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『遊び』のススメ

独自の視点で見たこと、聞いたこと、感じたことを書き連ねて参ります。(^^)v

飫肥城址ちかくに観光駐車場(無料)が整備されています。
そこから階段を降りたところに、城下町の案内所があります。


こちらで商品引換券5枚がセットされた飫肥城下町『食べあるき・町あるき』観光マップ(600円)が売られています。
例えば、飫肥名物には飫肥天や厚焼き玉子があります。
それらのお店で一口サイズの商品と交換できたりします。(つまり、試食券みたいに使えます)

観光マップの有料施設7カ所フリー版は1,100円ですので、こちらを選択しました。

案内所からすぐ(ほぼお隣)の飫肥天のお店


角を曲がって右手に、小村寿太郎記念館。




小村寿太郎記念館を出て右手突き当たりに飫肥城址・大手門が。
左手前には豫章館(よしょうかん)(有料)


位置関係からすると、屋敷裏山がお城になります。


豫章館は、元は伊東家家臣の屋敷でしたが、明治2年、第14代飫肥藩主・伊東祐帰(いとうすけより)が初代飫肥藩知事に任命されたおりに城内より移り住んだ、典型的な飫肥藩武家屋敷です。

かなり手入れの行き届いた庭


裏庭も抜かりなく。


裏縁側


居間


気が付いたら小一時間。
日本家屋とは、こうも時間の流れを穏やかにするものなんです。霧
鹿屋から道の駅を廻りながら都城に入り、ここで1泊。
翌日、飫肥城下を訪ねました。

飫肥城は南北朝時代(室町初期)に日向国の荘園領主だった土持(つちもち)氏が築城したのが始まりです。
戦国時代においては島津氏の版図に含まれていましたが、日向国中北部に勢力を持つ伊東祐国(いとうすけくに)が侵攻。
島津氏はこれを撃退、祐国は戦死します。(1484年)
ところが伊東氏はその後も断続的に攻め続け、1567年ついに祐国の孫、伊東義祐(いとうよしすけ)が飫肥城奪取に成功。三男・祐兵(すけたか)に飫肥の地を与えます。
その6年後、伊東氏は木崎原の戦い(伊東祐兵×島津義弘)で伊東軍に対して兵力1/10ほどの島津軍に打ち破られ、多くの幹部を失った伊東氏はこれをきっかけに衰退を始めます。
この結果、日向国全域に島津氏の勢力が及ぶことになり、飫肥も再び島津氏の支配下となりました。

が。

縁者である大友宗麟を頼ってまたまた島津氏に仕掛けます。
なんとしても日向国をキリシタンの国にしたかった大友宗麟は日向に攻め入りますが、1年に及ぶ島津氏との争いに、最終的に敗北します。(耳川の戦い)
この戦で主だった武将、軍師までもを失った大友氏もまた、伊東氏と同様に島津勢に攻められて本拠地・豊後までが脅かされます。
窮地に陥った宗麟は秀吉にすがり、その介入を得たことで辛うじて滅亡を免れました。

この大友氏の衰退のきっかけになった伊東祐兵ほか一族は居場所を失い伊予へ流れますが、遠祖をを同じくする尾張伊東氏の仲介で織田家に仕官し、ここで秀吉の配下となりました。

のちに、山崎の合戦、秀吉の九州征伐において道案内役を務めたなどの功績により旧領の大名に復活。
更にはかつての本拠地・飫肥も与えられて見事に返り咲いたという、しぶとさは天下一品です。
伊東祐国が飫肥城を攻め取ってから祐兵の飫肥凱旋まで103年。
島津氏との飫肥をめぐる攻防はようやく決着します。

秀吉の死後は黒田孝高を頼って徳川方に与し、関ヶ原合戦ののちは、そのまま本領安堵されて幕末を迎えるまで飫肥の地を所領しました。

なんとも、凄まじきはその執念ですねぇ。
今はその飫肥城も櫓が復元されているのみで、広々とした二の丸跡には小学校が。
元本丸跡の杉木立ちが往時の雰囲気をそのまま残しているようで、とても印象的でした。


鹿屋と前後します、釜蓋神社。
正しくは射楯兵主(いたてつわものぬし)神社、御祭神は建速須佐之男命。
現在では武の神から転じて勝負の神として参拝者を集めています。

絵馬



知覧から南へ小一時間。
国道から海側へ外れて住宅街(集落)へ看板に従って入って行きますと、突然整備された公衆トイレと数台駐車可能な駐車場が現れます。
向かいの空き地では週末だけプレハブ店舗がドリンクやスナック程度の販売をしてるようですが、実際のところは不明。


一の鳥居すぐ手前で若い猫が歩いてきたので、『こんちゃー』ってご挨拶したらば立ち止まって、
『にゃー』だって。おおきに。にひひ

振り返って30歩も行けば一の鳥居。


そこからわずかに進むと、出島のようになっている神社が見えます。


コンクリートで護岸され、お社自体は駅の待合室のような造り。
その奥部屋に祭壇があります。
手前の建屋は御守りや土産物を販売するお店。
どうやら社殿の管理もされているようです。


脇には釜の蓋。


これを頭に乗せて段下から参拝します。
途中で落とさずにお参りできれば願いが叶うというチャレンジは、メディア格好のネタにされてます。

ハート形の結び処にベンチが設置され、記念撮影ポイントになってます。


その横手には、海岸までの段差(3mくらい)を利用した『土玉を釜に投げ入れることができたら願いが叶う』チャレンジも。にひひ


この『投げ入れ』は、割とあちらこちらで見かけます。
土玉ではなく、かわらけ(土の杯・・・土器)だったり、その場所に因むものを投げて、輪をくぐらせる、的に当てる、台に乗せるなどなど。
ルーツは何処にあるのかな・・・などと考えておりますと、ひとつ思い当たる処が。

日南海岸の鵜戸神宮。
ここでは『運玉』という土を丸めて素焼きしたものを、拝殿下の磯にある霊石『亀石』の凹みに投げ入れるというもの。
創建は古く、第十代崇神天皇の御代(3世紀~4世紀初め)の頃とされています。
この崇神天皇は初代神武天皇と同一視する見方もあり、実在した初の人物ではないか、とされているようです。

お社わきからすぐに出島の先へには釜をモチーフにしたミニ展望台が造られています。


ここからの眺めは素晴らしい。ニコニコ


実はその展望台下にも投げ入れチャレンジ(初級)が。にひひ


周囲にはメジロやらイソヒヨドリやら、とにかく野鳥だらけ。
見てると警戒されますが、そっぽ向いてたらすぐ近くの枝に降りたりします。

ゆるやかに時間が流れる場所でした。
【小難しいこと主張してます。退屈注意】

知覧特攻平和会館を訪ねた翌日、こんどは海上自衛隊・鹿屋航空基地史料館へ向かいました。
ここは鹿屋基地エリアに隣接して建てられた、海上自衛隊の主に航空機関連を展示する史料館です。

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建物の周辺には海上自衛隊発足から使用された歴代の航空機が野外展示が。
館内に入ると、旧海軍鹿屋航空隊の開隊(昭和11年)から現在に至るまでの様々な史料が展示されています。

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館内で撮影できるのはこの零戦52型(復元機)だけ。

この鹿屋基地もまた、先の大戦で海軍の特攻機が出撃していった、主だった場所でした。
位置関係でみれば、知覧特攻基地は薩摩半島、鹿屋航空基地は大隅半島で錦江湾をはさんでお向かいさんという関係にあります。

特攻作戦初期、そのパイロットの選出は現場任せにされました。
陸軍では、希望者を募れば全員が応募するだろうから、指名すればそれで足りる、とされたようです。
海軍では個別面談も含めて志願の意思を確認しながら決めていったそうです。

特攻隊といえば『神風特別攻撃隊』ばかりが有名で、零戦に爆装して突入するものばかりが喧伝されてきましたが、実際には戦闘機ではなくより大型の爆撃機、攻撃機を中心としたものだったので、その威力もかなりのものだったようです。
作戦後期になると大型機は無くなり、果ては練習機までも改造して使用したことは周知のことです。
また、『特攻機は片道分の燃料しか搭載せずに出撃した』というのも誤解で、これは水上艦艇が沖縄めがけて突入する際に片道分の燃料しか積まなかったという噂話からでたもの。
特攻機は戦果をより大きく確実なものにするため可能な限り満タンにしていたといいます。

そりゃそうでしょう。そのほうが自然です。

館内に展示されていた隊員たちの手紙に、こんな言葉がありました。
『昔の人は人間五十年と言いましたが、昨今は人間二十年というところでしょうか。』
長生きが良いのかどうかわかりませんが、二十年では短すぎると思います。

生きたくても生きられなかった時代。
戦争がすべて悪いような戦後教育をされてきましたが、実は戦争を止めることはできたはずです。
民衆がメディアや軍部に煽られてガヤガヤ騒がなければ。
東京を始めとした大都市空襲を許した時点で完敗していたのに。
もっと普通に考えれば、レイテ沖海戦で日本艦隊がほぼ壊滅状態に陥り、制海権を失った時に負けが決まっていたと思います。
ところが先に逝った者の敵討ちにこだわり、沖縄戦に敗れたのちは本土防衛戦に切り替えて特攻を主体に徹底抗戦した挙句、呉・長崎への核爆撃とつながっていくしかなかったと。

日清戦争と日露戦争を勝ち上がってきた日本国民は大いに勘違いをしたまま太平洋戦争に突入してしまいました。
日清戦争は相手がまとまらず自滅しただけ。
日露戦争は連合艦隊がロシア艦隊を全滅させたことと、東ヨーロッパ圏での反ロシア工作が功を奏したことだけが完勝で、あとは英国の情報操作による各国の世論誘導と、アメリカに介入を頼んで講和に持ち込んだ、ギリギリの判定勝ち。

現在はどうなのか知りませんが、以前のこういう近代日本史は教科書の最後の方に数ページでサラッとまとめられているだけでした。
なにせ、頭から戦争はダメだ自衛隊は要らないとしか言わない日教組配下の教員だらけでしたもんね。
物事の本質をいろんな角度からしっかりと見ない(見せない)教育に意味はありません。
間違えて偏ったままでは何度でも痛い目に合わねばならないのに、私怨で他者を巻き込む左巻きには辟易します。

今回、知覧と鹿屋の両基地を訪れて資料に触れてみたことで思い至ったこと。
情報操作に操られて痛い目にあうのは民衆です。
大本営から発表される戦果は盛られまくり。新聞も情報統制下で誇大するか虚偽を記載するか。
報道としてのプライドがあれば廃刊すればええのに、そんな気合などなく。
言いたいことを憚り、自分を偽り、いつしか集団ヒステリーに取り込まれて自己を失う。

広島にある『安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから』という原爆死没者慰霊碑。
かなり違和感を覚えましたが、このことならば、賛同します。

教えられたことが正しいかどうか自分の目で確かめる。
これしかありません。
今後も現地へ足を運んで、様々なことを見て廻りたいと思います。
お友達宅での新年会にお招きいただきました。

餅つきする!とは聞いてましたが、本域でやったのは二十数年ぶりではないでしょうか。

年末に地域自治会でやった折の、市から借り出した石臼、杵をそのまま預かってたそうで、なかなかいい感じでつき上がりましたわ。ニコニコ

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他にも持ち寄りで・・・

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ちょっとした御節。

自分一人ではやりませんが、人が集えばなんでも出来ます。
ワタクシが持ち込んだ九平次で軽~く乾杯。
たまにはこういうお祭りもよろしいですな。クラッカー
完全に寝正月を決め込んでおります。にひひ

眠くなったら寝る。
起き出したらちょいと呑む。

まだ1歩も外へ出てません。
雪も降ってるし、どっちみち何処も彼処も人だらけ。
連休になると異常なテンションで傍迷惑なのが多いので、関わりたくないです。

それにしても寒い寒い。ショック!

そんな調子でひと眠りしてたら、野球してました。
ライトを守ってましたが、やたらと打たれる打たれる。
とにかくこっちに打球が集中。何点とられたかわかりません。
寒いし、途中でアホらしくなって、捕球したボールを全部スタンドへ投げ込んでました。

結局、寒くて目がさめたようなもんで、喉は枯れ果て、こりゃまずいかな、と。ガーン
コーヒー1杯飲んだら少し落ち着きましたが。
やっぱり、コタツ買っときゃよかったっす。

さて。
新年は4日から始動。
その前に明日、新年会にお呼ばれしてます。
酒でも持ってくか。
餅つきもするとか言うてますが、寒すぎで無理やと思います。
つき上がる前にカッチカチになるわ。

雪やったら行くのもやめよう。にひひ
先日、お友達に連れてってもらった地鶏料理の居酒屋。
わりとあちらこちらに展開してて、ワタクシの立ち回り先にあったりします。

チキン南蛮と地鶏炭火焼き山ワサビかけ

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これだけ見れば宮崎料理なんですが・・・。

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鶏ソーセージのチーズ焼きとカリカリチーズ。
(商品名は違います)
とろとろに溶けたチーズをパンですくったら、ご機嫌さんですがな。にひひ


札幌にもあるでな~音譜ニコニコ

知覧茶屋!?

知覧特攻平和会館の入り口近く、広々とした駐車場に物産品店と『特攻おばさんの店 知覧茶屋』が並んでます。
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店頭に立ってみたら、特攻隊員と思しき遺影や遺品のようなものが飾られてました。
ちょうど昼前でしたので、入ってみることに。

いくつかの種類の御膳が用意されていて、『とんこつ御膳』を注文。
・・・とんこつ?
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出てきたのは、とろっとろに煮込まれた豚の角煮(?)がメインの御膳でした。音譜ニコニコ
うどんか蕎麦がセットになってたので、お蕎麦で。
んでもって、知覧はお茶どころ。
ということで、茶そばがよろしかろうと。(+100円)
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さてここで、『特攻おばさん』のことを少々。
昭和4年、陸軍知覧飛行場ちかくに一軒の食堂が開業しました。
のち昭和17年、陸軍の指定食堂になり、飛行隊員たちが訪れるようになります。
昭和20年に入って知覧特攻基地と変更されてからは特攻隊員たちが出入りする場になりました。

その店の名を富屋食堂といいます。
切り盛りしていたのが、鳥濱トメさん。
若い飛行隊員たちを我が子のようにかわいがり、もてなすトメさんは、いつしか隊員たちから『おかあさん』と呼ばれるようになったそうです。

終戦後、特攻で散っていった隊員の遺族たちが訪れ集う場所がないと困るだろうから、と、富屋旅館を始めます。

その富屋旅館は現在も営業されていますが、それとは別に富屋食堂を復活させたのが現在の知覧茶屋だということで、鳥濱トメさんのお孫さんが経営されてます。

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んーーむ。
なんかね、ちょっと乗っかり過ぎてる感が・・・。ガーン
知覧特攻平和会館

館内には特攻隊員たちの遺影や遺品のほか、フィリピンで鹵獲された四式戦闘機(疾風)実機、終戦後米軍に接収された三式戦闘機(飛燕 二型改)実機、映画撮影用に作製された一式戦闘機(隼 三型甲)レプリカ機などが展示されています。

となりに靖国神社


そのとなりに特攻観音


奈良の古寺に伝わる秘仏を特別に模して造られた観音さま


観音堂横手から裏手の敷地に並ぶ石灯籠

整然と立ち並ぶ様は、ここから出撃していった隊員たちを偲ばせるようです。

会館裏手には復元された三角兵舎が。


三角兵舎内部

簡素に並ぶ寝床。
半地下式なのは空襲対策です。

どこかの中学生らしい団体さん

修学旅行か課外学習かわかりませんが、長崎のボッタクリプロ市民ガイドような、妙なことを言う偏った語り部がいないことを切に願います。
起点は登別付近だったりすると・・・

登別付近→みたら室蘭→だて歴史の杜→あぷた→とうや湖→230ルスツ→真狩フラワーセンター
→名水の郷きょうごく→ニセコビュープラザ→小樽駅付近

小樽→余市蒸留所→スペース・アップルよいち→札幌

札幌→マオイの丘公園→花ロードえにわ→サーモンパーク千歳→新千歳空港

のようなコースになりそう。
平均時速30km、道の駅滞在時間30分、営業時間等考慮しています。
雪でなければ、ですが。
冬季は厳しいのではないかと思ったりします。

=業務連絡=
札幌の2泊、こちらも朝食付きに変更しました。クラッカー