翌日、飫肥城下を訪ねました。
飫肥城は南北朝時代(室町初期)に日向国の荘園領主だった土持(つちもち)氏が築城したのが始まりです。
戦国時代においては島津氏の版図に含まれていましたが、日向国中北部に勢力を持つ伊東祐国(いとうすけくに)が侵攻。
島津氏はこれを撃退、祐国は戦死します。(1484年)
ところが伊東氏はその後も断続的に攻め続け、1567年ついに祐国の孫、伊東義祐(いとうよしすけ)が飫肥城奪取に成功。三男・祐兵(すけたか)に飫肥の地を与えます。
その6年後、伊東氏は木崎原の戦い(伊東祐兵×島津義弘)で伊東軍に対して兵力1/10ほどの島津軍に打ち破られ、多くの幹部を失った伊東氏はこれをきっかけに衰退を始めます。
この結果、日向国全域に島津氏の勢力が及ぶことになり、飫肥も再び島津氏の支配下となりました。
が。
縁者である大友宗麟を頼ってまたまた島津氏に仕掛けます。
なんとしても日向国をキリシタンの国にしたかった大友宗麟は日向に攻め入りますが、1年に及ぶ島津氏との争いに、最終的に敗北します。(耳川の戦い)
この戦で主だった武将、軍師までもを失った大友氏もまた、伊東氏と同様に島津勢に攻められて本拠地・豊後までが脅かされます。
窮地に陥った宗麟は秀吉にすがり、その介入を得たことで辛うじて滅亡を免れました。
この大友氏の衰退のきっかけになった伊東祐兵ほか一族は居場所を失い伊予へ流れますが、遠祖をを同じくする尾張伊東氏の仲介で織田家に仕官し、ここで秀吉の配下となりました。
のちに、山崎の合戦、秀吉の九州征伐において道案内役を務めたなどの功績により旧領の大名に復活。
更にはかつての本拠地・飫肥も与えられて見事に返り咲いたという、しぶとさは天下一品です。
伊東祐国が飫肥城を攻め取ってから祐兵の飫肥凱旋まで103年。
島津氏との飫肥をめぐる攻防はようやく決着します。
秀吉の死後は黒田孝高を頼って徳川方に与し、関ヶ原合戦ののちは、そのまま本領安堵されて幕末を迎えるまで飫肥の地を所領しました。
なんとも、凄まじきはその執念ですねぇ。
今はその飫肥城も櫓が復元されているのみで、広々とした二の丸跡には小学校が。
元本丸跡の杉木立ちが往時の雰囲気をそのまま残しているようで、とても印象的でした。
