前田日明 と 陽明学 その3 | なんでもいいや

前田日明 と 陽明学 その3


陽明学を学んでいた人には空気が読めない人が多い。
読む必要がないからである。

 

 維新三傑のひとり大久保利通は出生地の鹿児島では嫌われており、近年まで地元での納骨は行われていなかったし、薩長率いる官軍に無謀な戦いを挑んだ越後長岡藩の筆頭家老河井継之助も又地元ではその功績について賛否両論であり彼氏の墓は鞭を打たれ、なんども壊されたという。

   
で、数限りなくドラマや映画になっている忠臣蔵に出てくる赤穂浪士である。

 

 藩主の失敗による改易、断絶などはこの事件以前にも以後にも例が多いが、他藩の浪人は赤穂浪士のような行動をおこしていない。幕府の裁定に納得いかず、私的集団武力行使、今で言うテロに似た行為に及んだのは改易関係の出来事において赤穂浪士が唯一といってよい。他藩の改易浪士達は幕府のいう事だから仕方ないという江戸時代の空気を読んで再就職に精を出し、新たな生活の糧をさがしてた筈なのに、何故赤穂浪士達だけが特異な行動を起したのであろうかという事を考えないといけないと思う。

 

 山鹿素行という人がいる。この人は朱子学から入り、中年で晦冥し、陽明学的世界に入って思想家としてのかれ自身を完成した。1629年幕府はその思想を危険視し、かれの著『聖教要録』をよろこばず、これを理由に播州赤穂藩へ流した。赤穂藩主浅野内匠頭長直は藩をあげてこれを厚遇し、とくに城代家老大石良欽、その弟の大石頼母は門人になり、素行に使えた。素行は放免までのあいだ9年、赤穂にいた。この為赤穂藩は素行の思想による強烈な信奉集団になった。そしてその次の代に赤穂浪士事件が起こる。

   
 祖父に大石良欽を持つ大石内蔵助を盟主とし、木村岡右衛門と吉田忠左衛門という藩内の陽明学者が実行部隊に加わり、急進派筆頭の堀部武庸(安兵衛)のブレーンとして陽明学者の細井広沢が関わる。中心人物となった彼らの行動原理に山鹿素行が伝えたこの学問が正当性を与えたのであろう。

   

 陽明学は宗教ではなく単なる哲学であり、その行動の立脚点は己の心情である。故に陽明学を学んだ人の中からは陽明学左派、陽明学右派、陽明学中道派など様々な形でその芽は発芽し生育する。

  

彼らの討入りは世間や他藩から忠義であると評価された。

  

議論の末あえて討入りに加わらなかった藩士や事なかれ主義の藩士は臆病者と罵られ肩身の狭い思いをしただろうことは想像に難しくない。空気呼んで静かにしとけよお前らはよ。と思っただろうし、家族の人達はかっこつけんなよ傍迷惑だと思っただろう、
裁定を下す幕府側にしても、かってなことすなよ、大人になれよ的な事を思ったに違いないのである。


歴史を知らない人はほっといて続く