鹿児島にいっておりました。<鹿屋航空基地史料館> | 『遊び』のススメ

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【小難しいこと主張してます。退屈注意】

知覧特攻平和会館を訪ねた翌日、こんどは海上自衛隊・鹿屋航空基地史料館へ向かいました。
ここは鹿屋基地エリアに隣接して建てられた、海上自衛隊の主に航空機関連を展示する史料館です。

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建物の周辺には海上自衛隊発足から使用された歴代の航空機が野外展示が。
館内に入ると、旧海軍鹿屋航空隊の開隊(昭和11年)から現在に至るまでの様々な史料が展示されています。

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館内で撮影できるのはこの零戦52型(復元機)だけ。

この鹿屋基地もまた、先の大戦で海軍の特攻機が出撃していった、主だった場所でした。
位置関係でみれば、知覧特攻基地は薩摩半島、鹿屋航空基地は大隅半島で錦江湾をはさんでお向かいさんという関係にあります。

特攻作戦初期、そのパイロットの選出は現場任せにされました。
陸軍では、希望者を募れば全員が応募するだろうから、指名すればそれで足りる、とされたようです。
海軍では個別面談も含めて志願の意思を確認しながら決めていったそうです。

特攻隊といえば『神風特別攻撃隊』ばかりが有名で、零戦に爆装して突入するものばかりが喧伝されてきましたが、実際には戦闘機ではなくより大型の爆撃機、攻撃機を中心としたものだったので、その威力もかなりのものだったようです。
作戦後期になると大型機は無くなり、果ては練習機までも改造して使用したことは周知のことです。
また、『特攻機は片道分の燃料しか搭載せずに出撃した』というのも誤解で、これは水上艦艇が沖縄めがけて突入する際に片道分の燃料しか積まなかったという噂話からでたもの。
特攻機は戦果をより大きく確実なものにするため可能な限り満タンにしていたといいます。

そりゃそうでしょう。そのほうが自然です。

館内に展示されていた隊員たちの手紙に、こんな言葉がありました。
『昔の人は人間五十年と言いましたが、昨今は人間二十年というところでしょうか。』
長生きが良いのかどうかわかりませんが、二十年では短すぎると思います。

生きたくても生きられなかった時代。
戦争がすべて悪いような戦後教育をされてきましたが、実は戦争を止めることはできたはずです。
民衆がメディアや軍部に煽られてガヤガヤ騒がなければ。
東京を始めとした大都市空襲を許した時点で完敗していたのに。
もっと普通に考えれば、レイテ沖海戦で日本艦隊がほぼ壊滅状態に陥り、制海権を失った時に負けが決まっていたと思います。
ところが先に逝った者の敵討ちにこだわり、沖縄戦に敗れたのちは本土防衛戦に切り替えて特攻を主体に徹底抗戦した挙句、呉・長崎への核爆撃とつながっていくしかなかったと。

日清戦争と日露戦争を勝ち上がってきた日本国民は大いに勘違いをしたまま太平洋戦争に突入してしまいました。
日清戦争は相手がまとまらず自滅しただけ。
日露戦争は連合艦隊がロシア艦隊を全滅させたことと、東ヨーロッパ圏での反ロシア工作が功を奏したことだけが完勝で、あとは英国の情報操作による各国の世論誘導と、アメリカに介入を頼んで講和に持ち込んだ、ギリギリの判定勝ち。

現在はどうなのか知りませんが、以前のこういう近代日本史は教科書の最後の方に数ページでサラッとまとめられているだけでした。
なにせ、頭から戦争はダメだ自衛隊は要らないとしか言わない日教組配下の教員だらけでしたもんね。
物事の本質をいろんな角度からしっかりと見ない(見せない)教育に意味はありません。
間違えて偏ったままでは何度でも痛い目に合わねばならないのに、私怨で他者を巻き込む左巻きには辟易します。

今回、知覧と鹿屋の両基地を訪れて資料に触れてみたことで思い至ったこと。
情報操作に操られて痛い目にあうのは民衆です。
大本営から発表される戦果は盛られまくり。新聞も情報統制下で誇大するか虚偽を記載するか。
報道としてのプライドがあれば廃刊すればええのに、そんな気合などなく。
言いたいことを憚り、自分を偽り、いつしか集団ヒステリーに取り込まれて自己を失う。

広島にある『安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから』という原爆死没者慰霊碑。
かなり違和感を覚えましたが、このことならば、賛同します。

教えられたことが正しいかどうか自分の目で確かめる。
これしかありません。
今後も現地へ足を運んで、様々なことを見て廻りたいと思います。