『縄文時代』第1回 草創期 | 奈良の鹿たち

奈良の鹿たち

悠々自適のシニアたちです

『縄文時代』

第1回

「草創期」

(15000~11500年前)

 

(年代設定には諸説あります)

 

この草創期の特徴は以下のように指摘されています。

● 新しい道具が短期間に数多く出現した

例えば、石器群では、大型の磨製石斧、石槍、植刃、断面が三角形の錐、半月系の石器、有形尖頭器、矢柄研磨器、石鏃などが、この期に出現しました。

● 使われなくなっていく石器群、新しく出現する石器群が目まぐるしく入れ替わった。

● 草創期前半の時期は、遺跡によって石器群の組み合わせが違う。

● 急激な気候の変化による植生や動物相、海岸線の移動などの環境の変化に対応した道具が次々に考案されていった。

● 狩猟・植物採取・植物栽培・漁労の3つの新たな生業体系をもとに生産力を飛躍的に発展させた。

 

(自然)

縄文時代が始まった1万5000~1万6000年前(放射性炭素C14年代で1万3000年前)とは、7万年前に始まって1万年前に終了した最終氷期の終わりごろ(晩氷期)のため、気候は今日と比較してかなり寒冷でした。しかし縄文前期の6000年前頃まで、次第に地球規模で温暖化に向かっていました。この間に日本列島は海面が100m以上上昇しています。約1万3000年前から1万年前の気候は、数百年で寒冷期と温暖期が入れ替わるほどで、急激な厳しい環境変化が短期間のうちに起こっていました。また北半球における氷河の後退が開始した当初のことで、海面はウルム氷期の最も低下した時代から、徐々に上昇期へと向かう転換期直後のことでした。まだ顕著な縄文海進は始まらず、海水準は現在よりも数十m低く、日本列島太平洋岸の海岸汀線は今日より遙か沖合にありました。東京湾・瀬戸内海などは未だ海水の浸入を見なかった時代でした。

日本列島全体を見ても、北海道と樺太は繋がっており、津軽海峡は冬には結氷して北海道と現在の本州が繋がっていました。瀬戸内海はまだ存在しておらず、本州、四国、九州、種子島、屋久島、対馬は一つの大きな島となっていました。この大きな島と朝鮮半島の間は幅15km程度の水路でした。その後、温暖化が進行し、氷河が溶けて海水面が上昇し海が陸地に進入してきました。「海進」といいます。その結果、対馬・朝鮮半島間の水路の幅が広がって対馬海峡となり、対馬暖流が日本海に流れ込むこととなりました。これにより日本列島の日本海側に豪雪地帯が出現し、その豊富な雪解け水によって日本海側にはブナなどの森林が形成されるようになりました。このように日本列島の草創期は、大陸から離れる直前であったと推測されます。

 

南九州では旧石器時代後期に、巨大カルデラ噴火があり旧石器人を死滅させていました。

氷河期の終わり約2万9000年前の姶良(あいら)カルデラ噴火は凄まじい。桜島を南端とする鹿児島湾の北半分は巨大な噴火口で通称「姶良カルデラ」と呼ばれます。

吹き上げられた噴煙柱は3万mを超え、やがて崩れると摂氏800度近い灼熱の火砕流(幸屋火砕流)を時速100kmで半径70km以上を埋め尽くしました。高さ100mもの火砕流の地盤も発見され、これら火砕流と火山灰の堆積地盤を通称「シラス台地」と呼ばれています。

火山灰は、偏西風に乗り東北地方まで2,500kmも日本列島全体に降り積もりました。九州から関西までの旧石器時代の人々の死滅はもとより、関東地方や東北南部の人々も致命的な健康被害を受けたであろうと想像できます。九州の植生は1000年の間、回復しなかったといわれています。南九州では、その後も大規模火山噴火が何度も発生し、縄文草創期の1万3000年前の桜島噴火の後、早期の7300年前の鬼界カルデラ噴火で南九州の縄文人は絶滅しました。

 

植生では、それまでは針葉樹林が列島を覆っていたが、西南日本から太平洋沿岸伝いにドングリ類やクリ・クルミが実る豊かな落葉広葉樹林が増加し拡がっていき、北海道を除いて列島の多くが落葉広葉樹林照葉樹林で覆われました。北海道はツンドラが内陸中央部の山地まで後退し、亜寒帯針葉樹林が進出してきました。そして、日本海側と南部の渡島半島では、針葉樹と広葉樹の混合林が共存するようになりました。

また、温暖化による植生の変化は、マンモスやトナカイ、ナウマンゾウ、オオツノジカ、野牛などの大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、約1万年前までには、日本列島からこれらの大型哺乳動物がほぼ絶滅しました。

代わって、シカやイノシシの中・小哺乳動物が狩猟の対象になりました。

海面の上昇や降雨によって運ばれた土砂の堆積によって、魚介類が豊富に生育できる地形や環境が形成されました。その結果、貝類や魚類が新しい食糧資源になりました。住居址からサケの顎骨や小型の骨製U字型釣針が発掘されています。

 

(生活環境)

日本列島の旧石器時代~縄文草創期の人々は、大型・小型の哺乳動物を追ってキャンプ生活を営みながら、頻繁に移動を繰り返していました。気候寒冷であったためか、南面する断崖下の岩陰、ならびに洞窟入口部などを住居として利用した遺跡も数多く発見されています。台地上の住居跡は1~2戸前後の小規模のものが多く、あまり永く定住したとは思われません。日本列島内で、この時代の竪穴住居などの遺跡はほとんど発見されていません。

 

青森県大平山元遺跡(おおだいやまもと いせき)は旧石器時代「後半期」から縄文時代「草創期」の遺跡です。旧石器時代の終わりごろの1万6520年前(暦年代)の土器片(文様のない無文土器)と矢尻の石鏃(せきぞく)が出土した。現在のところ、両方とも世界最古級の土器・石器です。

(詳しくは「土器」の項目で)

 

静岡県富士宮市にある大鹿窪遺跡(おおしかくぼいせき)は、縄文時代草創期(約1万5000 - 1万2000年前)の遺跡の1つです。国の史跡に指定されている。定住集落跡の例としては日本最古級であるとされています。

 

愛媛県の上黒岩岩陰遺跡(かみくろいわいわかげいせき)は、今から1万4500年前の縄文草創期~後期の1万年にわたる複合遺跡です。

ここから出土したものは、石偶(女神石)で「ヴィーナス像」とも称される女神像線刻(せんこくれき)です。長い髪・大きな乳房・腰みの・かすかにわかる逆三角形を、鋭い石器などで小さい緑泥片岩に描いてある線刻像。日本での出土は上黒岩岩陰遺跡が初めてでした。

 

同じく装身具:貝類動物の骨石などで作った腕輪・首かざり・耳かざりと思われるものも出土しました。その他に、南方の海に生息するイモガイやタカラガイの装飾具もありました。

  

同じく投げ槍の刺さった女性の腰骨:腰骨を貫いて、致命傷になったものではないかと考えられます。しかし刺さっていた骨角器は尖頭器ではなく、鹿の脛骨で作られた有孔ヘラ状骨器であることが分かりましたた。事故か事件性の他に死後に行った祭祀儀礼が考えらます。

同じく埋葬されたイヌ(縄文犬):二頭のうち一頭が側臥屈葬(そくがくっそう)の状態で埋葬されていました。埋葬人骨の隣から出土したということは、家族同然に扱われていたと思われます。

 

長崎県佐世保市福井洞窟は、後期旧石器時代から縄文時代草創期の岩陰状の洞窟です。

それまで土器は縄文時代草創期が最古のものでしたが、福井洞窟第Ⅱ-Ⅳ層の隆起線文土器は、当時、日本で初めて発掘された最古の旧石器時代の土器だと騒がれました。

(詳しくは後述「土器」の項目で)

 

同じ佐世保市の泉福寺洞窟は、旧石器時代から弥生時代の岩陰遺跡です。後期旧石器時代のナイフ形石器から平安時代の瓦器までの遺物が出土しました。大量の細石器や隆起線文土器、ブランク、スクレイパー、叩き石などとともに世界最古級の土器である豆粒文土器(とうりゅうもんどき)が発見されています。(詳しくは後述「土器」の項目で)

 

この頃、すでに人は亡くなると地面に穴を掘った土壙墓(どこうぼ)に埋葬されていました。

 

縄文文化は東北で遺跡が多数発掘され、日本列島の東および北が注目されていますが、南の九州でもそれに劣らない縄文の繁栄がありました。1万5000年前から氷河期が終わり、暖かくなると人々は集落をつくり始め縄文期に入りました。約1万1000年前に桜島北岳が噴火し、テフラP14(通称 薩摩火山灰)が降り注ぎました。鹿児島県内では、この火山灰の下から栫ノ原遺跡(かこいのはら いせき)掃除山遺跡(そうじやま いせき)など縄文草創期の遺跡が数多く見つかっています。栫ノ原遺跡は、後期旧石器時代から縄文時代草創期を経て中世までを含む複合遺跡ですが,特に縄文時代草創期が重要で,国指定史跡となっています。今から約1万5000年前の縄文草創期の隆帯文土器や調理に利用したと考えられる煙道付炉穴,舟形配石などが発見されました。特に刃部の丸くなった磨製石斧(丸ノミ形石斧)は栫ノ原型石斧とも呼ばれます。丸木舟製作用の木工具とも考えられ,南島とのつながりが注目されて、草創期における南九州の先進性を示す縄文遺跡として重要視されています。

 

(石器)

最終末の旧石器である細石器(さいせっき)や槍形石器などが一緒に使われていました。

石で作った矢尻である石鏃(せきぞく)も各地で出土しています。

縄文時代にはすでに磨製石器を用いているので、その意味では新石器時代と言うことができます。狩猟活動において、九州地方では黒曜石製の細石刃が出土し、四国・本州方面では有舌尖頭器が発見されることから、狩猟用具は投げ槍が主として使用され、後半になって石鏃も出現しますが、まだ弓矢は発達していなかったようです。

 

(土器)

縄文時代の始まりは、土器の始まりでもあります。

青森県の大平山元遺跡(おおだいやまもと いせき) から旧石器時代の終わりごろの1万6520年前(暦年代法)の土器片(文様のない無文土器)が出土しました。現在のところ世界最古級の土器となっています。

 

土器の形では、草創期に使用されている土器は、煮炊き用の土器で、丸底で深い丸底深鉢土器(まるぞこふかばちどき)が主流でした。

 

長崎県佐世保市福井洞窟の第Ⅱ層からの爪形文土器、その下の第Ⅲ層から隆起線文土器(りゅうきせんもんどき)が出土しました。暦年代で1万5000年前(C14年代法でBP1万2700±500年前)のものでした。このことで草創期の土器群が隆線文土器から爪形文土器へと続くことが明らかにされました。また、これら両土器群と伴出する石器群は下層の第IV層で、土器を伴わない細石刃を含む石器群と殆ど同じ様相を示すものであり、細石刃を製作・使用していた旧石器時代の人が、土器製作もしていたことを物語っています。これまで土器は縄文時代草創期が最古のものでしたが、福井洞窟第Ⅱ-Ⅳ層の土器は、日本で初めて発掘された旧石器時代の土器です。

 

同じ佐世保市の泉福寺洞窟は、昭和47年に当時世界最古といわれていた隆起線文土器が出土しました。翌年、その下層から表面に豆粒をモチーフにした土器片が細石刃と共伴して発見されました。この土器は豆粒文土器(とうりゅうもんどき )と命名されて、約1万6000年前(暦年代法)の旧石器時代に遡ることが判明しました。第X層の最下部から豆粒文土器が、中位で豆粒文・隆起線文併用土器が、上部で隆起線文土器が検出され、さらに上層で爪形文土器、押引文土器が確認されました。土器の変遷が分かる遺跡です。

 

愛媛県の上黒岩岩陰遺跡(かみくろいわいわかげいせき)出土の細隆起線文土器はBP1万2165±600年(暦年代1万4500年前)です。

 

土器は、無文土器から豆粒文土器、隆起線文土器、そして爪形文土器へと変遷し、約1万年前に縄目の模様がついた多縄文系土器(押縄文系土器)が登場しました。

 

(線刻・土偶)

女性像を線刻した小礫が作られるました(線刻礫)。

鹿児島県南九州市の牧野遺跡で、線刻を施して女性を表現したとみられる約1万3500年前のこぶし大の石が見つかりました。子孫繁栄などを願って作られたものとされ、全体に刻まれた縦や斜め方向の線が女性の髪を表していると見られています。同じぐらいの大きさの石約1600個が詰め込まれた円形の穴の中から見つかりました。祭祀との関連も考えられ、縄文時代の精神文化を知る貴重な史料です。

現在知られている限りで日本最古級の土偶は縄文草創期後半のもので、三重県松坂市の粥見井尻(かゆみいじり)土偶と滋賀県永源寺相谷町の相谷熊原(あいだにくまはら)土偶です。いずれも小形で、やや厚みのある板状、頭と両腕を突起で表現しており、顔や手足の表現を欠くが、乳房は明瞭に表現されています。

土偶は縄文草創期に出現して中期から数が増え、分布は東日本が多くなっています。女性像が多いのは、豊穣や子孫繁栄と関係する呪術的な儀式の対象として、安産や獲物の豊富なことを願うために使用されたとみられています。

 

 

        ===================        

次回は 第2回 「早期」

 

 

(担当H)

====================