『縄文時代』第6回(最終回) 晩期 | 奈良の鹿たち

奈良の鹿たち

悠々自適のシニアたちです

『縄文時代』 

第6回(最終回)

「晩期」

(3200~2400年前)

 

(年代設定には諸説あります)

(自然)

縄文前期に温暖化のピークになり、気温2度前後低下し縄文後期よりもやや涼しくなり、地球は再び寒冷化へと向かいました。現在と同じくらいでした。

これによって植生が変わり、落葉広葉樹は関東、中部、北陸まで南下しました。また、弥生海退で海水面が下がり始めて現代に近い状態になり、低湿地が増えていきました。

海面の低下は、漁労活動に壊滅的な打撃をあたえました。

 

(生活環境)

晩期は「縄文文化の悲劇的停滞、衰退時期」であり、ことに後期末から晩期前半にはピークに達しました。寒冷化によって、日本全地域で人口も人口密度も急激に減りました。縄文後期後半以降の遺跡は減少し、晩期にいたってはさらに減少しています。そして、精神生活に係わる遺構・遺物もこの時期をもってほとんど姿を消してしまいました。

ことに関東、甲信越地方など内陸の縄文人の食糧生産の基盤である森林に徐々に打撃を与え、人口は減少の一途をたどりました。

縄文時代晩期の貝塚を見ると、1cmにも満たない種類の貝までも食べ尽くしていることがわかります。縄文的生き方に最後まですがり、懸命にもがくような姿がそこにはありました。東京湾では後期後半以降は、さらなる海退(海が遠くなる)で貝塚は減少、規模は縮小し縄文時代晩期(約3000年~2300年前)の中頃、東京湾沿岸域では貝塚は消滅しました。

このような動きは縄文時代の祭祀にも大きく関係しており、後期以降、祭祀や儀礼に係わる遺構や遺物は急に増加していきました。

 

東京大学大学院理学系研究科は、約2500年前の縄文時代晩期から弥生時代初期にかけて、人口が大幅に急減していたことを明らかにしました。男性の人口だけでなく女性を含めた全人口が急減したと推定できるという。この時期は、日本を含み世界的に気候が寒冷化しており、気温が下がったことで食料供給の減少が人口減につながったとみられます。研究グループによると、その後人口が増加したのは、気候が再び温暖化し、渡来系弥生人がもたらした水田稲作技術によって、安定した食料供給が可能になったためと考えられるといいます。

縄文時代の人口の増減)

 

是川(これかわ)遺跡(中居遺跡)

青森県八戸市にある縄文時代晩期(3000年前)の遺跡。集落は小規模だが、居住域、墓域、捨て場、配石や盛土など多様な遺構が見つかっています。サケ・マスが遡上する河川近くで、後背地には落葉広葉樹の森が広がっていました。沢地ではトチのアク抜きをするための水さらし場も見つかっています。出土遺物は、文様が表現された縄文土器や、祭祀などの際に用いられたと考えられ晩期特有の石棒や石剣、女性の姿を型取った土偶、 赤い漆が塗られた植物性容器、器の内・外側に赤漆が塗られた壺形土器・注口土器、クシ・腕輪・耳飾りなどの装飾品などがあります。晩期特有の祭祀・儀礼が活発に行われたものと考えられ、当時の工芸技術や精神世界を伝えるようなものが数多あります。遮光器土偶200点以上の出土など、縄文晩期に東北地方一帯に広がった亀ヶ岡文化圏の内容を示す国内随一の資料と評されています。

 

亀ヶ岡文化
縄文時代後期の4000年ほど前から寒冷化が進み縄文人達も、ある者は東北の地に残り、またある者は温かい南へと移動し衰退していきました。(三内丸山遺跡から縄文人がいなくなった時期も寒冷化の時期と一致しています)。

そんな中、今から約3000~2300年前(縄文時代晩期)に,北海道南西部の渡島半島から東北地方一円に盛えた文化が亀ヶ岡文化です。その名は,青森県つがる市の亀ヶ岡遺跡に由来する。なかでも遮光器土偶は,亀ヶ岡文化を代表する遺物として紹介されました。さらに「特殊泥炭層」からの多量の土器,石器,漆製品の出土が注目されました。また、亀ヶ岡系土器は,北海道釧路市の遺跡や福岡市の遺跡からも検出され,北海道東部から九州北部までの広範囲にその情報が伝達していることが分かりました。

亀ヶ岡文化は,寒冷期と温暖期の環境激変期にもあり,近年のAMS 放射性炭素年代測定法の進歩により,本州における狩猟採集社会と北部九州を中心に展開し始めた水稲農耕社会と接触期であったとも考えられています。こうしたなか亀ヶ岡文化圏の人々はこれらの環境激変に対して,新しい農作物の導入や資源の開発・物流拠点の形成という生業的・文化的適応を行うことで,その変化を乗り切ってきたと考えられます。亀ヶ岡文化を築いた人々が,どのような技術と社会を営んでおり,農耕化に向けてどのような基盤が形成されていったのか,実態が分かっていないことが多いのです。

亀ヶ岡式土器は、製作と文様に優れた美しさをもち、壺形、皿形、注口形、香炉形などの多様な器種組成を有し、赤く漆塗りされている点に特徴があります。

亀ヶ岡文化を特徴づける資料には,漆製品やアスファルト,ベンガラ・水銀朱などの鉱物, ヒスイ勾玉などの装飾品が挙げられる。亀ヶ岡文化を代表する漆製品は,青森県亀ヶ岡遺跡・是川中居遺跡などで検出されています。彫刻の施された箆形木製品や石斧柄,白木弓,ヤス軸柄などの木製品のほかに,藍胎漆器や木胎漆器,樹皮製容器,赤漆塗り弓などの漆器が検出されています。さらに繊維製品,耳飾,腕輪なども特徴的です。素材は,それぞれの樹木特性を生かした素材選択がうかがえます。赤漆は,精製漆にベンガラや水銀朱などの顔料を混ぜ,炭粉を混ぜた黒漆を下地に重ね塗りされたとみられます。漆製品はウルシ樹木の管理をはじめ,その製作には高度な技術を要します。漆製品の製作については,集落内に漆工芸に熟知した集団がおり,専業的に製作され,ウルシ樹木の管理や漆の採取・精製,赤色顔料の調達などを行える安定的な社会的背景があったと考えられます。漆製品の分布をみると,東北では少なくとも一部の地域や遺跡に偏って検出されることはなく普遍的に存在します。

またアスファルトについては,秋田産のものが主流となって北海道から関東南部までの広範囲に流通していたと考えられています。

このような高度な文化は短期間で出現するものではなく、おそらく寒冷化以降も東北の地で生活を続けた縄文人達の文化が集約された結果であろうと推測されています。つまり亀ヶ岡遺跡は約1万年もの歳月をかけて発展してきた東北地方の縄文文化の集大成ともいえる遺跡なのです。

 

亀ヶ同文化以後の東北亀ヶ岡文化圏はやがて,水稲農耕文化との接触によって「弥生化」と呼ばれる新たなステージへ進み、縄文時代から弥生時代早期へ変遷する激動の時代を駆け抜けることになります。その代表的な遺跡として青森県津軽平野の砂沢遺跡と垂柳(たれやなぎ)遺跡の「弥生田」が挙げられます。これらの遺跡は完成された水稲農耕技術を受容しながらも,比較的短期間で集落が消滅してしまいました。この変化の背景を探ることは,おそらく亀ヶ岡文化の消滅を探るうえで重要な手がかりをつかむことができると考えられます。

(弥生田 左:砂沢遺跡 右:垂柳遺跡)

 

このような東北の水稲農耕の展開期と衰退期をみると,温暖化と寒冷化という自然環境の変化が大きな要因となっているとみられますが,それでも世界的にみて水稲農耕の北限域で,水稲農耕が維持され続けた理由には,農耕技術の進化とともに,自然変化に適応できる多様な品種の開発があったと考えられます。亀ヶ岡文化の直後に東北北部で適応した品種とその背景にある技術の解明が,亀ヶ岡文化の衰退の解明にもつながると考えられます。

 

(漁業)

東北地方三陸海岸の人々は、「銛(もり)漁の名手」であったと考えられ、晩期に入ると外洋の大型魚に対する漁業が盛んになり、おびただしい量のマグロの背骨を出土する貝塚が多い。いわき市寺脇貝塚・岩手県大船渡市大洞貝塚などはその代表的なもので、貝塚の貝殻に混じて多量の背骨が堆積しています。ブリ・カツオ・サバなどの背骨の出土量も多い。これらの捕獲には、この地方で縄文晩期に考案された燕尾型廻転離頭銛(つばめがたかいてんりとうもり)によるところが大きい。

燕尾型廻転離頭銛

燕尾型廻転離頭銛:銛(もり)は魚を獲る為の柄のついた刺し具を投げて使っていました。先端は銛頭(もりがしら)といい、鹿の角でできている物が多く、獲物に突き刺さると、柄から外れて銛頭だけが獲物の体内に残る。銛頭につけてある紐(ひも)をたぐり寄せて獲物を確保したと考えられ、現代と同じ漁法です。これらの銛頭は、マグロやタイなどの大型の魚に有効だったと考えられます。

 

(稲作)

緑豆・荏胡麻などの食用植物の栽培は縄文時代前期から始まり、これより若干遅れて北日本にソバの流入の痕跡も見られます。縄文時代人も主たる生業は狩猟・漁撈といった自然にあるものを捕採することのみで食生活を行なっていたのではないことが次第に明らかになってきました。

水田稲作技術が伝わる以前は、後期に畑作物のイネをオオムギ・コムギ、アワ、ヒエ、キビなどの雑穀類やアズキ・ダイズなども混作する農業が行われていた可能性があります。たとえば、佐賀県の菜畑遺跡では晩期の層から炭化米とともにアワ、オオムギといった雑穀類やアズキがみつかっており、同じ時期の長崎県雲仙地方の山ノ寺遺跡、大分県大石遺跡からは、イネの圧痕がみられる土器が発見されています。

 

稲作は中期以前に遡るとする見解もあるが評価は分かれており、伝来期の古代米が水稲・陸稲・水陸未分化稲のいずれであったか、農法・立地が焼畑・常畑・水田・湿地のいずれであったかについても、議論の決着はついていません。

イネと稲作は、縄文時代前期の終わり頃(約6000年前)、はじめて日本列島に渡来したという説では、日本で縄文時代に行われていた稲作は、焼畑スタイルだったと考えられます。その頃は、気温が3~4度高くなったことから、「熱帯ジャポニカ」と言われる陸稲が日本列島に到来したが、何処から渡来したかについては明確ではありません。

 

佐賀県の菜畑遺跡や福岡県の板付遺跡(縄文晩期2700年前)などから、炭化米や土器に付着したモミの圧痕、水田跡、石包丁、石斧といった農具、用水路、田下駄等が発見されています。さらに朝鮮半島から伝来したと思われる磨製石剣・磨製石戈・庖丁型磨製石器などを伴っています。水流をせき止めて調整する柵(しがらみ)も確認されました。

菜畑遺跡は、板付遺跡の水田を含む層(晩期終末)よりも、およそ100年以上さかのぼり、現在のところ日本最古の水田稲作の跡地であり、縄文土器と共に発掘されました。区画ごとに水路を引いて、水流を調節する堰(せき)も備えた現在とほとんど変わらない完成された水田です。しかも同時代の稲作を行った痕跡のない遺跡とは孤立した状態で発見されています。こうした点から、すでに縄文晩期には、大陸で稲作を行っていた集団が稲作技術とともに日本に渡来し熱帯ジャポニカの稲作をおこなっていたと考えられます。これは渡来人が作った水田だと考えられていましたが、何と出土した生活用品のほとんどは縄文人のものでした。多分、渡来人に教わりながら縄文人が作ったと考えられています。

菜畑遺跡の水田

 

今の「日本のお米」であるジャポニカ米の栽培は、1万2000年前、中国・長江中・下流域を起源として始まりました。また水田耕作は6000~5000年前、長江下流域で始まりました。

稲作の日本への伝来と伝播には、
・長江に沿って東へ進み、やがて朝鮮半島を経て西日本に上陸した。
・長江下流から北九州の対馬を越えて直接海を渡ってきた。
・台湾を経由し島伝いに来た。
・朝鮮半島から直接日本海沿岸にたどり着いた。
などさまざまな説があります。アジアの稲作圏に最後に仲間入りした日本へは、一つではなく複数のルートで伝来したのかもしれません。

早くは約3000年前、遅くとも約2400年前には稲作は北九州に伝来しました。東北を中心に「亀ヶ岡文化」が花開いていた縄文晩期の頃、北九州では渡来人が持ち込んだ農耕文化が始まっていました。

 

(石器)

文明が衰退期に入ると、様々な不安から呪術、祭祀が盛んになります。

縄文時代晩期も気候変動で衰退期にあたり、謎の道具が多数出土します。石や粘土に彫刻された土版(どばん)や岩版(がんばん)、儀式用と見られる石棒、石剣、石刀などの呪術用の道具、権力者や呪術者が用いたヒスイや凝灰岩の玉などが多く出土したことから、呪術や祭祀がよく行われていたと見られます。

寒冷化、飢餓の恐怖を克服しようと、耳飾りや首輪で飾り立て石棒や石刀を振ってカミに祈る晩期縄文人像が浮かび上がってきます。

石棒 石刀

 

加工石・石版 玉類

 

(土器)

東北地方北部及び北海道南部を中心とした地域では亀ヶ岡文化が花開き、薄手で赤く色づけられた漆塗りもある精巧な亀ヶ岡式土器が作られ、西日本の質素な装飾をもった土器と対照的となります。

亀ヶ岡式土器は、製作と文様に優れた美しさをもち、壺形、皿形、注口形、香炉形などの多様な器種組成を有している点に特徴があります。精巧な装飾と文様が施され、薄手で様々な器形に多様で複雑怪奇な文様が描かれ、赤色塗料が塗布されている点です。時間の経過とともに、器種構成や文様、装飾、器形などか順次変化していくことが確認されています。土器は薄手、形状はさらに細分化され、深鉢、浅鉢、鉢、片口、カメ、ツボ、徳利、台付き鉢、皿、椀、香炉形など、模様は三叉文や羊歯(しだ)状文、X状の磨消縄文による雲形文、沈線による工字文など複雑なデザインが成されています。また、表面が綺麗に磨かれた土器や、現代の工芸品と見紛うほどの漆塗りの土器も作られています。分布域は北奥羽地方を中心に、おおむね南は福島県から北は渡島半島までであるが、関東地方や北陸地方、北海道道央部においても同様の土器がしばしば出土します。

 

寒冷化による縄文経済基盤の変化は、縄文文化の終りを意味し、関東地方では晩期後半の浮線文土器がこの時期にあらわれました。この土器からは地文の縄文が消え簡素な形をしていました。西日本で多く見られる条痕文が多用されるようになり、器種は精製の浅鉢形土器と粗製の深鉢形土器が主体で、若干の壺形土器がみられる程度になりました。これを突帯文土器(とったいもんどき)と呼び、弥生土器に連なる簡素な形をしていました。煮沸用の土器の口縁部や胴部に突帯を貼り付けてめぐらせているのが特徴です。甕(かめ)の突帯(とったい)には刻目(きざみめ)を施すことも多く刻目突帯文土器と呼ばれています。

刻目突帯文土器

 

(土偶)

土偶は出現当初から女性をかたどっており、やがて出産直前の妊産婦の姿を写したものが多くなりました。これは女性の持つ、生命を生み出す力を呪術に応用したためと考えられています。生命を生み出し、これを与える力を応用した呪術は、人のケガや病気の治癒を願うためだけでなく、大地の豊穣を祈るためにも用いられたと考えられています。後期から晩期にかけて、関東から東北地方では亀ヶ岡式文化と呼ばれる文化が発達し、山形土偶やみみずく土偶、遮光器土偶などが大量に作られました。また、仮面を被ったもの(仮面土偶)なども見られます。また、頭部の形状が髪を結ったように見える結髪土偶が現れました。従来のものより、より精巧な土偶が作られるようになりました。この亀ヶ岡式文化の土偶が沖縄県の遺跡でも発掘されており、その当時に全国的な交流があったものと思われます。九州を除く西日本では人型土偶は稀で、簡略で扁平な分銅形土偶などが多い。

 

亀ヶ岡遺跡の特徴のひとつである遮光器土偶は、主に東北地方から出土し縄文時代晩期のものが多い。この土偶は明治20(1887)年に亀ヶ岡遺跡で発見されました。完全な状態で発見されることは稀で、足や腕など体の一部が欠損していたり、切断された状態で発見されることが多い。多産や豊穣を祈願するための儀式において、土偶の体の一部を切断したのではないかと考えられています。また、切断面に接着剤としてアスファルトが付着しているものも多く、切断した部分を修理して繰り返し使用していたと考えられています。

独特な目の表現が遮光器(スノーゴーグル)に似ていたことから遮光器土偶と名付けられましたが、現在では遮光器をつけているのではなく、目を誇張した表現だと考えられています。大きな目とは対照的に、耳、鼻、口は小さく表されています。また、女性の特徴を表しているとされている大きな臀部、太もも、胸があります。両肩の張りや、腰のくびれが誇張された胴体には、短い手足がついています。よく見ると、頭などに赤い彩色が残っているのが見えます。製作当時は全体的に赤く塗られていたのです。頭にある冠のような装飾は、当時の女性が髪を結った様子やかんざしを表したと考えられています。また、首の周りの装飾は、首飾りや胸飾りを表現したといわれています。

実はこの遮光器土偶が出土したのは亀ヶ岡遺跡だけではなく、ほぼ同じ形をしたものが青森県の東部や岩手県の盛岡市、宮城県でも見つかっています。いずれも縄文時代晩期の遺跡で、調査の結果、遮光器土偶は縄文時代としては異例の早さで出現し消えていったことが判明しています。これらの事実は何を物語っているのでしょうか?亀ヶ岡遺跡と交流のあった集落に伝わったものなのか、それとも縄文人が南へ移動していく過程で伝播していったのか詳しいことはわかっていません。
 

動物土偶は、縄文時代後期から晩期にかけて、主に東日本から出土しており、最も数の多いのは瓜坊を含む猪(いのしし)です。 日ノ浜遺跡出土の動物土偶を始めとして、犬、猿、熊、鼯鼠(むささび)、海豹(あざらし)にも見える動物、水鳥、亀、水生昆虫のゲンゴロウ類などがあります。

 

中空土偶

輪西遺跡(わにしいせき)の貝塚(北海道室蘭市大沢町)。

縄文時代晩期前半。紀元前10世紀~5世紀。

全高18.4cm、幅14.5cm、厚さ7.2cm。

中空土偶。「輪西遺跡出土の土偶」「輪西中空土偶」などと呼ばれる。

 

遮光器土偶 

亀ヶ岡遺跡(青森県つがる市木造亀ヶ岡(きづくりかめがおか)

縄文時代晩期前半。

全高36.7cm。

中空土偶、遮光器土偶。亀ヶ岡遺跡から出土する土器群、その名も「亀ヶ岡式土器」は、多様性と洗練性を極め、先進性(黒光りするまで磨き上げたものや、弁柄(べんがら)を混ぜた漆で赤く塗られたものまである)も認められるもので、縄文土器の最高傑作といわれているが、係る土偶もそのような文化の中で作成されている。

あまりに不用意に遮光器と名付けているが、形の意味は今でも分からない。目を強調することが当時の何らかの意味を持っているかもしれない。

 

遮光器土偶

手代森遺跡(北上川中流域左岸に形成された小規模な河岸段丘上に位置する、盛岡市手代森)。

全高31cm、体幅19cm、厚さ9.5cm、重量(復元重量)約1kg。

 

遮光器土偶

恵比須田遺跡(宮城県大崎市田尻蕪栗恵比須田)。

縄文時代晩期前半。

全高36.1cm、肩幅21.0cm。

 

人物土偶

五郎前遺跡(塩根川左岸の河岸段丘上に位置する、山形県最上郡真室川町)。

縄文時代晩期。

全高23.4cm、肩幅19cm。仰向けにした時の臍の高さは6.5cm。

大洞A’式の形式の土偶。縄文時代晩期の完型土偶としては全国唯一のもの。

 

● みみずく形土偶

真福寺貝塚(大宮台地の岩槻支台上に位置する集落遺跡で、埼玉県さいたま市)。

縄文時代後期後半から晩期前半。

全高20.5cm。

 

土偶形容器

中屋敷遺跡(なかやしきいせき)(神奈川県足柄上郡大井町)。

縄文時代晩期あるいは弥生時代最初頭。

全高26.7cm、横幅13.7cm、厚み8.7cm。

蔵骨器であったことが分かっており、もはや土偶ではないという解釈も成り立つし、土偶の最終的形状ともいえる。

 

動物土偶

日ノ浜遺跡(ひのはまいせき)(津軽海峡に面した砂丘に位置する、北海道函館市高岱町)。

縄文時代晩期。

体長5.6㎝、体高4.2㎝。

瓜坊の土偶。縄文時代の北海道に猪は棲息しておらず、この土偶は盛んに交流していた本州から交易品として道南に伝わり、祭事などに使用されていたと考えられる。

 

 

 

====================

『縄文時代』全6回  完

 

 

(担当 H)

====================