『縄文時代』
第3回
「前期」
(7000~5500年前)
(年代設定には諸説あります)
(自然)
縄文時代前期の約7000年前は温暖化が進み、平均気温で現在より2℃程高く、海面が現在より4~5m高く海岸線も今より内陸にあったとされています(海進)。縄文時代には、それまで海の沿岸近傍に住んでいた人々は、河川を遡り内陸へ移住しました。この海進は日本では縄文時代の草創期(1万6000年前)に始まったとみられ、ピーク時である縄文前期の約6500年~約6000年前までを縄文海進といいます。縄文海進は、貝塚の存在から仮説が提唱されました。海岸線付近に多数あるはずの貝塚が、内陸部で発見されたことから海進説が唱えられました。海水面は最大120m以上も上昇し、最後には現在の水準面よりも4~5mまで達するというものでした。日本列島の各地で海水が陸地奥深くへ浸入し、複雑な入り江をもつ海岸線が作られました。
その後、海面は現在の高さまで低下し、かつての入り江は堆積物で埋積されて、比較的広く低平な沖積平野をつくりました。
縄文海進によって沿岸部には好漁場が増え、海産物の入手も容易になりました。
植物も亜熱帯性の常緑広葉樹林、乾季に適応した落葉広葉樹林からなる植物帯が形成されました。関ヶ原より西は概ね照葉樹林帯となりました。
(生活環境)
縄文前期の人口も人口密度も、早期から続く温暖化で、中部以北では10倍に増えました。
東海以南では、増えているものの北日本ほどではありませんでした。
縄文前期には日本列島内に以下の9つの文化圏が成立していたと考えられています。
1.石狩低地以東の北海道
エゾマツやトドマツといった針葉樹が優勢な地域。トチノキやクリが分布していない点も他地域との大きな違いです。トド、アザラシ、オットセイという寒流系の海獣が豊富であり、それらを捕獲する為の回転式離頭銛が発達しました。
2.北海道西南部および東北北部
石狩低地以東と異なり、植生が落葉樹林帯でした。ミズナラ、コナラ、クルミ、クリ、トチノキといった堅果類の採集が盛んに行われました。回転式離頭銛による海獣捕獲も行われたが、カモシカやイノシシなどの陸上のほ乳類の狩猟も行った点に、石狩以東との違いがあります。
3.東北南部
動物性の食料としては陸上のニホンジカ、イノシシ、海からはカツオ、マグロ、サメ、イルカを主に利用しました。前の2ヶ所とは異なり、この文化圏の沖合は暖流が優越する為、寒流系の海獣狩猟は行われませんでした。
4.関東
照葉樹林帯の植物性食料と内湾性の漁労がこの文化圏の特徴で、特に貝塚については日本列島全体の貝塚のうちおよそ6割がこの文化圏のものです。陸上の動物性食料としてはシカとイノシシが中心。海からはハマグリ、アサリを採取した他、スズキやクロダイも多く食しました。これらの海産物は内湾で捕獲されるものであり、土器を錘(おもり)とした網による漁業を行っていました。
5.北陸
シカ、イノシシ、ツキノワグマが主な狩猟対象でした。植生は落葉広葉樹(トチノキ、ナラ)で、豪雪地帯である為に家屋は大型化しました。
6.東海・甲信
狩猟対象はシカとイノシシで、植生は落葉広葉樹ですが、ヤマノイモやユリの根なども食用としていました。打製石斧の使用も特徴の一つです。
7.北陸・近畿・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後
狩猟対象はシカとイノシシで、植生は落葉広葉樹に照葉樹(シイ、カシ)も加わりました。漁業面では切目石錘(石を加工して作った網用の錘)の使用が特徴ですが、これは関東の土器片による錘の技術が伝播して出現したと考えられています。
8.九州(豊前・豊後を除く)
狩猟対象はシカとイノシシ。植生は照葉樹林帯。最大の特徴は九州島と朝鮮半島の間に広がる多島海 を舞台とした外洋性の漁労活動で、西北九州(北松浦半島)型結合釣り針や石鋸が特徴的な漁具でありました。結合釣り針とは複数の部材を縛り合わせた大型の釣り針で、同じ発想のものは古代ポリネシアでも用いられていたが、この文化圏のそれは朝鮮半島東岸のオサンリ型結合釣り針と一部分布域が重なっていました。
九州南部は縄文早期末に鬼界カルデラの大噴火があり、ほぼ全滅と考えられる壊滅的な被害を受けました。
9.トカラ列島以南
植生は照葉樹林帯です。動物性タンパク質としてはウミガメやジュゴンを食用としました。珊瑚礁内での漁労も特徴であり、漁具としてはシャコガイやタカラガイなどの貝殻を網漁の錘に用いていました。九州文化圏との交流もありました。
自然環境は豊かとなり、動植物の食料確保が安定したため人口も増加して、定住化による本格的な大きな集落の営みが可能となりました。縄文早期までは主に洞窟に居住していたが、縄文前期に入ると台地上に竪穴住居が造られるようになりました。集落の数が増え、地域を代表するような集会やまつりを行ったと思われる拠点集落も現れました。そこには太い柱を使った大型の建物やまつりの場所である盛り土などの施設が設けられました。縄文前期から中期にかけては最も典型的な縄文文化が栄えた時期であり、三内丸山遺跡はこの時期の典型的文化形式でした。
中部地方・関東地方では前期から後期にかけて、広場を中心に墓群・掘立柱建物群・竪穴住居群が環状ないし馬蹄形状に展開する環状集落が発達しました。また集落には、通年居住する母村と季節の狩猟などでの一時滞在用のキャンプとを使い分けていました。
定住が定着する前期から中期にかけて、集落の中に列状に並んだ大人用の墓域が造られました。
北黄金塚貝塚(きたこがねづか かいづか)
北黄金塚貝塚は、北海道伊達市にある7000年前の縄文前期からの集落遺跡です。内浦湾を前にして、ハマグリ、カキ、ホタテ、クジラ、オットセイを食用にしていました。貝塚からは、埋葬人骨の土坑墓やシカの頭骨を配置した動物儀礼の跡も見つかっており、生き物を弔う精神文化をうかがわせます。その他にも貝塚からは、祭器用と思われる骨製の刀やスプーンが出土しています。アイヌ文化とつながるものとして考えられています。
津軽海峡を挟んだ縄文前期からの貝塚として、その他には北海道洞爺湖町の入江貝塚や高砂貝塚、青森県つがる市の田小屋貝塚、青森県七戸町の二ツ森貝塚、青森県八戸市の長七谷地貝塚などがあり、海産物を始め豊富な食糧事情を物語っています。
三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)
三内丸山遺跡は、青森市にある縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900~4200年前)の沖館川右岸の河岸段丘上の42ha(東京ドーム9個分)の広さに立地する大規模集落跡です。
かつての竪穴住居や大型竪穴建物や大型掘立柱建物が復元されています。クリやヒョウタンなどの有用植物の栽培も行われていました。さらに、ヒスイや黒曜石など遠隔地との交流を示す遺物も出土しており、安定した生活基盤を背景に、この集落が交流の拠点としての役割を担っていたと考えられます。(三内丸山遺跡についての詳細は第4回中期をご覧ください)
阿久遺跡(あきゅういせき)
大規模な記念物である環状列石(ストーンサークル)も登場しました。
現在までのところ最古と考えられているのは長野県諏訪郡原村にある阿久遺跡で、日時計が夏至の日に太陽が沈む方向になっています。また環状集石群は長径120m、短径90m、幅30mで、約20万個の川原石をドーナツ状に配しています。当時の労働集約のレベルをうかがい知ることが出来ます。
鳥浜貝塚
鳥浜貝塚は福井県若狭町にあり、縄文時代草創期から前期(約1万2000〜5000年前)にかけての集落遺跡。縄文時代には鳥浜貝塚の周辺まで湖がせまり、縄文人達は貝殻をはじめ日常生活のゴミを廃棄していました。さまざまな遺物が、 暗い低温の水底で空気や日光に触れることなく真空パック状態で水漬けにされたため、極めて良好な状態で保存され、「タイムカプセル」と呼ばれています。
最下層で土器と共に出土した炭化したウルシの木が見つかり、世界最古の1万2600年前のものとわかりました。しかし、縄文早期はウルシ採取や漆工芸の技術はまだなかったようで、木材としても利用していたと考えられます。漆は早期前後に中国大陸より移入され、以降、縄文時代を通じて漆液を採取し漆器の製作に利用しました。
昭和47年からの調査では、縄文時代前期(約5000年~6000年前)の地層からは、鳥浜貝塚のシンボルとも言える縄文時代の逸品「赤色漆塗り櫛」が発見されました。
9本歯の短い飾り櫛とみられ、堅いヤブツバキの1枚板で作られています。縄文時代にこれほど完全な漆塗り技術が存在していたことは各方面に衝撃を与えました。その後、三内丸山遺跡をはじめとして幾つかの縄文遺跡から漆塗り製品が発見されるが、当時は縄文時代観を覆す大発見でした。漆塗り製品の出土はその後も続き、赤色漆を全面に塗った上に黒色漆で模様を描いた木製の深鉢や皿、さらには焼いた上に真っ赤なベンガラを塗って仕上げた丹彩土器など、当時の技術の高さがしのばれます。
器壁は3~5mmと非常に薄い。内面にも赤色顔料が点々と認められます。水に溶かしたベンガラで塗彩した後に焼成し、焼き付けをおこなったとみられます。小ぶりな鉢であるが、丁寧な縄文と指や工具などで平滑に調整する装飾技法である磨消縄文とベンガラの赤彩によって幾何学的な文様が際立っています。
調査のもう一つ大きな発見は、縄文時代の呼び名となった縄です。それまで縄目の付いた縄文土器は各地から発見されているのに、肝心の縄そのものの出土は皆無だった。それは直径10ミリに満たない程の縄の断片でした。
最終的には180点に上る程の縄が発見されましたが、縄の撚(よ)り方にも様々な方式がありました。材料も、大麻やアカソ、ヒノキなどの植物繊維を使用し、敷物や袋、カゴ、漁網など多種多様な繩製品も大量に出土しました。
調査では自然科学の各分野との共同調査も行われ、その結果として栽培植物のヒヨウタンの原産地が西アフリカであり、従来説の伝来年代を3000年近くも遡る事がはっきりしました。その後の調査でもシソ、エゴマ、ゴボウなどの海外から渡来した栽培植物の発見が相次ぎました。
木工具では、ユズリハなどの弾力のある材料を選び、木の幹と枝を巧みに利用した石斧や弓具などの完成品も出土しています。その後の調査で発掘された丸木舟は、直径6mほどの杉の大木を用いて焼き焦がしながら芯の部分を刳り抜いて製作してありました。
貝塚は10次にわたる全調査が終了した後、河川改修工事によって海中に没しました。
島根大学構内遺跡
島根大学構内から長さ約6mのスギ板材(丸木舟推定板材),カイ2本とヤス柄などが出土しています。この丸木舟(推定)は、日本で最古の約6000~5500年前(C14年代)のものでした。海や川での貝の採取に加え、湖沼の発達により人々は丸木舟を作り、巧みに操り漁労活動を始めました。釣針や銛先の出土から、釣漁や刺突漁(しとつりょう)により比較的大型の魚類が獲られたと考えられます。また、石錘は小型魚を対象とした漁網錘に使われたものと考えられます。
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イヌ(縄文犬)の出土例は縄文時代の前期から晩期にかけて増加していきました。散乱状態で出土する例も多いが、人間と同じ墓域において埋葬状態で出土する例も多く、縄文時代を通じてイヌを家族として扱い、人ともに埋葬する習慣があったことが伺えます。
(石器)
耳飾り・勾玉・管玉などの装身具が作られました。
縄文時代早期末葉~前期初頭には、装身具の種類が増加しました。
玦状(けつじょう)耳飾(玦飾)やヘラ状石製品などはこの時期に登場しました。
前期中葉~後葉には、ヒスイが装身具の素材として着目されました。
(土器)
土器の様式から縄文時代という名が付けられたきっかけとなった時期です。
この期を境に土器の地域差がより明確になり、土器の数量は一気に増加し、形や機能も多様化し、平底土器が一般化しました。
実用面では、火災の心配もあるためか屋内に炉が設けられていませんでした。ところが前期へ入ると住居の屋内に炉が設けられ、ここで食料の煮焚が行われるようになりました。早期までは屋外の炉で煮焚を行うため、煮沸調理用の土器は炉の周辺の柔らかい土に底部を突き刺して煮焚を行いやすいように、底部の尖った尖底深鉢土器が使われましたが、前期以降になると屋内の堅い平坦な床面に設けられた炉で煮焚調理するために、底面の平坦部を広く作り、平坦面に安定のよい円筒形平底深鉢土器が煮沸用土器として登場しました。なお前期中葉ごろから、煮沸用具としても利用したが食料を盛りつけることにも利用したと考えられる浅鉢形土器が出現し、前期末には煮沸用土器とは分離した食料の盛つけ・保存用にのみ使われたと思われる丹漆塗の美しい土器があらわれました。
東北地方北部及び北海道南部を中心とした地域では、粘土に繊維を混ぜ、平底で多くの種類の羽状縄文をつけた繊維土器の円筒下層式土器が盛んに作られました(円筒土器文化)。前期の土器のほうが下の地層で見つかるので、円筒下層式土器とよばれています。
(土偶)
土偶は、縄文早期の更に前半期に関東地方の東部で集中的に製作され、マツリや祭祀に使われました。土偶に共通して言えるのは、女性を表現したものが圧倒的に多いこと、破片のものが多いことです。土偶は「この世のあらゆるものの」女性性、つまり「命を生むもの」の象徴だったと思われていました。
この頃から、頭部・腕部・脚部の表現が出てきますが、前期までの土偶には、顔面の表現がありません。その理由は顔より体幹が大事だったということです。新たな生命の誕生を最も尊ぶ縄文時代に大切にされたのは、性を象徴する体幹部分であったと考えられます。
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次回は 第4回「中期」
(担当H)
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