『縄文時代』イントロ | 奈良の鹿たち

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『縄文時代』

イントロ

 

 

(年代設定には諸説あります)

 

 

<目次>

 

             第1回 草創期

             第2回 早期

             第3回 前期

             第4回 中期

             第5回 後期

             第6回 晩期

 

                  

 

 

かつての縄文時代のイメージは、「野生の獲物を追って移動生活をしていた。人は腰に獣の毛皮を巻き、洞窟や岩陰に住み、まだ石器を使っていた原始人」というものでした。

しかし、戦前の記紀神話にもとづいた説が見直され、戦後は縄文時代と弥生時代の時代区分がなされて、縄文時代は磨製石器、土器・土偶、農耕狩猟採集経済、定住化ととらえるようになりました。

今では青森県三内丸山遺跡に代表されるように、約1700年間にわたって集団でムラ組織を維持し、土器や土偶を作り、植物を栽培し、遠隔地と交易をしていたことが分かってきました。さらに近年、縄文晩期には稲作が行われていたということが定説になりつつあります。これもDNA分析や炭素14分析といった科学技術の進歩が、歴史研究に入り込んだ恩恵です。

教科書は、大きく書き換えられることになりました。

縄文時代の遺跡からは、戦いなどの暴力的行為によって死亡した人骨の出土はきわめて少なく、争いの少ない平和な時代のようでした。

 

縄文時代の年代区分は定まっておらず、始まりが早いもので17000年前、遅いもので13000年前といった開きがあります。

 

今、まさに「縄文ブーム」。まるで縄文時代が素朴で人間性あふれるノスタルジックな時代のように思われています。

しかし、歴史をきちんと把握したいなら、ブームに惑わされず、客観的な視点を持たなければなりません。縄文時代は、確かに集団的殺戮は少なかったけれど、気候変動や生態系の変化が原因で獲物が減り、飢餓が何度も発生していました。疫病や災害で集団の存続が危ぶまれたこともあったでしょう。つくられたムラ集団も、短期間で消滅しています。縄文時代後期には貧富の差、権力の差が発生し拡大していきました。

縄文人たちは、平和にのんびり過ごしていたのではなく、危機感や緊張感をもって必死に生き続

けたのでした。

土偶は切実な生死への願いのったものなのです。掘り出された土偶は「かわいい!」などといったマスコットや他人に見せる芸術作品ではなく、逆にいを宿したおどろおどろしいもので、

扱い様によってはりが起こりそうな象徴物だったのです。

生きることへの悲愴なまでの強い執着のあらわれなのでしょう。

 

 

 

(担当H)

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