押すミサト下から見上げながら話し始めた。
「これ……知ってるか?」
「鬼クルミでしょ? この近くに木があるのかな……。クルミがどうかしたの?」
「このクルミを二つに割ってお互い持っていると再び会えるらしい。永遠の友達って意味もあるそうだ」
「永遠の友達……」
「クルミの殻は固くて二つと同じ形がない。だからなのかもな。同じ友達も友情も二つとない。クルミのように固い殻に包まれて永遠に壊れない」
「アンドリューさん……?」
アンドリューはクルミを掲げたまま目線はもっと遠くの方を見つめているようだった。
ああ……まただ。
 アンドリューがこの病院に運ばれて来て一ヶ月余りが経とうとしていた。
 最初は暗い表情をしている事が多いアンドリューだった。まあ、それはこんな世の中なのだし、体の怪我の事もあるので仕方のない事だろう。
 ミサトがアンドリューに何か話しかけると、それなりに相槌を打ったり、返事は返ってくる。しかし、話をしている途中に自分の顔を見たまま視線は自分ではないところを見ている節があった。
 けれどそれがどうしてなのかは尋ねた事はない。 アンドリューは自分でわかっているのかいないのか、時々こうやって自分の世界に入ってきて、今ミサトと話しているのに、アンドリューはもっと遠くの誰かに話しかけているようにも見え、それが見ていてもどかしい。
 ミサトはそんな彼を自分の元へ引き戻したくて、自分の事だけ考えてくれればいいと願わずにはいられなかった。
「私に…半分もらえますか?」
 ミサトはどうしてそんな事を言い出したのか自分でもわからなかった。
 気がついたらそんな言葉が勝手に自分の口から出ていた。
 アンドリューとは互いに患者と看護する者の立場でしかない。
 アンドリューの時折見せるどこか遠くを見つめる眼差し、寂しそうな表情。
 それに自分と同じあだ名の《サト》に異常なまでの反応を見せる彼の事がとても愛しく、守ってあげたいと思ったからかもしれない。
 いつかは彼と別れの時がやってくるだろう。自分はただの野戦病院の医師の助手。彼はたまたまはここに運び込まれただけの患者。
 ずっと一緒にいられるはずもない。
 ましてやこの戦乱の情勢の中、どちらがどのような死に方をし、永遠に還らぬ人になってもおかしくはないのだから。
再び会える
永遠の友達
そんな事、ウサンクサイ迷信だとわかっている。
 しかし彼が喜ぶのなら……
 彼が私の事を覚えていてくれるのなら……
 今のミサトにはそれだけで充分に思えた。
「これ……オレと半分ずつ持ちたいって事か?」
「そう、だめ?」
 アンドリューは空に向かって掲げたクルミの実を自分の額のそばまで戻すと、ミサトの申し出をじっと聞いて瞼を閉じたまま返事をしない。
ミサトは返事のないアンドリューの態度に焦りを感じたのか、彼の顔を上から覗き込むとゆっくりとアンドリューの唇に自分の唇を重ねる。
 アンドリューは驚いて閉じた目を大きく見開いたが、ミサトに柔らかい唇を奪われるのを拒まないでいた。
「私が貴方の……永遠の友達でいたいんだ――」
一瞬、アンドリューは驚いた顔をしたが、嬉しそうな顔を向けた。
ミサトはアンドリューに怒鳴られるのかと覚悟したが、アンドリューは意外にも大人な受け答えでそれが尚更ミサトの心を揺さぶった。
「ああ……それもいいかもな」
アンドリューは一言そう言うとにこりと微笑む。
ミサトは自分と同じあだ名のサトと言う人物がアンドリューにとってどんな意味をもつのかわからない。けれどアンドリューにとって自分がそれ以上の人になりたいと思うし、自分がこの人を守ってもっと一緒にいたいと強く願った。
この戦乱の中、自由になるのは、人の心ぐらいなものだ。
人を好きになるのに理由などいらないのだから――。
初冬の空は何処までも高く、澄み渡っていた。

to be  continued……




     4
 あれから少年は、三日も目を覚まさなかった。
 医師はこのまま目を覚まさないのではないかと密かに心配しているようだったが、三日目の朝ミサトが面会に行って自分の手を少年に握らせると、ようやく閉じられた瞳を開いた。
「サ……サトなのか?」
「あ、やっと目を覚ましましたね」
 少年はミサトの手を離す事なく再び『サト』と名前を呼んだ。
「確かに私のあだ名はサトですが、私は貴方を知らないんです。貴方の名前は?」
 ミサトが優しく訊ねると、少年は金色の瞳を大きく見開らき、驚いた顔をした。
「ああ……悪い。人違いだ……」
 見開いた目はそのままに、ミサトから視線を外さず、少年は謝ると、繋いだ手は気づかないのかそのままにぎゅっと握りこんでいる。
「あの……手を――」
 ミサトがやんわり言うとやっと少年は気がついたのか、少し頬を赤らめながら手を離した。
「私が……貴方の知っている人に似ていたんですね。私と同じ名前なんだ……」
 ミサトがぽつりとそう言うと、少年は目を伏せて悲しい顔をする。
「ああ……よく似ている……」
 ミサトは悲しませるつもりはなかったのに、急に塞ぎこんだ少年に悪い事をしたような気分になり、何か言葉を探すがうまく出てこない。
 代わりに少年があれこれと話を始めた。
「ここはどこなんだ? なんで俺はここにいる? いつ来たんだ?」
「覚えていないの? ここは野戦病院です。あなたは三日前にここに運ばれて来たんです。見たところ兵士にしてはまだ若いようだけど」
「俺はアンドリュー・リトル。十八歳。これでも一応志願兵で戦闘にも参加してる」
「十八歳……」
「何? 十八にしてはチビだとでも言いたいのか?」
「いや……ごめん。そういうわけでは。私はトミナガ・ミサト。十七歳。この病院でボランティアの医師の助手をしています」
「ミサトか……」
 少年は一度名を呼ぶと、再び《サト》と声に出さず乾いた唇だけで反芻する。
 少年の形のよい唇が自分の名前をつづるのを、ミサトにはまるでスローモーションのように目に写り、うっとりと見とれていた。まるで魔法の呪文のようだった。
 ミサトは少年の唇から目を離す事ができなかった。
この唇に『サト』と呼ばれる事がとてもどきどきして愛おしくてたまらなくて。
 どうしてだろう。ただ名前を声に出さず呟いているだけなのに。
 少年は自分でない名前を呼んでいるのはわかっている。
 声にならない唇だけの動きでも、その名前を呼ぶのは自分の事であって欲しいと思うのは我が儘な事なのだろうか。
「どうか……したのか……?」
 ミサトはふいに声を掛けられて、まだ出会ったばかりの少年に、そんな事を思ってしまう自分の事がよくわからない。
 自分の事なのに。
 こんな事は初めてだ。
 ミサトは慌てて話しを続けた。
「ええと……アンドリューさん。気分は……どう?」
「今更気分もなにもないだろ。見ての通りだ。それより……何か飲み物と食べ物はあるか?腹が減って死にそうだ」
 アンドリューはベッドに横になったまま、遠慮する事なく言い放つ。
「そうですね。ちょっと待ってて下さい。何か用意しますから。でも急に普通の食事はできませんよ。しばらく何も口に入れてないんですから」
「贅沢は言わない。とりあえず水を……」
「わかりました。待っててくださいね。準備してきます」
 ミサトは食事の準備と、アンドリューの意識が回復した事をスタッフと医師に知らせるために席を立った。
 ざわつく大部屋の病室のドアを閉めて廊下に出ると、すでに夕刻なのか日の当たらない廊下はすでに半分夕闇に沈みかけている。少し気温の低い廊下のひんやりとした空気が頬にあたり、自分が高揚して体温が高くなっていた事をミサトはやっと気づいた。
「アンドリュー・リトル。十八歳か……」
 ミサトはこの時からアンドリューの事が自分の心の中心にあって離れなくなっていた。


to be  continued……







「サ……サト……サト……」
 はぁはぁと肩を大きく上下させて自分の名前を呼ぶ少年を、ミサトは放っておくなどできるはずもない。
「大丈夫ですか?」
 少年は右手の義手を体から外され、肩のすぐ下あたりから何もない右手をかばうように左手で逆向きのシーツをぎゅっと指が白くなるまで握りこんでいる。
ミサトは握り込んだ彼の手をシーツから外すと、代わりに自分の手を少年に握らせた。
「サ…サト……?」
「ええ、私がサトです」
「サト……なのか? よ……よかった……生きていたのか」
 はぁはぁと荒い息の合間に、少年は自分と別のアルフォンスと間違っているのか、焦点の合わない金色の瞳で天井を見つめている。
「私ですよ」
 嘘をつくつもりなどなかった。
 ただ……サトなのか? と聞かれてそう答えただけ。
 目の前の少年が求めているサトは自分ではない事だけは確認できたが、ミサトにはこの場で間違いだと正す事がとても躊躇われたし、とても罪な事に思えた。
 同情?
 そんなものはここでは不要だ。
 今は戦乱の世の中である。
 ボランティアでこの病院で助手をするようになってから、ミサトは同情がなんの役にもたたないと言う事は百も承知していた。けれど目の前の少年が自分とは違う《サト》を求めているのがわかっていても、嘘でもいいから今は彼を安心させてあげたかった。
 嘘でも自分が彼の言うサトだと名乗る事で、今の苦しいこの環境を彼が乗り越えられるのなら、彼のサトになれればいいと心から願わずにいられない。
「……私はここにいるよ」
 ミサトが名乗りながら自分の手を握らせると、少年は安心したのか薬が効き始めたのか、すぅと吸い込まれるように眠りに入っていった。
 少年は眠りについてもぎゅっと握りしめたミサトの手を離す事はなく、ミサトは少年の長い睫を見つめたまま、自分とまちがえているもう一人のサトと目の前のこの少年はどんな関係なのだろうと思いをはべらせていた。


to be  continued……




   2


 トミナガ・ミサトは十七歳になったばかり。
 本来この国に戦争などなければ将来医師を目指して医大生になる為勉学にいそしんでいたに違いない。だが、数年前から続いていたキナ臭い情勢が一気に国中を多い、この国は二年ほど前から本格的な戦闘状態に入っていた。
 当初はすぐに勝利して戦争も終わるだろうと楽観していた軍の上層部の読みと違い、月日が経つにつれ情勢は悪くなる一方だった。段々と戦争が長引く傾向になり、気がつくと軍の兵士も軍属だけでは人数が足りなくなっていた。
 とうとう半年程前からは未成年の兵士も志願兵として戦地へ赴くような情勢になっていて、ミサトの学校の先輩や同級生もまた志願兵として戦地へ向かう者も大勢いた。
 ミサトもまたその煽りを受けて、やりたい勉学もろくに出来ない状態が続き、気がつくとここ野戦病院の医師の助手としてボランティアをしている。
「おい。ミサト。そっちが終わったらこっちの患者の包帯を変えてくれ」
 ミサトは見習いと言っても、人当たりがよく、頭の回転は速い。教えればすぐに覚えてしまい、何でもそつなくこなすという器用な性格が幸いしてか、ボランティアで病院へくるとすぐに即戦力になる助手として仕事をしていた。
(あの少年は誰なのだろう。どうして私のあだ名を知っている?)
 ミサトは医師に言われた通り患者の包帯を巻き替えながらずっとあの少年の事が頭の中から離れなかった。
 ようやく医師に言われた通り患者の処置が終わろうとする頃、他の部屋の担当スタッフがミサトを呼びに来た。
「ミサト、ちょっと来てくれないか?どうやらお前の知り合いじゃないかと思うんだが……。手が空いているのなら少し見てやってくれ」
「知り合い?」
「ああ……さっき運ばれた患者なんだが、しきりにお前の名前を呼んでいるんだ。さっき担架で運んでくれたヤツからこの患者はお前に話しかけていたと聞いたんだが。知り合いなんじゃなかったのか?」
 ミサトは医師に言われ、先程の少年の事が頭をよぎった。きっとあの彼の事なのだろうとミサトは思い浮かべながら返事をした。
「いえ……特に知り合いと言うわけでは……」
「まあ、とりあえず一度来てみてくれ」
 ミサトは言われるとおり案内された病室に行くと先程の少年がはぁはぁと荒い息をしながらベッドに横たわっていた。
 見ると足を怪我しているようで、大げさに巻かれた包帯からも血が滲んでいる。少年にしては美しすぎるその容姿は一目をひくのには十分だが、ミサトが驚いたのはそれだけではなかった。
 先程少年が担架から落ちないように手を添えた時に感じた違和感。もしかして義手かとは思ったが、その時感じたものは間違ってはいなかった。しかも手だけではなく、怪我をしていない方の足も義足だったらしく、ベッドの横には体から外された右手と左足の義手と義足が無造作に置かれていて、それが妙に生々しく感じられる。
「ああ…ミサト。ちょっとこの子の側についてやってくれないか? 多分お前とそう歳はかわらんと思うのだが……見ての通り片腕、片足、義手と義足だ。それも一部壊れているようだし、今は処置に邪魔だから外してる。これで残っている足まで動かなくなったら、まだ若いのに気の毒だよな。ずっとお前の名前を呼んでいる姿を見ているとちょっと可哀想で……。俺はその間他の病室を巡診してくるから。もうすぐ痛み止めが効くはずだから、せめてそれが効いて落ち着くまでお前が見てやってくれ」
 医師は側に置かれた義手と義足を指さしながらそう言うと、ミサトの返事も待たずに少年が寝ているベッドの側を離れて行った。
「……わかりました」
 完全に周りの者は、この少年と自分を知り合いだと思っているらしい。
 ミサトは医師に目の前の少年は別に知り合いではないと言おうとしたが、痛みをこらえながら眉間に皺をよせる少年の顔を見ると何も言えなかった。
 理由はわからないが右手、左足が義手と義足なだけでも健常者から見れば随分と気の毒な事に思えるのに、それにも増して残っている生身の右足までも大きな怪我を負っている。 見たところ確かに自分と同じくらいか少し下にしか思えない未成年の少年が、ミサトにはとても哀れに、そしてか弱げに見えた。


to be  continued……





  トミナガ・ミサトは、担ぎ込まれた目の前の少年を見て息が止まるのを自覚した。
 閉鎖された小学校を臨時に譲り受けた野戦病院は、すでにたくさんの患者でごったがえしている
 自分と年齢の変わらない少年達が次々と戦場へと送り込まれ、そして散ってゆく。
 段々と戦火の厳しくなってゆく中、そのまま帰らぬ人となる者も多く、けして人手が多いとは言えない救護班の奮闘にもかかわらずそのまま野戦病院へと運ばれればまだよい方だった。
 大多数のものはまだ息があるのにもかかわらず、手当を受ける事もできずにこの世を去る運命にある者も少なくはない。そういう観点からすると目の前のこの少年は運が良かったのだろう。
 遠くから見ていても目を引く容姿。美しい金髪を肩に流した風貌は、錯乱する戦火の中でもひときわ目立つ。数ある患者の中でも限りある担架に救護班が彼を運んだのもなんとなく納得がいった。
 長い金髪を後ろでひとまとめにし、救護班から担ぎ込まれた担架の上で顎を上に突き出し、怪我の痛みのせいか時折形のよい眉に皺を寄せている。
 荒い息を吐く度に、肩が上下するのがわかる。かなり体力を消耗しているようだ。
「大丈夫ですか?」
 ミサトは声を掛けられずには、いられなかった。
 これだけ痛がっているのだ。返事をするのも億劫だろう。
 患者を毎日相手にしているというのに、まだまだだなと思う。
 少年は片足を怪我していない片手で押さえ込むと、痛みの為か担架の上で膝をまるめようとした。
「君、少し我慢して。まっすぐ寝ていないと担架から落ちてしまうよ!」
 担架を運ぶ救護班の一人の大男は上から怒鳴るように言い放った。それを側で見ていたミサトが慌てて少年が落ちないように手を差し出す。片足を押さえた手の上にミサトの手が添えられるとなんとなく違和感があった。
(もしかして義手?)
「ミサト、何をしている!早くこっちの患者の手当を!」
「あ、はいっ」
遠くで医師に自分の名前を呼ばれて一気に思考が引き戻される。
ミサトは慌てて返事をすると、少年が担架から落ちないようにだけ少し体をずらしてやり、名前を呼んだ医師への元へと体を向けようとした。
「……サ……サト…なのか?」
 ミサトがその場を立ち去ろうとしたとたん、誰かが自分の名前を呼んだ気がした。
(誰だ? 私の名前を呼ぶのは)
 騒々しい野戦病院の一室を見渡すと、自分の名前を知っていそうな者は先程自分の名前を呼んだ医師ぐらいなものだ。
 ミサトはいつもここでは名前でしか呼ばれた事はなく、あだ名の「サト」と呼ぶ者の心当たりはまったくなかった。
一瞬キョロキョロと見渡すと、自分の着ていた白衣が引っ張られる感覚があった。
「サト…だろ……?」
見ると先程の少年が自分の白衣の裾を握って名前を呼んでいる。
「どうして……私の名を?」
「………」
 金髪の少年は何か言おうとしたが、すぐに担架は動き出す。
 動き出した担架をミサトは追いかけようした刹那、再び先程の医師が自分の名前を怒鳴っているのを耳にした。
「ミサト!」
「あ、はい。今行きます」
 ミサトは仕方なく担架を追いかけるのを諦めて、後ろ髪を引かれる思いで名前を呼んだ医師の元へと今度こそ駆け出した。


to be  continued……





第三章 理想の旦那


     3


 翌朝、俺は息子の声で目が覚めた。
「父さん、そろそろ起きてよ。シーツ洗濯したいんだけど」
 しぶしぶと目を開く。遮光カーテンを隆司が開けてくれると、ダブルベッドに一人で寝ている自分の姿が浮かび上がる。広いベッドが、やけに寂しかった。
「今、何時だ?」
「そろそろ十一時になるよ。いくら土曜日で休日だと言っても、早く洗濯して干さないと、乾かない」
 ひとみがいなくなって、隆司と陽司が手分けして家事をしてくれる。全部ひとみが躾けしてくれていたので、食事以外は、生活に困らなかった。
 ひとみがいる時は、隆司と陽司は仲が悪かったように思えた。けれど、今は、二人で協力して家事をやってくれている。
 俺より、息子たちのほうが、ずっと生活能力があるなと思う。俺はダメだ。何もする気にはなれなくて、休日ともなると、のんべんだらりと、睡眠を貪るのが関の山だった。
 昨夜、ひとみの部屋に行って謝った。ひとみには「子供みたいなこと言わないで! 勝手なことしたのは、そっちの癖に!」と、たたき出された。
 全身全霊、誠意を込めて自分の気持ちをぶつけてみたつもりだが、ひとみには響かなかったようだ。
 これは、自分がしてきたことの罰だ。俺は今までの行動を反省して、ひとみに部屋を追い出されてすぐ、浮気女に電話をした。「悪いけど、別れて欲しいんだ」と。
 口論になるかと思っていたが「そうなの。じゃあ、別れましょう」と、ぶちりと電話は切れた。それで終わりだった。所詮、女にとっても、俺は数あるうちの男で、いなくなっても何も困らない人間だったのだ。

 俺はとんだ勘違い野郎だった。女と別れるとなっても、口論にすらならない。考えるとむなしくなった。
 これで俺の側には誰もいなくなった。本当にいなくなった。


「父さん、具合悪いの?」
 ベッドから、なかなか出ない俺を、隆司が心配顔で尋ねた。ベッドの中から見上げると、身長一八○センチはある隆司の背が、余計に高く感じられた。
「いいや、大丈夫」
 隆司はすでに俺より背が高い。双子の陽司ももちろん俺より背が高かった。
 今まで家庭を顧みず、仕事だ。女だ。と、ほとんど子育てはひとみにまかせている間に、息子たちはこんなに大きくなっていたのか。
 そうだった。女と別れて、寂しいと思っていたけれど、俺には二人の息子たちがいる。
 なぜだか、じんわりと心の奥が温かくなっていた。
「大丈夫なら、さっさと起きて。シーツ剥がすから」
 俺がベッドから立ちがるなり、隆司は手慣れた様子でシーツを剥がしていく。 
 その時だった。インターフォンの音がした。
「陽司! 陽司出てくれ!」
 隆司が叫んだが、すぐに「ああ」と面倒くさそうに項垂れた。
「どうした?」
「そうだった。隆司はコンビニに、朝メシを調達に行っている」
 シーツを剥がす手を止め、隆司は玄関に向かおうとした。
「俺が出てくる。どうせ、宅急便か、何かだろ」
 俺は寝室を出て、階段を降り、インターフォンを押した相手も確かめず玄関のドアを開けた。
「……ひ、ひとみ!」
 玄関ドアの前には、スーツケースを引いた妻が立っていた。
「まだそんな格好しているの? もう陽はとっくに上がっているわよ」
 言われて自分の格好を改めて見た。掛け違えたボタンのパジャマをだらしなく着流し、無精髭も生えていた。慌ててボタンを正しく留め直そうとしたが、指が震えて上手くはまらない。見かねたひとみが、ボタンを直してくれた。
「お、お前……戻ってきてくれたのか?」
 驚くほど、自分の声が震えていた。ひとみが口を開こうとすると、外から「母さん!」と声がする。
 後ろを見ると、コンビニに朝食を調達に行っていた陽司が、コンビニのビニール袋を下げて戻って来た。
「そんなモノ食べているの? ダメでしょ。ちゃんとしたモノ食べないと」
「じゃあ、母さんが何か作ってよ。隆司も腹すかせているから」
「……まったく。アンタもお父さんも、しょうがないわね。そんなんだと、いつまでたっても理想の男にはなれないわよ。次ぎは料理を覚えてみる?」
 ひとみは屈託のない顔で、笑っていた。久しぶりに見る笑顔。年相応に皺はあったが、憑きものでも落ちたようなすっきりとした顔をしていた。
 ひとみは、こんなに綺麗な女だったろうか――。
「母さんが言う理想の男ってなんだよ」
 ひとみはしばらく考えた末、苦笑しながら答えた。
「そうねぇ。欲しいものを欲しいって言える男」
「なんだ? それじゃ我が儘なただのガキじゃねーか。意味わかんねー」
 陽司が口を尖らせた。
「いいのよ。男なんて、基本、我が儘なんだから。でも、ちゃんとそれが言えれば、大概の女はついてゆく」
「えー。そんなんでいいの?」
「但し、欲しいものを手に入れるための努力は、惜しんじゃダメよ。陽司も、本当に好きな子ができたら、わかるかもね」
 ひとみはちらりと俺に双眸を向けると、陽司と腕を組み、家へ入った。
「隆司! 母さんが帰ってきたぞ!」
 階段を駆け下りる音が、玄関先まで聞こえた。隆司の喜ぶ顔が、目に浮かぶようだった。
 これは、戻ってきてくれたと解釈していいのだろうか――。
 ひとみの後ろ姿を見つめながら、俺は頬が弛むのを感じていた。        了 

      2



 俺は半畳ほどの三和土に立った。男に「上がれば?」と、勧められたが、「いえ。すぐに返りますから」と断った。
 男の部屋は、ひとみの部屋と対象の間取りだった。玄関の直ぐ横に、外廊下に並行に一見のキッチンと、六畳一間。キッチンの横には、一つしか扉がない。おそらく、浴槽、洗面、トイレの三点セットのユニットバスに違いない。男の一人暮らしにしては、割合綺麗にしていた。
 もしかして、ひとみはこの男の部屋の掃除もしているから、綺麗なのかも。考えると、再び俺は腹の底から熱くなった。
 ひとみは、ベッドに腰掛けていた。若干、ベッドは乱れていた。
 ワンピース姿で、髪を下ろしたひとみと目があった。家ではワンピースを着ている姿なんて見た記憶がなかった。これも、この男のために……と考えると、腹立だしい気持ちに拍車がかかる。ひとみを睨み付けると、我慢ならなかったのか、先に視線をはずされた。
「ひとみ! お願いだ。家に帰ってきてくれ!」
 男を無視して、話しかけた。押し殺した声が、自分でも恐ろしく低い声だった。
 本当は、引っ張ってでも連れて帰りたいが、ひとみは納得しない。だが、このままひとみをこの部屋に置いていくのは、嫌だった。
 俺は勝手に靴を脱ぎ上がると、ひとみの腕を掴み、素足のまま、外へ連れだした。
「なにするの! 今更、亭主面するのは止めてよ!」
 まったくその通りだった。女にしてみれば、俺は最低の男で、最低の夫だと思う。もし、俺が女なら、俺みたいな男とは、付き合いたくなくと思う。
 ひとみに睨まれ、ひるみそうになるが、俺は腕を放さなかった。片廊下に出ると、夜風が身にしみて寒かった。切れかけの蛍光灯の灯りが、チカチカと点滅を繰り返している。 廊下に引っ張り出したのはよかったけれど、衝動的に動いたので、ここから先の行動をまったく考えていなかった。
「とにかく、話し合おう」
「話し合って、どうするつもり? 女と別れたの? なにも自分じゃ決められない癖に!」
 面と向かって言われ、ショックだった。
 本当にひとみが大事なら、浮気現場を目撃された時に、その場で謝り、別れればよかったのだ。なのに、俺ときたら、浮気女とも未だに別れることもできず、ずるずる関係を続けている。
 浮気相手の女にとっても、俺は浮気相手だった。ひとみに浮気がばれた後に知ったが、今更後には戻れないと思った。
 ひとみと別れることになれば、一人になる。女がいなくなるのは、寂しかった。
 俺はこんなに寂しがり屋だったろうか。こんなに情けないダメ男だったろうか。
 猛烈に反省すると共に、目の前の女が、とても愛しくて、誰にも渡したくないと思った。
 喧嘩になっても、とにかくひとみには謝ろう。
 離婚の結果になったとしても、許してもらうまで謝るしかない――。
 今まで浮気した女と別れることもできずに、宙ぶらりんでいた気持ちが、すっと波が引くようになくなり、決心がついた。
「ひとみちゃん、これ」
 隣人の男が、廊下にひょっこりドアから顔を出した。手にはひとみの靴とバッグを持っている。
 そうだった。無理矢理ひとみを外に連れだしたので、俺もひとみも靴は履いていなかった。ひとみは黙って男から受け取ると、続けて男は、俺の靴も投げてよこした。
「ちゃんと話し合いな。俺はいつもで、ここにいるから」
 男はひとみにウインクを投げ掛け、パタリとドアを閉めた。
 なんだ? 人の妻にウインクをするなんて。お前は、どこのジゴロだ!
 猛烈に隣人の男に負けたくない気持ちが沸き上がった。
「今の男はなんだ? 何をやっている男だ? 好きなのか?」
 俺はひとみに、矢継ぎ早に質問した。
「私の中学時代の友人。AV男優をやっているって。でも、今更でしょ? 私が貴方以外の男を好きになっても、関係ないでしょ!」
 売り言葉に買い言葉。ひとみの言葉を聞いて、更に俺は頭に血が上った。AV男優と聞いたらから、尚更だったのかもしれない。先程、部屋から聞こえたひとみのよがる声が脳裏に巡る。俺は、今までひとみを悦ばせていられたのかと思うと、自信がなかった。
「お前、遊ばれているんじゃないのか? いい年して、みっともない!」
 俺はかっとなって怒鳴ったが、ひとみは無視していた。文句を言い返さないのに、余計腹が立つ。
 ひとみは寒そうに身震いし、バッグから鍵を出すと、自分の部屋の玄関ドアを開けた。さっと入り灯りを点ける。ドアを閉じる刹那、振り向いた。
「入れば?」
 投げやりないい方だった。けれど、心の片隅に辛うじて、俺を気に掛けてくれると思うと、なぜだから嬉しかった。慌ててひとみの部屋に入った。
 入ったとたん、俺は半畳分しかない三和土に額を擦り付け、謝った。
「俺が悪かった。お願いだ。戻って来てくれ」
「本当にそう思っているの? 私とヤりたいから、言っているだけじゃない?」
 嫌ないい方をされた。そういえば、以前も同じことがあったと思い出した。
 前にひとみに謝りに来た時、同じように玄関先で謝り、中に案内された俺は、足をしびらせ床に倒れた。
 支えようと手を出したひとみを抱いたのは事実だ。
 勢いでそうなったのだけど、ひとみが「またなの?」と言うのも頷けた。
「女とは別れる。一生、お前だけとしか寝ない。大事にするから、戻って来てくれ!」
「何、調子のいいこと言っているの。今まで散々、遊んできた癖に。私が知らなかったとでも思うの? 絶対に騙されない!」
「違う! 今度は違う! お願いだ。あの男だけには、お前を渡したくない!」
「ほら。本音が出た。私が他の男に抱かれるのが、嫌なだけじゃない。自分は浮気した癖に。自分勝手過ぎる!」
 まったく、ひとみの言う通りで、何も反論できなかった。心のどこかでは、男の浮気は許されると思っていた節があるのは事実だった。
 罵られてもいい。妻には戻って来て欲しい――。
 俺はいつの間にか、涙を流していた。興奮して鼻水も垂らす。鏡で見たわけではないけれど、今は、凄い形相をしているはずだ。まるで幼子が、玩具が欲しいと駄々をこねているようなものだが、それでも、これだけは伝えたい。
「俺はこの通り、ダメ男だ。きっとお前の理想の旦那とは違う。でも……」
 言いながら、この会話は壁の薄い隣人の男も聞いているのだろうな。と思った。別に聞こえてもかまわない。むしろ、俺の気持ちを隣人の男にも知っていて欲しい。ごくりと息を飲む。

「ひとみが欲しい! どうしても欲しい! 俺はお前じゃなきゃダメなんだ!」
 
 一際大きな声で、言い放つ。ひとみは、信じられないと言った顔をしていた。


to be  continued……