一期一会 -6ページ目

一期一会

本も人の出会いも一期一会。時々読者、時々物書き。好きな本やコミック感想を中心に、日常のつれづれと共につぶやいていきます。

7



 芳美と瑠実は、待合室で看護師と待っている薫の側へ戻った。

「瑠実ちゃん、どんげやった?」

 にこにこしながら、検査結果を尋ねる薫は、まるで少女のようだった。

 邪険のない瞳で、瑠実の顔を窺っている。どう返事してよいものか、考えあぐねていると、脇にいた芳美が、椅子に座っている薫の隣に腰を下ろした。

「おばあちゃん、心配せんでいいっちゃからね。私がついちょるから、大丈夫よ」

 まるで幼い子供に言い聞かせるように芳美が諭すと、薫は何かを感じ取ったのか、その先の言葉を求めた。

「私は、何の病気ね?」

 薫にしてみれば、不安なのだろう。いきなり病院に連れて来られ、いろんな検査を受けさせられたのだから。

 瑠実と芳美には「虎之助の通夜で大変だったから、病院に行ってみよう」と言われただけなのに、思ったより大がかりな検査ばかりで、何か病気を患っていると感じたらしい。

 ON/OFFのスイッチがあるとすると、今の薫の状態は、ONの状態なのだろう。今なら比較的スムーズに会話が成立すると思った瑠実は、薫の目の前に腰を下ろした。

「おばあちゃん、落ち着いて聞いてね。おばあちゃんは、自分じゃわからないじゃろうけど、病気になっているんだって」

「だから、何の病気やと?」

 瑠実は少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。

「……脳の病気だって」

「脳? もしかして、私がボケたとでも言うとね? 惚けちょる暇はないとよ。そんげな時間があったら、早く宝探しをせんと! 雲ん中は探したとね?」

 瑠実は静かに顔を横に振った。

 薫は瑠実の様子を見たとたん、穏やかだった様子から一転、その場で立ち上がり、出口を目指して、よろけながら歩き出した。

「おばあちゃん!」

 薫は瑠実が呼び止めるのも聞かず、病院のエントランス・ホールを、よろよろと歩いている。

「どこに行くとね。おばあちゃん」

 芳美と側についていた看護師も薫を追いかけたが、薫は聞かなかった。瑠実が慌てて進行方向の前に立ち塞がった。

「どこって、宝探しをしに行くとよ。はよ見つけんと、いかんが!」

 薫は必死な様子で出口を目指した。

 両手を左右に一生懸命に振るが、脚はそれほど動かない。前方の瑠実が邪魔だからか、横から抜けようと必死だ。

「おばあちゃん、待ってん!」

 芳美も追いかけ、後ろから羽交い締めにしたが、老婆ながら抵抗した。人間、必死になると、馬鹿力を発揮するものだ。

「待って、おばあちゃん。宝探しなら、私がするが!」

 勢いで瑠実が叫ぶと、ようやく薫は立ち止まった。

「ホントね?」

 振り向きざまに見せた薫の顔は、まるで少女のようだった。無垢な瞳で薫に見つめられると、逃げられなくなる。瑠実は思わず返事をした。

「うん」

「瑠実が探してくれると?」

 再び薫は、瑠実に尋ねた。

 改めて訊かれると、自信はない。けれど、瑠実が宝探しをすると言わなければ、薫はもっと悲しみ、ともすれば、今以上に認知症の症状が進むかもしれない。

 今は嘘でもいいから、宝探しをすると言うべきだろう。

(私がやると言わないと、薫を救えないかもしれない)

 瑠実は半分は自棄になりながら。半分は自分自身に言い聞かせながら、二度「うん、うん」と大きく返事をした。

 瑠実の返事を聞いた薫は、ようやく納得したのか、その場に座り込んだ。




to be  continued……







 翌朝、薫の様子が心配だった瑠実と芳美は、薫を病院へと連れて行った。

 薫は日常生活に支障がないものの、最近、歩行が困難気味だったり、時々、物の名前を認知できない時があった。

 それは高齢だから多少は仕方がないと、周りの者は思っていたが、それだけではないらしい。

「雲ん中、探せばいいとよ」

 薫が何かに取り憑かれたように言うのを、誰も本気にはできない。

 夕べの薫の主張した一件から、ようやく目を背けていた現実と付き合う状況になった、というのが本当のところだろう。

 医者に今までの経過を説明し、検査が行われた。

 脳波チェックにCTスキャン、レントゲン。面接試験も行われ、瑠実と芳美は、検査の間、心配で生きた心地がしなかった。

 虎之助の急死、隆司の逮捕。それに加えて、薫の様子がおかしいとなると、どう対処すればいいのだろう。この先、芳美一人で対応するのは無理だろう。

 ようやく検査が終わり、瑠実と芳美が呼び出された。

「先生、おばあちゃんは大丈夫なんでしょうか?」

 瑠実は医者に問い掛けた。医者は渋い顔をしながらも、淡々と説明をしてくれた。

「残念ながら、薫さんは、認知症の疑いがあります。詳しい検査をしてみないとわかりませんが、アルツハイマー型認知症の場合、根本的治療法が見つかっていないので、今後、日常生活に支障を来してくるでしょう。今はまだ、第一段階のようなので、今すぐどうこう、というわけではありません。ですが、今は有効な薬も出ています。通院しながら、しばらく様子を見ますので、家族の皆さんは、できるだけ会話をして、本人に考えさせる機会を作ってあげてください」

 ショックだった。

 少なからず、人間は歳をとれば、身体も頭も老いてゆくものだろう。今までお茶の師匠をしていたせいか、同年代の人に比べて、薫は若く見えた。

「瑠実のおばあちゃんは、若いね」

「いつも姿勢がよくて、カッコイイね」

 薫を見た瑠実の友人は、皆、自分の祖父母と比べるのか、口を揃えて褒めた。しかし、薫も七十歳だ。けして若くはない。世の中の基準では、しっかり高齢者にカウントされる年齢なのだ。

「瑠実、心配せんでいいよ。おばあちゃんが悪くなっても、お母さんが面倒を見るから」

 思い詰めた顔をしていたのかもしれない。心配を掛けまいと、芳美が微笑んだが、頬が細かく震えていた。

「お母さん……」

(この人に、全部を背負わせるわけには、いかないだろうな)

 漠然と思う。

 芳美は無理して強がっているが、薫が認知症だとわかり、身の回りの世話はできたとしても、これからの生活は、どう遣り繰りしたらいいだろう? 

 隆司は逮捕され、いつ釈放されるのか皆目わからない。虎之助の会社は倒産寸前だし、救う手立てはお金だというけれど。瑠実は学生の身分で、家のために何もできないのがはがゆかった。



to be  continued……





隆司は、警察の事情聴取が未だ終わらず、通夜には出席できなかった。虎之助の最期を看取れなかったのは仕方ないにしても、通夜には出席したかっただろう。この様子だと、葬儀も出席できるかわからない。

 親戚の中には、隆司が通夜に出席できないのを、批難する者もいた。

 周りに迷惑をかけぬよう自粛したと、その場を納めたが、全員が納得したわけではなかった。不満顔で通夜に出席する者もいて、故人の死を悼むどころではなく、殺伐とした雰囲気だった。

 親戚の中には「会社は、隆司さんに潰されたね」だとか「香月家の恥じゃわ」と、隆司の陰口を叩く者もいた。

 瑠実は聞こえない振りをしていたが、実父の悪口を言われるのは胸が痛い。言い返してやりたいけれど、何もできないのが腹立しかった。

 ようやく、通夜も終え、控え室に戻った芳美が、堪りかねて瑠実にこぼした。

「瑠実ちゃん、会社は大丈夫やろうか?」

 心配なのは、よくわかる。あれだけ親戚に陰口を叩かれれば、不安になるのは仕方がない。

 どう返事をしようか考えながら、瑠実が口を開き掛けたとたん、真野と古賀が、薫を介助しながら控え室に入ってきた。

 薫は、がっくりとうなだれ、歩くのも覚束ない。今まで長年お茶の師匠をして、姿勢のしゃんとした人だったのに。ずいぶんと人間は変わるものだ。

 瑠実は初めて見る薫の姿に、驚いていた。薫にしてみれば、よほどショックが大きかったのだろう。見た目も高齢の加速度が増した気がして、気の毒に見えた。

 薫の前で、会社の心配まで掛けたくはない。

 芳美には「おじいちゃんの通夜も終わったばかりじゃから。その話はまたあとでね」と、はぐらかしたが、瑠実も心配で居たたまれなかった。

 もしかしたら、暢気に大学生活を送っている場合ではないかもしれない。今後どうなってしまうのだろう。何か手立てがないものかと考えるが、学生の身分では、どうすることもできない。

 手洗いに行きたいと言い出した薫に芳美が介助に付き添った隙に、瑠実はそっと古賀に話し掛けた。

「あの……会社は、大丈夫なんでしょうか?」

 今は通夜が終わったばかり。明日は葬儀も控えている。まだ、虎之助をちゃんと送り出してもいない時に話題にするのも相応しくないと思うが、心配なのは事実だ。

 古賀は真野に視線を向け、しばらく考えていたが、言いにくそうに口を開いた。

「隠しても判ってしまうやろうから、はっきり言っちょきます。正直に言って、存続ができるかどうか、私にも皆目わからんとです。明後日、役員会議が行われますが、今の実状から言えば、かなり厳しい状況じゃないじゃろうかと」

「それは、次期社長の父が、捕まったからですか?」

「それもあると思います。社長は、次期社長のお父さんがおらんでも、他の社員が候補で出てくる。じゃけど、候補が出てきても、一度こういう問題を起こして、信頼関係がなくなったら、会社はおしまいじゃけん。こうなったら、社長が誰かとの問題じゃないとですよ。信頼のなくなった会社に、誰も仕事は頼まんでしょう。それに……」

 古賀は一度ふっと口を噤み、考えながら言葉を続けた。

「……そのうち、銀行からの融資もなくなるかもしれん」

 要するに、このまま行くと会社は最悪、倒産の道を歩む、ということだろう。それくらいは、瑠実にも予想できた。

「問題は、お金ですか?」

 瑠実が尋ねると、古賀は真野に同意を求めるように、顔を見合わせた。

「真野さんは、ご存じなんですか?」

 古賀ばかり攻めるのは気の毒な気がして、今度は真野に尋ねた。

 真野も古賀と無言のままアイコンタクトを取っていたが、やがて思い切ったように口を開いた。

「今、古賀部長が言われて通りですわ。まだ表沙汰にはなっちょりませんが、工事をストップしたいと連絡があった物件も、出てきました。工事がストップすれば、工事費は払われません。最悪、このまま副社長が釈放されんかったら、会社は……」

 真野がその先を言う前に、手洗いに行った薫と芳美が控え室に戻ってきた。


 一瞬、芳美に聞こえたか? と瑠実が慌てた。

 だが、それには反応せず、代わりに薫が静かに呟いた。

「……じゃったら、雲ん中を探してみればいいが」

 どうやら瑠実と古賀達の会話が聞こえていたらしい。

「聞こえちょったと?」

「そんげな大声で話しちょるっちゃもん、聞こえちょるよ。ゆうたやろ? 雲ん中を探してみてん」

 薫は一人だけ納得顔で、頷いている。

「おばあちゃん、どういう意味ね?」

「雲ん中にね。宝物があるっちゃが。それを探せばいいとよ」

 その場に居合わせた者は、顔を見合わせた。

 雲の中に宝物? 意味不明だ。

「じゃから、雲ん中を見てみてん。宝物がどっかにあるって」

「薫さん、それは香月社長の遺産が、雲の中にあるという意味やっちゃろうか?」

 古賀が感慨深そうに薫に尋ねた。

「そうよ。宝を探すしか方法がないっちゃろ?」 

 薫は真野の腕を掴むと、真顔で訊いていた。訊かれた真野は困った顔をしながらも、「宝があればいいですね」と相槌を打つしかできない。だが、薫は本気で宝物が雲の中にあると信じているらしく、ひたすら説明を続けた。

「宝ものを探して、会社の借金に充てればいいが。そしたらみんな丸くおさまるやろ?」

 どこまで薫の言うことを、本気にしてよいのだろう。

 その場に居合わせた全員が半信半疑で訊いていたが、結局、薫が気でも触れたと結論づけたようだ。

 瑠実が、薫の顔を覗き込むと、目の焦点が合っていなかった。ぼそぼそと口を動かし、瑠実が薫の目の前にいても、薫の瞳は瑠実を捉えることはなく、ずっとどこか彼方を見つめていた。

「薫さん、大丈夫ですか?」

 古賀も、ただならぬ薫の様子に気付いたのだろう。

「今日は疲れたんでしょうね。ここはいいですから、薫さんを連れて、早く休ませてあげてください。明日もあるちゃし。明日の葬儀の準備は、会館と会社の者で済ませますから、来るのは午後遅くでいいですよ。薫さんが心配なようなら、午前中、病院に連れて行くといいが」

古賀の助言により、その場にいた者は、なんとなく納得した。きっと祖母は、疲れて暴言を吐いているだけだと。

 その夜は、遺体の側には叔母夫婦が付き添ってくれるというので、それに任せて、瑠実たち家族は、家に戻った。




to be  continued……






 4


 実家に遺体が戻ってきたのは、昼前になっていた。

 病室にいた瑠実の家族と真野も一緒に移動し、真野が会社に連絡を入れてくれたのか、社員も数人、手伝いに来てくれた。

 通夜と葬式の会場が決まるまで、遺体は家に安置された。

 葬儀場で葬儀を行う場合、予約が取れれば、直接病院から仏様を運ぶ。だが、夜中に亡くなった場合、葬儀場の予約がとれないし、予算や宗教関係の手続きの話もあるので、通常、一度は自宅に運ばれる事例が多い。

 仏様が自宅に戻った間も、近所や親戚、会社関係の人々が挨拶に来るので、大忙しだった。

 結局、隆司は虎之助が危篤の夜も、戻って来られなかった。

 社葬にするかどうか議論に上ったが、副社長である息子の隆司がまだ釈放されない今、なにかと問題も多い。とりあえず、葬儀は親戚を中心に、葬儀場の会場を貸し切って行われる予定となった。

 だが、集まった親戚一同は、瑠美たち家族には冷たかった。

 すでに隆司が警察に連行されているのが、耳に入っているのだろう。親戚から警察沙汰になった者がいるとなると、体裁が悪いようだ。

 瑠実も隆司の事件が気になってはいたが、まだ警察に面会に行く暇もなく、何が何やらわからない。誰も一睡もできず、祖母の薫に至っては、黙って虎之助の遺体に寄り添っているままだ。誰しも疲れ切っていた。

「おばあちゃん、少し横にならんと、身体が保たんよ」

 芳美が心配して声を掛けた。だが、薫は耳に入っていないのか、放心状態で、遺体を見つめている。

「おばあちゃん、私と一緒に寝ようか?」

 たまりかねた瑠実が一緒に寝ようと誘った。それでも薫は、虎之助の横で、びくともしなかった。長年ずっと連れ添った相方の脇から離れたくない様子だ。

「おばあちゃん、聞こえちょっと?」

 瑠実が薫を揺すりながら顔を覗き込むと、目の焦点が合っていなかった。

「おばあちゃん……?」

 様子がおかしい。寝ていないからだろうか。 

 確かに、老体に徹夜は厳しすぎたと思う。けれど、場合が場合だけに、仕方なかった。

 薫も、最愛の夫である虎之助を亡くし、最期を看取りたい気持ちは、よくわかる。

 誰しも薫を労らなかったわけではないけれど、最愛の人を亡くした心の痛みがわかる分だけ、声を掛けそびれたというのが現状だった。

 再び、瑠実は薫に「大丈夫?」と、声を掛けた。それでも、返事がなかった。

 様子がおかしいと思ったが、虎之助の死に直面してショックを受けているからなのだろう。瑠実が半ば強引に薫を連れ、就寝させた。



to be  continued……








   3


 仄かに嬉しそうな表情をするのが見て取れ、少しだけほっとする。瑠実の隣に芳美も付き添い、虎之助の顔を覗き込んで、安堵の表情を見せた。

「おじいちゃん、瑠実がわかるっちゃね」

 うん、うん、と一人、満足そうに芳美がいうと、それに反応するかのように、虎之助は顔を瑠実に向けた。

 小さく、口元が動いている。酸素マスクの下で呟いているのを瑠実が見つけ、耳を寄せた。

「祐介は? 祐介は、どこにおる……?」

「祐介って誰?」

 一瞬、祐介が誰だか、わからなかった。

 息子の名前は隆司だ。危篤状態なのに息子の名前でなく、違う名前を呼ぶなんて。虎之助は倒れた拍子に、おかしくなったのだろうか。

 瑠実は余計にベッドに横たわる祖父が気の毒になった。

「おじいちゃんに、お父さんが警察に連行されたこと、ゆうたと?」

 小声で瑠実が薫と芳美に尋ねたが、二人は頭を横に振った。

「それに、祐介って、誰だっけ?」

 芳美と薫が目を合わせていると、廊下で待っていた古賀と真野が、病室を覗き込んだ。

「瑠実さん、ちょっと」

 真野に呼ばれて行くと、小声で報告された。

「今、警察に電話をしてみたとですが、副社長は、事情聴取があって、病院には来られんそうです」

「そんな! いくら事情聴取だと言っても、祖父の一大事なとに! もし、間に合わなかったら、どんげしてくれるんですか?」

 瑠実は食ってかかっると、、古賀が横から口を挟んだ。

「すいません。私からも、警察に進言してみたとですが、却下されたんですわ」

「警察は血も涙もないちゃろうか!」

 瑠実が興奮気味にしていると、病室の中から、芳美が顔を出した。少し声が大きかったのかもしれない。慌てて瑠実は手で口元を押さえた。

「我々は、そろそろ……」

 家族が水入らずの場所に、自分たちは邪魔だと考えたらしい。挨拶をして、先に帰ろうと、真野と古賀がお辞儀をした時だった。

 芳美が「真野祐介さんはおられますか?」と、名前を呼んだ。

「俺、ですか?」

 そうか、真野の下の名前は祐介だった。と、今更ながら瑠実は思い出した。

「すいません。お先に」と廊下を行く古賀とは別に、真野が病室に入っていった。


 ベッドの周りには、祖母の薫、母の芳美、それに瑠実がいた。それに真野も加わり、四人で虎之助を囲む。瑠実は薫に椅子を勧め、ゆっくりと座った。

「おじいちゃん、気分は、どんげね?」

 薫が声を掛けると、虎之助はゆっくりと息を吐き、つけていた酸素マスクを取りたいと仕草をした。

 何か言いたいのだろう。薫が耳に当てたゴムを片方だけ少し外してやると、虎之助は声を絞り出すように、やっと声を出した。

「今のうちに……言うちょく。わしに何かあったら、みんなで遺産を分けれ。場所は……薫が知っちょる。いいな? 薫」

 薫は、痩せ細った祖父の手を、大事そうに皺だらけの両手で包んだ。

「おじいちゃん! なん言よっとね。何かあったら困るがね」

 励ましのつもりなのか、芳美が明るく言った。だが、虎之助は真面目な顔だった。

「いいな? 薫」

 念を押す虎之助の声は、蚊の鳴くような声だった。やっとの喉の奥から絞り出すようにするけれど、かなり苦しそうだ。荒い息を吐き、肩で息をしている。

 喋るだけでも体力を消耗するのだと判る。酸素マスクを外しているから尚更だろう。

 苦しそうな虎之助の表情を察し、外した酸素マスクを薫が装着してやった。

「わかっちょる。でも、そんげなこつ、心配せんで、早く元気にならんとね」

 薫としては、ただ頷くだけでは、祖父が最期なのだと認めるようで嫌だったのだろう。肯定しながらも、釘を刺したくなるのは、仕方ない。少しでも強がっていないと、不安で胸が潰されそうなのが、痛い程わかった。

 その時だった。急に咳き込み、ベッドの側にあった医療機器が、異常音を発した。

「おじいちゃん! おじいちゃん!」

瑠実が呼びかけたが、虎之助は反応がなかった。慌ててナースコールを押し、看護師を呼び出す。 すぐに看護師と医者が駆け付け、処置を始めた。

 瑠実は目の前で行われている作業が、空言のようだった。淡々と作業がすすめられていくのを、黙って見ているしかない。

 その夜、虎之助は、手当の甲斐もなく、静かに息を引き取った。死因は脳梗塞。桜が満開の夜だった。



to be  continued……






 瑠実と真野を空港で待っていたのは、母の芳美と古賀哲夫だった。

 芳美は今年、四十六歳。自分の母親を捕まえて言うのもなんだが、歳の割には綺麗な人だと思う。天然なのところが珠にキズだが、若い頃は、相当モテていたと、父から聞いていた。

 古賀は、父の大学時代からの友人だ。母と父は同じ大学で知り合い、母は卒業と同時に結婚したので、母とも大学時代から面識がある。

 未だ独身だが、香月家に瑠実が小さい頃から父の友人として家に遊びに来ていたので、家族ぐるみの付き合いをしていた。

「瑠実ちゃんが戻ってきてくれて、よかったわー」

 芳美は瑠実の顔を見るなり、安堵していた。

 電話ではひどく戸惑っていたようだが、会ってみると、心配した程、芳美はうろたえていなかった。

「びっくりしたよ。それより、お父さんは?」

「お父さんは……その…」

 芳美は急に口が重くなった。もしかしたら隆司の話は、ここで出したくないのかもしれない。

「それより、おじいちゃんが危篤状態やとよ。一緒に病院に行って」

 お願いされるように芳美に言われて、瑠実もそれ以上、隆司について聞くことは躊躇われた。

「わかった。どこの病院やと?」

 瑠実が尋ねると、芳美が返事をする前に、古賀が口を挟んだ。

「車で来ているから、送りますよ」

 瑠実と真野は、古賀が運転する車で、芳美と共に祖父の入院先の病院へと向かった。

 病院に向かう車中、瑠実は芳美の隣に座った。

 思ったよりはしっかりしていた芳美だが、瞳の奥に不安げな色があるのを、瑠実は見逃さなかった。

 強がっているのだと思う。真面目な父が、警察沙汰の不祥事をしでかすなんて、浮気をされるよりショックだ。

 瑠実は言葉を選びながら、芳美だけに聞こえるよう尋ねた。

「お母さん、真野さんから聞いたよ。何かの間違いやろうから、大丈夫だよ」

 一生懸命、芳美を宥める言葉を掛けたが、芳美は上の空で聞いていた。隆司の事件がショックだったようだが、視線は運転する古賀に向けられていた。

「どんげしたと?」

 瑠実が声を掛けても反応しない。

「お母さん」

 膝を揺すり、名前を呼ぶと、ようやく思考が戻ってきたようだった。

「ああ、なんでもない。お父さんのことは、お母さんも信じてる。絶対、大丈夫だって。でも、警察に、それが証明できるやろうか?」

「証明? 証明もなにも、それが警察の仕事やろ。お父さんが犯人じゃないって判ったらいいだけの話。ここで心配しても、しょうがないやろ」

「うん。それはわかっちょるし、お父さんを信じちょるけど……」

「大丈夫だって」

 瑠実は、まるで自分自身に言いかけるように、言い放った。

    4

しばらくすると、車は祖父の運ばれた病院へ着いた。

 駐車場に植えられた桜の木が満開だった。そう言えば、東京の土産も、花も何も持たずに来てしまったと、後悔した。

 だが、急な帰省だったので、しかたがない。瑠実は自分の元気な顔を見せるのが虎之助にとって、最大の土産になると、勝手に理由をつけた。

 今時の病院は、内装もどこかのホテルのようだった。床こそ長尺シート貼りにラインが色分けしてあるが、病室に入ると、ベッドまわりの医療機器がなければ、ホテルの個室だと見間違うほどだ。

「私たちは、ここで待っちょります」

 一緒に来た古賀と真野は、気を利かせたのか、廊下で待つという。瑠実も芳美も納得して、病室に入った。

 祖父の病室は、特別室だった。ノックをし、部屋に入ると、すでに祖母の薫が付き添っていた。

 かつて社長を務めていた香月虎次郎は、今年で六十九歳になる。会社取締役としては、高齢の部類に入る。

 本人も、そろそろ世代交代を考えるようになっており、瑠実が今年の正月休みに帰省した時には、「来年の正月からは、ばあちゃんと一緒に、ゆっくりできればよかいな」と言っていた矢先だった。

 祖母は虎之助より一つ年上で、茶道、裏千家の師匠をしていた。

 二人が若い頃に大恋愛をし、一緒になったという話は、虎之助が酒を飲むと必ず出てくる。今も心配そうに、薫は虎之助の側に付き添い、手をじっと握っていた。

 虎之助が倒れた時でも、仲睦まじい二人を羨ましいと思ったのは、独り身の不満なのかもしれない。

 虎之助を見ると、チューブが何本も鼻や腕に繋がれ、酸素マスクをしたまま静かに眠っていた。今は小康状態を保っているようだ。

「瑠実ちゃん、帰ってきてくれたと?」

 薫はすでに泣きはらした顔をしていた。瑠実の姿を見たとたん、まるで拝むように両手を合わせて、すり寄ってくる。老体の薫が、余計に小さく見え、倒れた虎之助よりも、薫を見るほうが衰弱しきって哀れに見えた。

「おじいちゃんが、おじいちゃんが……」

 薫は泣き腫らした頬に、再び涙を流した。孫が駆け付けてくれたと、安堵したのかもしれない。

 薫にしてみれば、長年ずっと連れ添った虎之助が倒れ、心細い時にいて欲しいのは息子の隆司だろう。だが、隆司は警察に連行され、あてにはできない。

「おばあちゃん、大丈夫やと?」

「あたしよか、おじいちゃんが」

 瑠実と祖母の会話で、虎之助が目を開けた。

「おじいちゃん、瑠実が戻ってきてくれたとよ」

 虎之助は痩けた頬を緩めながら、瑠実を見つめた。



to be  continued……





瑠実と真野は、待たせてあるタクシーに乗り、羽田から福岡空港行きの最終便より一つ前の飛行機に乗った。

「どうにか間に合ったね。驚かせて、ごめん」

飛行機の座席のシートベルトを締め終わり、瑠実がやっと一息つくと、真野が一方的に口を開いた。

「俺は、真野祐介。君のお父さん、香月隆司副社長には、入社、間もない研修の時に世話になったっちゃわ。なんでも副社長の出身校が、俺と同じだったみたいで」

「出身校が? どっちが、ですか?」

隆司は地元の高等専門学校の建築学科を出て、技術科学大学に編入し、さらに大学院を出ていた。瑠実のように最初から大学の理工学部の建築学科を目指したのとは勝手が違うので、興味があるところだ。

「それが偶然にも、全部、同じだったんだよ。高専から技科大に編入して建築工学専攻の修士をとったとこまでも。大学院でも同じ教授だったから、いろいろ話も合ってね」

 かなり珍しいかもしれない。高等専門学校、いわゆる高専に進むには、中学卒業時の十五歳で自分の進路を有る程度まで決めていないと選択しないだろう。

 第一、最近の若者は、理科離れが進み、もしかしたら学校の存在さえ知らないかもしれない。

 技術科学大学、通称、技科大に進むにも、今の高専は専攻科を卒業し、論文が合格すれば、学士の学位はとれる。しがたって、必ず技科大にいくわけではないのだ。

 なにより、就職するには大学工学部卒業より、高専卒のほうが二歳は若いのだから、高専卒業後すぐに就職する道もあったわけだ。

 そう言えば、真野から感じる空気は、隆司と似ているところがあるかもしれない。不思議なもので、出身大学の特色により、進路もおのずと決まってくる。

 美大系の建築学科で就職するなら、商業建築やデザイン事務所に進む者が多いし、瑠実のような大学の理工学部建築科を出た者は、ゼネコン関係の会社に進む者が多かった。

「ふーん。そうなんだ。ところで、なんで真野さんは東京におったんですか? もしかして、わざわざ私を呼びに来たわけじゃないっちゃろ?」

「ああ。実家は北九州なんじゃけど、祖母の家が東京でね。もう亡くなったっちゃけど。用があって、東京に来ちょる時に、ちょうど会社から連絡があったから」

 なるほど。それで用意周到に飛行機のチケットも持っていたわけか。

 うっかり真野の前で博多弁を口にしてからは、今更、標準語で話す気は失せていて、瑠実は遠慮無く方言を使うようなっていた。

 どうせ今から実家に戻るのだ。いくら標準語で喋ろうとしても、地元に戻ると、つい方言が出てしまう。

 それに、真野も方言で話かけてくるものだから、今更ここで改まって遠慮しなくてもいいだろう。瑠実は、初対面ながらも安堵していた。


真野の正体がわかり、一応、納得はしたものの、一番の不可解は、隆司の犯行の件だった。

「で、父が捕まったって、どういう意味なんやろうか?」

「どうやら、君のお父さんは、構造計算偽造を疑われちょるらしいよ」

「構造計算偽造? なんで?」

 構造計算偽造と聞いて、瑠実は少し前、姉歯元一級建築士が逮捕された事件を思い出していた。

 故意に耐震強度構造計算を偽装し、鉄筋コンクリート造の柱や梁の、本来ならば必要な鉄筋量を減らして、『殺人マンション』と言われた建物を何軒も設計していたのだ。

 瑠実も現在、大学で建築学を専攻している上、実家が建設会社を経営しているので、この事件を知った時には、なんて道徳心のない建築士がいるのだと、驚いたものだ。

 父も一級建築士だが、あんな真面目で勤勉家の人が、偽装事件を起こすとは思えない。

「俺も詳しい事情は、よくわからない。副社長は、設計顧問をしているからね。うちの会社にも何人か建築士はいるけれど、役所や表に出す時の設計者の代表者名は、副社長の名前で出すし。もしかしたら、他の人が構造計算したものに、間違いがあったのかしれない。いずれにせよ、警察で詳しく調べればわかることだよ」

 真野は親身になって瑠実を慰めた。だが、瑠実は落ち着かなかった。

「でも、捕まったって」

「俺も信じてないよ。副社長は立派な人だ。何かの間違いだと思う」

 瑠実にとって、父は尊敬できる人だと思っている。本当に偽装に関わっているとしたら、かなりショックな出来事だ。

 しかし、本当のところは、どうなのだろう。

 人間、誰もが魔が差したと言うことは、あるのではないか。

 父は本来、かなり真面目で勤勉家の男だが、祖父が社長を営む会社で働く以上、それなりに苦労はしたようだった。

 母に聞いた話では、真面目に仕事をし、客先で褒められても、それは全て七光りだの、お世辞だの、周りからやっかみ半分な中傷を述べられる。

 最初は素直に人の言動を受け取っていた父も、次第に人の賛辞は受けつけなくなっていたようだ。

 仕事は、できて当たり前。もし、仕事に失敗しても「社長の息子だから」と、人は諦め顔で、隆司を咎めなかったらしい。それが余計にプレッシャーとなり、一時は酒に溺れ、やさぐれた時期もあった。だが、同僚の友人に助けられ、現実を悟ったようだ。

後になって知ったが、一時、芳美は家を出ていった。

 けれど、初めて最愛の芳美を失うとわかった時、自分よりも大事で、守るべき存在があるのを自覚した。それからは改心し、仕事が趣味のようになった。

 家で過ごす以外は、ほとんど会社にいるような状態。瑠実の中の父は、企業戦士の隆司しか、記憶にない。

 親の七光りで悩んでいたという話は、瑠実が大きくなって聞かされたが、父はいつでも優しかった。父が警察に連行されるとは。いったい、どんな罪に問われているのだろう。

 飛行機は離陸し、雲の上を飛行していた。瑠実の今の心境は、まるでこの雲の上を歩いているようだ。

 不透明で、ふわふわしていて、不安定。とても嫌な感じだ。早くこの雲を抜きん出て、まっさらな青い空へ突き抜けたい。

 瑠実は飛行機が到着するまで、落ち着かない気分だった。




to be  continued……




プロローグ 設計コンペ優勝者




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 高い天井の建物の中にいると、まるで自分が虫になった気がした。大声を出しても、大きく動いても、まるでびくともしない。建物と人間とのスケール感の相違がそう錯覚させるのだろうけれど、これが何もない大地や空や海なら、自分の大きさは虫どころではないな。と思う。

 目を閉じ、再びあけて自分の居場所を確認する。それは、自分がここにいてもいいよ。と神様に許されているのを認識する作業に思えた。

(大丈夫。私はここに立っている。選ばれたのは、私なんだ)

ホールの照明が落とされ、暗闇の中、蠢いていたスポットライトが、やがて香月(かづき)瑠実をとらえた。シンプルな白のミニスカート丈のスーツを着用し、真っ直ぐな脚が伸びる。漆黒のセミロングを少しかきあげると、男ばかりの会場からは、静かななどよめきが起こった。

「今年の日本学生建築コンペの最優秀賞は、香月瑠実さんです」

 少し興奮気味の司会者が名前を読み上げると、会場内から拍手が湧いた。

「香月さんの作品は、今年の課題である環境問題と、現代の住宅事情の盲点を盛り込んだ作品で、今までの建築概念に捕らわれる事のない斬新なアイデアが、いくつも見い出せた点が受賞のポイントでした。先日行われた公開プレゼンテーションでも、審査員の質問にも、見事な発言力と、的確な説明がなされています。学生の身ながら、コストパフォーマンスの面でもかなり構築してあり、現実的に再現する事も無理ではないでしょう。準優勝者は藤本義之さん、山本潤さん……」

 次々と受賞者の名前が呼ばれていくと、スポットライトも次々と焦点を追いかけてゆく。

 瑠実は係に案内されるまま、用意されたステージに移動していると、不意に腕を捕まれた。

    2

「君が香月瑠実さんだね?」

 突然、後頭部の上の方から、フルネームで名前を呼ばれた。

ふと顔をそちらに向けると、スーツ姿の長身の青年がいる。走ってきたらしい。上がる息を整えつつ、瑠実の反応を窺っていた。年の頃は二十後半ぐらい。知らない顔だった。

「はい。そうですけど?」

「ちょっといいですか?」

 名前を確認すると、そのままぐいと腕を引っ張られ、ホールの外へと連れ出された。

「お客様、これから授賞式ですので……」と係の者が青年を制したが、青年は言うことを聞かず「すいません。急用です。順番を変更してください」とあしらった。

「急用って? 私、今からコンペの受賞式なんですけど?」

 瑠実が批難の声を上げると、ようやく青年は腕を放した。

「誰なの?」

「ごめん。乱暴するつもりはなかったんだ。急いでたんでつい……」

 青年が説明しようと口を開きかけたその時だった。瑠実の、スーツのポケットの携帯が鳴った。

「すいません」と前置きして瑠実は携帯を取り出した。

液晶画面を見ると着信は実家からだ。どうしたのだろう。実家から電話がかかることはあっても、大概、夜の時間帯だ。日中にかかってくる事はほとんどない。

 着信ボタンを押して、受話器を耳に当てたとたん、慌てた母の芳美の声が聞こえてきた。

「瑠実? 瑠実よね?」

「どうしたの? 私の携帯に掛けたんだから、当たり前でしょ?」

 少し嫌みを含んで答たが、元々、天然の入った母にはこれくらい言っても通用しない。重々承知の上で、突き放して言ってみたけれど、今日の母は少し変だ。かなり緊迫している。不安な母の様子が携帯越しに判って、瑠実も少し心配になった。

「何かあった?」

「瑠実? 聞いて。おじいちゃんが倒れて、それにお父さんまで警察に連れて行かれたとよ。お母さんはどうしたらよか?」

「え? 何?」

 思わず瑠実は聞き返した。あまりに予想を超えた母の言葉に、一瞬、意味がわからなかった。おっとりした母親がこんなに慌てている。それに祖父が倒れたというのは高齢だから判らなくもなかったが、父が警察に連れていかれたのが本当ならば、その理由がわからない。あんな真面目な人が。何かの間違いに違いない。

「なんでお父さんが連れていかれると?」

 瑠実も母につられて、ついつい方言が出てしまう。横で見ている青年と目が合って、しまった。と思ったが、もう遅い。その後、母は瑠実に説明したが、要領を得ず、その上泣き出してしまった。こうなったらもうダメだ。手に負えない。

「もう、お母さん、しっかりせんね!」

 何か重大な事が起こったというのはわかるけれど、母の説明では意味がさっぱりわからない。そんな母に苛つく自分が嫌だった。

    3

母と会話中、ふと肩を叩かれ、振り向くと、青年が瑠実に飛行機のチケットを見せた。

「電話中、ごめん。もう時間がないんだ。切符はとってあるから、一緒に北九州に戻ろう。タクシーも待たせてある」

(なんでこの人、こんなモノを用意してるの?)

 瑠実は疑問に思いながら、注目した切符から視線を戻した。

「お母さん、落ち着いて。またこっちからかけるから」

 瑠実は一旦電話を切ると、青年に尋ねた。

「貴方、誰? なんで私が北九州市出身だと知ってるの?」

「ごめん。俺は真野祐介。君のおじいさんの経営する会社の社員で、お父さんの部下だ」

 青年は早口で答え、慌てて上着を上から押さえると、内ポケットから社員証や、運転免許証を出して見せた。

真野祐介。二十八歳。

免許証の現住所は北九州市になっていたし、見ると確かに顔写真付き証明写真は彼そのものだった。

(こんなもの、偽造しようと思えばいくらでもできるわ)

瑠実は心の中で不審に思ったが、真野に筒抜けだったらしい。

「これは偽造じゃないよ。俺が嘘をついているかどうか、証明するためにも、一緒に来て」

 真剣な目だった。

「早くしないと、手遅れになる。いいの?」

 半信半疑だった瑠実の脳裏には、先程、実家の母から電話があった事が思い出された。

 確かに、今、実家で何か大変な事態が起きているというのはわかった。だが、今は授賞式の真っ最中だ。

どうする?

 悩んでいる間にも、係員が瑠実の姿を見つけ「お客様、こちらへお急ぎ下さい」と、険しい顔をして催促した。

「ごめんなさい!」

次の瞬間、瑠実は真野の腕を掴むと、出口を目指して歩き始めた。

「わかった。ついてゆく。案内して」

 係員の呼ぶ声が聞こえたが、気がつくと、二人で駆け出していた。



to be  continued……











すっかり年も明けて、今日は鏡開きですね。

大変遅くなりましたが、今年もよろしくお願いします。


最近、ブログを更新できていません。

というのも、某小説応募用の原稿執筆に追われているから。

締め切りが今月末の賞に、欲張って2作品それぞれ違う賞に応募しようと考えています。

行き詰まっているなー。と、凹んでいたら、今日は嬉しい出来事がありました。


今日は野性時代2月号の発売でした。

第5回野性時代フロンティア文学賞の二次選考発表だったのですが、受かってました!

一次通過者が多く、二次通過は難しいだろうな。と思っていたので、すごく嬉しいです。

凹んでいたけど、テンション上がった! 


というわけで、今月は賞応募作品の執筆を頑張ります。

更新は、来月かな……。

     9


 それから二週間後。ミサトはやっと軍調査部の独房から出ることができた。
 無事に野戦病院に戻ってきたミサトを医師やスタッフは喜んではくれたが、ミサトの表情は重たかった。
 取調に応じれば、野戦病院に来る以前のアンドリューの素行もわかるかと思っていた。 多少の暴力的な言葉で脅されながらアンドリューの事を聞かれたりはしたが、日頃真面目なミサトのいままでの学校の生活ぶりや、野戦病院の優秀なボランティアスタッフとしての活躍を認められているせいもあり、覚悟していたよりは数段緩い対応だった。それでも暗い独房に一人二週間ほど引き留められた。
ミサトは独房にいる間も考える事はアンドリューの事ばかり。 アンドリューにかけられたスパイ容疑とは、現在対立している国の工作員であるらしかった。
(あのアンドリューさんが工作員?)
ミサトにはとても信じられなかった。けれど、アンドリューが、ミサトに黙っていなくなったと言う事実を考えると、敵国のスパイだったのだと肯定して風にも考えられる。
 確かにアンドリューがいなくなる夕方、当直時間に会いに来てくれと言われた。もしかしてその事を告白したかったのだろうか?
 もし、彼が工作員でスパイ行為をしたと言うのなら、きっとアンドリューには何か理由があったのだ。ミサトにはそう思う事で自分を納得させようとしたが、アンドリューと会う事ができなくなった今では、それも確かめる事はできない。
 ミサトにとってアンドリューと過ごした約一ヶ月あまりの年月が、どれだけ充実していた時間だったのかミサトにとっては夢のひとときにしか思えなかった。
もう一度アンドリューさんに会いたい――。
 手元に残った半分の鬼クルミの実を見つめながらミサトはそう思わない日はなかった。
    

         *


「ミサト、ありがとう。助かったよ」
「いいえ。特に礼を言われるほどでは」
「いいや、おかげで彼女とイブにデートできたのはお前のおかげだから」
 昨日はクリスマス。
 ミサトは野戦病院のスタッフの先輩に礼を言われた。
 幾日も前から看護婦の彼女とデートをするんだと張り切っていたのに、別の先輩のスタッフが高熱で欠勤する事になり、彼にその代役が回ってきた。
 同じ病院のスタッフの一人が、急に回ってきた夜勤の当直で困っていたところをミサトが交代を申し出たのだった。
「ミサト。本当によかったのか?」
「ええ、かまいませんよ。私の分も楽しんでくれたのなら」
「悪いな。いや……助かったよ。ありがとう」
「じゃ、そろそろ交代お願いします」
「ああ、ゆっくり休めよ」
 仕事の引き継ぎと挨拶とをして帰宅の準備をしながら、ミサトは虚ろな頭で考えていた。
(今頃アンドリューさんはどこで何をしているのだろう)
 アンドリューが居なくなった日から、そう想わない日はなかったミサトだが、日数を重ねるごとに心のどこかで諦めと失念の気持ちが大きくなるのを認めないわけにはいかなかった。
 ミサトにとってはアンドリューの存在はとても大事なものだったのだが、アンドリューにとって自分はただの野戦病院の一スタッフだけだっただけかもしれない。
 たまたま運ばれた病院でアンドリューの知る『サト』と言う名前のスタッフだっただけ……。
 そう考えると、少しだけ吹っ切れた気にはなるのだが、一度だけ交わしたアンドリューとのキスの唇の感触を忘れる事ができなくて、気がつくと自分の唇に手をあてている自分がいる。
 ミサトは夜勤明けのけだるい体を引きずるようにして、病院から自宅のアパートへと足を向けた。
 街ゆく人達はまだほんのりお祭り気分が残っているようで、戦時中といっても店のディスプレイもまだきらびやかさを保っている。
 クリスマスの日に帰宅しても、家には誰もいなくて一人寝るだけのスケジールを寂しいとは思わないが、それよりも気になるのはアンドリューの行方だった。
 今頃彼はどこで誰とクリスマスを過ごしているのだろう。そう考えると夜勤の疲れもとどっと倍になる。
こんな日は早く寝てしまおうとミサトが自宅のあるアパートの階段を上りきったところで、部屋の前に誰かがうずくまっているのが目に入った。
 ドアの前で薄茶のコートを着込んで誰かがしゃがみ込んでいる。下をうつむいているけれど、長い金髪を一つに束ねたその姿はもしかして……
 ミサトは急に高鳴る胸を感じながら薄暗いアパートの廊下を進む。ようやく確認できる距離までくると、うずくまる誰かとはミサトが逢いたいと思うその人だった。すぐにミサトは駆け寄って抱きしめた。
「アンドリューさん……!」
「お! やっと帰ってきたのか……。ここはさみーよ……」
「もしかして夕べからずっとここに?」
「ああ……病院に行こうと思ったんだが、捕まったらヤバイしな」
 ドアの前でうずくまったまま顔だけミサトの方を向け、苦笑いするアンドリューが気のせいか小さく見える。
「とにかく中へ!」
 ミサトは慌ててあたりを見回し、アンドリューを抱きかかえるように部屋へ入れると、玄関ドアに鍵をかけた。
 カチャリと音をたててドアに鍵がかかると、ミサトはふぅとため息をつく。思った以上に自分が緊張していた事に気がついた。
「アンドリューさん、どうしてここに?」
「ここにって……そりゃお前に逢いたかったからに決まってるだろ? ほら、約束したじゃないか。俺たちは永遠の友達だって。クリスマスをお前と過ごしたいと思ってたんだが…」
 アンドリューは寒そうに自分の体を両手で覆いながら返事をした。
「でも……貴方は軍に追われていて……。私に会いに来たら捕まってしまうかもしれないのに」
「はは……知ってたか。その時はその時だ。その前に死んでしまったらお前に逢えないだろ? 知っての通り、オレは追われる身だ。いつ死んでこの世にいなくなるかわからない。もうオレはいやなんだ。逢いたいヤツに逢えなくなるなんて。だから、オレの命があるうちにお前に逢いにきた。でも……もしかして迷惑だったか?」
「とんでもない! 私は……嬉しいです。もう一度貴方と逢えるだなんて。これは神様が私にくださったクリスマスプレゼントなのかもしれない――」
「だったらもっと嬉しそうな顔をしろ」
「アンドリューさん……!」
 ミサトはたまらずアンドリューを抱きしめた。
 冷たくなったアンドリューの体をもう二度と離したくないとでもいうように、しっかりと抱きしめるとアンドリューがふざけて「おえっ」と声を出す。
 慌ててミサトがアンドリューを離すと、どちらともなく笑顔になった。
「もう……アンドリューさんたら」
ミサトが笑顔から少しだけ泣き顔になろうとする前に、アンドリューはミサトの両頬を手袋をした両手でそっと押さえこむと、ちゅっと音をたててキスをした。
「アンドリューさん……?」
「わりぃ。もうあまり時間がないんだ……。もう一度お前とこうしたかったんだ」
 それを合図にミサトがアンドリューにすりよると、アンドリューがミサトを抱き寄せてキスをした。
 深く、激しく――。
 ミサトも黙ってそれに応じた。
 それは夢のようだった。
 もう二度と逢えないと思っていた人から、もう一度逢いに来てくれて、ミサトはアンドリューの腕の中にいる。
 確かにこれは神様がくださったプレゼントに違いない。私にとっては最高のプレゼントだ。
 ミサトはそう考えながらアンドリューにキスをしていたその時だった。
 ドンドンドン!
 重ね合わせた唇を、慌てて二人は外すと、激しく叩かれる玄関ドアの方を見やった。
「悪りぃ。時間がない」
 アンドリューは唇を離し、ミサトの腕をはずす。
 外にいるのは、軍人なのかもしれない。アンドリューの事を追ってここまでやってきたのだろうか。
「アンドリューさん! 私が守りますから!」
「お前、何を言っている。正気か? 知ってるだろうが、オレは敵国の工作員なんだぞ?」
「ええ、聞きました。でもアンドリューさんは私に逢いに来てくれたのでしょう? 貴方は僕の友達だ。敵も味方もない。永遠の友達なんだ」
「ミサト……」
「やっと名前で呼んでくれましたね。私は貴方のそばにいて、ずっと貴方にそう呼ばれたいんです。だから私が貴方を守ります」
「お前、自分が何を言っているのかわかっているのか? 相手は軍だぞ? いくらお前がそう言ってもかなう相手じゃない」
 ドンドンドンと再度扉を激しく叩く音が聞こえる。
「トミナガ・ミサトはいないのか?」
 誰かがミサトの名前を呼ぶ。
「お前に迷惑はかけられない。ここは二階だろ? 窓から飛び降りられなくはない距離だ」
「ムリですよ。足の骨を折ってしまいます。いくら義足でも壊れてしまう」
「でもこのままここにいたらお前まで捕まってしまうぞ」
アンドリューは、ポケットから拳銃を出した。
「いいか? もし扉が開いたら、これを使ってオレはお前を人質にとって建物の外まで出る。お前はオレに脅される人質のマネをしろ。そうすればお前に迷惑はかからない」
「いやです。そんな事をしてもきっと軍人は貴方を追うでしょう。私はそんな卑怯なまねはできない」
「我が儘を言うな! オレの事はかまうな!」
「我が儘を言わせてください。私はあなたと一緒にいたいんです。もしそれができないのなら、今すぐ僕は貴方と一緒にここで死ぬ事を選びます」
「ミサト……」
「貴方は私の永遠の友達でしょう? 貴方がこの世にいなくなるのに僕だけ生きていたって……」
 ミサトはアンドリューの手から拳銃をとると、それを自分のこめかみに当てようとした。
「やめろ! 死ぬな!」
「生きるのなら……私は貴方と一緒に生きてゆきたい。死ぬのなら貴方一人では逝かせはしない……」
 ミサトはそうはっきり言うと、まっすぐにアンドリューを見据える。
「ミサト……お前いいのか?それで」
「いいんです。私は貴方と一緒にいたいんだ。ずっと私の永遠の人でいてください――」
 ドンドンと叩く玄関ドアの音はさらに大きくなっていく。
「最後に、貴方の言う私以外のサトの事を聞いてもいいですか? 誰なんです? 私以外にあなたにとって大事なサトがいるのでしょう?」
「サトミは……死んだオレの妹だ。この戦争で亡くなった。……だからオレは復讐する為秘密情報員として工作員を志願した。でももういいんだ。死んだヤツは戻らない……生きている間にしか逢う事ができないからな」
 アンドリューはどこか吹っ切れた顔でそう説明すると、ミサトが持つ拳銃から手を離した。
「あだ名だけじゃなく、顔も姿もお前とそっくりだったんだ。瞳の色が違うだけ」
「そうだったんだ……」
「一緒に逝ってくれるのか?」
「ええ、喜んで……」
 ミサトに不安はなかった。たとえこの場で死んでしまおうと、逢いたくて、逢いたくてたまらなかったアンドリューと再会できて、これからずっと永遠の友達でいられるのだから。
 アンドリューはポケットに入れた鬼クルミの実をミサトに見せると、ミサトも微笑んで自分の上着のポケットから対の鬼クルミの実を取出す。
「一緒に……」
「ずっと友達だ……」
 二人は鬼クルミの実を握りしめる。
 クリスマスの日中の住宅街に、二発の銃声が響きわたった。          END