なんでもいいや -8ページ目

みんな覚醒すりゃいいんやで

THE OUTSIDERの対戦カードが発表された。

 
 3/25 「THE OUTSIDER」対戦カード発表!
 

小生はアパッチ小次郎が凄い気になっており試合がとても見たい訳ですがやっぱりテレビ中継はないようでなんとかしてくれないかなと。

きっと当日は超満員札止めになるでしょうしそういう場所で試合ができる人はそれこそ一握りの人で、アマチュアでそれが経験できるならそれはそれは素晴らしい事で、キャッチコピーは


『不良達ヨ、覚醒セヨ。繰リ返ス。不良達ヨ、覚醒セヨ。不良達ヨ、覚醒セヨ。繰リ返ス。不良達ヨ、覚醒セヨ。不良達ヨ、覚醒セヨ。繰リ返ス。不良達ヨ、覚醒セヨ。』

     

ですが不良達だけじゃなく出る選手全てが覚醒できる場であって欲しいなと。
しかし、見に行きゃよかったなと今更ながら後悔。

 
リングスのサイトで広告が出てたのでついでに

 

知ってる人は知っていると思いますが、アウトサイダー事務局の電話番号はミャンマー軍による長井健司さん殺害に抗議する会の事務所の電話番号であり、同時にその事務所は苫米地英人さんの会社内にある。
苫米地さんと付き合いながら江原さんや三輪さんと会話する日明兄さんはなかなかの役者なのである。

 

洗脳護身術―日常からの覚醒、二十一世紀のサトリ修行と自己解放(とある書評から)
 
 この本を読んで、武道(少林寺拳法や合気道)の修行が、そのまま相手を洗脳する手法であることに気づき、驚かされた。相手の目をじっと見ること、相手に自分の呼吸を悟られないようにすること。すべて相手を精神的に圧倒し、戦わずして勝つ方法だと説明されていたが、実は、精神的な「洗脳力」で相手に打ち勝つ方法だったのではないか。そして、座禅を組み瞑想することにより、変性意識を生成しやすくなると説明されているが、これは、少林寺拳法でのトレーニング後の瞑想の時間に相当する。

 

  
XPLOSION 18 3月29日
ネーサン・コーベット v Meik Sbrzensy
Wandes Lope Santana v ヘクター・ロンバート

イアン・シャファー、ダニエル・ドーソンは欠場するよう。
試合はXPLOSION TVでいずれ見れるかも知れないが小生は詳しく知らない。

 

レイ松村がマイク・ザンビディスvsダニエル・ドーソンは不正判定だと言っているので試合を見てみたがレイ松村の仰る通りの心象。

   
ユルゲン・クルトMMA参戦へ
チームクエストでダン・ヘンダーソンの打撃コーチをしつつMMAを特訓中。
  

久しぶりのレミーガ

奥多摩の金ちゃんブログより


矢吹丈ではなく三島栄治的なアウトサイダー

 フックを打つ時に相手の右腕のガードの上から被せて打つ人がいるんですがカラ・コロヘ・ホースは相手の右腕の下から脇を絞めてコンパクトに左フックを打っているのがなかなかセンスを感じさせますな。なぜこんなことを書いているかというとこれまた先週末に行われたパッキャオvsマルケスで3Rにダウンを奪ったパッキャオのパンチが腕の下を通る左のショートフックだったから。小生カラ・コロヘ・ホースをバローニの噛ませ犬だと認識しておりましたが、見事な番狂わせでございました。バローニは勝っても負けても面白い試合するし先週末の試合では一番良い試合だったのではないでしょうか。

  


 前田日明の息の掛かったZSTにもアマチュア大会がある訳ですが、何故他のアマ大会に興味を感じずにこのアウトサイダーに惹かれるのかを考えていた。大会趣旨はチャレンジだとか人生の再起なんだろうが不良という部分でいうと思い出したのはあしたのジョーの矢吹丈ではなく、がんばれ元気に出てきた三島栄司なのである。

    

がんばれ元気 三島栄司と芦川先生
 

 三島栄司は芦川先生の恋人だった。元気は知らないが、昔、芦川先生を関拳児と争って叩きのめされたボクサーだった。関との試合で完敗した三島はボクシングを捨てやくざの用心棒にまで身を落とし、傷害致死、前科二犯。しかし、芦川先生が選んだのは三島に勝った関ではなく、三島だった。酒におぼれる三島を見守り続けていたのである。元気が関を目標としてボクシングを続けていることを知れば、三島が立ち直るのではないかと期待を寄せていたが、一向にその気配さえ見せなかった。

  
 ある日、ジムのボクサーがチンピラ相手に暴力をふるったとして暴力団が元ミドル級プロボクサーを連れてジムに殴り込みに来た。 三島は関に敗れ、やくざにまで身を落とし、背中に入れ墨を彫った自分では芦川先生をしあわせには出来ないと思い、芦川先生の元から消えるために暴力団全員を叩きのめす。フェザー級である三島が、ミドル級ボクサーを見事なテクニックで打ちのめした事で、元気は三島にボクシングを教えてもらいたいと願った。そんな願いもむなしく、三島は傷害罪で刑務所に留置されてしまう・・・

続きが見たい方は上記リンク先かマンガ喫茶で熟読を

 
 小生の理想のタイプは芦川先生である。しかし、いまだに女史のような強い女性に出会った事がない。きっと三島さんのような人もいないんだろう。んな事はわかっているが若かりし頃の過ちの為ほんとうにしたい事をできなくなる事は大なり小なり誰しも経験してるはずなのである。二次元世界の三島さんは再びリングに上がることはなかったが別の何かを見つけた。それを見た三次元の世界にいる小生は二次元世界の話であっても心が熱くなる訳で、現実の世界でも三島さん的な救いはあってもいいのじゃないと思ってしまう訳なのである。

    
 そういえばアウトサイダーの出場者が発表されていますね。いろいろ眺めている個性豊かで面白い、また小生と同世代の人が多く出場するようでまた考えてしまった。

   

「THE OUTSIDER」参加決定者追加発表!
      
 夢枕獏の小説で『風果つる街』というのがある。数年前に読んだので詳しく覚えてないが内容はこんな感じ。

 

 主人公は真剣師と呼ばれる賭将棋のジジイで、プロ将棋師になれる実力がありながらとある事情でプロへの道が閉ざされる。闇将棋の世界で生き日本中を放浪しながら将棋に取り憑かれた人々と交わる話。フィクションの賭け麻雀師小池重明みたいなアレです。

  

 いい年したおじさんがアマとはいえ厳しいルールのリングにあがる訳ですから格闘技が好きでたまらんのでしょうな。肉体的にも先が見えた状態で仕事終わりに練習し、リングに立とうとする、心の中で消えたはずの火がまだプスプスと燻ってる感じなのでしょうかの。美化しすぎなのは理解しておりますが足掻いてる感じがとても素晴らしくその心意気を見習いたいと思ったりもします。

 試合も見れない訳であまり期待しても仕方ありませんのでこの辺で。

 

結論としてただのアマ大会でここまで考えさせる日明兄さんはやっぱり不思議な人だなと。


Bobby Lashley vs. Kimbo Slice on CBS??
 
いやー、やばいですね。みたいですね。是非やって欲しいですね。

今週末はカラ・コロヘ・ホースとバローニの試合がみたいなアレ

 先週か先々週か忘れてしまったがNHKの「その時歴史が動いた」で

 

【明治維新・河井継之助・地方自立への闘い▽ガトリング砲】 

 

 というのを放送していた。一般視聴者相手だとああいう構成にならざるおえんのかねという内容でしたが面白かったです。あの番組で河井継之助という人物に興味を持った人は己で彼氏の過去を探って行くことでしょう。

  

河井継之助が周囲に語っていた言葉

 
「天下になくてはならぬ人になるか あってはならぬ人になれ」

 
時世の句

 
「八十里こしぬけ武士の越す峠」

 

3月13日(木)の深夜にNHK総合で再放送するそうです。

  

  
 まったく関係ないが、この前会社の同僚の女の子が退職するとの事で送別会に行って来た。退職理由はデザインの仕事をしたいから勉強するとの事。みなさんは新しい門出を祝おう的な暖かい雰囲気だったが、誰も引き止めないのかね、そんなに簡単に送りだしたら逆にかわいそうじゃないと思い、一度決めたことを人の意見で変える人はそうそういないだろうし、二次会で勿体無いから辞めたらだよめとプロレスを仕掛けた。

 仕事しながらでも勉強できる的なアレをいろいろ女の子に言っていると辞める理由が別にある事を告白し泣き始めた。いらんことしてもうたと思いつつ、それ以降小生は受身を取りまくる訳であったが表と裏じゃこうも違うものかねといろいろ勉強になった。
 


Phil Baroni vs Kala Kolohe Hose ICON 15/03
  

 先日K-1MAXに呼ばれない事が確定したデニス・シュナイドミラーを判定で破ったマラペット。3月21日のshoxcのメインに出るかと思ったら続いてキックの試合が決まった。しかし首相撲と膝しか出さないマラペットがシュナイドミラーに勝ってしまうムエタイルールはいまいちです。ちなみにジャマイカで行われる同興行にはJWP、タイロン・スポーンそして懐かしいマンソン・ギブソンも出るようです。

  
Malaipet vsYodsanklai - June 20
   

 今月の3月30日に韓国で新しい総合格闘技とキックのミックスイベントが行われるそうでチェ・ムベvsゲーリー・グッドリッジ、フランソワ・ボタ、ガオグライ・ゲーンノラシン、アレクセイ・イグナショフの参戦が決まってるとの事。
http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?linkid=343&articleid=2008031212583062494&newssetid=1866

世界卓球とアウトサイダーなアレ

 結構更新開いてしまいましたが、年度末で忙しい訳です。ついでに前田日明がHEROSスーパーバイザーを辞めた事もあり、自分の時間を割いてまでDREAMを応援する気にもなれず、前田日明きっかけで始めたブログでそこに前田日明がいないとなるとブログを書く動機が消滅する訳です。そういうことで辞めてしまおうと思ってた訳ですがアウトサイダーをするということでそっち系のブログに変えてしまうことにします。月に数回の更新になると思われます。ちなみにアレのアレやアレのコレも個人的に楽しむ事にしましたので、アレ目的の方はそうゆうことで申し訳ございません。

   

  
前田日明と坂本龍馬と「改革」の現実

書いてるのは知る人ぞ知る木村剛という金融界のアレな方。

  

  
 一所懸命信じるために一所懸命考える。……信じたいがために無理矢理考えて信じようとするみたいなね。そこには矛盾があったりするわけですけど、それを考えながら現実に持って行く。そういうのが人に対しても物に対しても大事なんだよ。……科学の本質とは「わからないことは引き続き調べて考える」ということだ。まさに、人類は「信じるために考えて」きたのである。ただ、前田が信じるために考えたことは、ちょっと時代を先取りしすぎていた。チケットぴあで初めてプロレスのチケットを売ったのもノゲイラやヒョードルを日本に呼んだのも「ごちゃごちゃいわんと誰が一番強いか決めたらええんや!」という総合格闘技の理念を提示したのも前田(というかUWFなりリングスなり)なんだが、それがファンに浸透する頃にはいつも前田はそこにいなかった。

  

中略

  

 誤解を恐れずに大胆に言えば、前田日明や坂本龍馬は頭が良くなかったわけです。稀代の「阿呆」だったんですね。「一所懸命信じるために一所懸命考える。……信じたいがために無理矢理考えて信じようとするみたいなね。そこには矛盾があったりするわけですけど、それを考えながら現実に持って行く。後先考えずに時代の先端を走ってしまう」という側面があるわけです。もっとオイシイことを考えればいいのに・・・・・・、他のヤツにやらせておいて、その後をついていった方が楽なのに・・・・・・、最前線で戦ってしまう性を持っている。
 そして、最前線で戦い続けるためには、人知れぬところで極めて地道ながらキツイ努力を継続しなければいけません。そうしていなければ、抵抗勢力に簡単に一蹴されてしまいますから。改革者は常に少数から始まり、その「改革」を為し遂げるためには、人並み以上の苦労が求められます。

  

 

  
 結果的に再び前田日明のみが矢面に立ち泥水をすすり、後に現れるであろう山県有朋的な人に成果を横取りされるであろう事は想像に難くない。学徒の宿命として仕方ないんでしょうが常常小生は前田日明の居場所が格闘技界である事を非常にもったいなく思っている。

   

 山県有朋が創り出した軍部の過剰なまでの天皇崇拝主義は第2次世界大戦の敗北により消滅したが、大久保利通が作りだし、伊藤博文や山県有朋が大久保の設立理念を曲解し仕上げた太政官による清濁併せ呑む官僚機構、言い換えれば腐敗政治システムはあの敗戦を経験してなお解体されず、維持され現代まで生き続けている。

 

なんとなく纏りようがなくなったので別の事を書く

 

 先日とても素晴らしい試合を観た。
 世界選手権団体戦女子準決勝シンガポール戦。第二試合の平野早矢香vsリ・ジャウェイ戦が凄かった。リ・ジャウェイは世界ランキング8位平野早矢香がランキング20位。1-2と追い込まれた第4ゲーム平野は2-8とポイントを先行されもう駄目かと弱気な表情を見せる、が平野は血気迫る気迫で8-10まで盛りす。その際の緊張感というかピリピリ感がこの娘凄い、凄い物見てるんだなと、涙腺の弱くなった小生は感動でつい涙がコボレソウになった訳です。まあ結局日本は実力通り1人も勝てずに0-3で負けた訳ですが、こういう試合がみたいが為にスポーツを見てるんだなと再認識した訳です。↓この試合もよかった。

  

2008 世界卓球 女子 団体戦 対韓国 福原愛vs文炫晶

  

  
『それともお前何十年も修行して達人にでもなるのを待ってから戦場に出るつもりか?

                                      気の長なげェ話だな 結果的に』
                                                   ガッツ『ペルセルク』より

  

  
 前田日明の度派手なアジテーションに関わらずその舞台に出て行こうという人を見ると小生のような多感な人間はそれだけで感動してしまう訳ですが、小生はテレビ放映されない限り彼らの試合を見る事はありませんし会場で応援する訳にもいきません。しかし是非頑張って頂きたいなと思う訳ですね。以下の人のブログは3月30日に行われるアウトサイダー出場予定選手の方々の物です。

(もしかして出ないかもしれません。メール下さった方ありがとうございます。)

  

小川栄司ー総合格闘技真闘術館長
  

アパッチ小次郎ーアパッチ柔術
  

秋本直樹 ー 全日本学生選手権            男子74キロ級2位
          内閣総理大臣杯全日本大学選手権 男子74キロ級2位
 

瓜田純士ー俳優・モデル・エッセイスト

前田日明 と 陽明学 その7

 HEROS消滅と共に前田日明がスーパーバイザーを事実上解任された。

新生UWF時代に練習生が亡くなった。その事件故に選手の安全というものに非常にこだわってKOKというルールを作成しHEROSでは選手の安全面で過剰とも思える提言を行ってきたきた兄さんの行動がルール改定ということもあり水泡に帰した。

練習生の死亡時、UWFには兄さんの他に数人の選手がいたが、安全面へのこだわりを矢面に立ち、強く訴え続けて来たのは兄さん一人だけだった。

 

 事件当時の選手を見ていると人が練習中に死んだくらいでは誰の心にも選手を守るんだという気概は生まれないんだろうし、日本の総合格闘技の舞台でリング過が起きなければ本当の意味での安全面への配慮なんてのは主催者やファンにも芽生えない。

 

 そう思っている小生にとってはプロボクシングで起こった悲劇を総合の舞台で追体験する必要ない、いつか事故が起こるだろうしかし選手のリスクを少しでも軽減したいんだという兄さんのたった一人の戦いは、なんとも見ていて切なくなり、故に応援したくなるのである。

 

 

前回の続き

 

儒教では惻隠の情というものを重く見る。道を歩いていて、見知らぬ子供が河に落ちた。どんな悪人でもそんな場に通りあわせれば捨てておかず、なんらかの手段でたすけようとする。人間がうまれながらにもっている痛わしく感ずる心ー惻隠の情ーこそ仁の原始形態である、と孟子も説いている。継之助はそれを感じると同時に、かれの信条らしく行動をおこしたのであろう。その行動は純粋気質から発しており、高山の湖のように透明度の高いものだ。

 

 

司馬遼太郎「峠」より抜粋 

  

馴染みの芸子がいる吉原で火災があり、すっ飛んでいく継之助のアレと弟子鈴木佐吉の会話

  

ー心は万人共同であり、万人一つである。 

  

 というのが、継之助のいう王陽明の学説であった。どの人間の心も一種類しかない、心に差はない、という。この場合心とは、精神・頭脳ということであろう。

  

佐吉「しかし、それはおかしい。現実に人間には賢愚があるじゃありませんか」

  

と佐吉がいうと継之助はいい問いだ。といった。なるほど現実に賢愚がある。しかし、それは本質的なものではない、というのが王陽明の説であった。

  

佐吉「というと?」

  

継之助「人間には、心のほかに気質というものがある。賢愚は気質によるものだ」

  

 わからない。

 それを、継之助は懇切に説いてくれた。気質には不正なる気質と正しき気質とがある。気質が正からざれば物事にとらわれ、たとえば、物欲にとらわれ、心が曇り、心の感応力が弱まり、物事がよく見えなくなる。つまり愚者の心になる。

 

 継之助によれば学問の道はその気質の陶冶にあり、知識の収集にあるのではない。気質がつねにみがかれておれば心はつねに明鏡のごとく曇らず、ものごとがありありとみえる。

 

佐吉「つまりその明鏡の状態が、孟子のいう良知ということだ」

 

そこまでは、朱子学の初歩をおさめた佐吉でも抵抗なくわかる。

 

しかし、陽明学はさらにそれより一歩すすめて良く知ることは知るだけでとどめず、実行をともなわせる。はげしい行動主義が裏打ちになっている。

 


前田日明 と 陽明学 その6

 高阪剛は前田日明を「すごく純粋な人」と評した。人物評として純粋という言葉を用いるならば大抵は若い人に対して用いるべきで50歳近くなろうとする人間に使用するには適切でないように思える。若者ものではなく、不惑を越えた人間に対して使用した場合それは大人気ない、子供っぽいなどを暗に指摘している。

 

 社会に出ると純粋でいることのシンドサを実感する。信念のない、あるいは単なる感情的な純粋さを貫けば周りの人間と衝突するか、会社を辞めて世を捨てるしかない。

 これは違うだろうと思いつつ心根を曲げて仕事をし、そして生活の糧だから仕方ねえかーと思いつつ自分を納得させる。純粋だと思っていた頭の中にいろいろなシガラミという不純物が入り込み、なんとなく馴れ合いの社会に取り込まれていく。純粋でありたいと思いつつそうできす、なんとなく上手く生きていこうとしてしまう小生などはそうゆう不満が滓のように心にたまっている。

  

 社会生活を送る上で純粋でいるということはなんとなくできる事でもなく、感情的にでできるものではない。 

ではなぜ前田日明があの年齢まで純粋でいられるのだろうかということをば

  

 

以下司馬遼太郎「峠」より抜粋

 

江戸留学への途中、継之助は雪山で出羽浪人吉沢に出会うその会話から

 

吉沢「なんのためにいそぐ」

継之助「いそぐ心があるゆえ、いそぐ」

 

継之助そう言ったまま黙って歩く

 

吉沢「話をしてくれい」

継之助「わからん」

 

 と、いった。事実、自分でもわからなかった。江戸へ出て学塾へ入る。たかがそれだけのために、なぜこうも道をいそぎ、行路の危険を冒さねばならないのか。

 

 「わからん」

 

 と、継之助は、自分の胸の中へするどく吹き込むような語調で、つぶやいた。

 顔を少し上げ、谷のむこうの天を見続けている。吉沢の存在を無視していた。

 

 この男の知的宗旨である陽明学のせいか、つねに他人を無視し、自分の心をのみ対話の相手に選ぶ。たとえば陽明学にあっては、山中の賊はやぶりがたし、という。たとえ山中で賊に出会う事があっても、賊の出現によって反応するわが心のうごきのみを注視し、ついでその心の命ずるところに耳を傾け、即座にその命令に従い、身を行動に移す。賊という客体そのものは、継之助にあっては単なる自然物にすぎない。

 

 吉沢の存在も、自然物である。いわば、そのあたりの樹木や岩とかわらない。

  

 眼前に、難路がある。これも、継之助の思考方法から見れば山中の賊であろう。継之助は、難路そのものよりも、難路から反応した自分の心の動揺を観察し、それをさらにしずめ、静まったところで心の命令をきく。

  

(その心を、仕立てあげにゆくのが、おれの諸国遊歴の目的である)

  

 が、そのようなことを、この浪人にいったところでわかるまい。浪人は、継之助を狂人だと思うかもしれない。

  

 継之助は立ち上がった。やがて岩角をつかみ、崖を抱いて渡りはじめた。

 

 


 兄さんがその思考過程において他人の意見や、自分の行動に対する他人のリアクションをそれほど重要視していないことは今までの言動を見れば容易に想像できる。

 素養のない人や感じる心がない人にはまったく理解できないだろうが、兄さんの主張を見ていると儒教でいう惻隠の情が基本的な拠り所である事がわかる。事象に対し己の持っている惻隠の情がどのように対応するかを見定め発言し行動する。

 

前田日明の純粋さは惻隠の情に忠実であるからこその純粋さなのであろうと思われる。

 

まだまだ続く

前田日明 と 陽明学 その5

 昨年、2泊3日の温泉旅行にかこつけて長年の悲願であった河井継之助の墓参りに新潟の長岡市に行ってきた。 

 

小生は学生時代、河井継之助の書物を読んでこうゆう人が今の政治の世界にいればなぁー。

 

などと思った訳であるが、そうゆう人を探していたら偶然にも前田日明がその性質に一番近く、もしかして兄さんは陽明学徒ちゃうのと思い敬愛するようになった訳であり、小生が兄さんの政治家デビューを熱望する理由でもある。

 

  

 小生の座右の書である司馬遼太郎の「峠」から抜粋シリーズ その1

   

 江戸留学の為、佐々成政のさらさら越えのような冬山を越えようとする継之助に対して周りの人間が感じた事に対するリアクション

    

 「一種の狂人かもしれない」(継之助の周りの人)

     

 (そのとおりだ)

  
 と、我ながら、自分もそう思う。狂人であることを、密かに認めていた。

  
 どころか、自分を狂人に仕立てようとしていた。陽明学とは、人を狂人にする。

 
 つねに人を行動へと駆り立てている。この思想にあっては、つねに自分の主題を燃やしつづけていなければならない。この人間の世で、自分の命をどう使用するか、それを考えるのが陽明学的思考法であり、考えにたどりつけばそれを常に燃やしつづけ、つねに行動し、世の危機をみれば、断固として行動しなければならぬという。つねに激しい電磁性を帯びたおそるべき思想であった。

    

ー大塩平八郎をみよ。

  

 と、継之助は、思っている。大塩平八郎は継之助の十歳の頃に死んだ大阪天満の奉行所与力であり、この学統の先輩であった。天保7年、西日本の不作の為に米価が高くなり、街に餓死者がみちた。大塩は何度か幕府に救済方を乞うたが、黙殺された。ついに幕府の官吏でありながら兵をあげ、大阪城を攻めたが敗れ、自殺した。世に大塩ノ乱という。人間の美というものに手厳しい継之助は、必ずしもこの大塩をたたえているわけでもない。もともと、なまの人間を尊敬できぬところが、継之助のいらだちであり、不幸でもあったといえるだろう。

  

 (ー自分が)

   

 という気持ちがある。自分以外に、人の世を救えぬという孤独さと悲壮感が、この陽明主義にとりつかれた者の特徴であった。自分のいのちを使える方法と場所を、自分が発見しなければならない。そのことがつねに継之助をいらだたせている。

  

 (いわば、狂人のようなものだ)

 それを、継之助は認めていた。狂人でない者はこの冬、雪にうずもれ、炬燵を抱いてねむりこけるであろう。それが常識というものであり、人間のかわいらしさであり、

かわいらしい人間が継之助を哂うであろう。

  

 が継之助はこの雪中を歩いている。みずからを狂人に仕立てる以外に、生きる道をさぐれない。

  

そう、継之助は信じている。 

  

   

結局、司馬氏のいう、かわいらしい人間には永久に前田日明の魅力は理解できないだろう。と小生は思う。

 

峠抜粋シリーズ続く

 

前田日明 と 陽明学 その4

小生がこんな事を延々と書いているのは、小生の思い込みが前提となっているが前田日明の古典への造詣の深さと批判を恐れない言動により陽明学の実践者として、現在の日本国内において稀有な存在として認識しているからである。

 
で、前回の続き

 

 赤穂浪士が善なりと信じた行動が討入りに加わらない事を善だと判断した人間を不幸にした事は事実であるように思う。正しい事を行えば世界の半分を怒らせるという言葉をどこかで見たがまさにその状況である。

  

 以前にも書いたが陽明学にあっては己の行動に関して結果の成否を問わない。それは利害得失を計算にいれず、その思考過程において傍観者の意志の介入を認めない事であり、理非曲直を考えないで他人の意見に盲従することなく、馴れ合いの思考法を排除し正しいと思った事を貫く事である。

  

 彼らは己の志を立てる為に江戸時代の公的なモラルや馴れ合いの江戸文化を無視した。

 


陽明学徒が独善的と非難される所以であり、どちらにシンパシーを感じるかにより評価がわかれる所である。

   


 赤穂浪士の討入りを当時の人達は忠義として称え、他藩は彼らをスカウトしようとした。現在赤穂浪士の行動を悪だと主張する人はいないが、今彼らのような人がいればどんな理由があろうとテロ行為であり、あたりまえのように支持されない。

 

 犯罪は現行法で裁くしかなく、過去に遡るわけには行かない。兄さんがよくいう現在のモラルで歴史事象を善か悪かと判断する行為はまさに別冊正論Extra.02で発言したように

   

 日本は、煩悶、苦悩を重ねた上で戦争をせざるをえないと
 覚悟を決めてやったわけです。
 男子に生まれ徴兵されたら、否が応でも戦うしかない、
 そういうギリギリのところまで国とか公に殉じた精神、
 心根を汲まなくて、侵略だ悪だと断罪するのは、それこそ卑怯だ。
 まるで時間のカンニング・ペーパーを使って当時の日本を侮辱する人たちは、
 本当に嫌ですね!
 しかも自分は日本人の罪を認めています、悔やんでいますという、
 自分だけ良心の高みにおいているかのような感覚でいる連中が、もうたまらなく嫌です。
   

なのである。

  

 赤穂浪士は彼らの努力の甲斐なく悲願であったお家再興の望みが消えた時、事此処に至っては止むに止まれぬという心情の結果、死を賭して吉良邸へ討ち入った訳である。

  

陽明学はやむに止まれぬ状況に落ちた時、身を投げ出させ、意志を貫くかせるのである。

 

別の人でさらに続く

Knockouts of 2007 と修斗のアレ

Knockouts of 2007 1/3

 

 

Knockouts of 2007 2/3

 

 

Knockouts of 2007 3/3

 

 


Shooto - Back to our Roots 7
2008年1月26日

 
○日沖 発 vs 戸井田カツヤ
  
○上田将勝 vs 山本 篤
 

○田澤 聡 vs BJ
 


Mike Zambidis vs Daniel Dawson
March 3, 2008

前田日明 と 陽明学 その3


陽明学を学んでいた人には空気が読めない人が多い。
読む必要がないからである。

 

 維新三傑のひとり大久保利通は出生地の鹿児島では嫌われており、近年まで地元での納骨は行われていなかったし、薩長率いる官軍に無謀な戦いを挑んだ越後長岡藩の筆頭家老河井継之助も又地元ではその功績について賛否両論であり彼氏の墓は鞭を打たれ、なんども壊されたという。

   
で、数限りなくドラマや映画になっている忠臣蔵に出てくる赤穂浪士である。

 

 藩主の失敗による改易、断絶などはこの事件以前にも以後にも例が多いが、他藩の浪人は赤穂浪士のような行動をおこしていない。幕府の裁定に納得いかず、私的集団武力行使、今で言うテロに似た行為に及んだのは改易関係の出来事において赤穂浪士が唯一といってよい。他藩の改易浪士達は幕府のいう事だから仕方ないという江戸時代の空気を読んで再就職に精を出し、新たな生活の糧をさがしてた筈なのに、何故赤穂浪士達だけが特異な行動を起したのであろうかという事を考えないといけないと思う。

 

 山鹿素行という人がいる。この人は朱子学から入り、中年で晦冥し、陽明学的世界に入って思想家としてのかれ自身を完成した。1629年幕府はその思想を危険視し、かれの著『聖教要録』をよろこばず、これを理由に播州赤穂藩へ流した。赤穂藩主浅野内匠頭長直は藩をあげてこれを厚遇し、とくに城代家老大石良欽、その弟の大石頼母は門人になり、素行に使えた。素行は放免までのあいだ9年、赤穂にいた。この為赤穂藩は素行の思想による強烈な信奉集団になった。そしてその次の代に赤穂浪士事件が起こる。

   
 祖父に大石良欽を持つ大石内蔵助を盟主とし、木村岡右衛門と吉田忠左衛門という藩内の陽明学者が実行部隊に加わり、急進派筆頭の堀部武庸(安兵衛)のブレーンとして陽明学者の細井広沢が関わる。中心人物となった彼らの行動原理に山鹿素行が伝えたこの学問が正当性を与えたのであろう。

   

 陽明学は宗教ではなく単なる哲学であり、その行動の立脚点は己の心情である。故に陽明学を学んだ人の中からは陽明学左派、陽明学右派、陽明学中道派など様々な形でその芽は発芽し生育する。

  

彼らの討入りは世間や他藩から忠義であると評価された。

  

議論の末あえて討入りに加わらなかった藩士や事なかれ主義の藩士は臆病者と罵られ肩身の狭い思いをしただろうことは想像に難しくない。空気呼んで静かにしとけよお前らはよ。と思っただろうし、家族の人達はかっこつけんなよ傍迷惑だと思っただろう、
裁定を下す幕府側にしても、かってなことすなよ、大人になれよ的な事を思ったに違いないのである。


歴史を知らない人はほっといて続く