『縄文時代』第2回 早期 | 奈良の鹿たち

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『縄文時代』

第2回

「早期」

(11500~7000年前)

 

(年代には諸説あります)

(自然)

縄文早期は、日本列島が完全に大陸から離れて島国となっていました。そして、初めの頃は、現在よりも気温2度ほど低く、海水面も30mほど低かった。その後、海水面の高さが戻りました。

縄文早期の約7300年前(約6300年前とする説もある)に鬼界カルデラの一連の破局的大噴火が起こりました。過去1万年間で地球上最大規模の火山噴火とされるこの噴火は,火山灰を列島の広い地域に降り積もらせました。噴煙柱は高度3万mまで昇り、その際に生じた大規模火砕流(幸屋火砕流)が推定時速300kmの高速で四方の海面を走り、100km離れた大隅半島や薩摩半島にまで上陸しました。アカホヤと呼ばれる火山灰は南九州一帯の地層に 60cm、大分県で 50cmの厚さで残っています。西の種子島、屋久島なども火砕流に焼き尽くされました。この時発生した幸屋火砕流は、当時住んでいた早期の縄文人を死滅させました。また、大噴火の際に海中に突入した火砕流の一部は大津波を発生させました。津波の推定高さは大隅半島で30m。アカホヤ火山灰の地層の下から、縄文時代の大集落(上野原遺跡、加栗山遺跡)の埋没跡が発見されました。その集落は舟作の工具(世界最古)や燻製施設と大量の炉、独自の貝殼紋の土器などをともなっていました。

そこから1000 年ほど九州は無人の地だったようで、その後に住み着いた縄文前期の縄文人は以前とはルーツが異なり、土器の様式も変わっていました。新たな縄文文化は朝鮮半島からの渡来人だったと考えられています。

  

 

(生活環境)

縄文早期の人口は、関東地方~中部・東海に多く、人口密度も高かった。

当時の縄文人は、おもに洞窟に居住していたが、気候が温暖になりつつあったためか、広い土地に定住するようにもなりました。早期の住居は、まだ家の中に炉をつくることは少なく、炉穴と呼ばれる野外炉で煮炊きをしていました。

定住生活には、植物質食料、特に堅果類が食料の中心になっていたと想像されます。ドングリやクルミなどの堅果類を植林栽培する初歩的農法が確立し、食糧資源となっていました。その変化はプラントオパール分析の結果から判明しました。一時的に居住する半定住的な生活の仕方では周辺地域の開拓までに至らなかったけれど、定住的な生活をするようになって周辺の照葉樹林や落葉樹林を切り開いたことにより、そこにクリ、トチノミやクルミなどの二次植生の環境を提供することになりました。クリはアク抜きなどが必要なく、特に加工しなくても食べられ、貯蔵や保存にも適していました。トチノミは水さらしによるアク抜きが必要で、そのための施設(水場遺構)も見つかっています。堅い木の実などは、すり石や敲き石と石皿によって粉砕・製粉され利用されました。

定住化によって、縄文人は集落の周辺に林床植物と呼ばれる、いわゆる下草にも影響を与えました。ワラビ、ゼンマイ、キノコ、フキ、クズ、ヤマイモ、ノビルなどの縄文人の主要で安定した食料資源となった有用植物が繁茂しやすい二次林的な環境、つまり雑木林という新しい環境を創造したことになりました。

縄文時代の建築材や燃料材はクリが大半であることは遺跡出土の遺物から分かりました。

南関東や南九州の早期前半の遺跡では、植物質食料調理器具である石皿、磨石、敲石、加熱処理具の土器も大型化、出土個体数も増加しました。南関東の定住集落の形成には、植物採集活動だけでなく、漁労活動も重要な役割を果たしていたと考えられています。魚介を獲るための組み合わせ式釣り針、銛などの漁労具の開発も進みました。

 

縄文早期から貝塚がつくられるようになりました。早期から晩期まで縄文時代を通してつくられた。日本最古とされる貝塚は、千葉県の西之城貝塚と神奈川県の夏島貝塚(後述)であり、紀元前7500年頃の縄文時代早期前半の土器が両方の貝塚から出土しています。

貝塚には貝殻だけが捨てられたのではなく、動物の骨、土器、石器、時には人骨まで出土し、貴重な考古学的遺産であります。また当時の河道や海岸線の跡を教えてくれる証拠でもあります。

 

狩りには遠くから安全に獲物を仕留めることができる弓矢などが使われました。これらの道具には、鋭い刃を作り出すことができる頁岩や黒曜石などが用いられました。狩りの対象となった動物は、シカやイノシシ、ノウサギなど中・小型哺乳動物が中心となりました。落とし穴や弓矢を使って捕らえていました。

イヌも狩りには利用されていたようです。イヌ(縄文犬)の出土例は縄文時代の早期から晩期にかけて増加していきました。人間と同じ墓域において埋葬状態で出土する例も多く、縄文時代を通じてイヌを家族として扱い、人ともに埋葬する習慣があったことがうかがえます。

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北海道函館市の中野B遺跡は縄文時代早期の遺跡。600軒を越える竪穴などの遺構と50万点を越える遺物量がありました。500棟以上の竪穴住居跡、多数の竪穴住居跡、土壙墓、落とし穴、多数の土器、石皿、磨石、敲石、石錘が出土して、その数は40万点にも上っています。津軽海峡に面した台地上に立地するこの遺跡では、漁労活動が盛んに行われ、長期にわたる定住生活を営むことが出来たと考えられます。

中野B遺跡

 

縄文早期前半には、関東地方に竪穴住居がもっとも顕著に普及しました。現在まで、竪穴住居が検出された遺跡は65ヶ所、その数は300棟を超えています。そのうちで最も規模の大きな東京都府中市武蔵台遺跡では、24棟の竪穴住居と多数の土坑が半環状に配置されていました。

武蔵台遺跡

 

神奈川県横浜市の夏島貝塚は、C14年代法でカキの貝殻は9450年±400年前、木炭は9250年±500年前という年代が示され、日本最古の貝塚のひとつとされています。下層から縄文早期の土器が出土しました。貝類以外にボラ、黒鯛、スズキさらにマグロ、カツオなどの外洋性魚類の骨も見つかっています。また、これらを採取するための漁具(モリ、U字型釣り針)が出土しています。

夏島貝塚

 

福井県の鳥浜貝塚は、縄文時代草創期から前期にかけて(今から約1万2000〜5000年前)の集落遺跡です。まさに奇跡的。暗い低温の水底で、空気や日光に触れることなく真空パック状態で水漬けにされたため、様々な遺物が極めて良好な状態で保存され、鳥浜遺跡が「タイムカプセル」と呼ばれました。

(鳥浜貝塚については、次回『縄文時代』第3回「前期」をご覧ください)

鳥浜貝塚

 

縄文早期の南九州は、特有の貝殻文円筒土器の時代を迎え,森林環境に適応した生活が発達しました。縄文時代早期初頭の霧島市の上野原遺跡や鹿児島市加栗山遺跡,松元町の前原遺跡など遺跡では,上からP13(アカホヤ火山灰)の次のP14(薩摩火山灰)の上に掘り込まれた竪穴住居跡が発見されました。

壺形の土器などをもつ縄文時代早期の文化が育まれました。

鹿児島県霧島市にある上野原遺跡(うえのはら いせき)は、早期前葉から中世までの遺跡群を含む複合遺跡です。この遺跡は日本最古(縄文早期前葉の約9500年前)の大規模な定住集落といわれています。半環状に配置されている46棟の竪穴住居をはじめ多数の遺構が発見されました。竪穴住居が1万3000年前の桜島噴火の火山灰テフラ(降下軽石)P14 (薩摩火山灰)の上に建てられていることから、草創期の後に集落がつくられたことがわかります。その後、竪穴住居跡の上に、7300年前の鬼界カルデラ噴火のテフラP13(アカホヤ火山灰)が堆積していることから,この噴火で南九州の縄文人は全滅したことになります。

火山灰に覆われたタイムカプセルです。

上野原遺跡

 

上の原遺跡とほぼ同時期の鹿児島市にある加栗山遺跡(かくりやまいせき)は、旧石器時代から縄文への移行期から縄文前期(1万1500~6400年前)の遺跡です。約9000年前の縄文時代の集落としては,日本でも最大級の遺跡である。薩摩火山灰層テフラP14(桜島噴火による約1万1000年前の火砕流)とアカホヤ層テフラP13(鬼界カルデラ噴火による約 7300年前の幸屋火砕流)の火山灰層に挟まれて,良好な状態で保存されていました。すなわち、加栗山遺跡も上野原遺跡同様、鬼界カルデラ噴火で壊滅したことになります。この遺跡は草創期の掃除山遺跡や前田遺跡の場合と違って、竪穴住居跡の数の大幅な増加、住居の拡張、重複した住居跡、これらの住居跡やその他の遺構が中央広場を囲むように配置されていました。 16棟の竪穴住居跡、33基の煙道つき炉穴、17基の集石などが検出されています。住居跡・集石・土坑などの遺構と石坂式,吉田式,前平式土器のほか磨石,石皿,石斧,石匙,軽石製岩偶などが出土しました。

加栗山遺跡

 

(石器)

石鏃(せきぞく)や石斧(せきふ)などを主体とする新石器を使用し始めた時期。

網用の土錘・石錘。ヤス、銛。堅果植物を叩いたり、砕いたり、すり潰したりするための石皿や磨製の石なども使用されていました。

新石器・磨製石器

 

(土器)

早期では壷の役割の深鉢形土器のみで、皿などはまだありませんでした。

東北地方及び北海道南部を中心とした地域では、を棒軸に巻き付けて回転施文した撚糸文(よりいともん)土器群から始まり、棒軸に彫刻して回転施文した押型文(おしがたもん)土器群など、土器面に装飾が意図されるようになりました。後半にみられる、棒状具で条線を描いた沈線文土器群や貝殻による条痕文(じょうこんもん)土器群には、部分的なモチーフが加えられるようになりました。

 

撚糸文(よりいともん)は植物繊維を撚(よ)り合わせた細縄を丸棒の軸に巻きつけた原体 (絡条体) を回転して施した文様。関東地方の早期前半には,土器面を撚糸文あるいは縄文のみで飾る様式があり,撚糸文系土器と名づけられています。

撚糸文土器

 

押型文(おしがたもん)土器は縄文土器の文様の一種。幾何学型の文様を彫刻した丸い棒を土器面上に回転させてつくりだします。山形文,円形または楕円文,格子目文,市松文などの種類があります。縄文時代の早期中頃に出現し,特に関東以西に隆盛をみました。

押型文土器

 

縄文早期は尖った底の土器(尖底深鉢土器)が多く、地面につきさして使っていたようです。土をこねて思いどおりに形を作り、野焼きして火熱による化学変化を起こすことで、より強度な容器を手に入れました。それにより、「煮る」などの調理や「貯蔵」も容易となりました。「煮る」ことにより、堅いものが柔らかくなり植物のアク抜きもでき、可食植物が増加しました。生活土器の出現は、人々の食生活に大きな安定をもたらしたと考えられます。圧煮炊き用の土器の出現が旧石器時代の生活を変えました。

圧煮炊き用の尖底深鉢土器

 

(土偶)

縄文時代早期前半になると、関東地方東部に逆三角形や胴部中程がくびれた形の土偶が出現し、早期後半には東海地方にまで分布を広めて、それぞれが明確な土偶形式を形成しています。

縄文早期の前半に関東地方の東部で集中的に使用された後、縄文中期に土偶の使用は東北を除いて一旦消滅しました。

(左:千葉県 小室上台遺跡 中:青森県 根井沼遺跡 右:鹿児島 上野原遺跡)

 

 

 

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                 次回は 第3回「前期」

 

 

(担当H)

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