前田日明 と 陽明学 その5
昨年、2泊3日の温泉旅行にかこつけて長年の悲願であった河井継之助の墓参りに新潟の長岡市に行ってきた。
小生は学生時代、河井継之助の書物を読んでこうゆう人が今の政治の世界にいればなぁー。
などと思った訳であるが、そうゆう人を探していたら偶然にも前田日明がその性質に一番近く、もしかして兄さんは陽明学徒ちゃうのと思い敬愛するようになった訳であり、小生が兄さんの政治家デビューを熱望する理由でもある。
小生の座右の書である司馬遼太郎の「峠」から抜粋シリーズ その1
江戸留学の為、佐々成政のさらさら越えのような冬山を越えようとする継之助に対して周りの人間が感じた事に対するリアクション
「一種の狂人かもしれない」(継之助の周りの人)
(そのとおりだ)
と、我ながら、自分もそう思う。狂人であることを、密かに認めていた。
どころか、自分を狂人に仕立てようとしていた。陽明学とは、人を狂人にする。
つねに人を行動へと駆り立てている。この思想にあっては、つねに自分の主題を燃やしつづけていなければならない。この人間の世で、自分の命をどう使用するか、それを考えるのが陽明学的思考法であり、考えにたどりつけばそれを常に燃やしつづけ、つねに行動し、世の危機をみれば、断固として行動しなければならぬという。つねに激しい電磁性を帯びたおそるべき思想であった。
ー大塩平八郎をみよ。
と、継之助は、思っている。大塩平八郎は継之助の十歳の頃に死んだ大阪天満の奉行所与力であり、この学統の先輩であった。天保7年、西日本の不作の為に米価が高くなり、街に餓死者がみちた。大塩は何度か幕府に救済方を乞うたが、黙殺された。ついに幕府の官吏でありながら兵をあげ、大阪城を攻めたが敗れ、自殺した。世に大塩ノ乱という。人間の美というものに手厳しい継之助は、必ずしもこの大塩をたたえているわけでもない。もともと、なまの人間を尊敬できぬところが、継之助のいらだちであり、不幸でもあったといえるだろう。
(ー自分が)
という気持ちがある。自分以外に、人の世を救えぬという孤独さと悲壮感が、この陽明主義にとりつかれた者の特徴であった。自分のいのちを使える方法と場所を、自分が発見しなければならない。そのことがつねに継之助をいらだたせている。
(いわば、狂人のようなものだ)
それを、継之助は認めていた。狂人でない者はこの冬、雪にうずもれ、炬燵を抱いてねむりこけるであろう。それが常識というものであり、人間のかわいらしさであり、
かわいらしい人間が継之助を哂うであろう。
が継之助はこの雪中を歩いている。みずからを狂人に仕立てる以外に、生きる道をさぐれない。
そう、継之助は信じている。
結局、司馬氏のいう、かわいらしい人間には永久に前田日明の魅力は理解できないだろう。と小生は思う。
峠抜粋シリーズ続く