一期一会

一期一会

本も人の出会いも一期一会。時々読者、時々物書き。好きな本やコミック感想を中心に、日常のつれづれと共につぶやいていきます。

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 エピローグ 雲の中

 

「大丈夫だったんですか? 忙しいんでしょう?」

「せっかく見送りに来たのに、ツレないこと言うなよ」

 瑠実と真野は、福岡空港の待合室ロビーにいた。そろそろ年度末休暇も終わる。瑠実は東京の大学に戻らねばならない。ようやく隆司も釈放され、薫も家に戻ってきた。再び賑やかな香月家に戻りつつあったが、やはり虎之助の存在は大きかったようだ。

 隆司も釈放された翌日から、名誉挽回と会社に勤務し、間もなく正式に、隆司が香月建設の社長となる就任式が行われる。

 愛娘の見送りに行きたいといいつつ、できないのが悔しいと泣いていた。

 芳美は、薫が時々まだ情緒不安定になるので、手が離せない。気がつくと、徘徊しているので、薫に判らないよう、後を従いて回っている。

「尾行も上手くなったっちゃが。まるで刑事になった気分よ」と、認知症の老人の世話は大変なはずなのに、天然な性格も手伝ってか、芳美は明るかった。時々、茶室でお茶を点てる薫は、元気なように見えるが。

 掘り起こした香月家の財産……『雲の中』の金の延べ棒は、一部換金し、香月建設の再構築に役立てる予定だという。

「他に、見送りは?」

 真野が尋ねると、瑠実は「みんな忙しいらしくて……」と肩を窄めた。

「そうか。確かに、そうやろうね」

 会社で隆司の様子も知っている真野は、心当たりがあるようだ。

「寂しくないの? もう会えないかもよ」

 真野が何を言いたいのか、よくわかった。古賀のことだ。

 真野は古賀が瑠実の実父だと知っている。警察病院で治療を受けているが、次回、瑠実が帰省した時は、この世にいないかもしれない。古賀は大事な人だと思うが、血は繋がっていなくても、やはり瑠実の父は隆司だ。

 古賀が構造計算書を偽造した罪は、許されることではない。短い間だったけれど、建設会社の実務に携わって、瑠実はわかった真実がある。

 建物を造るという行為に、絶対に悪意があってはならない。設計にしろ、施工にしろ、人が住んだり、楽しい時間を過ごす建物は、なにより安全でなければならないからだ。

 逆に、誠意を持って、真面目に造られた建物は、何百年と持ち堪えられる。法隆寺や、世界遺産に選ばれる建物は、きっと先人の誠実な行為が、今の人々に認められた結果なのだ。

 古賀も、きっとわかっていたと思う。けれど、人間は神様ではない。どうしても叶えたい願いがあると、悪行だとわかっていても、心の弱い部分が折れてしまう場合もある。

 余命はあまりないかもしれないが、命ある限り、罪は償って欲しいと思う。

「来月、お祖父ちゃんの社葬があるから、帰ってきます。古賀さんにも会えるといいちゃけど……」

「そうやね」

 隆司が取り調べ中に、虎之助の葬儀は、全て終わっていた。父の葬儀に出席できなかったのがとても心残りだったらしい。正式に隆司が香月建設の社長に就任した後、虎之助の社葬をすることが決定した。

                      

 周りの人々が、急に慌但しくなった。空港会社の地上勤務員が、間もなく最終搭乗手続きが終わると、案内を始めている。ざわつく様子に、瑠実もそろそろ……と、バッグの中から飛行機のチケットを取り出した。

「今日はお忙しいのに、わざわざ、すいませんでした。じゃあ、元気で。お仕事頑張ってください」

 話を切り上げ、「じゃあ」と、瑠実が搭乗口に向かおうと歩き始めると、真野が呼び止めた。いつになく真剣な顔だ。つかつかと歩き寄ってきた。

「ねえ、俺たち、つきあわない?」

 突然の言葉に、瑠実は一瞬、どきりとした。予想もしない真野の申し出には驚いたが、悪い気がしなかった。短い間だったけれど、真野と心が通い合ったと思う。瑠実は真面目な顔をした真野の漆黒の瞳をじっと見つめ、やがてにっこりと笑った。

「そうですね……。就職も、そろそろ真面目に考えないといけないし。でも、私が東京で就職したら遠距離になりますよ」

 瑠実の返事に、少し声のトーンを落としながら、真野が尋ねた。

「香月建設に入るっちゃなかったと?」

 確かに、香月建設に入社する手もあるだろう。そうすれば丸く収まる。けれど予想できる幸せは、なんとなくつまらないと思うし、物足りないと思う。多少なりともバイトで建設会社の実務をやってみて、少しだけれど、建物を造る大変さもわかった気がする。けれど大変だからこそ、携わった建物が完成した時の喜びも、想像できる。

「私は、まだまだ、やりたいことがあるんです。仕事も、本当に建築の道に進むかどうかわからないし。建築もいいですけど、これでも女優の道に進むのも、けっこう真面目に考えているんです。父は早く卒業して家に戻って来て欲しいみたいですけど。それにいいんですか? 私、女王様性格ですよ?」

 真野と初めて出会った時に優勝したミスコンテスト主催者側からも何度も連絡が来ていた。実家が大変な時期なので、返事を先伸ばししていたが、東京に戻ったら連絡してみようと思っていたところだ。父の折り合いをつけるのが、少し煩わしいけれど、ミスコン優勝という実績は、大きな武器になると信じている。

「それはなんとなくわかってる。一緒に仕事もしたしね。俺じゃ……ダメかな」

 珍しく真野が弱気だった。いつも自信に満ちて強気な真野しか見たことがないので、けっこう新鮮かもしれない。

「ダメじゃないですよ。そうですね。私にとって、真野さんの存在を強いて言うなら『雲の中』かもしれない」

「なに? それ……」

「気を悪くしないでください。悪い意味じゃないから。雲の中はつまり、ペンティング――ってことですよ。仕事も恋も、今の私は保留中って感じです。ペンティング……予測不能。だから人生が面白いんじゃないちゃろうか?」

 真野は少しがっくりしたようだった。おそらく瑠実がよい返事をくれると踏んでいたからだろう。切なそうな瞳で瑠実を見つめていたが、何も言わなかった。真野の瞳から出る甘いなごりが瑠実の心の中にも染み渡る。

「じゃあ」

 その場を吹っ切るように、瑠実は元気よく返事をして歩き始めた。

 瑠実は再び搭乗口に向かおうと振り向いた刹那、何かを思い出したように戻り、自分から真野にハグをした。

驚く真野の顔を確認すると、にっこりと笑う。今度こそ瑠実は搭乗口に入っていった。 


  了



 人によっては、計算書偽造は、隆司への復讐だというヤツもいるだろう。現に、復讐したいと思わなかったわけではない。おそらく、隆司は古賀が計算書偽造の犯人だとわかっているはずだった。けれど、隆司は警察に連行された後も、ずっと黙秘を続けた。古賀には瑠実と芳美を取り上げた負い目がある。隆司は黙秘を続けることで、古賀への償いだと思っていた節がある。構造計算偽造を思いついたけれど、実行するのは、かなり迷っていた。手を下せば、隆司はともかく、芳美と瑠実にも迷惑が掛かる。悩んでいたが、時間は確実になくなってゆく。他に方法がない。迷っている暇はなかった。

 自分で実行する勇気がないので、計算書の追加報告書の提出は、高橋に頼んだ。もちろん、高橋には、内容が偽造した構造計算書だという事実は、知らせなかった。

 本来、建築確認申請の手続きは、設計者本行うものだ。だが、提出だけや追加報告書だけなら、身分証明がいるわけでもない。しかるべき指示がちゃんとあり、印鑑さえあれば、資格もなく、専門知識のない者でも補正は可能だ。

 建築の専門知識がない高橋に頼んだのは、わざとだった。高橋が補正してくれば、もし、見つかった時に、自分に容疑が掛からない。なぜなら、表面上は設計者はあくまで隆司で、補正をしたのは高橋なのだから。

 それに、周囲は、建築の専門知識がない高橋が犯人だなどと、誰も思わないだろう。一石二鳥の計画だ。古賀は意匠設計担当だが、実はかなり建築構造にも詳しかった。隆司が計算した内容を、後日、計算書を改竄するのは、わけない作業だった。

 補正は、高橋に頼んだ。隆司から古賀に補正を頼まれたが、古賀も他の仕事で忙しく手がまわらないというと、面倒見のよい高橋は、二つ返事で了解してくれた。

                            

 その後、事件が発覚し、警察から事情調査を受けた。案の定、高橋が補正の代行を頼まれた事実はあったが、警察も事務職の高橋は、構造計算書偽造の知識がないので、計算書偽造は無理だと判断されたのだろう。全く高橋にも、古賀にも、疑いは掛からなかった。

 だが、計算違いもあるものだ。

 計算書を偽造したデータは削除したはずなのに、黒木が高橋のパソコンをハッキングして、構造計算書偽造の改竄データの存在に気づいた。

 黒木は高橋に近づき、構造計算書偽造に手を貸しただろ。と、強請を掛けた。お金に困っていた黒木が、高橋に要求した金額は、二千万円。

 知らない振りをすれば、できたのかもしれない。だが、高橋が黒木に強請を掛けられていると知り、高橋に負い目がある古賀は、無視できなかった。

 構造計算偽造で取得できる金だけでは、もはや足りなかった。偽造発注書のアイデアを黒木に教え、金が欲しいのなら自分でなんとかしろ、と忠告した。

 ところが、真野が邪魔して未遂に終わった。しぶとい黒木は、その後も高橋を脅してくる。時間もなかった。いつかバレると知りながら、見積書偽造の強硬手段に出たのは、苦汁を喫したが、仕方がない。

 もし、事実が明るみに出ても、古賀は余命半年。この世にいないかもしれない。

 瑠実に「真野が真犯人だ」と嘘をついたのは、時間稼ぎがしたかったから。真野は周知も認める仕事馬鹿。黒木や、加藤は埃を叩けば、いくらでも出てくるが、真野はいくら叩いても出てこないのがわかっていたからだ。

 それに、真野なら、何かあっても瑠実を支えてくれるだろう。実父でもある古賀は、真野なら瑠実を託せると思えた唯一の男だったと――。

                           

 手紙の最後に、体を大事に、幸せになって欲しいという言葉で締め括られていた。

 全てを供述し終わった古賀は、急に体調が悪くなった。警察病院に収容されながら、今後の処罰を受けるという。

 後日、高橋と黒木は警察に連行された。

 高橋は構造計算書偽造に関しては、善意の共犯者であり、見積書偽造については、強請られた事実が認められた。処罰はこれから決定するが、穏便な刑罰になるだろう。

 黒木については、他にも横領罪が明るみに出て、重い処罰が下されるかもしれない。

 その後、隆司は釈放されたが、釈放後も、隆司は古賀に対して、一言も責めなかった。

 後で真野に教えてもらったのだが、問題となった偽造計算書は、本来、耐震等級でいう構造等級三を取得するものが、等級一しか取れていなかったらしい。

 耐震等級とは、『住宅性能表示制度』と言われる制度の一つである。『住宅性能表示制度』は、第三者から見た客観的な建物の評価で、簡単にいうと、建物の成績表、もしくはスペックといったところだ。

 耐震等級は、等級一から三まである。等級一は、建築基準法で定められている基準値を一とすると、同等の耐震力があると認められた建物。等級二は、等級一、二五倍の強さのある耐震力があると認められた建物。等級三は、等級一に対して一・五倍の強さの耐震力があると認められた建物である。構造計算書偽造は、許せない罪だけれど、耐震等級一の設計。つまりは、ギリギリだけれど、建築基準法で定められている基準値は守ったことになる。悪意の中の、ギリギリの誠意だったのかもしれない。瑠実にはそれが古賀が建築に対して――つまりは構造計算に関わる者の矜持のような気がした。


to be cortinued……


 古賀は警察に自首した後、全ての犯行を供述した。供述した内容を、手紙に書き留め、翌日、瑠実宛てに届けられた。

 手紙の内容は、古賀の独白だった。

 

『瑠実さんへ

 本当は、全部、会ってお詫びしなければなりません。ですが次回、会えるのがいつなのか。私がそれまで生きていられるかわからないので、全部、手紙に認めます』

という始まりで、長い、長い手紙だった。

 要約すると、次のようだ。

      *

 偽造計算書の主犯は、古賀であること。高橋を使い、建築確認申請の補正をさせたこと。警察も予想を超えた古賀の犯行に驚いていたが、自首してきた事実は、古賀には不利にはならないから心配してくれるな、と。

 両親のいない古賀は、幼少時代から、社会人になるまで施設で育った。子供のいない夫婦から、何度か養子縁組の話もあったらしいが、古賀は首を縦に振らなかった。

 ずっと同じ施設で成長し、優秀だった古賀は奨学金で大学を卒業した。卒業後は、独立して一人暮らしを始めたが、社会人なった後も、時々施設を訪れ、寄付も怠らなかった。

 だが、古賀が育った施設は、定期借家契約で、三十年後に立ち退かなければならなかったようだ。ちょうど今年が三十年後に当たる。施設の立ち退き問題が古賀の耳に入った頃、古賀は自分が肺ガンで、余命半年と知らされた後だった。

 古賀はあと半年で亡くなるのなら……と、計算書偽造を企てた。結婚もせず、子供も身寄りのない古賀は、お金を誰かに残す必要もない。貯めたお金は全部、立ち退きを迫られている施設の土地を買い取るために使うつもりだった。

 だが、古賀の全財産をはたいても、施設の土地を購入する資金には届かなかった。通常取引される土地の売買価格なら、手も届いただろう。ところが、土地の持ち主は、地元のヤクザ。法外な値段を言いつけられた。時間があれば、正当な値段で取引できるよう、法的手段で順当に購入できたかもしれない。だが、余命半年と言われた中で、まともに手続きをするのは、あまりにも時間が掛かりすぎる。

 古賀は苦渋の決断で、計算書偽造を思いついた。だが、実行すれば、隆司に迷惑が掛かる。隆司は親友であり、瑠実が自分の実子でないのを承知の上で、芳美と瑠実を引き取ってくれた親友だ。隆司に悪いと思う一方、復讐したい気持ちもあった。

 もし、隆司と芳美が離婚し、古賀と結婚していたなら、……もっと違う人生になったかもしれない。

 隆司は学生時代からの親友だった。だが、隆司は古賀が芳美を好きだと知っていて、芳美を手に入れた。隆司の父は香月建設の社長であり、次期社長も約束されていた。

 お金持ちの環境で、好きな女と結婚する。羨ましくないはずがない。けれど、芳美が隆司を好きで結婚したのなら……と、古賀は諦めていた。

 だが、一時期、芳美が隆司と不和になり、離婚するかもしれないと相談された時は、チャンスだと思った。次期社長は無理でも、芳美は取り戻せる。しばらくは芳美と幸せな時間を過ごせたが、人生とは、上手くいかないものだ。

 結局、芳美と隆司が縒りを戻し、その後、瑠実が生まれた。古賀は芳美が産んだ子供が自分の子だとも知らず、事実を知らされたのは、瑠実が五歳の誕生日の日だった。もしも、芳美が自分の子供を宿していたと知っていたら、死んでも隆司と縒りを戻させなかったのに。

 芳美に真実を聞かされた時、古賀は隆司に懇願した。芳美と瑠実を返してくれ、と。

 けれど、芳美が隆司の側を離れるのを望まなかった。隆司は芳美が身ごもった時、お腹の子供は、自分の子供でないのを承知で、芳美と縒りを戻したからだという。

 夫婦でしか、わからないこともある。

 家族だから、わかることがある。

 家族を持った経験のない古賀にとって、隆司と芳美が取った行動は、理解できなかった。

 それでも、瑠実は古賀の娘だと主張した。話し合いの末、瑠実が成人するまで本人には事実を隠す。代わりに古賀は、瑠実に会うことが許された。

 瑠実と芳美が幸せなら、それでいい。

 古賀は黙って、香月家を間近で見守り続けた。



to be cortinued……







 なぜ大笑いをするのだろう?

「真野さん? どんげしたと?」

 最初は、不自然な姿勢のまま靴を履こうとしたので、ギックリ腰か、なにかやらかしたのかと、瑠実は心配をした。ところが、真野はその場で一度しゃんと背を伸ばし、立ち上がると、今度は急に屈んで、踏み石の周りと、三和土の床に注目した。上がり框の上に腹ばいになり、舐めるように三和土に見入る。指で床を押すと、叩き土がゆっくりと、指の形に凹んだ。元々、本来の三和土は土を練り叩いて固めたものなので、少し柔らかい。ヒールなどの尖った靴底で歩くと、ボコボコに穴が空くので注意が必要だ。指で押すと、押した場所が凹んでしまう。瑠実から見れば、なんてことない現象だ。真野は知らなかったのだろうか。いや、真野も多少なりとも茶道の経験があるのなら、三和土の具合は知っているはずだ。

「どうか……したと?」

 なかなか茶室に戻らない瑠実と、真野の後を追い掛けて、踏み台を片付けた芳美も、玄関にやって来た。真野は芳美の問い掛けにも返事をせず、まるで三和土を初めて見る子供のように、じーっと見ている。

「真野さん……?」

 再び真野に近づき、呼び掛けようとする芳美に「ちょっと静かに」と瑠実が制した。

「何か、わかったんですね?」

 真野は瑠実の言葉に、キラキラとした瞳を向けた。

「ああ……たぶん」

 ゆっくりと真野は頷き、上がり框に這い蹲った姿勢から、ホールの床にしゃんと座った。

「芳美さん、もう一度、図面を見せてもらえるやろうか」

 茶室に戻り、芳美が図面を持ってきた。玄関ホールの床の上に、図面を広げる。

「やっぱり!」

 何かを確認するように、真野は指で図面の玄関部分をトントンと叩いた。

「早く説明してください」

 待ちきれず、瑠実が急かす。図面と真野の前に、瑠実が正座して待つと、芳美も横に座り、真野の言葉を待った。

「たぶん、雲の中というのは、これのことじゃないやろうか」

 真野は図面に置いていた指を、玄関から離さなかった。

「玄関……ですか?」

「正確には、三和土の部分。踏み石の下辺り」

「え? 三和土の踏み石が雲の中やと? なんで、そんげな場所に?」

 芳美は座ったまま、膝行するように踏み石の側に寄った。見たところ、普通の石だ。何もカラクリはないように見える。真野が再び指先でトントンと玄関を指さしたが、ペンティング・マークが付いていただけだ。他にもいくつかの寸法に、ペンティング・マークの印があった。なぜ、真野は玄関のペンティングだけを指すのだろう。

「おそらく、雲の中の意味は、ペンディング・マークのことやと思います。例えば、図面に未確定部分の寸法なんかがあると、数値を雲みたいなマークで囲うことがあるとですよ。目立たせたい部分や、注釈代わりに使うマーク」

 瑠実も真野の言う意味がわかったらしく、急にゲラゲラと笑い出した。

 まさか『雲の中』の意味は、そのまま雲のマークだったなんて。

「雲の中は、こんげな意味やったつや!」

 芳美だけが、まだ意味をうまく飲み込めず、笑い合う二人の顔を見ていた。一番冷静だったとも言える。

「じゃけど、なんて玄関やと? 雲みたいなペンティング・マークは、他の寸法にもあるやろ?」

 図面には、他に二所、ペンティング・マークの記入があったが、どれも寸法の上に雲マークがあった。

 一カ所目は四畳半本勝手の床の間、幅寸法表示の上、二カ所目は、水屋の幅行き寸法の上だった。共通するのは、全部の寸法の上に雲マークがある。寸法でない部分に雲マークがあるのは、玄関の三和土、踏み石の上だけだ。

「雲マークが三和土やったら、掘ってみようや」

 瑠実が言い出すと、芳美も大きく頷いた。薫の大事な茶室の三和土に、穴を掘ることになるが、ここは我慢してもらうしかない。復旧はいくらでもするから。早く宝物を掘り出したい。真野は即座に立ち上がった。

「スコップを借りられますか? すぐにやりましょう」

 目尻に涙を溜めて笑っている瑠実も、まだ笑いながら「私も手伝う」と、志願した。

 真野の推理が正しければ、宝物は三和土の中……踏み石の下辺りにあるはずだ。

 芳美がスコップを持ってくると、真野は三和土を掘り始めた。

 石灰で丁寧に手入れをしているため、柔らかそうに見えて、実は固い。踏み石を動かすのを瑠実も手伝った。石を移動しようと手を掛けると、何回かずらしていた形跡があった。やはり、誰かが何度か動かした形跡がある。石自体は、かなり重かったが。

 石を移動した下の土は、軟らかかった。五十センチの深さまで行くと、スコップにガツンと何か衝撃があった。

「ありました!」

 シャツの袖を捲り、ネクタイの先を胸のポケットに仕舞う。汗だくになりながら作業した真野に代わり、「私がやる」と瑠実が交代をした。

「大丈夫?」「たぶん」

 瑠実が両手に軍手を填め、手作業で丁寧に少しずつ土を掘ると、中からビニールに覆われた葛籠が出てきた。鍵が掛かっているわけではないので、葛籠はまだ地中に埋まったまま、蓋だけ動かせる。蓋を開けると、中には煌びやかな金の延べ棒が入っていた。

「宝物だ!」

 まさに名の通りの宝物だった。薫が言っていた宝物を見つけた瞬間だった。

to be cortinued……


「畳床の縁は、高麗縁なのですね」

 流石、真野だ。畳の縁を見て、ぴしゃりと言い当てた。この辺りは、建築を職業にしているから……というよりも、茶道を心得ているからだろう。祖母が茶道の師匠をやっていた、と言っていたが、おそらく瑠実と同じように、ある程度のお手前はできるよう、仕込まれていると見える。畳の縁と一言で言っても、いろんな種類がある。通常茶室で使われる縁は、紺か黒一色の簡素な素材を選ぶのが好ましいとされる。但し、床の間の床板が、畳、つまり畳床の場合は、豪華な畳縁を選ぶのも可能だ。

 香月庵は、裏千家用の茶室として建築された。茶道には、いろんな流派が存在するが、表千家、裏千家、武者小路千家が三千家と言われ、有名だ。多少だけれど、流派によってお手前が違う。もちろん、流派により好みも多少は左右されるようで、香月庵で使われている高麗縁は、裏千家で好んで選ばれる畳縁だ。真野は床の間の前に座ると、注意深く天井や、壁に打たれた釘に注目した。茶室には、通常の和室にない専門の釘が、いろんなところに打ってある。

 炉の真上に打たれる蛭釘、床柱に打たれる柳釘、床の間に打たれる釣花入の釘、掛け軸を掛けるのに必要な三つ釘。全部場所が細かく決められ、意味がある。

 熱心に見学する真野の様子に、瑠実も芳美もそっとしておいたが、やはり気になるのは『雲の中』の意味だ。

 古賀は、どこかの場所らしいと言っていた。茶室に雲の中を指す場所が、どこかにあるはずだ。真野が茶室に見入っている間、瑠実と芳美は図面を広げ、一つ、一つ、見ていった。

 床、壁、天井、水屋、押入……。しょせんは木造住宅なので、いろんなところに隙間はある。天井裏に、床下。基礎だって昔の造りなので、独立基礎なのだ。床下を覗けば、茶室の四方が見渡せるくらい空いている。

「お母さん、雲の中って、どこやろうか?」

「宝物を隠せる場所といったら、ある程度、物を収納できる場所やろうね。例えば、押入とか、天井裏とか。押入は全部すっかり見たっちゃけど、どこにもなかったとよ。畳の下やろうか。とも考えたっちゃけん、ほら、ここは畳の下は床下になっちょるし、丸見えやわ。隠すところがない」

 確かに、床下に何かを隠そうとすれば、外から覗けば丸見えだ。宝物というくらいなので、外から見える場所にはないだろう。

  「じゃあ、天井裏?」

 瑠実がちらりと真野を見た。見学しながら、瑠実と芳美の会話を聞いていた真野は、気を遣ったのだろう。

「脚立はありますか?」と、尋ねてきた。

(ラッキー。これで天井裏は、真野に頼める)

 瑠実が「いいですか?」と真野に返事をすると、芳美も嬉しそうに、どこからか踏み台を持ってきた。

「すいませんね。今は女所帯なので、手が回らなくて」

(なんだ。お母さんも真野さんを頼りにしていたんじゃないの)

 ちらりと芳美を見ると、踏み台に上る真野を支えていた。目が合うと、にやりと笑う。

 似たもの親子だな。と思うと、芳美を憎めなかった。天井は全室、昔ながらの竿淵天井となっていた。船底天井のように勾配はついていないので、天井板を一カ所、押し上げて覗いて見れば、クランクして死角になっていない限り天井裏の全部が見渡せた。

「どうですか? 何かありそうやろうか?」

 瑠実が下から声を掛けた。真野が押し上げた天井板は、意外に大きく、真下にいる瑠実にも、背伸びすると、屋根裏の様子が少し見えた。昔の住宅なので、断熱材もなにもない。所々に電線の配線が見えるぐらいだ。それも天井裏は普通は掃除しないので、厚い綿埃が溜まっていた。

 妻面に換気口が開けられている。懐中電灯がないと暗くて見えないかと思ったが、実際は下から覗いても、母屋(もや)(屋根を支える構造材)の木目が見えるほど、かなり明るかった。

「残念ながら……特には……」

 真野はポケットからハンカチを出し、口を覆った。埃の量が凄いのだろう。踏み台に上ったまま、体の方向を四方に回転させて天井裏を覗いていたが、しばらくして踏み台を降りた。

「真野さん、その頭!」

 瑠実が指さしたのは、真っ白になった真野の頭だった。綿菓子のような埃をつけている。

 箸がころげても笑いが止まらない年頃の瑠実は、埃だらけの真野を見ると、いきなりゲラゲラと笑い出した。

「瑠実!」

 芳美が窘めたが、急に瑠実の笑いが収まるわけではない。真野も瑠実の笑いに怒る様子もなく、室内に埃を落とさぬよう、注意深く玄関に向かった。

 外に出て埃を払おうとしているのがわかり、瑠実も後を従いて行く。後を従いていった理由は、少し笑いすぎたと反省したからだ。謝るついでに、埃の一つも払って上げようという気になった。

 上背のある真野は、少し猫背になり、淡々と廊下を歩く。上がり框の正面に設置された平たい踏み石に靴が並べられているのを、背中を丸めて靴を取り寄せる。

 靴を履こうとした矢先、真野は「あ!」と大きな声を立てた。次の瞬間、大笑いを始めた。

to be cortinued……





 簡素な板戸の中門を通り、路地を歩く。路地は飛び石で誂えてあり、ヒールでは歩きにくい。以前、薫からよく「草履に履き替えなさい」と叱られたのを、瑠実は思い出した。

 客人が茶室に入るには、躙口と貴人口とあるが、香月家の茶室は、両方ある上、普通の住宅と同じように、玄関もあった。玄関の切り妻屋根の妻面に掲げられた銘木に、『香月庵』と彫ってある。築五十年以上経つ茶室は、かなり風化していて、侘び寂びが必要以上に感じられた。

 だが、一歩、茶室に入ってしまえば、普段から手入れを怠らない薫の努力の賜物もあり、築五十年以上の木造住宅だとは感じない。引き戸の玄関ドアを入り、三和土の石の上で靴を脱ぐ。真野が不思議そうに呟いた。

「ここの三和土は、本物なんですね」

 本物とは、どういう意味なのか? 瑠実は芳美と顔を見合わせた。

「本物と偽物があるんですか?」

 今まで考えたこともなかった。瑠実の中では、生まれた時から香月庵は建っていた。少し柔らかい三和土の床だからだろうか。現代の日本家屋では、三和土の仕上げはタイル貼りか、石張りといった、固くて水に濡れても風化しない素材を選ぶのがほとんどだ。

「偽物といっていいのかわかりませんが、普通は違いますよね」

 真野は三和土にしゃがみこみ、少し柔らかい素材の三和土を指で撫でた。

「お祖母ちゃんが、よく石灰を撒いて手入れしているから……」

 幼い頃から「茶室の三和土は、こんなもんだ」と思っている瑠実にとっては、真野の発想自体が珍しかった。セメントの無かった昔、地面を固く整えるのに、三和土を使ったとされる。本来の三和土は、叩き土に石灰や水を混ぜて叩き固めた土間のことだ。香月庵が建築された頃には、コンクリートは存在したが、由緒正しい茶室の造りに倣い、三和土には、昔ながらの素材が使われた。

「昔は、三種類の土を使ったから、三和土と書くとよ」と、幼い頃、薫に教わったことを瑠実は思い出した。茶室や茶道に関わるものでなく、薫はよく昔からの風習や、モノについて博学であり、よく瑠実に教えてくれた。たまに何かの拍子に思い出すことがあって、友達に話すと、「瑠実は物知り」と珍しがられたのを思い出した。                  

「さあ、中にどうぞ」

 三人は玄関口にいた。せっかく来たのだから、水屋や茶席も見せたいと、芳美は先に進むよう案内した。

 玄関を上がり、畳二畳分のホールを通ると、左手に廊下と平行して水屋があった。

 水屋は畳二帖分の広さがあり、流しは特注で加工した銅板の上に、細竹製の簀の子が載っている。本格的に三種類四段の棚があり、茶室用に銅製メッキされた蛇口が磨かれ、独特の飴色に輝いていた。茶道を祖母に躾られた真野は、多少、水屋の使い勝手もわかるのだろう。熱心に見ていたと思ったら、「俺も、いつか機会があったら、茶室を設計してみたいんですよ」と呟いた。

 設計を仕事としていても、茶室を設計する機会は、滅多にない。現代の日本は、畳の部屋がない住宅だって多くある。

 襖や障子の存在も知らない子供も珍しくない上、和室がないので正座もできない子供も大勢いる。そのうち、日本の住宅から、和室が消えてなくなるのではないか。

 水屋の前から、なかなか動かない真野をせかし、芳美は早く全部見せたいと、茶室の入口になっている太鼓襖を座って開けた。

 座って開けたのには訳がある。入口の引き戸になっている襖の取手の高さは、床の上から一尺八寸(五十五センチ)と決まっているからだ。

 通常の襖やドアの取手高さは、床から八十五センチから九十センチに取り付けるのが一般的だ。もしも、茶室の襖が一般的な高さの位置にあると、座った状態で目線に当たり、非常に開けづらい。床から一尺八寸の位置にある取手の高さは、座って開ける高さにちょうどいいのだ。

 茶室に入る前には一度入り口に座り、気持ちを落ち着けて襖を開けるもの。茶道をする人間の気配りは、細かいところにも行き届いている。水屋の奥は、四畳半の和室。いわゆる茶室でいう『四畳半本勝手』があった。四畳半の部屋の隣は、八畳の部屋。茶室でいう『八帖本勝手』だ。香月庵には二つの茶室があった。壁はもちろん、真壁の入洛塗りである。和室の壁の造りには、二つの工法がある。平面で見ると、柱と柱をボードでサンドイッチしたように造る大壁式工法と、柱をそのまま露わにし、化粧材として造る真壁工法である。現代の日本の和室は、大壁式の和室が多く、辛うじて畳が敷き詰められ、廻縁がある程度に誂えられているものが大半だ。壁もクロス張りで、長押なしの仕上げも、よく見掛ける。

 香月庵の二つの茶室には、両方とも炉が切ってあり、畳床が設置してあった。今は薫が不在なので掃除程度しか茶室に入らないが、薫が元気な頃は、襖を開けると、どこからともなく香を焚く香りがしたものだ。瑠実は香を嗅ぐと「ようやく茶室に来たな」と感じて、香の匂いが好きだった。

 真野は八帖本勝手の部屋の入口に座ると、丁寧に襖を開けた。背筋をピンと伸ばし、凜とした表情で一礼する。

 茶室に入ると立ち上がり、畳の縁を踏まないよう、一帖分を二歩半で進み、床の間の前まで進んだ。

 瑠実も芳美も、真野の流れるような一連の動作を、黙って見ていた。

「そうか。真野さんもお祖母さんがお茶の先生だったんですもんね」

 きっと幼い頃から、祖母に茶道を仕込まれたのだろう。瑠実の周囲では、同年代の男性で茶道のできる人がいなかった。若い男が、凜とした姿で和室にいるのもよいものだ。

 別に茶を点てたわけでもないのに、うっとりと見惚れてしまいそうだ。これが和服でも着て、自分のためにお茶を点ててくれたなら……。と妄想して、瑠実は頭を振った。

 芳美を見ると、瑠実と同じように感じたのだろう。うっとりとした瞳で真野を見ているのが、可笑しかった。


to be cortinued……

 第七章 宝物

                           

「今からですか?」

 すでに朝日が昇り始めていた。遮光カーテンの隙間から、帯状の光が差し込んでいて、日差しが眩しい。結局、夕べからずっと起きてきた。体は疲れていたが、不思議と頭は、すっきりとしていた。今日もバイトがあるけれど、今はバイトどころではない。真野も同じ気持ちだったのだろう。

「わかりました。自宅にあるので、今すぐ持ってきます」

「真野さん……仕事は? 大丈夫ですか?」

 芳美が心配したが、真野は爽やかな笑顔だけを向けた。真野が自宅に戻り、図面を持ってくる間に、瑠実と芳美は夜着から普段着に着替え、朝食を作った。真野もすぐに戻ってきて、一緒に食事を終えると、早速、茶室の図面を広げた。

 五十年の前の図面は、青焼きに手描きだった。数字は辛うじてテンプレートを使っているが、通り芯も、いろはにほへと、と漢数字だった。モジュールだけは、茶室独特の京間サイズを使用していたのが、印象的だ。通常、日本の家屋の設計には、『間』といったモジュールが使われる。これがクセモノで、厳密にいうと、日本各地でモジュールが違う。

 例えば、東日本では、江戸間といわれる一モジュールを一尺(九一○ミリ)とするが、地域によって間のサイズは違っている。九州、四国では一モジュールを一・○五(九五五ミリ)とするし、他にも区別するなら、福井間・大津間・越前間等などもあるらしい。

 モジュールが、日本各地で違うと、困るのは外部建具のサッシである。以前は、九州、四国間、関西間、関東間……と、地域ごとにサッシ寸法も変わっていたので、特注でサッシを作成するならともかく、サッシ・メーカーは大変だっただろう。

 設計者や、施工者側も、サッシ・メーカーごとに、それぞれの『間』のカタログから選ぶので、取り寄せるカタログの厚みと量だけでも場所をとったものだ。

 昔、瑠実が隆司の職場に遊びに行った時、壁一面に取り寄せたサッシのカタログの量だけでも、かなりスチール製の書棚の幅を占めていた記憶がある。

 現在は、サッシ・メーカー共通の寸法品番で判断できるように統一されている。『間』が違うと、柱割りも、柱の間に入れる間柱も、当然のことながら配置する寸法が違ってくる。

 間が全国各地で違うと、サッシだけでなく、下地のボード類、サイディングと、定形サイズの商品が使えなく、ロスも多い・モジュールが統一されるのは、自然な流れだった。

 問題の京間は、一モジュールを一・○五(九五五ミリ)としていた。よく、間違われるのが、京間とキョウマの扱いだ。呼び名上、同じにしか聞こえないけれど、気をつけないとやっかいだ。関東地方で耳にするキョウマとは、狭い意味の『狭間』と捩って言われるので、『京間』とは意味が全く違う。京間は一モジュール九五五ミリに対して、キョウマは九一○。その差半減で四五ミリもある。茶室を設計する時には、特にモジュールに注意が必要になってくる。でなければ、畳の割付サイズに影響し、お茶のお点前にも影響が及ぶからだ。

「図面のどこに秘密があるんですか?」瑠実が見る限り、古い平屋の木造住宅の図面にしか見えない。何カ所か、寸法のところに、ペンティング・マークがあったが、ペンティング・マークは施工図面にはつきものなので、いたって不思議ではなかった。


 



 いったい、どこに秘密があるのか。炙り出しか? それとも特殊なインクを使っていて、光を当てると、秘密の文字が浮かび上がってくるとか。けれど作図したのが五十年も前なのだから、科学的な仕掛けもなさそうだ。

「普通の図面にしか見えんですよね」

 真野にも普通の図面にしか見えないようだ。

 何か透けて見えるかと、窓硝子に張り付けて透かしてみたが、裏も表も何もなかった。

「せっかくだから、茶室も見せてもらえんやろうか」

 真野の申し出も、一理ある。現物と図面を見比べて見れば、何かわかるかもしれない。一行は離れの茶室へと足を運んだ。


to be cortinued……



「ところで、真野さんは茶室の図面を持っているんですよね? 今、どこにあるっちゃろうか?」

 忘れていたわけではなかったが、重い話題で、話が途切れていた。

「図面は俺の自宅です。実は亡くなった祖母から、預かっていたものなんです」

「真野さんのお祖母さんが図面を持っちょったと? なんでですか?」

 予想を超えた真野の説明に、芳美が質問した。

 確かに、そうだろう。真野家に、どうして香月家の茶室の図面があるのか。そもそも、茶室を建てたのは五十年も前だと聞いている。図面が現在でも存在しているのさえ希だ。

「祖母も、薫さんと同じ裏千家の先生をやっちょりました。三年前に亡くなりましたけどね。ちょうど、俺が香月建設に就職した年です」

「そうですか……それは、ご愁傷さまです」

 瑠実と芳美は、ソファに座ったまま深々と真野に頭を下げた。

「社長が若い頃、女性に人気があったという話は、ご存じですか?」

 真野の祖母の話をしていたと思ったら、今度は虎之助。突然の話題の移行に、瑠実も芳美もついてゆけず、黙って聞いていた。

「実は社長……虎之助さんは、ウチの祖母と、結婚を約束していたらしいんですよ」

 知らなかった。虎之助と薫の大恋愛の末、結婚した話はよく聞かされていたが、真野の祖母とも結婚の約束をしていたなんて。

「どうやら、親が決めた許嫁だったんです。結婚祝いに親から土地を貰い、新居を造るはずだったのが、祖母の我が儘で、自分たちが住むのは借家でいいから、茶室が欲しいと。虎之助さんは、祖母の我が儘に付き合って、茶室を建てることにしたんです」

 虎之助が女性にモテていたという話は聞いていたが、モテる秘密は、女性の意見を聞くことなのかもしれない。

「おじいちゃんも、やるねぇ」

 瑠実が感心していうと、芳美は口元に人差し指をさし、しっ、と窘めた。

「ところが、茶室を建築中、虎之助さんと薫さんが出会い、結ばれた。人も羨むくらいの大恋愛で、結局、祖母とは結婚しなかった」

 真野のお祖母さん、可哀想……。と話を聞きながら瑠実は思った。とはいえ、虎之助と薫の仲の良さを知っていると、しかたがなかったのだろう。芳美はよく「チャーミー・グリンのCMのまんまじゃね」と平成生まれの瑠実のわからない話で、仲睦まじい虎之助と薫の二人を例える。いずれにせよ、人も羨む仲は、虎之助と薫のことを指すのだと思う。人の恋路は、当人同士しかわからない。

「祖母はその後、北九州を離れ、東京の親戚の家に引っ越しをしました。ところが、引っ越しした後、俺の父親が、祖母のお腹にいるとわかったんです」

 え? ちょっと待って。ということは……。

 瑠実も芳美も、突然の真野の話に驚いた。

「そうなんです。俺の父親は、虎之助さんの子供。つまりは、俺は虎之助さんの孫になります」

 嘘! 真野さんがお祖父ちゃんの孫!

「じゃあ……親戚同士?」

 瑠実が隆司の実子ではないので、直接は血が繋がらないが、瑠実と真野は、虎之助の孫同士の間柄になる。つい先程、自分の出生の秘密を聞かされ驚いたばかりなのに、二度もびっくりだ。

  「そうやったと? んまー! お祖父ちゃんもやるわねぇ」

 瑠実には窘めた芳美も、流石に真野が虎之助の孫だとは、驚いたらしい。考えると、いろんな場面で虎之助や薫が、真野を贔屓していた事実を思い出した。虎之助が危篤で、家族しか呼ばない病室にも、真野を呼んでみたり、ショート・ステイしてる薫が、真野を虎之助と間違え、ずっと手を握っていたことも。

「虎之助さんは、その後、自分の子供を祖母が身ごもった事実を、ずっと知りませんでした。俺が偶然、香月建設に就職して、名字に心当たりがあって調べたら、わかったことで。虎之助さんが知った時には、ちょうど祖母も他界する間際だったんです。祖母は虎之助さんをずっと好きでいたようですよ。本当は茶室は自分の夢だった……って。俺が虎之助さんの会社に就職したのを知り、茶室の図面を返すよう、頼まれた」

 瑠実は、ようやく話が繋がった気がした。

「もしかして、真野さんが、私を迎えに来てくれた時、東京に戻っていたというのは……」

「そう。それまで返却しそびれていた図面を、虎之助さんが、見たい、と言ったからなんだ。虎之助さんが倒れる、ちょうど二日前だった。結局、虎之助さんは、あのまま亡くなったので、渡せずじまいじゃったのが、心残りで……」

 ようやく途切れ途切れの話が、一本に繋がっていくようだった。古賀は茶室の図面に秘密があると言っていた。図面があるのなら、どうしても見たい。

「真野さん、お願いがあります。茶室の図面を見せてください」

 

to be  continued……



「いいや……正確にいうと、古賀さんは偽造計算書を作成しただけで、補正した人間は別にいると思います。俺も詳しくはわからんけど。たぶん、古賀さんは全部を話すつもりで、自首したんだと思います」

 真野の言葉に、瑠実も芳美も息を飲んだ。段々と古賀への憎悪が込み上げてくる。どうして古賀は隆司に偽造計算書の濡れ衣を着せたのか。隆司の容疑が晴れるのは、嬉しい。けれど、古賀が偽造計算書に関わっていたと考えると、悲しくなってくる。先程、実の父親だと聞かされたから、余計にだ。

 だが、おかしくないか?

 古賀は構造ではなく、意匠担当だと聞いていた。確かに古賀は意匠担当という割に、構造に詳しかったが、果たして構造計算までできるものなのか。

 それに、計算書を偽造する理由が皆目わからない。計算書を偽造するなんて、姉歯元一級建築士の事件でも、どれだけ社会に迷惑を掛けるか、ベテランの建築士ならよくわかるはずだ。

「真野さん、なんで古賀さんが計算書偽造犯人だとわかったんですか? そもそも、古賀さんは意匠担当でしょう?」

「確かに、古賀さんは意匠担当やけど、かなり構造には詳しいんだ」

 瑠実も、古賀が構造に関して詳しい知識をもっていることをよく知っている。建築学を学んでいるとはいえ、構造や建築確認申請の実務については、素人同然の瑠実にも、わかりやすく説明をしてくれた。理解していない人間は、すぐに法令の何条だとか、計算式だとか、難しい概念を、難しい言葉のまま説明したがるものだ。もっと言えば、自分の言葉でなく、他人の発した難しい専門用語で、強制的に言いくるめる。素人には難しい言葉に気を取られているうち、説明されても煙に巻かれたように、釈然としない気持ちが残る。

 ところが、古賀の説明では、かなり理解できた。きっと専門外の構造についても、勉強している証拠だ。

「確かに、古賀さんは構造には詳しかったですね。でも、仮に古賀さんが計算書を偽造したとして、誰が補正したんですか?」

 真野は差し替えた人間は、他にいると言っていた。何かを知っているような口ぶりだ。そもそも、補正って何? どうやってするの?

「補正とは、確認申請図書の中に相違があった場合、それを修正することです。書類も図面も、計算書も含まれます。間違った部分に横線を引き、正しい数値、語彙を記入する。書き直した場所には、設計者の押印をする。これが基本です。ばってん、修正箇所が多かったり、余分に追加で計算する必要が出た場合、申請機関にもよるけど、『追加事項説明書』という書類を添付し、計算を追加することができるとです」

 真野の説明で、補正については理解できた。だが、聞けば聞くほど、補正も専門知識がないとできない気がする。先程、真野は「古賀は偽造計算書を作成しただけ」だと言っていた。誰でも補正できるわけではないと思う。他に共犯者がいるということか。

「共犯者がいる……んですよね。ズバリ聞きますけど、真野さんは共犯者が誰が知っちょるんですか?」

 ここまで来たら、知っていることは全部、とことん教えて欲しい。瑠実の切実な願いだった。

「共犯者は、おると思う。俺の考えが合ちょれば……共犯者は高橋さん」

 真野の挙げた名前に、瑠実は驚いた。高橋は見積書の偽造だけでなく、計算書偽造まで罪を犯していたのか? その前に、高橋は事務職じゃなかったのか?

「ちょっと待ってください。高橋さんが、なんで? そもそも、高橋さんは事務職でしょう。経理のことならともかく、建築の専門知識がないのに、なんで補正ができるとですか?」

 普通に考えたら、あり得ないことだ。専門知識がないのに、建築確認申請の補正ができるとは。事務職を馬鹿にするわけではないけれど、何のための専門知識だ? 大学で建築学科を専攻している瑠実にとって、専門知識もないのに確認申請の補正ができるのであれば、真面目に勉強して資格を取るのが、馬鹿馬鹿しくなってくる。

 真野は瑠実の考えも、理解できるからか、「まあまあ」と、鎮めた。

「確かに本来は、建築確認申請の補正も、資格を持った建築士がやるべきなんだ。そのための建築士の資格なんだから。ばってん、内容が理解できれば、有資格者でなくても、補正くらいならできる。但し、補正された内容は、全て届を出した建築士の責任になるっちゃけどね」

 問題になった物件の偽造計算書は、隆司の名前で設計したものだ。真野の話では、たとえ補正を別の者が間違いのまま補正しても、全責任は設計した隆司に降り掛かる。考えようによっては、怖いと思う。

「俺が高橋さんの名前を挙げるのには、理由があるっちゃわ。副社長の設計補佐は、俺もよくやっている。建築確認申請の補正なら、俺が副社長の代わりに代行することも多かった。少し前になるっちゃけど……問題のあった物件の建築確認申請の手続きをしちょった頃を思い出してみた。確か、一度だけ、俺も打ち合わせが重なって補正に行けん時があって、高橋さんに行ってもらったことがあった。ちなみに、当時の高橋さんの日報をチェックしたんだ。高橋さんは真面目だから、ちゃんと日報にも、補正に行ったと記入しちょったよ。しかも、古賀さんに指示された書類も見つかった。ファイル魔だったから、附箋と追加するページのメモまであった」

 確かに高橋の性格なら、ありうる話だ。だが、役所か第三者機関の担当者だって、正しい書類であるか、チェックは絶対するだろう。

「追加する書類に、間違いがあったら、担当者にチェックされるんじゃなかとですか?」

 瑠実が質問すると、もっともだ。というように、真野も大きく頷いた。

「そうなんだよね。これは想像でしかないっちゃけど、担当者がOKを出したその後に、上手く差し替えたんだと思う。補正する時は、担当者がずっと目の前で見ているわけではないから。隙を突いてやったんだろうね」

「……そうですか」

 古賀が主犯で、共犯者は高橋。瑠実は真野の話で、偽造計算書の絡繰は納得できた。だが、問題は主犯ともいえる古賀の目的だった。古賀は隆司の親友だ。実の瑠実の父でもある。見たところ、真面目な男なのに、なぜ犯行に及んだのだろう。お金が目的か? と思っていたが、古賀は独身者で、生活費も本人の稼ぎだけで満足だろう。ギャンブルや女好きだとも思えないし、理由が皆目わからない。

「問題は、なんで古賀さんが偽造計算書を企てたか、やとよ……。高橋さんも真面目なのに、なんで古賀さんに協力したのか。しかも、見積書偽造だって黒木に協力している」

 まだ謎は多そうだ。

「真野さん、主人は釈放されるやろうか」

 それまで黙って聞いていた芳美が、話の切れ目を待ち構えていたように割って入った。

「古賀さん次第だと思います。もし、古賀さんが供述しないようなら、証拠はあるけん、俺も副社長に戻ってこれるよう、協力しますよ」

 芳美は真野の言葉を聞いて、ほっとしたような、思い詰めたような、複雑な表情をしていた。瑠実も芳美と同じ気持ちだった。実の父親だと知らなければ、隆司の釈放を、両手を叩いて喜んでいただろう。


to be  continued……



「ところで、古賀さんは雲の中の宝物をどうしたかったんです?」

 真野が尋ねると、古賀は酷く疲れた様子で答えた。地下室に侵入して、茶室の図面が見つからなかった結果が、よほどショックだったのかもしれない。

「会社再建……やね。あとは、世の中のためになることがしたかったっちゃけど、やっぱりできんかった。大事なものが一杯あったっちゃけど、結局、俺には何一つ守れんかった。世の中は難しい……」

 会社再建、の理由は誰しも納得が行った。だが、後に続く古賀が言った本当の意味を、その場にいる者は、誰一人、理解できていなかった。

「芳美、警察を呼んでくれんやろうか」

 何を言い出すのかと思えば。正直な人だ。家宅侵入罪で自首するなんて。

「なんで? 警察はもう、いいちゃが。何も盗ったわけじゃないし、古賀さんは家族なんやから」

 芳美は、ようやく納まった涙を拭きながら答えた。

「うん。うん。古賀さん、警察はもういいが。お母さんも、そんげゆうちょるし」

 瑠実も芳美と一緒に抗議したが、古賀は頭を振った。

「んにゃ。いかん。俺は自首するよ」

 古賀はすでに決意していたようだ。瑠実も、もう一度、説得しようとしたが、決意は固そうだ。相変わらず疲れた顔をしていたが、何かふっきれた様子だ。

「……本当の父親が、こんなんで、びっくりした?」

 古賀に言われて、瑠実は大きく頭を振った。

「正直に言っていいよ。俺は酷い男だ。家庭を持つ資格はない」

 自問自答するように、はっきりと言った。古賀の姿が、なぜだかいつもより小さく、老けて見える。

「香月が父親で本当によかった。幸せになんないよね。俺がすぐに香月を出してやるから」

(お父さんを出してやる? どういう意味?)

「真野、警察を呼んでくれんか」

 ……まさか、自首するって、古賀さん自身でなく、真野さんを自首させるつもり?

 瑠実は古賀の言葉に、引っ掛かるものがあった。古賀は真野が怪しいと言っていたが、まさか……。

「真野さん、待って!」

 真野は偽造計算書の犯人ではない。他に犯人がいるはずだ。瑠実は古賀に偽造計算書の前のバックアップ・データを発見したことを説明しようとしが、真野が頭を振って「言うな」と瑠実にアイコンタクトを送る。結局、瑠実は黙って言うとおりにした。朝方、真野は警察を呼び、古賀は自首していった。

  

 古賀は、どういう意味で言ったのだろう。「香月を出してやるから……」と言っていた古賀の言い分に、全く意味がわからなかった。古賀を玄関で見送った後、呆然としていると、真野が深刻な顔をして言った。

「瑠実さん、芳美さん、話があります」

 瑠実は身を固くした。 

 もしかして、今から偽造計算書の懺悔? いいや……真野は犯人じゃないし。それにしても、どうして先程、真野は偽造計算書のバックアップ・データを発見したことを、古賀に言わなかったのだろう。三人はリビングに戻り、真野は改めて話し始めた。

「あの……瑠実さんと芳美さんは、俺のお祖母さんの話は知っていますか?」

 唐突に話し始めた真野の言葉に、瑠実も芳美も、クエクション・マークが頭の中を飛び交っていた。

「いいえ。真野さんのお祖母さん? 私は何も……お母さん、知っちょると?」

 瑠実は当然、真野の祖母は会ったこともないし、話にも聞いた覚えがない。芳美は知っているかと思ったが、芳美も生憎、瑠実と同じだった。

「そうですか……。じゃあ、俺が社長が亡くなる二日前、東京に戻ったことは聞いています?」

 そう言えば、初めて真野と出会ったのは、東京ミスコンテストの会場だったな。と、今更、昔の出来事のように、瑠実は思い出していた。あれからたった十日間しか経っていないのに、かなり昔のような気がする。

「いいえ。何も。お母さんは?」

 芳美も頭を横に振った。真野が東京にいたのは、祖母の家に用があったからだと聞いていた。後日、虎之助が頼んでいたからだと判明したが、なぜ虎之助は真野に東京行きを命じたのだろう。

「探している茶室の図面ですが、実は、俺が持っちょります」

「え? 真野さんが?」

 真野の言葉に、瑠実と芳美は驚いた。あれほど探してどこにもないと思っていたが、真野が持っていたとは。

 真野も人が悪い。自分が図面を持っているのなら、どうして古賀が地下室にまで侵入して探しているのを知っていて、黙っていたのだろう。

「なんで、もう少し早く教えてくれんかったとですか」

 芳美が真野の背中を、バシバシ叩きながら責めると、痛そうなのを堪えながら「それは古賀さんが偽造計算書を作った犯人やったから……。その、信用できんかったとです」と答えた。

「嘘! 古賀さんが犯人?」

 予想だにしなかった名前が出て、驚くしかなかった。最初、古賀は真野が怪しいと言っていたのに、あれはフェイクだったのか。騙されたと思うと、悔しい。

to be  continued……