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こんにちはマダムサトコです。 本日のお話は”受け入れたらすぐに行動する”というお話です。

 

本日は 創世記24章52節から読んでいきましょう。

アブラハムの下僕は、彼らの言葉を聞くや否や、 地にひれ伏して 主を礼拝した。

 

 

ここであえて エリエゼルと書かずに「アブラハムの下僕」と書いてあるのが ポイント なんですね。

 

エリエゼル という 個人が勝手に信じていた 礼拝していた神様ではなくて、 神様から「お前を祝福するよ」と 指名されていた アブラハムの、 というのが ポイントになります。

 

従いまして 「神様がお前を祝福するよと言ってくださった アブラハムの下僕が」 ということですね。ですからここで 礼拝を捧げているのは エリエゼル 本人 なんですけれども、 このエリーゼルの 捧げている 礼拝 というのは アブラハムが捧げているのと同じ意味を持つということになりますね。

 

「リベカをどうか連れて行ってください」 という言葉を聞くや否や 地にひれ伏したということですので、 「神様への感謝は神様からの恵みがあったと思ったその瞬間に表す」ということが ここで行われていますね。

 

またこの行動は リベカ を イサクの妻として連れて行くのに同意してくれた、 リベカの家族に対する感謝の意を表す行動にも見えますね。 つまり アブラハムの下僕は、神様にもまたこの地上でのリベカの兄弟 親に対しても感謝の意を表していますね。

 

53節 そうして、このしもべは、銀や 金の物品や 衣装を取り出してリベカに与えた。 また、彼女の兄や母にも貴重な品々を贈った。

 

 

ここで 金や銀の品物の量なんかは出てきません けれども、 この様子から見るとラクダにはかなりの貴重なものがたくさん積んであったということが分かりますね。

 

こんなに 貴重品を積んで2週間 砂漠を横断してきて、普通なら 盗賊だの山賊なのにこういった 品々を奪われまた命も奪われてしまうところが、 エリーゼルたちはそのような困難に遭うこともなく、 また計画よりも時間がかかってしまい 食料不足に陥ったなど言うこともなく、無事に到着できた。

 

本当に神様の守りがなければ 到着できなかった旅、なんだろうなということが ここからまたわかります。

 

54節 それから、 この下僕と、その ズサ たち とは 飲み食いして、そこに泊まった。朝になって、彼らが起きると、 その下僕は「私の主人のところに帰してください」と言った。

 

 

リベカ が イサクのところに行くということを決めて、 アブラハムの下僕である エリエゼルと また その従者たちがリベカの家族と大いにお祝いをしたシーンですね。

 

そして1泊するともう「私の主人のところに返してください」という風に言っています。 昨日 リベカを見つけて 昨日の夜に リベカ をお嫁さんにくださいと言って、もう今日この朝 「リベカ を連れて戻りたい」と言っているわけですね。

 

いやいや 展開が急すぎませんか。リベカを見つけて 24時間 どころか 12時間も経ってないんじゃないの? というところですね。

 

55節すると彼女の兄と母は、「娘をしばらく、10日間ほど、私たちと一緒に留めておき、 それからのち、行かせたいのですが といった。」

 

 

まあ お嫁さんに出す方からしたら当然のことですよね。 ゆっくり あれこれ手入れもしたいだろうし、嫁入りとなれば いろいろ 用意もあるし ということだったんだろうけども、でも エリーゼル としては「 一刻も早く この神様のお守りと導きで見つけた リベカ という イサクのお嫁さんをアブラハム またイサクのもとに連れて行きたい」と思っていたことでしょうね。

 

そしてもう1つ、 人間的にはそんな10日 もぐずぐずしていたら決断が鈍るかもしれないということもあるので「はい」と言ったらもうそれ以上考えさせる 隙を与えない。 盛り上がってるうちに 「さあ行こう」というような形だったかもしれないですね。

 

本日のお話は”受け入れたらすぐに行動する”というお話です。いい話が来たらと思いながらも「あれがどうした これがどうした」 と言って ぐずぐずしているとチャンスは逃げていきますね。

 

そして 人間というのは目の前にチャンス 機会があってもなかなかですね 決断して行動することができない。 お金がない、人がいない、場所がない、 なんだかんだ言ってるうちに最も なくなるのが”自分のやる気”。

 

皆さんにも思い当たるところがあるのではないでしょうか。そういった 面でも このシーンというのは 人間が何千年も前から変わらないものであるということをまたわからせてくれているシーンですね。

 

いいと思ったらすぐに行動する。 迅速に 今できることから 一つ一つ始めればいい。 そういったメッセージのようにも聞こえますね。

 

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こんにちはマダムサトコです。 本日は ”昔の習慣がいろんな形で読める、読書としても面白い箇所”です。

 

本日は 創世記24章50節から読んでいきましょう。

するとラバンとベトエルは答えていった。「 このことは主から出たことですから、私たちはあなたに 良し悪しを言うことはできません。

 

 

ラバンはリベカの兄でして、この当時の社会風潮がどのようなものだったかはもちろん はっきり分からないんですけれども、 一族の存続維持や 産めよ増やせよ という言葉を 羊や 牛だけでなく人間にも行っていたと考えると、

 

このベトエル、ここで出てくる人はまあ お父さんなんですけれども、 そのお父さんが何人もの妻を持っていたと想像します。まあその当時の法律がどうだったのかはもちろん はっきりわからないんですけれども、 当時 多分そういうことは よしとされてたんでしょうね。

 

そしてそのベトエル ここで言う お父さんと奥さん、 奥さんとは 1.奥さんA  2.奥さんB 3.奥さんC、 みたいな感じで何人もいると思うんですけれども、 それぞれの奥さんとの間で”一番最初に生まれた男の子がその家の家長の役割を果たす”というようなことがあったんだろうと思います。

 

それゆえに このラバンというのは、 リベカの兄でありながら また父親のような役目をしていた。 井戸のほとりに エリエゼルを迎えに行ったり、エリエゼルと対面して話をしたりするということをラバンが行っていますね。

 

もしくはもう一つの考え方としては、 このベトエルというお父さんが まあ何らかの健康的な事情で外に出ることができなかった。例えば 老齢ですとかね。そういったことで 家の外のことはラバンが行う、家の中のことは 引き続き お父さんのベト エルが行う、という方式だったかもしれません。

 

ただ 最初から出てきてないところを見ると、 もしかしたら「客人の対応は家長の代わりである長男に任せる」というのが 風潮 だったかもしれませんね。

 

そしてそのお客さんが重要な要件であれば、本物の家長が出てきて良し悪しを判断するという風潮 だったかもしれません。 この場面で言いますとリベカ を嫁に欲しいという人が来たという本当に重要な場面ですから、 このベト エルという お父さんが出てきたんじゃないかと思います。

 

そして「このことは主から出たことですから私たちはあなたに 良し悪しを言うことはできません」と言っています。 ここで 主と言っておりますので このラパンとベトエルも同じ神様を信じていたと思われます。

 

もしくはエリエゼルが”主”と呼んでいるので、 この人たち もつられて 主と呼んだのかもしれませんね。

 

とにかく このシーンでは”神様の存在を認めて、 神様が私たちを引き合わせてくれた”ということを言ってますね。 そして神様が引き合わせてくださったものですから、私たちは 良し悪しを言うことはできません という返答しています。

 

まあ 日本でもよくありますよね。 付き合ってる者同士がそろそろ結婚しようかと思ってお互いの両親を引き合わせたとき、実はお父さんの下の名前が2人とも同じだったとか、 お母さん同士が同じ県の出身地だったとか、昭和の時代だったらみんな 干支が一緒だったとか、まあそういう私たちは「偶然ですね」というようなことも、 この聖書のこういった箇所では神様のお導きだという風に言ってますね。ということで 私たちが 「偶然だ 偶然だ」と思っていることも、 実は神様のお導きだったということもわかる 箇所となっております。

 

51節 ご覧ください。 リベカ はあなたの前にいます。 どうか連れて行ってください。主が仰せられた通り、 あなたの主人のご子息の妻となりますように。」

 

 

ここまで読んできましたけども ”リベカの意思”というのは一言も書かれていませんね。 女性の意思にかかわらず、この当時は 結婚相手が家族によって決められたという風習がここから分かります。 2024年の現在ですと「女性のジンケンガー」とかいう風に言う人もいますけれども、 もしかしたら

 

こうやって「あなたがいいんです」と言われた 結婚、 もしくは「神様が導いてくださった結婚」というのが 実は恋愛という幻のような脆いようなもので、繋がっているつもりになっている結婚よりもよっぽど 絆、結びつき、 生きる上のビジョンというのは 強いかもしれませんね。

 

 今日の箇所の読み方のもう一つとして ”リベカのすべての意思に任せる、 自由を選ばせる”というところもまた見えてきます。

 

50節のラバンとベトエルが「私たちはあなたに 良し悪しを言うことはできません」 というのは 父や兄は何も言わないけど、リベカが嫌だと言ったらそれは諦めてくれという言葉も含まれているように思います。

 

そして51節の「リベカ はあなたの前におり、 どうか連れて行ってください」というのはこの50節と51節の間にきっと空白があって、 リベカ が発言する時間があったんじゃないかなと思います。

 

そこで リベカは嫌だとも何とも言わなかったので、この51節の連れて行ってください につながっているのかなという気もします。

 

文字だけを読むとそういった機微とか 空間とかを読むことがなかなか難しいんですけれども、 もしそうやって空気を読んできちんとリベカに発言させる 間合いがあったとするなら、2024年現在の女性のジンケンガー という人たちもまあ 納得できる展開だったんじゃないかと思います。

 

本日は 昔の習慣がいろんな形で読める読書としても面白い箇所です。 今日の箇所は神様のお導き、 神様の存在を認める箇所でありつつ、 また人間の選択の自由を示している箇所でもありますね。

 

まず 2週間 砂漠を何の支障もなく 横切ってきて、

夕方の泉のほとりで、

声をかけた子が探している家庭の女の子だった、 

その子は気だてがよく働き者で体も丈夫だった。

 

嫁ぎ先は 
一家の中でも一旗あげたということで、

伝説的な人物になっていたアブラハムの、

全財産を引き継ぐ 一人息子。

 

もうね、これは本当に「神様がしてくださったこと」と言う以外何も言えないようなことですね。

 

女性のジンケンガーとか言いたくなるような箇所ではありますけれども、 でも 現代の人々が簡単に結婚して 何の我慢もせず 簡単に離婚する姿を見ていると、

 

自由恋愛がそんなに大事かな?というような気持ちにもなります。日本ではおかしなカルトが信者を適当にくっつけて結婚させるというようなことは結構ありますけれども、 それではなくて、 

 

こんな人と出会いたい。

こんな人を 伴侶に持ちたい。

と祈り 願い 

そういう人たちが集まるところに行く、

集まる時間にその場にいる。

 

こういったことが 神様のお導きによる 伴侶と出会う最善の方法 かもしれませんね。

 

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こんにちはマダムサトコです。 本日は”情けは人のためならず、 というのは 実は 聖書から出てきたことわざ だった?”というお話ですね。

 

本日は 創世記24章48節から読んでいきましょう。

そうして私はひざまずき、 主を礼拝し、私の主人 アブラハムの神、主を賛美 いたしました。 手話私の主人の兄弟の娘を主人の息子にめとるために、私を正しい道に導いてくださったのです。

 

 

この 跪きというのは 同じ 24章の中の26節と27節のところですね。

 

 

神様が私をお見捨てにならなかったので、 旅路の途中で困ることもなく、 また 到着してすぐに 祈りが聞かれ、 旅の目的である イサクのお嫁さん候補のところにすぐに導かれた。と感謝しているところですね。

 

このエリーゼルが言っているのは「神様に栄光をお返しする」という行為です。 日本語ではちょっと聞き慣れないので ここで 例をあげてご説明申し上げたいと思います。

 

皆さんよく多くの外国人のスポーツ選手とかが優勝インタビュー なんかで、色々話を聞かれながら最後に「私のこの優勝は 神によって与えられたものです」 というような発言を聞いたことがあるかと思います。あれが”主に栄光をお返しする”という行動になります。

 

私たちの目に映る 喜ばしいこと、 例えば このスポーツ選手ですと自分が大会に優勝したということは、「神様のおかげで優勝できました」と「この優勝という栄光は神によってもたらされたので、 私は皆さんの前で この優勝という栄光を神様にお返しするんです」ということを言ってるわけですね。

 

 何をするにおいても神様が行ってくださる、 だからと言って私たちが何もしなくてもいいわけではなく、 私たちは地上の自分のできる限りの最善を尽くし、 しかるべき時にしかるべき場所にいるということが大事ですね。

 

このエリエゼルですと エリエゼル の努力というのは2週間かけて 砂漠を横切ってきたこと、 そして若い女性が集まる時間と場所にいたこと、 また分が何を希望するのか 何をすれば それが示されるのかを 祈り、 実際に声をかけるということで行動する。

 

これによって神様がご準備しておられる 成功や 栄光というものが私たちに与えられるということですね。

 

49節 それで 今、あなた方が私の主人に、恵みとまことと 施してくださるのなら、 私にそう言ってください。 そうでなければ、そうでないと私に言ってください。 それによって、私は右か左に向かうことになるでしょう。」

 

 

ここは なかなか難しい箇所だと思います。というのも この節の基本的な構造として 

 

めぐみというのは神様が人を介して あなたに与える

 

ということを語ってるからですね。

 

人がしてくれるのならそれは「神様が用意してくれている恵み」であり、 その人が何もしてくれないのであれば それは神様が用意してくださっている恵みではないということですね。

 

よく「情けは人のためならず」と言います。 いろんな解釈がこの言葉にはありますが、 聖書的に言うと 

 

神様の恵み、 神様が良くしてくださることは人間を通して私たちに与えられる。 つまり 

 

人間が人間のために施すのではなく、神様が私たちを用いて他人に施してくださっている。

 

だからこそ 情けは人のためではなく、 情けを与えるということは

 

私たちが神様のこの地上の道具として使ってもらってる、ということですね。

 

こう言いますと「そんなの 気のせいだよ」 「そんな、神様が何かくれるなんてありえないよ」 という人はいらっしゃると思います。 それはそれで分かりました と聞いておきます。

 

けれども そんな方でも、もし思いがけないところから思いがけない 助けを与えられたら、「 あれ? なんか神様って本当にいるんだな?」と思ったりしたことがあるんじゃないでしょうか。

 

神様の恵みというのはあなたが 拒否をすれば与えられないし、あなたが受け取ればあなたに与えられるものなんですね。

 

きっとその神様がしてくださったんじゃないのかな? 神様が与えてくださったんじゃないのかな? と思った時というのは 受け取らざるを得ないような状況だったり、 受け取る以外に選択肢がないような状況だったりということがあったんじゃないでしょうか。

 

そして同じように、 機会があればあなたも 他の人に施してあげる。 それはあなたが誰かにしてあげたんじゃなくて、 神様があなたを通して誰かにあげてくださったものだ、という話ですね。

 

本日は”情けは人のためならず、 というのは 実は 聖書から出てきたことわざ だった?”というお話ですね。

 

こうやって 聖書を読んでいくと 日本語のことわざ 慣用句 その他 なんかこう 一言でバチッと 状況を言い表すような言葉というのは、 聖書に由来するものが非常に多いなということを感じます。

 

有名なところでは足を洗うとか豚に真珠とか、 そしてこの箇所の情けは人のためならず というのも 聖書由来ということですね。 

 

「自分たちの努力ではなくて 神様が与えてくださる」、こう言いますと 「じゃあ私たち何もしなくていいじゃない。毎日 ゴロゴロ だらだらして ずっとインターネットで遊んでていいんでしょ?」 という人がたまにいらっしゃいます。

 

そういうことを言っているわけではないんですね。

人間がするべき 努力は すること。 与えられるかどうかは 神様次第。 という話ですね。 そう聞くと「えーじゃあ 努力するだけ無駄じゃん」と言うかもしれません。 けれども 例えばこういうお話はどうでしょうか。

 

軽い脳梗塞等でちょっと体の半身が不自由になったという人がいらっしゃると仮定します。 そういう時 クリスチャンというのは「癒しは神様から与えられる。リハビリは全力を尽くす」という風に言います。

 

つまり 癒しは精神から、 また体の元通りの作動がしたいと願う、というのは神様に祈って神様のバックアップを受け 精神的に強くなって癒しが与えられる。

 

肉体的な機能の回復としてはやはり人間的な肉体的なトレーニング、 リハビリ訓練などが必要なんですよ、 ということですね。

 

そして一生懸命 神様に癒しを求め、 また自分ではこの地上で専門家から必要な指導を受け、精神また肉体的な人間として するべきことは最善を尽くすと、 神様による癒し また肉体的な回復が見受けられるということですね。

 

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こんにちはマダムサトコです。 本日は”具体的に祈ってみる、 具体的に行動や言葉をあげて願う”というお話です。

 

本日は 創世記24章42節から読んでいきましょう。

今日、私は泉のところに来て申しました。『 私の主人 アブラハムの神、主よ、私がここまで来た旅を、 もしあなたが成功させてくださるのなら、

 

 

これはエリエゼルの祈りの部分ですね。 少々私が気になるのはこの祈りの際に『私の主人 アブラハムの神』として自分の神様じゃないのかね?という点が少々気にはなりますね。

 

この箇所からずっと前 なんですけれども 神様から一族全員男子は 割礼だと言われた時に

 

 

 全員 割礼をしてますね。 それは信仰心の表れなのか、とにかく自分の主人が信じているから みんな 従ったのか、 そこら辺は書いてないので分かりません。 けれども これについてもまあこの「私の主人の神様」というところで どうなんですかね。 エリエゼルはどうなんだ というのがちょっと気になりますね。 

 

ただ 一方 ここで「 主よ」 とも言ってます。 やっぱり神様のことを信じてないと なかなか「主よ」 というのは言えませんね。 ということで やっぱり エリエゼルも信じてたのかなという気もします。

 

そして2週間ほどかけて 砂漠を横断してきてその間、 ひもじくもならずまた山賊や 盗賊に襲われることなく、無事に健康に到着した。 それを「もし神様が成功させてくださるのなら」 という言い方ですね。 決して自分が頑張った、自分がどうかしたからという話ではありません。

 

43節 ご覧ください。 私は 泉のほとりに立っています。 乙女が水を汲みに出てきたなら、私は、あなたの水瓶から少し水を飲ませてください、と言います。

 

 

これは若い女性たちが集まる時間と場所、 適切な時間と場所に来ました、 とまず言ってますね。 そして「その中の1人に水 瓶から水を飲ませてください」と言います。

 

自分がどのように言うかをこれ 神様に祈っているというシーンですね。

 

44節 その人が私に、「どうぞ お飲みください 。私はあなたのラクダにも水を汲んであげましょう」と言ったなら、 その人こそ、主が私の主人の息子のために定められた妻 でありますように』

 

 

見ず知らずの 自分にも優しく丁寧に接してくれる、 そして旅を続ける最も大切な道具の一つであった ラクダにも水を汲んであげましょうと言ってくれる、この水汲みというのは非常に重労働なんですけれども それを厭わず行ってくれる人、 そしてそれを行う健康でかつ 前向きな性格であること、

 

そういう人が主が私の主人の息子のために定められた妻である、と設定しましたね。

 

リベカ 自体は自分がそのような試験を このエリエゼルが設けていた、というのはもちろん知りませんね。 そして自分が自発的に行った行為がまさか”人が事前に祈っていた”ということは非常に驚いたでしょうね。

45節私が心の中で話を終わらないうちに、 どうです、 リベカ さんが水瓶を肩に乗せて出てきて、 泉のところに降りてきて、 水を汲みました。 それで私が『どうか水を飲ませてください』と 言うと

 



祈りが現実化したんです、 という話ですね。 祈りというものがどれほど人間にとって大切なのか、 また重要な使命を帯びている人こそ「 祈りなんて ばかばかしいよ」 ではなくて祈ることが非常に大切だということが ここからわかりますね。

 

46節 急いで 水瓶をおろし、『お飲みください。 あなたのラクダにも水を飲ませましょう』と言われたので、 私は飲みました。 ラクダにも水を飲ませてくださいました。

 

 

自分が神様に 「どこの誰かもわからない、 イサクの嫁はこのような対応をしてくれる女性だ」ということで それが現実化するように祈ったことが、 まさに目の前で 現実化しましたということを語っていますね。

 

そして 聞く方、 このリベカの兄や母はこの話を聞いて、 水汲みということがどんなに大変な仕事かを もちろん知っていますので「自分の苦労も顧みずにこうしてあげたんだな」ということを実感したのではないでしょうか。

 

47節 私が尋ねて、『あなたはどなたの娘さんですか』 と言いますと、『ミルカが ナホルに産んだ子 ベトエルの娘です』と答えられました。 そこで私は彼女の鼻に飾りは を つけ、 彼女の腕に腕輪をはめました。

 

 

エリエゼルはこのアブラハムの親戚のお名前を知っていたということですね。 この家系図

 

 

からざっくり見てもアブラハムとこのリベカ というのは 2世代 違うわけですから、すでに50年から60年近く 時間が経っているということが分かりますね。 その50年 60年の間にどれだけ親戚の間で通信があったのか。 その当時 1000km 以上の離れた土地 ラクダで行って2週間ほどかかる土地、 もちろん 年賀状 なんて習慣はないですから 「年賀状だけのお付き合いでね」 なんてこともなかったと思います。

 

そうするとアブラハムが知っていた親戚の名前というのはミルカまでだと思います。 まあ ギリギリ「ルカが ナホルに」のこのナホルぐらいまでで、 このベト エルというのは全然知らなかったんじゃないかと思いますね。

 

ですから アブラハムが「えーと 親戚はミルカとナホルぐらいかな」みたいなことは言ったんじゃないかと思います。 まあ それだけが手がかりですから、 エリエゼルはきっと「ミルカ、ナホル。ミルカ、ナホル。」と言いながらと2週間の旅を続けたんじゃないでしょうかね。

 

そしてリベカ に「あなたはどなたの娘さんですか」 と聞いた時にミルカ、ナホルと出てきたので もう「これでドンピシャだ~~~!!!」と思って金の飾りを出してリベカ にあげたということですね。

 

今日は”具体的に祈ってみる、 具体的に行動や言葉をあげて願う”というお話です。

 

まあ スピリチュアル系の本なんかにも よく「お願いは 具体的に」 というようなこと書いてありますね。 多くの本が「欲しいカバンの名前とか、住みたい場所とか」そういう感じでまあ ”物欲”中心に書いてあるので ちょっと なんだかなとは思いますけれども、

 

 具体的に というのは本当にその通りだと思います。 ただ、お金が欲しいとかカバンが欲しいとかではなくて このエリエゼルのように「私がこのように言ったら相手がこうしてくれる」ということを祈る。

 

そして 祈り というのはまあ皆さんご存知の通り ”非科学的” なんですけれども、 その日科学的な”祈り” というものが案外 以外 これ結構 効くんですね。

 

そして自分が祈ったことが 祈ったように現実化してくるということもママあります。 

 

ただし 1つ注意点がありまして、 それは”神様を信じて祈る”ということですね。 「どうせダメだろうな」 とか 「どうせ何々だけどまぁ 口だけ 言っとくか」というような態度ではなく、「本当にそうなる」と信じて祈る。 

 

まあ スピ系の本で書いてある言葉で言うと 「そうなった姿を思い浮かべながら祈る」、 聖書的に言うと 「必ず与えられると信じて祈る」ということですね。

 

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こんにちはマダムサトコです。 本日は”人間は「自由意志だよ」と言われるとついつい 従いたくなる”というお話です。

 

本日は 創世記24章37節から読んでいきましょう。

私の主人は私に 使わせてこう申しました。『 私が住んでいる この土地のカナン人の娘を 私の息子の妻にめとってはならない。

 

 

 これは以前この記事

 

 

 

 

でお話ししているところですね。 カナンというのは2024年現在で パレスチナ人の居住地であり、 そして アブラハムが住んでいたヘブロンという町もこのグレーターガザと言うんですかね、 カナン人が住んでいる地域になっていました。

 

 

なぜカナン人の娘を嫁として めとってはならないかというと、 まあ 聖書には詳しくは書いてないんですけれども、 カナン人というのは邪教を信じていました。 例えば 男女の交わり まぐわい と言うんですかね、 男女の営みが神聖なものとされたのですが、 この男女の女性の方は いわゆる 巫女さんのような神聖な人物という設定ですね。

 

そしてその女性と交わる と まぐわった男性は神聖な力を得られる、とかまあそういうものを信仰しておりました。 そしてその男女の交わりでまあやっぱり子供が生まれてしまうんですけれども、 その生まれた子供は大きな 偶像のところにまあ網とか鉄板とかそういった 焼けるものを置いて燃やしてたんですよ。子供ですよ。 赤ちゃんですよ。火にかけて神様に捧げるということをしていたらしいんですね。

 

 


画像は上記HPから拝借しました。

 

 

実際 考古学とかで遺跡の調査をすると、そういった 小さい子たちの遺骨というものがまあ 無数に出てくるそうなんですね。ということでそういった 邪教が存在したこともまあ 証拠として残ってますので、 

 

「そんな 邪教を信じる人々とうちの息子を一緒にしてはならない」ということが アブラハムがエリエゼルに指示しているところですね。 

 

38節 あなたは私の父の家、 私の親戚のところに行って、私の息子のために妻を迎えなくてはならない。』

 

 

この37節と38節がエリエゼルがアブラハムの故郷であるウルに来て リベカを見つけ、 300万円強の金の贈り物をしたということの説明をここでしていますね。

 

39節 そこで私は主人に申しました。『 もしかすると その女の人は私についてこないかもしれません。』

 

 

実際に エリエゼルがアブラハムの元を出発する前は「本当に見つかってもついてこないかもしれないなあ」と思って この 懸念事項を アブラハムに伝えていると思いますけれども、 リベカ に金の 装飾品をあげて ここで このような発言をしているということは、ある意味この箇所は リベカ に対する 牽制ですね。

 

「金の装飾品をあげたからついてこいよ」 という隠れたメッセージというのが もしかしたら あったかもしれませんね。

 

40節すると主人は答えました。『 私は主の前を歩んできた。 その主が御使いをあなたと一緒に使わし、あなたの旅を成功させてくださる。 あなたは私の親族、 私の父の家族から私の息子のために妻を迎えなければならない。

 

 

「この旅は神様が一緒にいるから必ず成功できるんだ」、という力強い宣言ですね。この ヘブロンからウルまでの1000km 強の旅も守られ、 またウルに到着した後も必ず自分の親族の中から最適な女性が見つかるのだ、という強い信仰をアブラハムはこの言葉の中に表していますね。

 

41節 次のような時は、 あなたは私の近いから解かれる。 あなたが私の親族のところに行き、 もしも彼らがあなたに娘を与えない場合、 その時あなたは私の誓いから解かれる。』

 

 

まあ 「でもその子が嫌だって言ったらまあ いいよ」というバッファー も与えていますね。 これは神様が人間に自由意志 を与えてくださっている、ということの 伏線回収となります。

 

ちなみに 人間の自由意志を尊重するというところの 伏線の貼りどころ はもちろん、 地球上の初めての人類である アダムとイブ。 そして アダムとイブが食べてはいけないと言われた木の実を食べてしまうこと。

 

 

これと同じように 「神様のお示しに従っておけば幸せな人生を歩めるのに、その子がもし嫌だと言えばそれはそれで 神様から離れた女性であるし、 本人の自由意志を尊重していいな と思った子が来たくないと言えばそれでいいんだよ」 ということを アブラハムはここで話しています。

 

本日は”人間は「自由意志だよ」と言われるとついつい 従いたくなる”というお話です。 

リベカ が この エリエゼルの話を聞きながら どう思ったのか、ちょっと推測してみましょう。

 

見るからにいかにも紳士な人物が 金の輪を取り出して自分にくれた。 そしてその人は一族の中でも名高い アブラハムのところから来た使いであり、 自分をアブラハムの全財産を相続する息子の嫁にと 目論んでいる。ということは これ すぐ分かりますね。

 

そして この41節で「自由意志 なんだよ、 やめてもいいんだよ」と言われたらそりゃまあ ついて行っちゃいますよね。 ということで、 エリエゼルはもしかしたら リベカの心情を確認する”前に”金を見せていたというのは、

 

まず物を見せて ぐっと引き寄せる。 そして 色々 説明する中で最後に 

「まあご自由になさったらいいんですけどね」 と言い放つ。

 

そういう手順 工程 構成にしておくことで「私ついていきます」とリベカ が高い確率で言う、というのを もしかしたら考えていたかもしれませんね。

 

もしくは 現代の私たちが言ういわゆる ”アラブの交渉術” というものがそのような構成で成り立っていたのかもしれませんね。

 

そしてもう一つ、 この現代では この行程と心理操作が残念ながら 詐欺行為等に使われている、というのも また事実ですね。

 

「すごくうまい話、 ありえないような話をあなたにだけ 内緒に」みたいな言い方をして、 「これさえすれば ものすごく 儲かるんだ」という気持ちにさせ、それでも 「うーんどうしようかなー」というような人には

 

「まあご自由になさってくださればいいんですけれどね」 という 突き放す言葉を投げかける。

 

その 迷っていた人は「やっぱり俺これ やらなきゃいけないよね」 と決断するという、まあいわゆる 交渉のテクニックというものは実はこの聖書の時代から現代 全く変わらない、ということもまたここからわかってきますね。

 

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こんにちはマダムサトコです。 本日は”スーパーリッチな家族の一人息子から結婚を申し込まれたなら、 あなたならどうする?”というお話です。

 

本日は 創世記24章33節から読んでいきましょう。

それから、彼の前に食事を出されたが、彼は言った。「 私の用向きを話すまでは食事をいただきません。」「 お話ください」と言われて

 

 

 アブラハムの従者である エリエゼルが、神様のお導きで見つけた イサクに最適なお嫁さん候補である リベカの家で、リベカの家族、おもに兄であるラバンから食事を提供されもてなされている姿ですね。

 

2週間ほど 砂漠を横断してきて 非常に疲れており、 きっと その間は ひもじいことはないにしても、 保存食のようなものを基本に 食べていたと思われる エリエゼルです。きっと久しぶりにおいしそうなものを目にして食欲もあったと思いますけれども、

 

「私の用を話すまで食事はいただきません」と言っています。 なぜこの一言があるかというと、 その当時は 重要な話というのはまず食事を終えてからするようなものだったそうです。習慣ですね。

 

でもきっと エリエゼルはもう「とにかく このリベカ を イサクの嫁として 最終確認をしたい」という気持ちだったんでしょうね。 とにかく自分のことよりも 「神様のお導きが本当に自分の目の前で行われたかどうかも確認したい」 まあこんな気持ちがあったかと思います。

 

34節 彼は言った 私はアブラハムの下僕です 

 

 

アブラハムというのは75歳でこのウルを出て、そこから現在の年齢は多分140歳 ちょっとぐらいだと思うんですけれども、 ほぼ 70年間プラスぐらいですね、 あれこれありながらも非常に 豊かになった富んだものである、というのはこの一族の中でももちろん 語り継がれていることでしょうね。

 

ですから アブラハムという名前にきっとこの家族のみんなは ピーンと来たんだと思います。 そしてまたその当時は この親戚の中から、 遠い親戚の中の誰かからお嫁さんを選ぶというのが習慣だったということを顧みると、そんな遠くに離れた人がわざわざ ここに来ているというのは「 きっと 嫁探しに来ているんだろう」 とこちらもみんなピンと来てたかもしれませんね。

 

35節 主は私の主人を大いに祝福されましたので、 主人は富んでおります。 主は 羊や 牛、銀や 金、 男女の奴隷、 ラクダや ロバをお与えになりました 。

 

 

まあ これは最初の段階で「主人は富んでおります」、 その理由が 「主が私の主人を大いに祝福されたので」 ということで「神様によって これらが与えられているんですよ」 ということをまず最初に明確にしています。

 

面白いのはこの当時はきっと 大きな財産というのは 羊や 牛というのが まず 来たということですね。 もしくは持っているものの中で 羊や 牛が圧倒的に量が多かったということかもしれません。

 

羊や 牛というのは 次々に子供を産んでいきますので、自分の財産を増やしてくれる 大いなる資産(財産を増やす財産)であるということなんでしょうね。 

 

その次に来るのが 銀や 金 といった現在の貨幣社会で言う、まあ 現金同等物というようなものでしょうか、 それ自体は増えませんし 取れる量も当時は技術が今ほどよくないので 非常に少なかったんですけれども、 小さくて軽くて大いなる 資産価値のあるものということで この2番目に来ているのかな と思います。

 

そして 3番目に男女の奴隷。まあ これは奴隷と書いておりますけれども 現代風に言うなら 「従業員がたくさんいます」というような意味に近いと思います。

 

そして ラクダや ロバ というのはまあ 現在で言う ”ラクダが自動車 トラック”で ”ロバがバイク”みたいに 風に考えますとこのように大いなる資産 また財産を持っているということがわかりますね。

 

この箇所はいわゆる 結納の時に用意される 目録のようなものですかね。

 

36節 私の主人の妻サラは、年を取ってから、一人の男の子を主人に生み、主人はこの子に自分の全財産を譲っておられます。

 

 

全てを相続する相続人が1人いるんです、 正当な相続人がちゃんといます。 非常に財産的に富んだ人間でかつまあ 現代風に言うならその財産を競って争う 兄弟などもいません、 ということをここでしっかりと表現していますね。

 

つまり 聞く方、 リベカ 本人であったり リベカの兄であるラバンは、相当なお金持ちの家臣がこの人であるということをひしひしと感じながら聞いていたんだと思います。

 

本日は”スーパーリッチな家族の一人息子から結婚を申し込まれたなら あなたならどうする”というお話です。 今日の箇所は エリエゼルが 「私はおかしなところから来たものではない」ということと、「その莫大な資産を持つ ただ一人の相続人がおりまして」 というところまでですね。

 

私なんかはこの箇所で 非常に気になるのが「1人の男の子を産み、主人はこの子に自分の全財産を譲っておられます」という点ですね。

 

まあこの2020年代に起こっていることからこの聖書の時代のことをいろいろ 判断するのはまあよろしくはないかもしれません けれども、 やっぱりこの時代にもすでに財産争い 相続争いで親戚同士でのいがみ合い、もっと言えば 兄弟間でのいがみ合いというのが すでにあったんだろうなと思います。

 

アブラハムには ロトという 甥がおりまして、 このロトと領地や財産を争って別れてしまったという過去があります。

 

 

誰もが 身近に 家族間での財産の争い というのを目にしていたかもしれませんので、 「1人の男の子に全財産を譲っている」というのが安心してお嫁さんに来れますよ、と暗に言っているのかなというふうにも読めますね。

 

そしてまたこの1人の男の子というのが壮大な 伏線、 伏線を貼る方ですね。 

 

もう 皆さんお気づきかと思いますけれども、 この箇所はイエスキリストの誕生ともう一つ イザヤ書 という書物の中にも 伏線回収 部分があります。

 

イザヤ書9章6節 1人のみどりごが私たちのために生まれる一人の男の子が私たちに与えられる

 

 

 のここですね。そして 

 

マタイによる福音書1章23節の処女が身ごもって男の子を産む

 

 

まあこの部分ですね。

 

ということで この箇所というのは 

1. イサクの嫁取りのためのアブラハムが持つ財産の目録的な意味合いもありつつ 

2. リベカにその財力 と また その継承の確かさを証明しつつ また

3. キリスト イエスの出現の伏線ともなる

 

と まあ 非常に 聖書らしい いくつもの 伏線 回収 いくつもの 意味 が現れている箇所ですね。 こういった複雑な 読み方 というのはなかなか 聖書だけを読んでると読めないかもしれません けれども、 聖書というのは「信仰ガー」「神様ガー」 というだけではなく、本としても非常に興味深い 構造になっているものだな ということを思いますね。

 

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こんにちはマダムサトコです。 本日は現在でも”見受けられる クリスチャン同士の助け合いの原型はここだった”というお話です。

 

本日は 創世記24章31節から読んでいきましょう。

そこで彼は言った 。「どうぞおいでください。主に祝福された方。 どうして外に立っておられるのですか。 私は家と、ラクダのための場所を用意しております。」

 

 

彼というのは リベカの兄であることですね。 ラバンはこの下僕である エリエゼルがまだ誰か?どこから来たのか?? 何の目的か???全く聞きもしていないのにいきなり家に招待していますね。

 

2024年の現在ならおいおいw それが強盗だったらどうするんだよww という ツッコミどころもあるかと思いますけれども、 理由は 過去の流れからいくつか ピックアップすることができますね。

 

まず リベカ にすでに2024年の日本円 立てでの金の価格として 300万円強のプレゼントを送っていること。

 

 

それだけで 非常に お金持ちであるということがもう 証明されていますので、「 そんなお金持ちは まさか 強盗 じゃあるまい」ということで まあ 人間の目線として 物理的に受け入れたんだと思います。

 

またこのエリーゼルの見た目ですね。 容姿や背格好 細かくは 聖書の中には出てこないんですけれども、 リベカがエリエゼルを見て 旦那様と呼んでいるところから

 

 

やっぱり そこら辺の人と違う 気品や余裕というものが漂っており、「 この人は怪しくない」というのがラバンの目にも分かったんじゃないかと思います。

 

まあ そしてもう一つ この当時 ラクダ 10頭という連帯が、もしかしたら非常に大きな経済力を示していたかもしれませんね。 

 

という人間の目で見た物理的な豊かさ これはもちろんのこと、 ここに書いてある通り「 主に祝福された方」、 この一言で この人は大丈夫だとラバンが確信していること が表されています。

 

2024年の 現代でもそうなんですけれども、 世界中で「主を知る者同士」=クリスチャン ということで全く見ず知らずの人なのに助け合ったりするということが非常に多く行われています。 つまり このシーンというのは今まで顔を合わせたことがないのに神様を知る者同士の助け合いをする 聖書 初めての姿でもあると思います。

 

この「どうして外に立っておられるのですか」 というのは 英語で言うと Whyから始まる文章ですね。 昭和の英語ですとWhyというのは「なぜですか どうしてですか」という疑問詞として勉強しましたけれども、 実際 英語でWhyというのはまあ なぜと聞くのもありますけれども どちらかというと「何々しなさいよ、 しましょうよ」みたいなお誘い やお招き やまた「命令」 みたいなニュアンスで使われることが 私は多いと思っています。

 

なのでどうして外に立っておられるんですか というのは「さあ 中に入ってください」 という意味ですね。そして続いて「家とラクダのための場所を用意しておりますと言ってます。

 

 32節 それでその人は家の中に入った。 ラクダの荷はとかれ、 ラクダにはわらと飼料が与えられ、 彼の足と、その従者たちの足を洗う水も与えられた 。

 

 

ラクダは荷物を解かれわらと飼料が与えられたということなので、半月ぐらいをかけて 砂漠を横断してきた ラクダにもやっと安住の地 が与えられたという感じですね。

 

そしてこの箇所はまたしても大きな 伏線箇所です。 伏線を貼る方です そして このチャンネルでは 伏線や 謎解きはすぐにネタバレするので、ここで 皆さんと共有しておきます。

 

ヨハネの福音書 13章6節のイエスが弟子の足を洗っておられるシーンですね。

 

 

足を洗うというのは 日本語のことわざにもありますね。「 今までの世界から 過去の自分から、抜け出す 変わる やめる」というような意味がありますけれども、 まあこの日本語のことわざの語源も聖書のこの箇所が原典だと思います。

 

またこのエリエゼルが足を洗うことによって「どこの誰かわからないけども イサクの嫁さんを探してこい」 という 無茶ぶりのオーダーから足を洗う、ということも 意味しているかもしれませんね。

 

本日は”現在でも見受けられる クリスチャン同士の助け合いの原型はここだった”というお話です。

 

「 知らない人と喋ってはいけません」 ということが 日本では今すごく 言われてますけれども、 そういう価値観から見ると このクリスティアン同士の助け合いというのは非常に奇妙に思えるかもしれないですね。

 

もちろん クリスティアの中にも変な人はいます。 ただ 大多数の人は「神様を知る者同士の助け合い」 として 見ず知らずの人にも「自分のできることは何かしてあげる」ということが非常に多くあります。

 

皆さんが一番よく知っている そういう姿というのは いわゆる 「キリスト教の人たちが ボランティアをしている姿」というやつですね。 いわゆる ”恵まれない人たちに愛の手を” というやつなんですけれども、 なぜ見ず知らずの人に親切にできるのか。

 

それは私たち人間が皆神様のもとに作られた兄弟姉妹である。 もし自分が困っていたら何か必要な手が差し伸べられたらそれは嬉しい。 同じように、 自分以外の誰かが困っている時にはキリストの名のもとの兄弟である その人たちに必要な助けを差し伸べる。 まあそういった意味がありますね。

 

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こんにちはマダムサトコです。 本日は”賽は投げられた。あとは静まって待て”というお話です。

 

本日は 創世記24章28節から読んでいきましょう。

その娘は走って行って、 自分の母の家のものに、 これらのことを告げた。

 

 

これは何を言ったんでしょうかね。この書きようだから分かりません けれども、 まあその当時金というのは今と違って 金メッキだとかなんか色を合わせて作るとかそういうことができなかったので、 金を持っていること自体もうすでにその人が本物のお金持ちであるという証 みたいなもんだったと思います。

 

そしてこのアブラハムの下僕である エリエゼルがきっとリベカの前で祈った「私の主人の兄弟の家に導かれた」という言葉がなんだかとてつもなく重要なことに聞こえたのかもしれませんね。

 

またはその当時 その金の輪とかではなくとも価値の高いものを見せて 「お前はどこの家の娘さんだい」 と聞くのが「お嫁さんに最適な人物だね あなたは」 という意味だったのかな とも思います。とりあえずこのエリエゼルの発言 や行動によってリベカは”自分の身に ただならぬことが起こるんじゃないか”と思って自分の母の家のものに これらのことを告げに帰った、というシーンですね。

 

まあ 現代の社会であれば 「不審者! 通報!!」 みたいになっちゃうんですけれども、 この当時はまあそういうことはなく自分の身に良い変化が起こるんではないかという期待がもしかしたら あったかもしれませんね。

 

29節 リベカには1人の兄があって、その名をラバンと言った。ラバンは外に出て 泉のところにいる その人のもとへ 走って行った。

 

 

実はこのラパンという人物も 後々 非常に大きな役割を持つ 登場人物ですけども、 まあそれはその時に お話ししたいと思います。

 

1つ 気になるのは リベカ は”母の家のもの”、にまた”兄が出てきて”とありますね。「 お父さんはどこに行ったんだ?」 という感じですけれども、 もしかしたら 当時は一夫多妻制 を自分の民族や家族を増やすために採用していて、 お父さんという人物とは 一緒に住んでいなかったのかもしれませんね。そして お父さん 代わりにその家で生まれた 一番上の男の子、 長男が父親の代わりをしていたのかな と ここから想像します。

 

何だかただならぬことが起きている、とリベカの話を聞いて兄であるラバンがこのエリエゼルがいる泉のところに走ってきたということですね。

 

30節彼は鼻の飾り輪と妹の腕にある腕輪を見、また、「あの人がこう私に言われました」と言った妹リベカの言葉を聞くとすぐ、その人のところに行った。するとみよ。その人は泉のほとり、ラクダのそばに立っていた。

 

 

数日前の箇所に出てきた一ベカ=5.7g 現在の 日本円に換算すると 7万4000円相当の金というのは

 

 

 5.7g って小さいなあ というお話をしていましたけども、 ここで鼻輪として使われるアクセサリーだということが出てきましたね。 まあ鼻輪なら細工としては一つですし、 それほど大きくないですから なるほどな そういうもんだったんだろうなと思います。 その鼻輪と腕輪を見て 「なんだかとっても高価なものをもらってるぞ」ともちろん 認識したでしょうね。

 

そして エリゼルが言ったことを聞いた、 それはつまり リベカ に対して何かしらの興味を示している ということですね。 まあ 現代でしたらストーカーが近寄ってきたとか、不用意に個人情報を聞き出した罪とか、まあ 色々あるんですけれども、 まあこの当時はそう言った 不審者ではなくて やはり何かしらの人間関係を結ぼうとする時にそういうことを聞いていたんでしょうね。

 

ですから それが聞かれたということは 「リベカの身にそのような話が来た」ということを察知したのかもしれません。 そしてリベカ が家に戻ってお兄さんと一緒に戻ってくる間、 エリエゼルは泉のほとり ラクダのそばに立っていたということです。

 

リベカ がまた戻ってくるかなという不安な気持ちはあったんでしょうかね? 分かりません。 違うんなら戻ってこないだろうから違うんなら違うんでいいや、と思っていたかもしれません。 ダメだったらどうしようか?という気持ちで立っていたかもしれませんね。

 

ここにわざわざ書いてあるということは「 エリエゼルは迎えが来るのを待っていた」というようにも読めますね。 つまり 「リベカの家族に必ず受け入れられる」と思って 待っていた。 エリエゼルがどのように考えていたのか 私たちには分かりません けれどもあまり、 ごちゃごちゃ 書いてないことからいろんな方向の姿が想像できる箇所だなとも思います。

 

本日は 賽は投げられた。あとは静まって待て。というお話です。いいなと思った リベカを見つけた、 リベカ に自分の身上、 これは 細々には言ってません けれども、 その当時は非常に珍しかった金を与えることで間違いのない身分の人間であるということを自ら示しまた。

 

リベカの家のものが来るのを 静まって待つ。 日本語のことわざで言うと 「賽は投げられた」ということですかね。 自分のするべきことは全てした後はどうなろうと静かに 神様の導きを待つということですね。 

 

人間というのは目の前の現状がなかなか変わらない時に、「いろいろ もがいて自分の努力で何とかしようとする」ことが非常に多いと思いますけれども、 「そういう時にこそ 静まって神の導きが何であるかを知るもしくは待つ」ということが必要だということが ここから読み取れますね。

 

特に現在では どうしても「自分で何とかしよう 自分が何かしよう」とそればっかりを思ってしまい、 また「失敗したらどうしよう これがダメだったらどうしよう」と マイナス方面に考えてしまうことが とっても多くなってます。

 

けれども 実際は「何も心配せず、自分がすでに最善のことをした。 なすべきことはしたという 心持ちで」、あとはまあ 言い方は良くないんですけれども「あとは野のとなれ 山となれ」。

 

神様が導いてくれるさということで「 静まって待つ」ということが求められているかもしれませんね。

 

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こんにちはマダムサトコです。 本日は”スピ系の本や 運を良くする本 というようなものにもよく書いてある通り、求めるものは 具体的に” というお話です。

 

本日は 創世記24章24節から読んでいきましょう。

彼女 が答えた。「 私はナホルの妻 見る かの子 ベトエルの娘です。」

 

 

2024年の 現代であれば「お前はどこの家のものだ」と言われて こんな個人情報をベラベラ喋っていいのか?というような回答をしていますね。 アブラハム まで 三親等 なんですかね。

 

 

自分の身上を明かすということで 家系図まで大披露しています。 これは その当時の習慣だったんですかね。まるで 「お前はどこの組のものだ」と言われて 「何々組だ」みたいな日本の昭和の人気ヤクザ映画のようなやり取りではありますけれども、 自分の身上を明らかにするというのはこの時代、 また昭和の時代に?非常に大事なことだったんだろうなと思います。

 

また この答えは アブラハムの下僕であり イサクの嫁探しを 任務としていた エリエゼルからしたら「来た~~~!!!」という答えですね。

 

25節 そして言った。「私たちのところには、藁も資料もたくさんあります。 それにまたお泊まりになる場所もあります」。

 

 

このセリフ から まず このリベカの家族というのが非常に 手広く、また数多くの放牧や 遊牧 そして もしかしたらこの藁もとありますので 農業も行っていたんじゃないかということがよくわかりますね。

 

つまり 「非常に 豊かな家庭の出身です」ということを この言葉が表しています。 それにまた「お泊まりになる場所もあります」 このセリフからは 家も非常に大きい家に住んでいるということが想像できますね。

 

経済的な背景としても イサクの嫁としては十分に条件を満たしている、ということが このセリフからわかりますね。

 

つまり エリーゼルは

若くて美しくて

人間擦れしていない

アブラハムの一族の中で

経済的なバックグラウンドも非常に 豊かである

 

イサクの嫁としては最高の条件の女性がここで見つかった!ということが分かりますね。

 

26節 そこでその人はひざまずき、 主を礼拝して、

 

 

もしこの現代で「ああ、神様のお導きと恵みがあった!」と思った瞬間にその場でひざまずいて 神様に礼拝 なんかしてみたら「うわー、やっばーい」 みたいな言い方をされてしまいますけれども、

 

神様によって良くしてもらった。 そう思った瞬間に神様を礼拝する。このエリエゼルの姿というのは 人間が本来あるべき姿 なんじゃないかな と私は思います。

 

まあ 日本だけでなく世界中でも多くの人々が「神様に良くしてもらったと思った時は、その場で黙って感謝を捧げる」というような形になってますけれども、 本来でしたら自分の体を低く保つ、つまりひざまづいてですね、 そして神様を礼拝する。 このような態度 姿 行動があると本当にいいと思います。

 

27節 言った。「私の主人 アブラハムの神、主が褒め称えられますように。 手話私の主人に対する恵みと誠とを捨てにならなかった。 主はこの私をも途中つつがなく、 私の主人の兄弟の家に導かれた。」

 

 

この箇所は日本語で読むと なかなか長いですね。 主が褒め称えられますようにという風に 日本語で読むと「なんだかなーシ宗教クサいわあー」 と思う方も多いかもしれません けれども、s

英語だとこれ Praise the Lord というだけですね。プレイズ ディ ロード というのはまあ 言ってみれば oh my god の反対語みたいなもんですかね。 オーマイガー というのが 「なんてこったい」っていう意味だとしたら、プレイズ ディ ロード というのは「ああよかった」とかは「神様の奇跡 すごい」とかまあそんな感じですね。

 

そして 主は私の主人に対する恵みと誠とをお捨てにならなかったというのは、 どこの誰だかわからないけど イサクの嫁を探してこい という 無茶ぶりのオーダーを受け 「本当に見つかるのかよ...」 と思いながらだったかもしれませんね、 アブラハムが住んでいるヘブロンからこのウルまでの1000kmあまり

 

 

の旅をここに書いてある通り つつがなく なので 山賊や 盗賊に襲われることもなく、 また飲み水や食糧に困窮することもなく、このアブラハムの兄弟の家に導かれた。という これが 感謝の内容ですね。

 

神様がいてくれたからこそ、神様が導いてくれたからこそ、この大変な旅 この大変な 任務がきちんと行われた。ということを感謝として捧げていますね。

 

本日はスピ系の本や 運を良くする本 というようなものにもよく書いてある通り”求めるものは 具体的に” というお話です。

 

皆さんは 何かいいことがあった時に「良かったね、 感謝だね」っていうようなことをおっしゃると思いますけれども、 まあ 誰に感謝してるのかということはあんまり考えたことがないかもしれませんね。

 

スピリチュアル系の本ですとか運が良くなる20の習慣 みたいな本でも「感謝しましょうみたいな感じで書いてあるんですけれども、 それらも 本来はこの26節に書いてある「主を礼拝して」ですね。

 

神様がいることを認め、そして神様に感謝をする。 これがまあ 本来あるべき 感謝というものではないかと私は思っています。

 

現代であれば1000km あまりの旅を 何の事故 怪我 また食料や水の困窮 もなく行えたというのは当たり前じゃん、 かもしれません。 けれども ここで 言いたいのは「この旅がつつがなく 行えたのは水だの盗賊だのの問題がなかったからではなく、神様が守ってくださったから」ということですね。

 

そして神様に守られているからこそ、 どこの誰かもわからない イサクの嫁を探してこいというような無茶ぶり オーダーにも「若い女の子が集まる時間と場所」、 これをしっかりと 把握して行動ができた。

 

またどの子 かなと思いあぐねる前に「このような子、 非常に具体的にどのような行動をしてどのようなことを言う」というような 祈りが聞かれて、 そして現実化しているという姿が この 24章ですね。

 

スピ系の本や 運を良くする本 というようなものにもよく書いてある、

 

通り求めるものは 具体的に口に出して求める祈るということが大事だ

 

と語っている箇所となります。 今日の箇所が面白かった 興味が持てたという方はアメブロでのフォロー、youtubeの チャンネル登録 高評価 お知り合いへの拡散をよろしくお願いいたします。その他 Twitter や Instagram なども行っておりますので覗いていただけると嬉しいです。

 

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こんにちは マダム さとこです。 本日は ”困難に打ち勝つには 正しい時に正しい場所にいる”というお話です。

 

本日は 創世記24章19節 から読んでいきましょう。

彼に水を飲ませ 終わると、彼女は、「あなたのラクダのためにも、 それが 飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう」と言った。

 

 

アブラハムの下僕である エリエゼルが、イサクのお嫁さんになる人物として「若い子たちが集まる時間と場所」にいてその中で自分が「こういった時に こういうことをしてくれる子が、神様が導いてくれる イサクのお嫁さんです」と祈ったところ、 

 

健康的で精神的な疲弊のかけらもない美しい女性が水を汲みにその場に来て、水を求めたところ 「お飲みください」と言って 気前よく水を与えてくれた。

 

そして「あなたのラクダのためにも それが 飲み終わるまで水を汲んで差し上げましょう」とエリエゼルが祈った言葉そのまま が現実になっています。

 

この女性の言葉を聞きながら、 エリエゼルはきっと神様の恵み また 神様の してくださること自分の祈りを聞いてくださったこと全てに感謝したんじゃないかと思います。

 

20節 彼女は急いで 水瓶の水を水ぶねにあけ、 水を汲むために また井戸のところまで走っていき、 その全部のラクダのために 水を汲んだ。

 

 

見知らぬ旅人である エリエゼルのラクダに こんなにも一生懸命 水を与えてくれるとは。 例えば 現代人の私たちだったら 「は? 何言ってんの??」 と言いそうですけれども、このエリエゼルもアブラハムの”下僕”とは書いてあるんですけれども、 実は非常に信仰深く また その気持ちが表に現れていて普通のそこら辺の旅人じゃないという雰囲気が出てたんじゃないんでしょうかね。

 

それゆえに このリベカ は昨日の箇所でエリエゼルのことを「旦那様」と呼んでるわけですね。 そしてこの箇所からまた リベカ が非常に働き者である、 家畜を大切に扱う人間である、 見知らぬ人にも丁寧にまた 気前よく接している、ということが 再び強調されていますね。

 

21節 この人は、主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見ていた。

 

 

まあ私たちから言いますと「お水くださいと言ってお水をくれた、 ラクダにお水をあげましょうと言ってくれた」まあその2つで十分に 「この人だ~~~!」と楽天的に考えちゃいそうですけれども、 エリーゼル としてはアブラハムの親戚かどうかということもしっかり確認しなければならないので、「いい子なんだけどねー、 身上がねー」 ということにならないように 祈りつつ、 そしてその働き者の姿を黙って見ていたんでしょうね。 そして黙って見ながら また 祈っていたと思います。

 

22節 ラクダが水を飲み終わった時、 その人は、 一ベカの金の飾りの輪と、彼女の腕のために、 重さ 10シェケルの2つの金の腕輪を取り、

 

 

まず この一ベカの金の飾りはとありますけれども、 ベカというのは 5.7g の こと だそうです。 この収録をしている2024年5月15日時点で日本で金が店頭小売価格 1g 13000円ぐらいだということなので、 この1ベカの金というのは 現在価格で7万4000円ぐらいということですね。

 

でも 金 の 5.7g ってとっても小さいと思うんですよ。 例えばお料理する方なんかは 小麦粉とかお水とか5g とか 10g とか 計って調理することも多いと思うんですけれども、 金というのは水に比べて比重が20倍ですね。 つまり 同じ重さでも体積は1/20 なんですよ。 そうすると ものすごく小さいですね。 何をあげたのか分かりませんけども 金の飾りは とあるのでまあ イヤリングのようなものか、もしかしたら髪にちょっとつけるようなものだったかもしれないですね。

 

そしてもう一つ 彼女の腕のために 重さ 10シェケルの2つの金の腕輪とありますで、このシェケルというのが 使う場所によって 1 シェケル でも グラム数にいろいろ 差があったということなんですけれども、普通の人が使う 秤ということで 1 シェケル というのが 11.4g と出ています。

 

そうしますと この腕輪は一つが114g、 2024年5月15日現在価格で1つが148万2千円だそうです。 これが2つですので まあざっくり 300万円というかなりの額の金の腕輪を取ってということですね。

 

 

 23節 尋ねた。「 あなたは、どなたの娘さんですか。 どうか私に言ってください。 あなたの父上の家は、私ども が 止めていただく場所があるでしょうか 」。

 

 

金のお土産を見せながら 「うちはどこだ、 泊めてくれ」とか、まあなんか今の基準から考えると やらしいな と思いますけれどもw、 このエリエゼルももちろん 自分がどこの誰かというのは言ってないんですけれども、 そんなにすごい 貴重品を持っているものですから「絶対に怪しい人じゃない」ということを裏付けるために この金の輪を見せたんでしょうね。

 

まあ 現代だったら 「金の輪を見せて泊めてくれ 詐欺」とかありそうですけれども、 当時はまあそういうものを持っている人 自体が非常に少なかったわけですから「この人は 身上のしっかりした人だ」ということが ここから判断できたんじゃないかと思います。

 

そしてこの身上、 家族のことですね、 を確認する際も「どうか主の導きがありますように」と祈って確認したんじゃないかと思います。

本日は 困難に打ち勝つには 正しい時に正しい場所にいるというお話です。

困難の第1号は何と言っても 「どこの誰かわからない、 とにかく自分の故郷に行って イサクのお嫁さんを探してこい」 というアブラハムの無茶振り オーダーというのが 第1の困難でしたね。

 

色々考えたことでしょうね。「 どうしたら そういう人に会えるのか? どこで会えるのか?」 そして”若い女性が集まる時間と場所”ということで 夕刻の井戸の周りにいたということですね。

 

”正しい時に正しい場所にいた”ということで この困難が一つずつ解決されていく姿が見えています。 

 

この情景 でわかるのは「困難に向かって人間が自分の力で何とかしようとはしないこと」 というのが 実は困難を乗り越える 最適かつ必要な方法でもあるということがわかりますね。

 

最も大切なのは「自分をその場に置くこと、自分が望むこと望む人に会える時間と場所に自分を置くこと」というわけです。 私たちは色々な祈りや 希望がありながらも、うまく その場所や時間をつかめていないということは多々あるかと思います。 

 

なので「下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる」ではないんですけれども、 自分が何を希望しているのか、 このエリーゼルの場合ですとイサクのお嫁さんに最適な若い女性を探し当てたいという希望、 そしてそういう人たちがどこにいつ集まるかということをしっかり考える。

 

こういったことが この 困難に打ち勝っていくのに非常に役に立ったんじゃないかと思います。

 

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