おはようございます。 ホメオパシーの永松昌泰です。
先日の
スコットのブログを読みました。
http://ameblo.jp/ex-ma11091520sukotto/entry-10947982691.html分かりやすく伝えようとすると、ダサクなることがあるので、
デザイナーとエクスペリエンス・マーケティングとは、
しばしば相容れないことがある。
しかし、ダサくても伝わった方が良い、
伝わらないデザインは、どんなに美しくても、
どんなに格好良くても、意味がない。
なぜならば、デザインの最終的目的は「作品」ではなく、
クライアントの「利益」だから。
デザイナーは、どうしてもデザインにこだわる、
つまり、「芸術」にしようとします。
デザイナーは、それが自分の存在理由だ、
と勘違いしがちです。
思い出したのは、
辻調理師学校の創始者、辻静雄の言葉です。
彼をモデルにした
小説「美味礼賛」は、
素晴らしく面白い小説です。
http://www.amazon.co.jp/%E7%BE%8E%E5%91%B3%E7%A4%BC%E8%AE%83-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B5%B7%E8%80%81%E6%B2%A2-%E6%B3%B0%E4%B9%85/dp/416741404X" target="_self文章も非常に平易で、
誰でも読みやすい、伝わりやすい文章です。
その中にあった言葉です。
「料理は、『芸術的』でなければならないが、
「芸術」になってはならない。」
料理というものは、本当に底が知れません。
本来こうあるべき、ということを追求すると、
とんでもないことになります。
「美味礼賛」の中に、非常に印象的なシーンが出てきます。
辻静雄の授業のシーンです。
フォンドボーというフランス料理の基本中の基本があります。
それを、本来どうあらねばならないか、を追求していくと、
とてつもなく贅沢に材料を使わなければならない。
フォンドボーだけで、スプーン一杯50円(現在でいえば500円くらい)になり、
それを使ってチキン料理を作ると原価が4千円になる。
レストランは、材料費の3倍の料金を頂かないと
続けていかれないので、
料理の値段は1万2千円になる。
初任給が1万円余りの時代なので、
今の値段にすればチキン一皿だけで10万円以上になります。
信じられないくらい素晴らしい料理ですが、
君たちはこの料理をレストランで注文できるか?
誰もできない。
ではどうするか?
そこで辻静雄はにっこり笑って「手抜き」をするのだ、
と言います。
牛肉20kgと骨を10kg使うところを、
牛肉5kgと骨を20kg使っても、
非常に素晴らしい味のフォンをひくことができるし、
骨だけにして、化学調味料を使っても、
それなりに素晴らしく美味しいフォンになる。
味と経費のバランスをどのように取るのか、
それがレストラン経営の秘訣であり、アートである、
というのです。
ただし、本来どうあるべきか、を知らなければ、
「正しい手抜き」の仕方が分からない。
学校では、本来どうあらねばならないか、
そして、それをどのようにこの世的に現実化していくか、
すなわち「手抜き」をしていくか、
それを勉強する、というシーンでした。
だから、料理は、「芸術」であってはならない。
「芸術的」でなければならないが、
決して自己目的化した「芸術」になってはならない。
誰も食べられないような「芸術」になってはならないのだ。
とても印象深い一節でした。
「手抜き」というと抵抗を感じるかもしれません。
しかし、「本来どうあらねばならないか」という基準から考えると、
私たちの日常生活は、すべて「手抜き」から成り立っています。
掃除ひとつとってみても、
掃除が自己目的化したら、どうなるでしょうか?
毎日一日中掃除をしていなければならないでしょう。
それでも足らないでしょう。
そもそも汚さないように、
だれも、使えないようになるでしょう。
料理も、こうあらねばならぬ、という材料を揃えるのであれば、
牛肉も100g数万円の肉が必要でしょう。
野菜も、完全なる有機栽培が必要であり、
材料費は、百倍以上に跳ね上がるでしょう。
そうすると、一食あたり材料費だけで10万円にもなるでしょう。
それ以外は、すべて「手抜き」。
そういう次元の意味での「手抜き」です。
もちろんこれとスコットの話とは、まったく同じではありません。
エクスペリエンス・マーケティングは、
どこまでいっても「手抜き」をすることとは違いますから。
ただし、一つだけ共通項があります。
それは、
自己目的化してはならない、
ということです。
デザイナーの自己満足のためにデザインがあるのではない。
すべてクライアントの最大利益のためにある、ということです。
医療も同じです。
医療従事者のために医療があるのではない。
クライアントの最大利益のために、医療が成されなければならない。
考えてみれば、すべて同じことです。