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それから二週間後。ミサトはやっと軍調査部の独房から出ることができた。
無事に野戦病院に戻ってきたミサトを医師やスタッフは喜んではくれたが、ミサトの表情は重たかった。
取調に応じれば、野戦病院に来る以前のアンドリューの素行もわかるかと思っていた。 多少の暴力的な言葉で脅されながらアンドリューの事を聞かれたりはしたが、日頃真面目なミサトのいままでの学校の生活ぶりや、野戦病院の優秀なボランティアスタッフとしての活躍を認められているせいもあり、覚悟していたよりは数段緩い対応だった。それでも暗い独房に一人二週間ほど引き留められた。
ミサトは独房にいる間も考える事はアンドリューの事ばかり。 アンドリューにかけられたスパイ容疑とは、現在対立している国の工作員であるらしかった。
(あのアンドリューさんが工作員?)
ミサトにはとても信じられなかった。けれど、アンドリューが、ミサトに黙っていなくなったと言う事実を考えると、敵国のスパイだったのだと肯定して風にも考えられる。
確かにアンドリューがいなくなる夕方、当直時間に会いに来てくれと言われた。もしかしてその事を告白したかったのだろうか?
もし、彼が工作員でスパイ行為をしたと言うのなら、きっとアンドリューには何か理由があったのだ。ミサトにはそう思う事で自分を納得させようとしたが、アンドリューと会う事ができなくなった今では、それも確かめる事はできない。
ミサトにとってアンドリューと過ごした約一ヶ月あまりの年月が、どれだけ充実していた時間だったのかミサトにとっては夢のひとときにしか思えなかった。
もう一度アンドリューさんに会いたい――。
手元に残った半分の鬼クルミの実を見つめながらミサトはそう思わない日はなかった。
*
「ミサト、ありがとう。助かったよ」
「いいえ。特に礼を言われるほどでは」
「いいや、おかげで彼女とイブにデートできたのはお前のおかげだから」
昨日はクリスマス。
ミサトは野戦病院のスタッフの先輩に礼を言われた。
幾日も前から看護婦の彼女とデートをするんだと張り切っていたのに、別の先輩のスタッフが高熱で欠勤する事になり、彼にその代役が回ってきた。
同じ病院のスタッフの一人が、急に回ってきた夜勤の当直で困っていたところをミサトが交代を申し出たのだった。
「ミサト。本当によかったのか?」
「ええ、かまいませんよ。私の分も楽しんでくれたのなら」
「悪いな。いや……助かったよ。ありがとう」
「じゃ、そろそろ交代お願いします」
「ああ、ゆっくり休めよ」
仕事の引き継ぎと挨拶とをして帰宅の準備をしながら、ミサトは虚ろな頭で考えていた。
(今頃アンドリューさんはどこで何をしているのだろう)
アンドリューが居なくなった日から、そう想わない日はなかったミサトだが、日数を重ねるごとに心のどこかで諦めと失念の気持ちが大きくなるのを認めないわけにはいかなかった。
ミサトにとってはアンドリューの存在はとても大事なものだったのだが、アンドリューにとって自分はただの野戦病院の一スタッフだけだっただけかもしれない。
たまたま運ばれた病院でアンドリューの知る『サト』と言う名前のスタッフだっただけ……。
そう考えると、少しだけ吹っ切れた気にはなるのだが、一度だけ交わしたアンドリューとのキスの唇の感触を忘れる事ができなくて、気がつくと自分の唇に手をあてている自分がいる。
ミサトは夜勤明けのけだるい体を引きずるようにして、病院から自宅のアパートへと足を向けた。
街ゆく人達はまだほんのりお祭り気分が残っているようで、戦時中といっても店のディスプレイもまだきらびやかさを保っている。
クリスマスの日に帰宅しても、家には誰もいなくて一人寝るだけのスケジールを寂しいとは思わないが、それよりも気になるのはアンドリューの行方だった。
今頃彼はどこで誰とクリスマスを過ごしているのだろう。そう考えると夜勤の疲れもとどっと倍になる。
こんな日は早く寝てしまおうとミサトが自宅のあるアパートの階段を上りきったところで、部屋の前に誰かがうずくまっているのが目に入った。
ドアの前で薄茶のコートを着込んで誰かがしゃがみ込んでいる。下をうつむいているけれど、長い金髪を一つに束ねたその姿はもしかして……
ミサトは急に高鳴る胸を感じながら薄暗いアパートの廊下を進む。ようやく確認できる距離までくると、うずくまる誰かとはミサトが逢いたいと思うその人だった。すぐにミサトは駆け寄って抱きしめた。
「アンドリューさん……!」
「お! やっと帰ってきたのか……。ここはさみーよ……」
「もしかして夕べからずっとここに?」
「ああ……病院に行こうと思ったんだが、捕まったらヤバイしな」
ドアの前でうずくまったまま顔だけミサトの方を向け、苦笑いするアンドリューが気のせいか小さく見える。
「とにかく中へ!」
ミサトは慌ててあたりを見回し、アンドリューを抱きかかえるように部屋へ入れると、玄関ドアに鍵をかけた。
カチャリと音をたててドアに鍵がかかると、ミサトはふぅとため息をつく。思った以上に自分が緊張していた事に気がついた。
「アンドリューさん、どうしてここに?」
「ここにって……そりゃお前に逢いたかったからに決まってるだろ? ほら、約束したじゃないか。俺たちは永遠の友達だって。クリスマスをお前と過ごしたいと思ってたんだが…」
アンドリューは寒そうに自分の体を両手で覆いながら返事をした。
「でも……貴方は軍に追われていて……。私に会いに来たら捕まってしまうかもしれないのに」
「はは……知ってたか。その時はその時だ。その前に死んでしまったらお前に逢えないだろ? 知っての通り、オレは追われる身だ。いつ死んでこの世にいなくなるかわからない。もうオレはいやなんだ。逢いたいヤツに逢えなくなるなんて。だから、オレの命があるうちにお前に逢いにきた。でも……もしかして迷惑だったか?」
「とんでもない! 私は……嬉しいです。もう一度貴方と逢えるだなんて。これは神様が私にくださったクリスマスプレゼントなのかもしれない――」
「だったらもっと嬉しそうな顔をしろ」
「アンドリューさん……!」
ミサトはたまらずアンドリューを抱きしめた。
冷たくなったアンドリューの体をもう二度と離したくないとでもいうように、しっかりと抱きしめるとアンドリューがふざけて「おえっ」と声を出す。
慌ててミサトがアンドリューを離すと、どちらともなく笑顔になった。
「もう……アンドリューさんたら」
ミサトが笑顔から少しだけ泣き顔になろうとする前に、アンドリューはミサトの両頬を手袋をした両手でそっと押さえこむと、ちゅっと音をたててキスをした。
「アンドリューさん……?」
「わりぃ。もうあまり時間がないんだ……。もう一度お前とこうしたかったんだ」
それを合図にミサトがアンドリューにすりよると、アンドリューがミサトを抱き寄せてキスをした。
深く、激しく――。
ミサトも黙ってそれに応じた。
それは夢のようだった。
もう二度と逢えないと思っていた人から、もう一度逢いに来てくれて、ミサトはアンドリューの腕の中にいる。
確かにこれは神様がくださったプレゼントに違いない。私にとっては最高のプレゼントだ。
ミサトはそう考えながらアンドリューにキスをしていたその時だった。
ドンドンドン!
重ね合わせた唇を、慌てて二人は外すと、激しく叩かれる玄関ドアの方を見やった。
「悪りぃ。時間がない」
アンドリューは唇を離し、ミサトの腕をはずす。
外にいるのは、軍人なのかもしれない。アンドリューの事を追ってここまでやってきたのだろうか。
「アンドリューさん! 私が守りますから!」
「お前、何を言っている。正気か? 知ってるだろうが、オレは敵国の工作員なんだぞ?」
「ええ、聞きました。でもアンドリューさんは私に逢いに来てくれたのでしょう? 貴方は僕の友達だ。敵も味方もない。永遠の友達なんだ」
「ミサト……」
「やっと名前で呼んでくれましたね。私は貴方のそばにいて、ずっと貴方にそう呼ばれたいんです。だから私が貴方を守ります」
「お前、自分が何を言っているのかわかっているのか? 相手は軍だぞ? いくらお前がそう言ってもかなう相手じゃない」
ドンドンドンと再度扉を激しく叩く音が聞こえる。
「トミナガ・ミサトはいないのか?」
誰かがミサトの名前を呼ぶ。
「お前に迷惑はかけられない。ここは二階だろ? 窓から飛び降りられなくはない距離だ」
「ムリですよ。足の骨を折ってしまいます。いくら義足でも壊れてしまう」
「でもこのままここにいたらお前まで捕まってしまうぞ」
アンドリューは、ポケットから拳銃を出した。
「いいか? もし扉が開いたら、これを使ってオレはお前を人質にとって建物の外まで出る。お前はオレに脅される人質のマネをしろ。そうすればお前に迷惑はかからない」
「いやです。そんな事をしてもきっと軍人は貴方を追うでしょう。私はそんな卑怯なまねはできない」
「我が儘を言うな! オレの事はかまうな!」
「我が儘を言わせてください。私はあなたと一緒にいたいんです。もしそれができないのなら、今すぐ僕は貴方と一緒にここで死ぬ事を選びます」
「ミサト……」
「貴方は私の永遠の友達でしょう? 貴方がこの世にいなくなるのに僕だけ生きていたって……」
ミサトはアンドリューの手から拳銃をとると、それを自分のこめかみに当てようとした。
「やめろ! 死ぬな!」
「生きるのなら……私は貴方と一緒に生きてゆきたい。死ぬのなら貴方一人では逝かせはしない……」
ミサトはそうはっきり言うと、まっすぐにアンドリューを見据える。
「ミサト……お前いいのか?それで」
「いいんです。私は貴方と一緒にいたいんだ。ずっと私の永遠の人でいてください――」
ドンドンと叩く玄関ドアの音はさらに大きくなっていく。
「最後に、貴方の言う私以外のサトの事を聞いてもいいですか? 誰なんです? 私以外にあなたにとって大事なサトがいるのでしょう?」
「サトミは……死んだオレの妹だ。この戦争で亡くなった。……だからオレは復讐する為秘密情報員として工作員を志願した。でももういいんだ。死んだヤツは戻らない……生きている間にしか逢う事ができないからな」
アンドリューはどこか吹っ切れた顔でそう説明すると、ミサトが持つ拳銃から手を離した。
「あだ名だけじゃなく、顔も姿もお前とそっくりだったんだ。瞳の色が違うだけ」
「そうだったんだ……」
「一緒に逝ってくれるのか?」
「ええ、喜んで……」
ミサトに不安はなかった。たとえこの場で死んでしまおうと、逢いたくて、逢いたくてたまらなかったアンドリューと再会できて、これからずっと永遠の友達でいられるのだから。
アンドリューはポケットに入れた鬼クルミの実をミサトに見せると、ミサトも微笑んで自分の上着のポケットから対の鬼クルミの実を取出す。
「一緒に……」
「ずっと友達だ……」
二人は鬼クルミの実を握りしめる。
クリスマスの日中の住宅街に、二発の銃声が響きわたった。 END