『縄文時代』第5回 後期 | 奈良の鹿たち

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『縄文時代』

第5回

「後期」

(4400~3200年前)

 

(年代設定には諸説あります)

 

(自然)

縄文後期に入ると気温は再び寒冷化に向かい、弥生海退と呼ばれる海水面の低下がおきました。関東では従来の貝類の好漁場であった干潟が一気に縮小し、貝塚も消えていくこととなりました。一方、西日本や東北では新たに低湿地が増加したため、低湿地に適した文化形式が発達していきました。中部や関東では主に取れる堅果類がクリからトチノキに急激に変化しました。その他にも、青森県の亀ヶ岡石器時代遺跡では花粉の分析により、トチノキからソバへと栽培の中心が変化したことが明らかになっています。その結果、食料生産も低下し、縄文人の人口も停滞あるいは減少に転じました。

 

(生活環境)

縄文時代も後期から晩期になると、中期ごろから始まった気候の寒冷化と、増えきった人口を養うだけの食料を求めることができなかったためか人口が減り,集落は次第に小規模になる傾向が見られます。大規模な拠点集落は減少し、集落の拡散化、分散化が進みました。その一方で、ところどころに大規模なムラが構えられ、一定範囲の地域社会を構成していました。遺跡数が中期に比して減少していることは、原因が人口の減少もありますが、一地区に永く定住したことを意味しているとも考えられます。

東海から関東地方は、軒並み人口が半減しました。東北もわずかながら減少しました。一方、近畿よりの西日本は倍増しました。寒冷化の影響が、東日本より小さかったからと思われます。

集落は沖積低地との比高が中期の時より一段と低くなった低台地、または小さな谷の谷頭の周辺など低い場所が選定されるようになってきました。

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墓地は後期には、ムラの中に群集したものになりました。

縄文時代の墓で確実に墓といえるものはなかなか見つかりません。墓標なども無いし、日本の酸性土壌では、人骨などの有機物が土に戻ってしまい、その痕跡がなくなってしまうからです。

甕棺墓(かめかんぼ)は、甕棺に屈葬する事で魂を遺骸に留められるとして行われていたと考えられています。

死者を屈葬(くっそう)(体を折り曲げて埋葬)や後期以降は伸展葬(しんてんそう)(体を伸ばして埋葬)と呼ばれる埋葬方法があり、さらに遺骸から魂が抜け出さない様に大きな石を抱えさせる抱石葬もありました。そして住居の側に穴を掘っただけの墓である土壙墓(どこうぼ)に埋葬していました。

三内丸山遺跡では、500基の土壙墓が道路の両脇に並んでいました。関東地方ではムラの中央の広場に土壙墓がつくられていました。この時代の墓は、集落の中の人々が生活する近くにあり、現世と死後の世界が連続していると考えられていたようです。

墓制にも複雑なしくみが存在していたことを推測できます。

 ・横浜市の矢指谷遺跡(やさしやといせき)の土壙墓

 

 

縄文時代の後期になると環状列石が出現しました。

環状列石とは、大きな自然石を川から運び、それを三重四重に環状に並べた広場のような空間のことをいいます。共同墓地や、太陽崇拝に関係あるマツリや祭祀の儀式をおこなう場所として使われていたと考えられています。日本では直径 10~30mの円形に立石を並べてあるものから,直径1~2mの小さいものまでを含めています。

 

忍路(おしょろ)環状列石

北海道小樽市から余市町にかけては80基以上のストーンサークルが確認されていますが、その中でも忍路環状列石は最大のものです。小樽市にあり、約3500年前の縄文時代後期のものと推定されています。標高20mの緩やかな斜面を削って平らな面に、砂利をひき詰めたのちに立石が配置されています。遺跡の広さは南北約33m、東西約22mで、楕円形をしています。外側に2~3mの幅で大きさ10~20cmの石が環状に置かれ、その内側に高さ1~2mの大石が配置されています。周囲に大型の木柱が建てられていたことが明らかになっています。

この忍路環状列石は、日本の考古学史上初めて学会に報告されたストーンサークルです。

忍路環状列石)

 

大湯(おおゆ)環状列石

秋田県鹿角(かづの)市にあり、4000~3500年前のものとみられます。約130mの距離をおいて東西に対峙する野中堂環状列石万座環状列石で構成されています。この遺跡は、河原石を菱形や円形に並べた組石の集合体が、外帯と内帯の二重の同心円状(環状)に配置されている配石遺構です。その外帯と内帯の中間帯には、一本の立石を中心に細長い石を放射状に並べ、その外側を川原石で三重四重に囲んでいます。その形から日時計といわれており、万座と野中の両方の遺跡にあります。大きい方の万座遺跡の環状直径は46mもあり、日本で最大のストーンサークルです。この環状列石中心部から日時計中心部を見た方向が夏至の日に太陽が沈む方向になっています。組石は大きいほうの万座では48基、野中堂のほうは44基あります。中央の立石は大湯の東方約7~8kmにある安久谷(あくや)川から運んだと推定されており、労働力の集中が見られ、社会階層化を伴う縄文時代社会の構造変化があったのではないかと考えられています。

遺跡の使用目的に関しては諸説ありますが、近くには構造が似ている一本木後ロ(いっぽんぎうしろ)遺跡があり、これは墓であることが調査によって明らかになっており、またそれぞれの配石遺構の下から副葬品をともなう土坑が検出されたため大規模な共同墓地と考えられています。さらに万座の周辺調査から掘立柱建物跡群が巡らされていたことが明らかになり、これらは墓地に附属した葬送儀礼に関する施設ではないかと推測されています。

(右:万座環状列石 左:野中堂環状列石)

   日時計?)

 

小牧野(こまきの)環状列石

青森県青森市にある4000年頃縄文時代後期前半の遺跡。三内丸山遺跡の南に位置します。

直径2.5mの中央帯、直径29mの内帯、直径35.5mの外帯の三重の環のほか、さらに外側に一部四重となる弧状列石や、直線状列石、直径4mの環状列石などがあり、直径は55mにも及びます。荒川から運んだと推測された石を、規則正しく配列し積上げて環状に並べて、そうして出来た環をさらに三重(一部四重)にしています。この煩雑な並べ方は全国的にも非常に珍しく「小牧野式配列」と呼ばれています。なお、北にある三内丸山遺跡や北秋田市の伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡でも同様の配列遺構が確認されているため、何らかの関連を示唆するものとも考えられています。

(小牧の環状列石)

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土器を使った製塩は,東日本では縄文時代後期(今から約3,500年前)に始まり,西日本では弥生時代中期(今から約2,000年前)に始まったとされています。塩を作るための製塩土器の出現をもって製塩の開始と判断しているが、土器を利用しない方法であれば、もっと古い時期から製塩が行われていたことになります。

製塩土器は、注入した海水を煮沸するためにできるだけ薄く作られています。海水が煮詰まり、塩ができると器のまま運搬され物々交換にも利用されたようです。塩を取り出すときには器を割って取り出したようで、出土するほとんどの製塩土器は粉々になっています。炭酸カルシュウムが固化して付着している無文薄手作りの土器で、一回限りで使い捨てされたようです。

製塩土器  塩の入った状態

製塩

海水に熱を加え,水分を蒸発させれば塩を得ることができます。しかし,海水を蒸発させるには時間と手間と莫大な量の燃料が必要となります。そこで,海水の塩分をあらかじめ濃くしたものをつくり,それを土器に入れて煮つめ,塩の結晶を採る方法を考え出しました。

ところで,製塩土器がみつかるのは海辺の遺跡ばかりだけではありません。中国山地の庄原市の和田原D地点遺跡や三次市の松ケ迫(まつがさこ)遺跡群,東広島市の助平3号遺跡など海辺から遠く離れた遺跡からも出土しています。どうやら昔は,塩の採れない内陸部にこの煮つめてできた塩を土器ごと運び,海辺と山間部の人々との間で交易をしていたと考えられます。

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北部九州の縄文後期~晩期遺跡の遺物では、焼畑農耕が行われていた可能性が高いと考えられています。

山野井徹(元山形大学名誉教授)は、地質学的な見地から黒ボク土が微粒炭を高密度に含んでいることを指摘しています。その微粒炭は、人為的な野焼きや山焼きが継続的かつ繰り返し行われたことによって作られ、縄文時代を通じてそのような大規模な野焼きや山焼きが集落周辺で常に行われてきたことを示しているとしています。

しかし、野焼きや山焼きをしていたから焼畑農耕をしていたとはなりません。

野焼き

(Wikipediaより)焼畑農業:現代に知られている日本の焼畑農業では、ヒエ・アワ・ソバ・ダイズ・アズキを中心にムギ・サトイモ・ダイコンなども加えた雑穀栽培型が一般的です。 焼畑の造成はキオロシと呼ばれる樹木の伐採作業から始められます。耕作地を更地にした後、しばらく乾燥させ火を入れる。その後に播種するが、1年目はソバ、2年目はアワ、といったように輪作される事が多い。耕作期間は3- 5年で、その後植林し、15~20年間放置して地力を回復させます。

イネ・オオムギ・コムギといったイネ科植物については、後期に畑作物の一つとして伝来していた可能性もあります。後期~晩期遺跡で、福岡県下での花粉、熊本市でのイネ・オオムギ、大分県でのイネなどが検出されています。東日本からも同じく後期~晩期の10ヶ所を超える遺跡からソバの花粉が検出されています。

これらも焼畑農耕による栽培であると推定されています。

後期~晩期には、ヤチダモ・ハンノキ主体の低地林が形成にともない、水辺近くに集落が形成され、水場にアク抜きなどをおこなう加工施設を構築するようになりました(水場遺構)。

 

多くの議論があるが、遅くとも後期には稲作が開始されていたと考えられます。多様な生業の一つに留まっていた点において、稲作に特化した弥生時代とは異なるとされています。

これも焼畑農耕による栽培であると推定されています。

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縄文早期には弓矢の使用は始まっており、蜆塚貝塚・田柄貝塚(宮城県)といった縄文後期から晩期にかけての遺跡からは、石鏃の刺さったシカやイノシシの骨が出土しています。

佐賀貝塚(対馬)からは縄文後期とされる鹿笛が、里浜貝塚の縄文晩期の層からは雉笛が出土しています。遺跡から検出される陸上動物としては、シカおよびイノシシがそれぞれ40%近くを占めます。

また東北地方の太平洋岸における、中期から晩期にわたる鹿角製の釣針・やす・もりなどの漁具の変遷には目覚しいものがあります。

「縄文カレンダー」小林達雄氏

 

大森貝塚は、日本考古学発祥の地として有名な場所で、すぐ近くまで海が来ていたということになります。3500年~2400年前の縄文時代後期~晩期にあたります。「貝塚」と名付けられていますが、当時の人々が食べていた貝殻だけでなく、動物や魚の骨、土器や石器の破片なども捨てられているため、当時のゴミ捨て場とされています。

土器には縄目状の紋様がほどこされており、縄文土器であることがわかります。
縄文時代の後期から始まった寒冷化によって陸上動物などが減り、海産物を中心とした食生活を余儀なくされた結果、捨てた貝殻が積み重なって貝塚ができたと考えられています。

大森貝塚 貝殻

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縄文後期に入ると、前期に形成された9つの文化圏のうち、縄文後期・晩期には文化圏の数は4つに減少し、この4つの文化圏の枠組みは弥生時代にも引き継がれ、「東日本」・「九州を除く西日本」・「九州」・「沖縄」という現代に至る日本文化の地域的枠組みの基層をなしています。

 

(土器)

縄文時代後期では急激な人口減少で、遺跡がほとんど見つからない時期になります。それと共に中期・後期初頭まで流行していた円筒形の土器は姿を消しました。代わって、他地域の文化の影響も受けて、さまざまなデザインの土器が作られるようになりました。生活の多様化に伴って、目的ごとに土器が作られたと考えられます。

縄文時代も後期に入ると、縄文文化は成熟さを増し、土器にみる装飾性も落ち着いたものになりました。意味ありげなモチーフによるデザインが施され、直線や曲線で描く静かな幾何学模様へと移り変わっていきました。縄文土器の文様はほとんどが細かいものとなり、丁寧な施文(せもん)がなされています。土器の形も用途に合わせた種類がみられ、磨きをかけて光沢をもつものも造られました。粗製土器もみられることから、よそゆきの土器と日常雑貨の区別があったことを物語っています。

形が多様化する一方、東日本では共通した模様が広がりました。土器は厚さが薄くなり、線と縄文による模様が見られるようになりまし。土瓶のような形の注口土器や壺のほかに、香炉の形をした土器など呪いやマツリに使われたと見られる変わった形の土器も多くなりました。文様は複雑になり、縄文を磨り消して磨き、光沢を出す技法が盛んに用いられました。また中期までの土器は、すり鉢状の穴に土器を入れて、酸化炎で焼き上げたために明るい赤褐色に近い色のものが多いが、後期に入ると地肌が黝黒色の光沢するものや暗褐色のものが多く、還元炎で焼かれたと思われるものが多くなっています。

薄く精緻なつくりの土器 三鷹市 滝坂遺跡

丸口で点列文土器 三鷹市 滝坂遺跡

注口土器 茨城県 福田貝塚

深鉢 北海道北見市 常呂川河口遺跡

朝顔型深鉢 岩手県 長倉遺跡

香炉形土器 岩手県 長倉遺跡

 

 

(土偶)

土偶は縄文中期終半には、東北地方を除いてほとんど作られなくなるが、後期には東日本を中心に復興しました。後期から晩期にかけて、関東から東北地方では、山形土偶みみずく土偶仮面土偶ハート形土偶など顔に大きな特徴のある土偶が大量に作られました。九州を除く西日本では人型土偶は稀で、簡略で扁平な分銅形土偶などが多い。

(なお、土偶にマスコミブームにのった俗称名を付けることは、軽々にイメージを固定化してしまい、学術的には誤った行為である。土偶が本来どのような経緯で作られたのか、未知の謎を多く含んでいることを忘れてはならない。)

 

中空土偶(俗称 茅空 かっくう) 

全高約32cm。現存する中空土偶としては日本最大。

著保内野遺跡(北海道茅部郡南茅部町〈現・函館市尾札部町南茅部〉)出土。

中空土偶とは、中が空洞に作られている土偶のこと。

作りが極めて精巧で写実的であり、表面がよく研磨されている。非常に薄づくりで紋様構成も優れていることから、縄文時代における土偶造形の頂点とも評価されている。

 

土偶(俗称 合掌土偶)

高さ19.8cm、幅14.2cm、奥行15.2cm。

風張(1)遺跡(青森県八戸市)出土。「国宝」に指定されている。

座った状態で両腕を膝の上に置き、正面で手を合わせ、指を組んだポーズを取っていることから合掌土偶と称されている。しかし、この頃は合掌して祈る風習はなく、座産(座って出産する)で、吊るし紐を握って耐えている姿ともみられる。両腿の付け根及び膝と腕が割れており、割れた部分にアスファルトを使って修復し、長く大事に使用していたものと考えられる。土偶の顔面・体の一部などに赤色顔料が認められ、使用された当時は全体が赤く塗られていたと思われる。

 

仮面土偶(俗称 仮面の女神) 

全高34cm、重量2.7kg。中ッ原遺跡(長野県茅野市) 出土。

正面から見ると、顔は三角形に見えるが、側面や背面から見ると仮面であることがわかる。体にはヘソのようなものを中心に渦巻が描かれたり、タスキのような模様が細かく描かれている。手は簡略化されているが、足はどっしりと作られている。

 

板状立脚土偶(俗称 縄文くらら)

全高約32cm。有戸鳥井平4遺跡(ありととりいたい4いせき)(青森県上北郡野辺地町)出土。

頭部・胴部・腰部・左脚・右脚の5つに割れた状態で出土しました。土偶の上半身と下半身を上下逆転して置き、その上から縄文時代後期の深鉢形土器3個体が出土しました。

胴部を逆三角形につくる東北地方特有の板状土偶の形態をとり、これに短いながら前後に張り出した脚先を付した大型の立像土偶で、縄文時代後期における東北地方を代表する土偶として、造形的な特徴を良く示しています。

 

土偶頭部 

全長23cm、全幅(左耳の端と右耳の端の直線距離)22.3cm。実際の人間とほぼ同じ大きさ。

萪内遺跡(しだないいせき)(岩手県盛岡市繋萪内河原)出土。

土製素焼。顔面は眉弓上部に隆起帯をつくり、頬の外側から顎上部にかけて太い沈線をめぐらし、しかも全体を一段高くつくり、他と区分している。逆三角形状の仮面を着装した状態を示しているものと思われ、また縦横の綾杉状沈線文は仮面の装飾と解される。

 

土偶(俗称 しゃがむ土偶)

全高21.3cm、幅11.5cm。上岡遺跡(福島県福島市飯坂町東湯野字上岡) 出土。

膝を立ててしゃがみこみ腕を組む姿勢を表現した土偶。座産あるいは祈りを捧げる姿勢と推定される。

 

ハート形土偶

全高30.5cm。郷原遺跡(群馬県吾妻郡岩島村郷原橋場〈現・東吾妻町郷原橋場〉)出土。

関東地方及び東北地方南部で多く造られた。ハート形の顔については、仮面をかぶった姿とも、顔そのものをデフォルメしたものとも考えられている。

 

みみずく土偶

全高20.5cm。 真福寺貝塚(埼玉県さいたま市)出土。

縄文後期~晩期、関東地方を代表する土偶。 

この土偶は大きな頭の部分に対して身体は薄く作られ、自分では立つことができない。おそらく、手に持つか、何かに立てかけて使われていたと思われる。 顔はハート型にふちどられ、丸い目と口は薄い粘土をはりつけて表されている。頭の大きな突起は、結った髪を表していて、中央に櫛のようなものを指している。年代を重ねるたびに、髪の部分が大きくなる。大きな耳にも、粘土で丸く何かが表現されている。これは、今でいうピアスのように耳たぶに穴をあけ、そこに耳飾りをはめ込んでいる様子。

 

 

 

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次回は 第6回(最終回)「晩期」

 

 

 (担当H) 

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