第三章 理想の旦那
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翌朝、俺は息子の声で目が覚めた。
「父さん、そろそろ起きてよ。シーツ洗濯したいんだけど」
しぶしぶと目を開く。遮光カーテンを隆司が開けてくれると、ダブルベッドに一人で寝ている自分の姿が浮かび上がる。広いベッドが、やけに寂しかった。
「今、何時だ?」
「そろそろ十一時になるよ。いくら土曜日で休日だと言っても、早く洗濯して干さないと、乾かない」
ひとみがいなくなって、隆司と陽司が手分けして家事をしてくれる。全部ひとみが躾けしてくれていたので、食事以外は、生活に困らなかった。
ひとみがいる時は、隆司と陽司は仲が悪かったように思えた。けれど、今は、二人で協力して家事をやってくれている。
俺より、息子たちのほうが、ずっと生活能力があるなと思う。俺はダメだ。何もする気にはなれなくて、休日ともなると、のんべんだらりと、睡眠を貪るのが関の山だった。
昨夜、ひとみの部屋に行って謝った。ひとみには「子供みたいなこと言わないで! 勝手なことしたのは、そっちの癖に!」と、たたき出された。
全身全霊、誠意を込めて自分の気持ちをぶつけてみたつもりだが、ひとみには響かなかったようだ。
これは、自分がしてきたことの罰だ。俺は今までの行動を反省して、ひとみに部屋を追い出されてすぐ、浮気女に電話をした。「悪いけど、別れて欲しいんだ」と。
口論になるかと思っていたが「そうなの。じゃあ、別れましょう」と、ぶちりと電話は切れた。それで終わりだった。所詮、女にとっても、俺は数あるうちの男で、いなくなっても何も困らない人間だったのだ。
俺はとんだ勘違い野郎だった。女と別れるとなっても、口論にすらならない。考えるとむなしくなった。
これで俺の側には誰もいなくなった。本当にいなくなった。
「父さん、具合悪いの?」
ベッドから、なかなか出ない俺を、隆司が心配顔で尋ねた。ベッドの中から見上げると、身長一八○センチはある隆司の背が、余計に高く感じられた。
「いいや、大丈夫」
隆司はすでに俺より背が高い。双子の陽司ももちろん俺より背が高かった。
今まで家庭を顧みず、仕事だ。女だ。と、ほとんど子育てはひとみにまかせている間に、息子たちはこんなに大きくなっていたのか。
そうだった。女と別れて、寂しいと思っていたけれど、俺には二人の息子たちがいる。
なぜだか、じんわりと心の奥が温かくなっていた。
「大丈夫なら、さっさと起きて。シーツ剥がすから」
俺がベッドから立ちがるなり、隆司は手慣れた様子でシーツを剥がしていく。
その時だった。インターフォンの音がした。
「陽司! 陽司出てくれ!」
隆司が叫んだが、すぐに「ああ」と面倒くさそうに項垂れた。
「どうした?」
「そうだった。隆司はコンビニに、朝メシを調達に行っている」
シーツを剥がす手を止め、隆司は玄関に向かおうとした。
「俺が出てくる。どうせ、宅急便か、何かだろ」
俺は寝室を出て、階段を降り、インターフォンを押した相手も確かめず玄関のドアを開けた。
「……ひ、ひとみ!」
玄関ドアの前には、スーツケースを引いた妻が立っていた。
「まだそんな格好しているの? もう陽はとっくに上がっているわよ」
言われて自分の格好を改めて見た。掛け違えたボタンのパジャマをだらしなく着流し、無精髭も生えていた。慌ててボタンを正しく留め直そうとしたが、指が震えて上手くはまらない。見かねたひとみが、ボタンを直してくれた。
「お、お前……戻ってきてくれたのか?」
驚くほど、自分の声が震えていた。ひとみが口を開こうとすると、外から「母さん!」と声がする。
後ろを見ると、コンビニに朝食を調達に行っていた陽司が、コンビニのビニール袋を下げて戻って来た。
「そんなモノ食べているの? ダメでしょ。ちゃんとしたモノ食べないと」
「じゃあ、母さんが何か作ってよ。隆司も腹すかせているから」
「……まったく。アンタもお父さんも、しょうがないわね。そんなんだと、いつまでたっても理想の男にはなれないわよ。次ぎは料理を覚えてみる?」
ひとみは屈託のない顔で、笑っていた。久しぶりに見る笑顔。年相応に皺はあったが、憑きものでも落ちたようなすっきりとした顔をしていた。
ひとみは、こんなに綺麗な女だったろうか――。
「母さんが言う理想の男ってなんだよ」
ひとみはしばらく考えた末、苦笑しながら答えた。
「そうねぇ。欲しいものを欲しいって言える男」
「なんだ? それじゃ我が儘なただのガキじゃねーか。意味わかんねー」
陽司が口を尖らせた。
「いいのよ。男なんて、基本、我が儘なんだから。でも、ちゃんとそれが言えれば、大概の女はついてゆく」
「えー。そんなんでいいの?」
「但し、欲しいものを手に入れるための努力は、惜しんじゃダメよ。陽司も、本当に好きな子ができたら、わかるかもね」
ひとみはちらりと俺に双眸を向けると、陽司と腕を組み、家へ入った。
「隆司! 母さんが帰ってきたぞ!」
階段を駆け下りる音が、玄関先まで聞こえた。隆司の喜ぶ顔が、目に浮かぶようだった。
これは、戻ってきてくれたと解釈していいのだろうか――。
ひとみの後ろ姿を見つめながら、俺は頬が弛むのを感じていた。 了