エピローグ 雲の中
「大丈夫だったんですか? 忙しいんでしょう?」
「せっかく見送りに来たのに、ツレないこと言うなよ」
瑠実と真野は、福岡空港の待合室ロビーにいた。そろそろ年度末休暇も終わる。瑠実は東京の大学に戻らねばならない。ようやく隆司も釈放され、薫も家に戻ってきた。再び賑やかな香月家に戻りつつあったが、やはり虎之助の存在は大きかったようだ。
隆司も釈放された翌日から、名誉挽回と会社に勤務し、間もなく正式に、隆司が香月建設の社長となる就任式が行われる。
愛娘の見送りに行きたいといいつつ、できないのが悔しいと泣いていた。
芳美は、薫が時々まだ情緒不安定になるので、手が離せない。気がつくと、徘徊しているので、薫に判らないよう、後を従いて回っている。
「尾行も上手くなったっちゃが。まるで刑事になった気分よ」と、認知症の老人の世話は大変なはずなのに、天然な性格も手伝ってか、芳美は明るかった。時々、茶室でお茶を点てる薫は、元気なように見えるが。
掘り起こした香月家の財産……『雲の中』の金の延べ棒は、一部換金し、香月建設の再構築に役立てる予定だという。
「他に、見送りは?」
真野が尋ねると、瑠実は「みんな忙しいらしくて……」と肩を窄めた。
「そうか。確かに、そうやろうね」
会社で隆司の様子も知っている真野は、心当たりがあるようだ。
「寂しくないの? もう会えないかもよ」
真野が何を言いたいのか、よくわかった。古賀のことだ。
真野は古賀が瑠実の実父だと知っている。警察病院で治療を受けているが、次回、瑠実が帰省した時は、この世にいないかもしれない。古賀は大事な人だと思うが、血は繋がっていなくても、やはり瑠実の父は隆司だ。
古賀が構造計算書を偽造した罪は、許されることではない。短い間だったけれど、建設会社の実務に携わって、瑠実はわかった真実がある。
建物を造るという行為に、絶対に悪意があってはならない。設計にしろ、施工にしろ、人が住んだり、楽しい時間を過ごす建物は、なにより安全でなければならないからだ。
逆に、誠意を持って、真面目に造られた建物は、何百年と持ち堪えられる。法隆寺や、世界遺産に選ばれる建物は、きっと先人の誠実な行為が、今の人々に認められた結果なのだ。
古賀も、きっとわかっていたと思う。けれど、人間は神様ではない。どうしても叶えたい願いがあると、悪行だとわかっていても、心の弱い部分が折れてしまう場合もある。
余命はあまりないかもしれないが、命ある限り、罪は償って欲しいと思う。
「来月、お祖父ちゃんの社葬があるから、帰ってきます。古賀さんにも会えるといいちゃけど……」
「そうやね」
隆司が取り調べ中に、虎之助の葬儀は、全て終わっていた。父の葬儀に出席できなかったのがとても心残りだったらしい。正式に隆司が香月建設の社長に就任した後、虎之助の社葬をすることが決定した。
周りの人々が、急に慌但しくなった。空港会社の地上勤務員が、間もなく最終搭乗手続きが終わると、案内を始めている。ざわつく様子に、瑠実もそろそろ……と、バッグの中から飛行機のチケットを取り出した。
「今日はお忙しいのに、わざわざ、すいませんでした。じゃあ、元気で。お仕事頑張ってください」
話を切り上げ、「じゃあ」と、瑠実が搭乗口に向かおうと歩き始めると、真野が呼び止めた。いつになく真剣な顔だ。つかつかと歩き寄ってきた。
「ねえ、俺たち、つきあわない?」
突然の言葉に、瑠実は一瞬、どきりとした。予想もしない真野の申し出には驚いたが、悪い気がしなかった。短い間だったけれど、真野と心が通い合ったと思う。瑠実は真面目な顔をした真野の漆黒の瞳をじっと見つめ、やがてにっこりと笑った。
「そうですね……。就職も、そろそろ真面目に考えないといけないし。でも、私が東京で就職したら遠距離になりますよ」
瑠実の返事に、少し声のトーンを落としながら、真野が尋ねた。
「香月建設に入るっちゃなかったと?」
確かに、香月建設に入社する手もあるだろう。そうすれば丸く収まる。けれど予想できる幸せは、なんとなくつまらないと思うし、物足りないと思う。多少なりともバイトで建設会社の実務をやってみて、少しだけれど、建物を造る大変さもわかった気がする。けれど大変だからこそ、携わった建物が完成した時の喜びも、想像できる。
「私は、まだまだ、やりたいことがあるんです。仕事も、本当に建築の道に進むかどうかわからないし。建築もいいですけど、これでも女優の道に進むのも、けっこう真面目に考えているんです。父は早く卒業して家に戻って来て欲しいみたいですけど。それにいいんですか? 私、女王様性格ですよ?」
真野と初めて出会った時に優勝したミスコンテスト主催者側からも何度も連絡が来ていた。実家が大変な時期なので、返事を先伸ばししていたが、東京に戻ったら連絡してみようと思っていたところだ。父の折り合いをつけるのが、少し煩わしいけれど、ミスコン優勝という実績は、大きな武器になると信じている。
「それはなんとなくわかってる。一緒に仕事もしたしね。俺じゃ……ダメかな」
珍しく真野が弱気だった。いつも自信に満ちて強気な真野しか見たことがないので、けっこう新鮮かもしれない。
「ダメじゃないですよ。そうですね。私にとって、真野さんの存在を強いて言うなら『雲の中』かもしれない」
「なに? それ……」
「気を悪くしないでください。悪い意味じゃないから。雲の中はつまり、ペンティング――ってことですよ。仕事も恋も、今の私は保留中って感じです。ペンティング……予測不能。だから人生が面白いんじゃないちゃろうか?」
真野は少しがっくりしたようだった。おそらく瑠実がよい返事をくれると踏んでいたからだろう。切なそうな瞳で瑠実を見つめていたが、何も言わなかった。真野の瞳から出る甘いなごりが瑠実の心の中にも染み渡る。
「じゃあ」
その場を吹っ切るように、瑠実は元気よく返事をして歩き始めた。
瑠実は再び搭乗口に向かおうと振り向いた刹那、何かを思い出したように戻り、自分から真野にハグをした。
驚く真野の顔を確認すると、にっこりと笑う。今度こそ瑠実は搭乗口に入っていった。
了


