みんなを楽しませられるのに、なぜ私は楽しくないの?/家族の役割の心理学
君のその小さな手には 持ちきれない程の哀しみを せめて笑顔が救うのなら 僕は道化師になれるよ 笑ってよ 君のために 笑ってよ 僕のために さだまさしさんの名曲「道化師のソネット」の一節です。笑ってよというメッセージの裏に隠れた切実な願いあなたのためになら私はどんなことでもやってみせる自己犠牲的と言えなくもありません。サーカスでおなじみのビエロよく見ると涙を流しているピエロもいるかと思います。そこにどんなメッセージが込められているのか、はっきりとした起源は明確ではないようですが、ピエロの涙が印象に残っている人いらっしゃるのではないでしょうか?その涙なんとなく、理解できなくもないそんな心情かもしれません。大切な人を笑顔にしたいという気持ちとても尊い気持ちです。でも、大切な人を想いすぎるがゆえに、私たちはしばしば自分を犠牲にしてでも、相手のためになろうとしてしまうそんな傾向があるようです。私が学んだ心理学の用語にチャーマーと呼ばれる家族の役割があります。家族の役割とは、子供時代に、家族を助けるために、無意識的に行なっていた役割のことを表しています。チャーマーは苦しんでいる家族を助けるためかわいがわれる役割を演じていたマスコットのような役割を演じていた人を表現する言葉です。面白いことをして笑わせたり歌をうたってみたりかわいらしい愛されキャラをやってみたり泣いているお母さんはその瞬間、笑うかもしれません深刻なお父さんはその瞬間、表情がやわらぐかもしれません大好きな家族を少しでも元気にしたいそんな想いで、その子はがんばります。がんばらないといけないということはきっとその家族は、笑顔あふれる楽しい家族ではないのでしょう何かの問題があって、暗い雰囲気の漂う家庭なのかもしれません。その子は何とかして明るい家庭にしようと自分を犠牲にしてでも道化役を演じてしまいます。でも、家族の問題は道化役の登場で解決することはありません。問題の本質はもっと複雑だからです。がんばってもがんばってももうお母さんは笑いません。ずっとお父さんは固い表情のままです。その子は挫折してしまいます。そして、無意識の中に失敗感が生み出されます。私は大切な人を笑顔にできなかった。その感覚がその子を苦しめます。どうしてこんなに苦しいのだろう?その苦しみがやがてその子の中にこんな言葉を生み出します。お母さんが泣いているのは私のせいお父さんが苦しそうなのは私のせい全部私のせいなんだそれはとんでもない勘違いなのですが、その子にとっては、その言葉が救いになります。どうしてこんなに苦しいのだろう?の答えは、私がダメだから。納得のいく答えが見つかるからです。そして、自己嫌悪が生み出されます。自分に怒りをぶつけている間はつらいという苦しい感情は感じなくて済みます。苦しみの度合いだけ、自己嫌悪の度合いも強くなります。それが習慣化されると、なかなか自己嫌悪からぬけだせません。人は大嫌いな人や物に罰を与えてこらしめたいと思う傾向があります。大嫌いな人が自分であれば、自分に罰を与えます。その子は、人を楽しませることはできるけど自分は楽しむことは許さないという罰を与えてしまうケースもあるようです。これは無意識で行われてしまうので、自覚している方は少ないのではないかと思います。自覚するためにはもう一度、苦しかったころの感情を思い出す必要があると私は考えています。でも、それはできれば避けたい行動です。避け続けていると、つらさが増してくるようです。人前にでると楽しいことしてみんなを笑顔にさせているのになんか自分は全然楽しくない一人になると急に疲れる私、なにやってるんだろうと疑問に感じる結果的に、そんな風に感じてしまわれる方いらっしゃるようです。たくさんの人を楽しませながら、心の中では大切な人の笑顔が見れなかった苦しみで泣いている小さな子がいるのかもしれません。心の中では泣きながら、目の前を人を楽しませるピエロのような私。こんなストーリで生み出されたのかもしれませんね。時間はかかると思いますが、過去を見直し、当時の感情をもう一度感じ直し、ご自身をゆるすことができれば、この観念を書き換えることができると思います。人も自分も楽しんでいい。そう思えると楽になれるかもしれませんね。ここまでお読みくださりありがとうございました。