『縄文時代』第4回 中期 | 奈良の鹿たち

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『縄文時代』

第4回

「中期」

(5500~4400年前)

 

(年代設定には諸説あります)

 

(自然)

気温が低下しはじめ縄文海進もピークを過ぎ、自然環境はほぼ現在に近くなりました。

それでも海水準は現在より2~3m高かったとされ,関東平野では内陸まで海岸線が入り込み,「海進」の状態となっていました。有楽町貝層(丸ノ内海層)ができ初めた約8000年前には、東京の下町付近は、淡水の注ぐ湿地帯でした。その後間もなく浅海と変わり、その後更に深くなりました。このときが海進の最盛期で、それ以後、再び浅海となり、やがて陸化しました。

 

(生活環境)

縄文前期から中期にかけては、最も典型的な縄文文化が栄えた時期でした。

この頃が縄文時代のピーク時です。

自然環境の安定は、人々の生活に安心と余裕をもたらしました。各地で遺跡数が急激に増加していることは、当時の縄文人の人口が急増したことを示すものと考えられます。集落も大きくなり、それとともに大規模な拠点集落がつくられるようになりました。

縄文時代で最も人口が多かった時期です。

縄文中期の人口と人口密度は、東海以北で倍増しました。しかし、中四国・九州ではこの時期、逆に人口は減っています。このような人口の対照性は、食料と関連していると考えられます。果実ではドングリ、クルミ、クリ、トチなどの大型堅果類が落葉広葉樹の多い北日本で多く実りました。直接的に食料を確保できた上に、それら果実が多いということは、シカ、イノシシ、クマの狩猟にも恩恵をもたらしました。また北陸から東北までのサケ、マスの漁獲が大いに生活を潤しました。三内丸山遺跡からは、その他にカモ、タイ、サメなどの骨も出土しており、主食の他に副食を食べるという食料の余裕が、人口支持力を高めたと思われます。

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垣ノ島遺跡(かきのしまいせき)は、北海道函館市にある縄文時代早期の約1万年前から後期の約3200年前にかけての縄文人の生活の痕跡と集落の変遷が残されている遺跡です。中期の約5000年前に構築された長さ120m以上の大規模な盛土遺構(土壙墓)は国内最大級で、墓制を示す貴重な遺跡です。そこから幼子の足形をつけて焼いた約6500年前の足形付土版が坑底から出土しています。幼子の成長祈願やお守り、幼くして亡くなった子供の形見ではないかとされています。弔いの精神文化が育まれていたことを物語っています。

足形付土版)

 

御所野遺跡(ごしょのいせき)は、岩手県一戸町にあり、縄文時代中期後半から平安時代まで集落が営まれました。中央地点に環状配石遺構群とよぶべき祭祀の施設や盛土遺構が構築されていました。集落全体で最終的に500棟以上の竪穴住居が営まれたと推定できます。三内丸山遺跡と同様にクリの木が建物に利用されていました。全国的にも例のない土屋根住居の痕跡が発見され、夏涼しく冬暖かい住居になっていました。

土屋根住居)

 

三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、青森市にある、縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前)の沖館川右岸の河岸段丘上の40haの広さに立地する大規模集落跡です。

(三内丸山遺跡)

1700年間という長い期間の人々の営みの積み重ねの結果、広大な土地に500軒以上と考えられている住居跡が発見されました。直径1m以上のクリの巨木を用いた300人が入れる大型竪穴建物跡(長さ32m幅10m)、上部の構造は分からないが、これもクリの巨木6本を使った高さ15mの大型掘立柱建物跡が復元されています。

(大型竪穴建物と大型掘立柱建物)

平成4年から開始した調査では、大量の遺物が出土しました。特に低湿地の捨て場からは、骨や角で作られた骨角器や木製の漆器、樹皮製の編籠のほか、食料の食べ残しである動物の骨や木の実の殻なども出土しました。

プラントオパールの分析からは、クリ林の管理育成やヒョウタンなどの有用植物の栽培が行われていたことも指摘されています。

クリはアク抜きをしなくても食べられ、栄養価も高かったので蒸したり煮たりして様々に調理されました。物見櫓は長さ15mの真っ直ぐなクリの木が使われており、これほどの長さで真っ直ぐというのは、木の育成管理がされていたことを物語ります。また、この辺りは元々ドングリの森だったのを、人為的にクリの林に変えていました。

当時は温暖化で平均気温が2度ほど上昇し、海進で海がこの遺跡の近くまで来ており、漁業資源にも恵まれていました。

また、竪穴建物や貯蔵穴のほか、大量の土器片や石器、土砂が積み重ねられた盛土、延長420mにわたって延びる土坑墓(どこうぼ)(大人の墓)列と小児用の土器棺墓(どきかんぼ)(子どもの墓)、道路跡、等が見つかりムラの全容が明らかになりました。

土器の焼け跡から、煮炊きがされていたことが分かり、食物をより多く食用できていたことと、食中毒などの病疫を軽減できました。

土偶は2000点ほど出土していて、その2割は他の場所で作られたもので、交流が盛んであったことが分かります。出土品の中のヒスイは、600km離れた新潟からやってきました。

さらに、この三内丸山遺跡では、北海道産の黒曜石・岩手県久慈産のコハク・秋田県産のアスファルト・新潟県姫川産のヒスイなど遠隔地との交流を示す遺物も出土しており、安定した生活基盤を背景に、この集落が交流の拠点としての役割を担っていたと考えられています。

遺跡の特徴として、当初から注目されてきたのは、ムラの①「継続期間の長さ」②「規模の大きさ」③「遺構・遺物の多さ」でした。

①「継続期間の長さ」については、前期中葉にムラが形成されはじめ、中期末葉に終焉を迎えるまで、約1700年間、各時代を特徴づける暮らしの道具や竪穴建物などの施設が発見されており、生活の痕跡が断絶することなく継続していたことが判明しました。

②「規模の大きさ」については、ムラの広がりが約40haという広大な面積に及び、ムラの中心付近からは破格の規模の建物跡が発見されたことなどがあげられます。各時期につくられた捨て場や盛土も大量の遺物を含み、約1000年間の廃棄によって堆積した土層の厚さが約2mに達するなど非常に大規模な遺跡物です。

③「遺構・遺物の多さ」については、出土品を収納した段ボール箱に換算して約4万箱に達する多さです。また、祭祀の道具である土偶が盛土を中心に2000点以上出土しており、長期間継続したムラにおいて、祭祀や儀礼が活発におこなわれていた様子が窺えます。

 

衰退する4000年前(縄文後期)から気温が2度ほど下がり、クリの木が育たず、海退で海岸線が遠くなり、漁業が成り立たなくなり、また稲作はされていなかったので、食料事情が悪化しました。遺跡からは、この頃、トチノミをアク抜きして食料にしていた跡が見つかっています。

次第に人々は分散移住をするようになり、集落は消滅していきました。

縄文ポシェットと十字型土偶(大型板状土偶)

新潟県姫川産のヒスイ

円筒上層式土器

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中部地方以東の東日本では、泉のある河成段丘上の広い平坦な台地上を選定して直径100m前後の円形広場の周辺に、一時期10~15戸前後の環状集落が営まれました。

新潟県中魚沼郡津南町沖ノ原遺跡を発掘すると、計100戸を越す住居跡が発見され、中期初頭から中期末までの火焔型土器(かえんがたどき)をはじめ各形式の土器が出土するので、一見中期の全期間を通じて一ヵ所に長期定住していたかと思われますが、これはかなり断続的なものであったと想像されます。しかし竪穴住居跡に4回柱を立て直したために相接した4本の柱穴が、住居跡内に5組み残存するものなどがありました。掘立て柱の埋没部分の腐蝕耐用年数は非常に短いので、1回10年と考えれば4回の立てかえで40年、20年とすれば80年になります。このように考えると、同一場所に半世紀ぐらい定住した可能性も考えられます。

沖ノ原遺跡

 

新潟県長岡市の馬高遺跡(うまたかいせき)は、信濃川の河岸段丘上に東に中期の馬高遺跡、西に後期の三十稲場遺跡と分かれています。馬高遺跡は、有名な火焔土器を出土した県内最大級の集落跡です(東西150m、南北250m)。馬高遺跡は火焔土器の標式遺跡となっています。

この遺跡は、自然物の採集から次第に植物の栽培をはじめているようで、定住性を求めていたことが分かります。後期になると、隣の三十稲場に生活の場を移しました。

馬高遺跡 火焔土器

 

長野県八ヶ岳南麓の尾根に密集する中期の集落である井戸尻遺跡の場合、ある一時期にすべてが存在したとすると、八ヶ岳南麓の狭小な山地から得られる食料だけでは到底生活の維持は困難であることから、農耕栽培が行われていたのではないかとする理論が生まれました(「縄文農耕論」)。

井戸尻遺跡(八ヶ岳山麓)

 

そして中期の主要な石器群を体系的に把握することができました。石器は農作業の一連の過程を担う農具であり、その農具の組み合わせからは、常畑(じょうばた)における雑穀栽培を主とした集約的な農法があったという考えに到達しています。打製石器である石斧、石鍬は農地耕作に使われていたと考えられます。

さらに果実類もクリはアク抜きをせずに食べることができますが、それだけでは満たされずに、トチノミを水にさらして食べなくてはなりませんでした。そこには水場管理が必要でした。

また、豆類を実の大きいものを選んで栽培する選別栽培も行われていました。これにも、年間のスケジュール管理が必要でした。このように、集団での管理社会化が行われるようになっていまた。

出土する土器は、豪快で抽象的な土器文様が描かれ、なかには蛙など動物や人の頭をかたどったとみられる文様のある蛙面土器や水煙渦巻文深鉢といわれる火焔式土器に似たものもあらわれました。

表情豊かな井戸尻遺跡の土器は、はじめから生活用具としての域をはるかに越えています。

蛙面土器

水煙式土器

 

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縄文中期ごろから、抜歯イレズミ黥面(げいめん)(目のまわりにイレズミ)などといった風習があらわれます。どちらも痛みを伴う通過儀礼として、集団に認められる証(あかし)になりました。集団の組織性や帰属意識がつくられつつある段階と考えられます。

抜歯  黥面

 

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人々は丸木舟を巧みに操り、遠方との交流や交易も行われ、ヒスイアスファルト黒曜石が運ばれた。遅くとも縄文中期(5000年前)ごろにはヒスイ製勾玉が作られていたことが判明しており、山形県の長者ヶ原遺跡からはヒスイ製勾玉とともに翡翠の工房が発見されています。

これらは産出地が限定され価値ある有用物資で、それを遠くにまで運んでいくような遠隔地交易を行っていました。また、加工された干し貝や干し魚、塩などは内陸部の集落にも運ばれ、物資の交換が行われていました。この他、石鏃(せきぞく)や磨製石斧(せきふ)などの石器類、貝製腕飾りや土製耳飾り、漆器なども交易の対象となりました。このような交易を行うことができた原因としては、当時すでに集落間に張り巡らされた高度な物流ネットワークが存在していたためと推定されています。

装身具類も発達し、豊かな精神世界を持っていたことがわかります。信仰や祭祀については、用途がわからない遺物が多数見つかっています。人や動物をかたどったもの、石を刀や剣のように棒状に加工したものなどがあります。豊穣や狩猟の安全、供養などの儀礼や威信の道具として用いられたと考えられます。

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中期に入ると、前期から中期への生活環境の変遷推移にはまた著しい発展変化が認められます。前期後半以降に出現する配石遺構は中期後半には環状に配列するものがあらわれます。後期中葉以降には配石遺構下に墓壙遺体を埋葬するために掘った穴,すなわち墓壙(ぼこう)が設けられ、墓地遺跡とも重複します。しかしこうした遺跡からの人骨出土例はなく,まだその葬法については明らかではありません。一部の研究者は、配石遺構はその当初より墓地遺跡との見解をとっています。また埋葬施設に長方形の石槨、石棺状の石組があらわれるのも中期以降です。

 

(石器)

石棒などの呪物が盛んに作られる。

三内丸山遺跡からは黒曜石、ヒスイなど様々な石器が出土しました。石槍、石鏃、石錐(せきすい:(獣皮や樹皮などに穴を開けるための工具)などの用途で使われ、アスファルトを接着剤として使っていました。

石槍、石鏃  石錐

 

(土器)

この時期は、豪華な文様がついた芸術的な土器が多く、土器の黄金時代ともいわれます。

竹管文(ちくかんもん)や縄文を組み合わせた装飾性豊かなものとなり、立体装飾など地域の特性も加えられるようになりました。さらに釣手のついた土器なども登場しました。

竹管文土器(北海道 常呂川河口遺跡)

粘土紐で立体装飾が発達した土器が各地で盛んに作られました。縄文時代中期における東日本では、火焔(かえん)型土器や王冠型土器、渦巻き状の文様を持つ土器など華麗な装飾をもった土器が製作され日常生活に使用されました。

火焔型土器(新潟県十日町 笹山遺跡)

王冠型土器(新潟県十日町 笹山遺跡)

 

東北地方北部及び北海道南部を中心とした地域でも、口が大きく4つに波打ち、粘土紐が貼り付けられた円筒上層式土器が作られました。

円筒上層式土器(山形県長井市 長者屋敷遺跡)

 

 

(土偶)

縄文時代中期初頭になると土偶は立体的になり、頭部と四肢の表現が明瞭化すると共に、土偶自体が自立できるようになりました。この造形変化は、縄文時代の全期を通じて最も大きなものでした。

すなわち両眼・口の表現の獲得です。東北地方南部に分布する土偶から、顔面の表現が次第にはっきり形作られてゆき、北陸地方や中部高地地方に広がっていきました。中期初頭には「立像土偶」へと移り始め、胴部が板状、頭部が円盤状、正面に目・鼻・口が添えられる程度ですが、短期間に立体化し、自立可能な立像を完成させました。長野県茅野市の棚畑遺跡出土の妊婦土偶(俗称 縄文のビーナス)、山形県最上郡の西ノ前遺跡出土の高さ45㎝日本最大の土偶(俗称 縄文の女神)は縄文中期土偶のその到達点です。この急速な変化は、それまでの土偶が子孫繁栄、安産祈願、祭祀等の個人レベルの目的に作られてきたのに対して、同時期より村落共同体レベルでの祭祀にも使われるようになったためと考えられます。つまり、土偶はこの中期前葉になって縄文社会に定着したと思われます。

(なお、町の観光課が、土偶に世俗的ブームにのって安易に俗称名を付けたことは、イメージを固定化してしまい、学術的には誤った行為です。土偶が本来どのような経緯で作られたのか、未知の謎を多く含んでいることを忘れてはなりません。遮光器土偶は、土偶の目を強調したもので、遮光器なるものは完全に否定されています。)

妊婦土偶(俗称 縄文のビーナス)長野県茅野市の棚畑遺跡

女性土偶(俗称 縄文の女神) 山形県最上郡の西ノ前遺跡

 

また青森市の三内丸山遺跡からは十字型土偶(大型板状土偶) 1,600 点以上もの土偶が出土していますが、下の写真は完形として最大のもの(高さ32.0cm)。頭頂部の穴でつり下げて祭りに使われたと考えられています。首の位置で2つに割られ、別々の場所で発掘されました。

十字型土偶 青森市 三内丸山遺跡

 

 

 

 

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次回は 第5回「 後期」

 

 

(担当H)

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