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こんにちはマダムサトコです。 本日は”情けは人のためならず、 というのは 実は 聖書から出てきたことわざ だった?”というお話ですね。

 

本日は 創世記24章48節から読んでいきましょう。

そうして私はひざまずき、 主を礼拝し、私の主人 アブラハムの神、主を賛美 いたしました。 手話私の主人の兄弟の娘を主人の息子にめとるために、私を正しい道に導いてくださったのです。

 

 

この 跪きというのは 同じ 24章の中の26節と27節のところですね。

 

 

神様が私をお見捨てにならなかったので、 旅路の途中で困ることもなく、 また 到着してすぐに 祈りが聞かれ、 旅の目的である イサクのお嫁さん候補のところにすぐに導かれた。と感謝しているところですね。

 

このエリーゼルが言っているのは「神様に栄光をお返しする」という行為です。 日本語ではちょっと聞き慣れないので ここで 例をあげてご説明申し上げたいと思います。

 

皆さんよく多くの外国人のスポーツ選手とかが優勝インタビュー なんかで、色々話を聞かれながら最後に「私のこの優勝は 神によって与えられたものです」 というような発言を聞いたことがあるかと思います。あれが”主に栄光をお返しする”という行動になります。

 

私たちの目に映る 喜ばしいこと、 例えば このスポーツ選手ですと自分が大会に優勝したということは、「神様のおかげで優勝できました」と「この優勝という栄光は神によってもたらされたので、 私は皆さんの前で この優勝という栄光を神様にお返しするんです」ということを言ってるわけですね。

 

 何をするにおいても神様が行ってくださる、 だからと言って私たちが何もしなくてもいいわけではなく、 私たちは地上の自分のできる限りの最善を尽くし、 しかるべき時にしかるべき場所にいるということが大事ですね。

 

このエリエゼルですと エリエゼル の努力というのは2週間かけて 砂漠を横切ってきたこと、 そして若い女性が集まる時間と場所にいたこと、 また分が何を希望するのか 何をすれば それが示されるのかを 祈り、 実際に声をかけるということで行動する。

 

これによって神様がご準備しておられる 成功や 栄光というものが私たちに与えられるということですね。

 

49節 それで 今、あなた方が私の主人に、恵みとまことと 施してくださるのなら、 私にそう言ってください。 そうでなければ、そうでないと私に言ってください。 それによって、私は右か左に向かうことになるでしょう。」

 

 

ここは なかなか難しい箇所だと思います。というのも この節の基本的な構造として 

 

めぐみというのは神様が人を介して あなたに与える

 

ということを語ってるからですね。

 

人がしてくれるのならそれは「神様が用意してくれている恵み」であり、 その人が何もしてくれないのであれば それは神様が用意してくださっている恵みではないということですね。

 

よく「情けは人のためならず」と言います。 いろんな解釈がこの言葉にはありますが、 聖書的に言うと 

 

神様の恵み、 神様が良くしてくださることは人間を通して私たちに与えられる。 つまり 

 

人間が人間のために施すのではなく、神様が私たちを用いて他人に施してくださっている。

 

だからこそ 情けは人のためではなく、 情けを与えるということは

 

私たちが神様のこの地上の道具として使ってもらってる、ということですね。

 

こう言いますと「そんなの 気のせいだよ」 「そんな、神様が何かくれるなんてありえないよ」 という人はいらっしゃると思います。 それはそれで分かりました と聞いておきます。

 

けれども そんな方でも、もし思いがけないところから思いがけない 助けを与えられたら、「 あれ? なんか神様って本当にいるんだな?」と思ったりしたことがあるんじゃないでしょうか。

 

神様の恵みというのはあなたが 拒否をすれば与えられないし、あなたが受け取ればあなたに与えられるものなんですね。

 

きっとその神様がしてくださったんじゃないのかな? 神様が与えてくださったんじゃないのかな? と思った時というのは 受け取らざるを得ないような状況だったり、 受け取る以外に選択肢がないような状況だったりということがあったんじゃないでしょうか。

 

そして同じように、 機会があればあなたも 他の人に施してあげる。 それはあなたが誰かにしてあげたんじゃなくて、 神様があなたを通して誰かにあげてくださったものだ、という話ですね。

 

本日は”情けは人のためならず、 というのは 実は 聖書から出てきたことわざ だった?”というお話ですね。

 

こうやって 聖書を読んでいくと 日本語のことわざ 慣用句 その他 なんかこう 一言でバチッと 状況を言い表すような言葉というのは、 聖書に由来するものが非常に多いなということを感じます。

 

有名なところでは足を洗うとか豚に真珠とか、 そしてこの箇所の情けは人のためならず というのも 聖書由来ということですね。 

 

「自分たちの努力ではなくて 神様が与えてくださる」、こう言いますと 「じゃあ私たち何もしなくていいじゃない。毎日 ゴロゴロ だらだらして ずっとインターネットで遊んでていいんでしょ?」 という人がたまにいらっしゃいます。

 

そういうことを言っているわけではないんですね。

人間がするべき 努力は すること。 与えられるかどうかは 神様次第。 という話ですね。 そう聞くと「えーじゃあ 努力するだけ無駄じゃん」と言うかもしれません。 けれども 例えばこういうお話はどうでしょうか。

 

軽い脳梗塞等でちょっと体の半身が不自由になったという人がいらっしゃると仮定します。 そういう時 クリスチャンというのは「癒しは神様から与えられる。リハビリは全力を尽くす」という風に言います。

 

つまり 癒しは精神から、 また体の元通りの作動がしたいと願う、というのは神様に祈って神様のバックアップを受け 精神的に強くなって癒しが与えられる。

 

肉体的な機能の回復としてはやはり人間的な肉体的なトレーニング、 リハビリ訓練などが必要なんですよ、 ということですね。

 

そして一生懸命 神様に癒しを求め、 また自分ではこの地上で専門家から必要な指導を受け、精神また肉体的な人間として するべきことは最善を尽くすと、 神様による癒し また肉体的な回復が見受けられるということですね。

 

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それでは今日はここまでです。 ご視聴 誠にありがとうございました。

 

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