雲の中。 第七章 宝物 2 | 一期一会

一期一会

本も人の出会いも一期一会。時々読者、時々物書き。好きな本やコミック感想を中心に、日常のつれづれと共につぶやいていきます。


 簡素な板戸の中門を通り、路地を歩く。路地は飛び石で誂えてあり、ヒールでは歩きにくい。以前、薫からよく「草履に履き替えなさい」と叱られたのを、瑠実は思い出した。

 客人が茶室に入るには、躙口と貴人口とあるが、香月家の茶室は、両方ある上、普通の住宅と同じように、玄関もあった。玄関の切り妻屋根の妻面に掲げられた銘木に、『香月庵』と彫ってある。築五十年以上経つ茶室は、かなり風化していて、侘び寂びが必要以上に感じられた。

 だが、一歩、茶室に入ってしまえば、普段から手入れを怠らない薫の努力の賜物もあり、築五十年以上の木造住宅だとは感じない。引き戸の玄関ドアを入り、三和土の石の上で靴を脱ぐ。真野が不思議そうに呟いた。

「ここの三和土は、本物なんですね」

 本物とは、どういう意味なのか? 瑠実は芳美と顔を見合わせた。

「本物と偽物があるんですか?」

 今まで考えたこともなかった。瑠実の中では、生まれた時から香月庵は建っていた。少し柔らかい三和土の床だからだろうか。現代の日本家屋では、三和土の仕上げはタイル貼りか、石張りといった、固くて水に濡れても風化しない素材を選ぶのがほとんどだ。

「偽物といっていいのかわかりませんが、普通は違いますよね」

 真野は三和土にしゃがみこみ、少し柔らかい素材の三和土を指で撫でた。

「お祖母ちゃんが、よく石灰を撒いて手入れしているから……」

 幼い頃から「茶室の三和土は、こんなもんだ」と思っている瑠実にとっては、真野の発想自体が珍しかった。セメントの無かった昔、地面を固く整えるのに、三和土を使ったとされる。本来の三和土は、叩き土に石灰や水を混ぜて叩き固めた土間のことだ。香月庵が建築された頃には、コンクリートは存在したが、由緒正しい茶室の造りに倣い、三和土には、昔ながらの素材が使われた。

「昔は、三種類の土を使ったから、三和土と書くとよ」と、幼い頃、薫に教わったことを瑠実は思い出した。茶室や茶道に関わるものでなく、薫はよく昔からの風習や、モノについて博学であり、よく瑠実に教えてくれた。たまに何かの拍子に思い出すことがあって、友達に話すと、「瑠実は物知り」と珍しがられたのを思い出した。                  

「さあ、中にどうぞ」

 三人は玄関口にいた。せっかく来たのだから、水屋や茶席も見せたいと、芳美は先に進むよう案内した。

 玄関を上がり、畳二畳分のホールを通ると、左手に廊下と平行して水屋があった。

 水屋は畳二帖分の広さがあり、流しは特注で加工した銅板の上に、細竹製の簀の子が載っている。本格的に三種類四段の棚があり、茶室用に銅製メッキされた蛇口が磨かれ、独特の飴色に輝いていた。茶道を祖母に躾られた真野は、多少、水屋の使い勝手もわかるのだろう。熱心に見ていたと思ったら、「俺も、いつか機会があったら、茶室を設計してみたいんですよ」と呟いた。

 設計を仕事としていても、茶室を設計する機会は、滅多にない。現代の日本は、畳の部屋がない住宅だって多くある。

 襖や障子の存在も知らない子供も珍しくない上、和室がないので正座もできない子供も大勢いる。そのうち、日本の住宅から、和室が消えてなくなるのではないか。

 水屋の前から、なかなか動かない真野をせかし、芳美は早く全部見せたいと、茶室の入口になっている太鼓襖を座って開けた。

 座って開けたのには訳がある。入口の引き戸になっている襖の取手の高さは、床の上から一尺八寸(五十五センチ)と決まっているからだ。

 通常の襖やドアの取手高さは、床から八十五センチから九十センチに取り付けるのが一般的だ。もしも、茶室の襖が一般的な高さの位置にあると、座った状態で目線に当たり、非常に開けづらい。床から一尺八寸の位置にある取手の高さは、座って開ける高さにちょうどいいのだ。

 茶室に入る前には一度入り口に座り、気持ちを落ち着けて襖を開けるもの。茶道をする人間の気配りは、細かいところにも行き届いている。水屋の奥は、四畳半の和室。いわゆる茶室でいう『四畳半本勝手』があった。四畳半の部屋の隣は、八畳の部屋。茶室でいう『八帖本勝手』だ。香月庵には二つの茶室があった。壁はもちろん、真壁の入洛塗りである。和室の壁の造りには、二つの工法がある。平面で見ると、柱と柱をボードでサンドイッチしたように造る大壁式工法と、柱をそのまま露わにし、化粧材として造る真壁工法である。現代の日本の和室は、大壁式の和室が多く、辛うじて畳が敷き詰められ、廻縁がある程度に誂えられているものが大半だ。壁もクロス張りで、長押なしの仕上げも、よく見掛ける。

 香月庵の二つの茶室には、両方とも炉が切ってあり、畳床が設置してあった。今は薫が不在なので掃除程度しか茶室に入らないが、薫が元気な頃は、襖を開けると、どこからともなく香を焚く香りがしたものだ。瑠実は香を嗅ぐと「ようやく茶室に来たな」と感じて、香の匂いが好きだった。

 真野は八帖本勝手の部屋の入口に座ると、丁寧に襖を開けた。背筋をピンと伸ばし、凜とした表情で一礼する。

 茶室に入ると立ち上がり、畳の縁を踏まないよう、一帖分を二歩半で進み、床の間の前まで進んだ。

 瑠実も芳美も、真野の流れるような一連の動作を、黙って見ていた。

「そうか。真野さんもお祖母さんがお茶の先生だったんですもんね」

 きっと幼い頃から、祖母に茶道を仕込まれたのだろう。瑠実の周囲では、同年代の男性で茶道のできる人がいなかった。若い男が、凜とした姿で和室にいるのもよいものだ。

 別に茶を点てたわけでもないのに、うっとりと見惚れてしまいそうだ。これが和服でも着て、自分のためにお茶を点ててくれたなら……。と妄想して、瑠実は頭を振った。

 芳美を見ると、瑠実と同じように感じたのだろう。うっとりとした瞳で真野を見ているのが、可笑しかった。


to be cortinued……