突然ですが、図書館で「大唐西域記」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946495/7?tocOpened=1
を読んで考えてみました。

Step AB
つつましい戒律

Step C
大乗・小乗仏教
極楽浄土信仰

Step D-Z
ヒンズル教 カースト

 ■支配者■ ←分離→  神格化
   △       製鉄ヒッタイト式
  婆羅門      秘匿・隠遁
 バイシャ バイシャ 
シュードラ シュードラ

9.4. Whirlpool of Bhitari Pillar*
次図がインドのグプタ朝のスカンダ・グプタの"Bhitari Pillar"石碑です。
注目は、15行と16行目です。
Hunaが、グプタ朝のスカンダ・グプタへ攻め込み、グプタ朝が受けたダメージが記されています。


[India1871, pp94-95 Plate XXX line 15 and 16]


グプタ文字ですが、研究されて英語に翻訳したものがあります。
[A. M. Shastri, p379]   
<Original> "When he (Skandagupta) joined in close conflict with the Huṇas, the earth was made to tremble due to (the power of) his arms, since he caused a terrible whirlpool among the enemy by   ...   of arrows; the brilliant   ...  is proclaimed  ...  (which)
sounds like the twanging of (his) bow (sarṅga) in (their) ears."

<概訳> スカンダ・グプタがHunaと実際に戦闘した時、Hunaの力のために地面が揺れた。なぜならスカンダ・グプタは、敵のHunaの中で、渦巻き疾患にかかった。(矢の...により)  華々しい...宣言された。 ... 耳の中で、Sarnga(ガンジス川)の濁流の弓のような轟音。
<コメント> これは病気の話です。全く同じ病気に、罹った自分の体験談から言うと、カンジタ(Candida)です。耳鼻科で聞いた説明では、カンジタ菌により鼓膜に穴が開き、耳の奥から液が漏れ出してきます。むせる温泉の亜硫酸ガス(SO3)ではなく、硫化水素(H2S)の物凄く臭い液です。御トイレの匂いです。カンジタ性「耳漏」と言うそうです。さらに耳鼻科での説明では、耳の奥、内耳の平衡感覚をつかさどる三半器官(耳の奥の渦巻き)もカンジタ菌に侵されて、平衡感覚を失いフラフラします。

自分の体験談をもとに言うと、カンジタ(Candida)症です。

 

体験談と全く同じ症状です。完治するまで、相当期間、薬を飲んでいます。さらに耳浴、点眼、点鼻、全身ローションもしています。あわせて食事療法で、グルテンフリーと食酢の食事が、絶対に必要です。
※ 体験談から言うと、喉が痛くなった場合は、飲み薬を少し減らします。そしてリキッドタイプのGUM(R)で充分に歯磨き・充分にうがい・充分にすすぎをします。さらに歯茎の硬く痛い部分でオーラル脱脂綿薬を長時間噛んでいました。これは個人差がありそうです。

 

体験談から言うと、ポイントはリキッドタイプのGUM(R)で充分にうがいをして(数分以上)、充分にすすぎをして、直ぐにオーラル脱脂綿薬を噛むと効果的です。痛いところに押し付けます。さらにオーラル脱脂綿薬を噛んだまま、横臥で数十分間横になっていると、更に効果的です。夜は朝まで噛んでいます。

 

一方、食事は、グルテンフリーのために、レシピのバラエティーが制限されます。しかしライスピラフ、ビネガーポテトサラダ等、たくさん食べています。新レシピとして、米粉野菜テンプラは少し難易度がありました。米粉濃さ、テンプラ油温度、直前のベーキングパウダー添加など試行錯誤しました。(油分はキッチンタオルでほとんど吸収) そして米酢+醤油だし汁希釈(南蛮風のとろみ無)に、数分間ひたして食べる、自身新レシピです。わずかにサクサク感が残っているのを噛みながら食べる食感で、ご飯のおかずに最適です。

 

さらに体験談では、グルテンフリーに加えて、潤沢な酢の摂取が薬効を強め、回復が早いとの印象を受けました。上がらなかった左腕が上がるようになりました。そして脱脂粉乳(商品名スキムミルク)で飲み薬を飲んでいます!   Bye Bye

 


15行と16行目だけ見て、自分の体験談を話しました。前後しましたが、以下で "Bhitari Pillar inscription of Skandagupta" の解読のいきさつ・概要を見てみます。
[India1871, p99]

<Original>  "From the copy which I prepared in January 1836, a translation was made by Dr.Mill, which was published in. Prinsep's Journal for January 1837. "
<概訳> 私が 1836 年 1 月に作成したコピーから、ミル博士によって翻訳が行われ、Prinsep Journalの1837年1月号で発表された。

 

[India1871, p99]

<Original>  "As translated by Dr. Mill, the inscription refers chiefly to the resign of Skanda Gupta, closing with his death, and the accession of his infant son. The object of the inscription was to record the erection of a sacred image..."
<概訳> ミル博士によって翻訳されたように、碑文は主に、スカンダ・グプタの辞任、彼の死で終わること、そして彼の幼い息子の加入に言及しています。碑文の目的は、神聖な像の建立を記録することであり...

 

[India1871, p99] 

<Original> "In my remarks on the lower inscription on the Bihar Pillar, I have already noticed that all the remaining part of the upper portion of it, which contains the genealogy, is letter for letter identical with the first part of Bhitari record, and I repeat the notice here for the purpose of adding that, by a comj^arison of the two inscriptions, cveiy letter of the upper part of both, or about one-thu’d of the whole, may be restored without chance of error.*"
<概訳> ビハールの柱の下部の碑文に関する私の発言で、家系図を含むその上部の残りの部分はすべて、ビタリの記録の最初の部分と一字一句同じであることにすでに気付きました。 ここで、2 つの碑文を組み合わせることにより、両方の上部の文字、または全体の約 3 分の 1 の文字が誤りの可能性なしに復元される可能性があることを追加する目的でここに注意してください。
<コメント> ビハール石碑とビタリ石碑で、数行が全く同じであることより、今回の石碑からの写本が、間違いなく正確であることがわかります。次に、グプタ文字の解読ですが、最初のミル博士、その後もさらに他の例とも合わせて解読の研究が継続され、ほぼ正確なレベルのようです。

 



この"9.4."の引用文献
[India1871]  
Archaeological-Survey-Of-India--Vol-1.pdf
Alexander Cunningham, FOUR REPORTS, MADE DURING THE YEARS 1862-63-64-65, The Archeological Survey of India,The Government Central Press, 1871.

 

[A. M. Shastri]  images
Ajay Mitra Shastri, A Note on Skandagupta's Bhitari Stone Pillar Inscription, verses 8-12

 

[IN00036]  
Razieh B. Golzadeh, Bhitari Pillar Inscription of Skandagupta

 

9.2. Ganj Dareh の頭蓋変形
『頭蓋変形』が、"Shanidar" から南西へ約300kmの "Ganj Dareh"でも、確認されています。同じザクロス山脈です。異なる支流ですが、同じチグリス川水系です。約6万年前のネアンデルタール人と同じ地域、または全く同じ場所、"Ganj Dareh"または"Shanidar"で、『頭蓋変形』の風習を、約1万年前のホモサピエンス現人類が継承しています。

[GanjDareh, p85 Fig.1]


約1万年前のホモサピエンス人類の"Shanidar"と"Ganj Dareh"の『頭蓋変形』を見ます。
[Ganj Dareh, pp83-97]
<original>  "We report material from four Proto-Neolithic and Neolithic sites,
Shanidar cave, Iraq, dated ca 9000 to 8500 ВС,
Ganj Dareh Tepe, Iran, ca 7500 to 6500 ВС ... "

<概訳> 4つの原始新石器時代と新石器時代の遺跡からの資料を報告します。
イラクのシャニダール洞窟、ca 9000 to 8500 ВС
イランのガンジダレテペ、ca 7500 to 6500 ВС

<コメント> シャニダール洞窟の現人類ホモサピエンスは、"Tell Abu Hureyra"のレバント地域での麦栽培開始と同時期。
<original>  "Shanidar Cave
This large limestone cave lies about 400 km north of Baghdad in the outer folds of the Iraqi Zagros Mountains. It is at an elevation of 747 m, and lies about 2.5 km from the Greater Zab River, a major tributary of the Tigris River (16). "

<概訳> シャニダール洞窟
この大きな石灰岩の洞窟は、バグダッドの北約400 kmにあり、イラクのザグロス山脈の外側の襞にあります。標高747mで、ティグリス川の主要支流であるグレーターザブ川から約2.5 kmのところにあります(16)。

<original>  "Different are the presence of what appeared to be houses and probable bird ritual remains at Zawi Chemi Shanidar, and the cemetery at the Shanidar Cave. The context of both resembles the Natufian culture of the Levant, of roughly similar age."
<概訳> Zawi Chemi Shanidarには家のように見えるものがあり、鳥の儀式が残っている可能性があります。また、Shanidar Caveには墓地があります。両方の文脈は、ほぼ同じ年齢のレバントのナトゥーフ文化に似ています。
<original>  "This constitutes the only Proto-Neolithic burial site in Southwest Asia outside the Levant."
<概訳> これは、レバントの外の南西アジアで唯一の新石器時代の埋葬地を構成します。
<original>  "Ganj Dareh
Ganj Dareh (meaning "Treasure Valley" in Persian) is a small tepe or mound in the central Zagros Mountains of western Iran, located near the present ethnic boundary between Kurdistan and Luristan in Bakhtan (formerly Kermanshah) province. It lies in a small side valley at ca 1400 m, surrounded on several sides by higher mountain peaks. "

<概訳> Ganj Dareh
ガンジダレ(ペルシア語で「トレジャーバレー」を意味する)は、イラン西部のザグロス山脈中央部にある小さなテペまたはマウンドで、現在のクルディスタンとルリスタンのバクタン(旧ケルマーンシャー)州の民族境界近くにあります。それは約1400mの小さな谷にあり、いくつかの側面がより高い山の頂上に囲まれています。

<original>  "Some domestic barley (H. distichun) was present, with the wild variant from the earliest level onward (but no wheat of any kind), and morphologically wild goats (C. aegagrus) were being systematically controlled and culled from Level D onward.
Nonetheless the bulk of the food consumed was probably obtained from non-domestic plants and animals. The site therefore documents an early stage in the development of food production in the Zagros area, possibly not much further developed than at Shanidar (20)."

<概訳> いくつかの国産オオムギ(H. distichun)が存在し、初期レベル以降の野生の変種(ただし、いかなる種類の小麦も含まない)があり、形態学的に野生のヤギ(C. aegagrus)は、レベルD以降に体系的に管理および選別されていました。それにもかかわらず、消費された食物の大部分はおそらく非国内の植物や動物から得られたものです。したがって、このサイトは、ザグロス地域での食料生産の発展の初期段階を記録しており、おそらくシャニダールよりもはるかに発展していない(20)。
<original>  "Shanidar level Bl probably predates Ganj Dareh by at least a millennium"
<概訳> シャニダールレベルBlはおそらくガンジダレより少なくとも千年前に存在します。

本題の『頭蓋変形』です。結論だけ引用します。
<original>  "Finally, at Shanidar cave (Iraq), two of the more complete specimens are deformed."
<概訳> 最後に、シャニダール洞窟(イラク)では、より完全に遺存する2つの頭蓋骨が変形しています。

<original>  "For Ganj Dareh (Iran), all crania can be demonstrated to show deformation"
<概訳> ガンジダレ(イラン)は、すべての頭蓋骨が変形を示す。

<original>  "we see diagnosis of deformation at this level as dependent on the presence of unquestionably deformed specimens, as at Ganj Dareh and Shanidar ..."
<概訳> このレベルでの変形の診断は、ガンジダレやシャニダールのように疑う余地なく変形した頭蓋骨の存在

<original>  "In conclusion, we have reported artificial deformation of crania in four sites from the Near East spanning nearly four thousand years, from 10000 to 6000 ВС, and found from the Zagros to the northern Levant."
<概訳> 結論として、我々は、ザグロスからレバント北部で発掘された、B.C.10000からB.C.6000まで、ほぼ4000年間の中東の4つのサイトでの頭蓋骨の人工変形を報告しました。

シャニダールのクルド人における頭蓋変形の継続的な存在。
<original>  "We refrain from suggesting long term continuity, given the probable deformation of some of the Neandertal crania from the lower levels at Shanidar cave.
We also feel it to be unwise to suggest continuity with the
continuing presence of head binding in the Kurdish population of the Shanidar region, as personally observed by one of us (R.S.). "

<概訳> シャニダール洞窟の低層からのネアンデルタール人の頭蓋骨の変形の可能性を考えると、長期的な継続性を示唆することは控えます。
また、継続性を提案することは賢明ではないと感じています。
私たちの1人(R.S.)が、個人的に観察したように、
シャニダール地域のクルド人集団における頭蓋変形の継続的な存在。

<original>  "It is obvious that it is not only anthropologists who have been interested in the shapes of heads."
<概訳> 頭の形に興味を持ったのは人類学者だけではないことは明らかです。
 


この"9.2."の引用文献
[Ganj Dareh]  
(PDF) Artificial cranial deformation in the Proto-neolithic and Neolithic Near East and its possible origin
Evidence from four sites., Christopher Meiklejohn, Anagnostis Agelarakis, Peter M. M. G. Akkermans, Philip E.L., Smith, Rose Solecki, Paléorient, 1992, vol. 18, n°2. pp. 83-97.

 

他にも、代表的な『頭蓋変形』に次のようなものもあります。
"Anatomie des Menschen 1921"
"Hemikynes Makrokephaloi Hesiod"
"Hesiod, Catalogues of Women 44"
"Hippocrates, On Airs, Waters, and Places"
"deformed crania Hungary"
"hilostratus, Life of Apollonius 3"


シャニダール洞窟の現人類ホモサピエンスは、"Tell Abu Hureyra"のレバント地域での麦栽培開始と同時期。



9.3. Neanderthal Shanidar 1*
『頭蓋変形』はシャニダール洞窟で発掘された約6万年前のネアンデルタール人の遺骨で確認されています。『頭蓋変形』はネアンデルタール人が既にやっていたようです。シャニダール洞窟は、メソポタミア地方のチグリス川支流の上流、イラク北部です。ここでネアンデルタール人の人骨10体が発掘されました。このうち遺存状態がよかった4体が、シャニダール1号、2号、3号、4号です。『頭蓋変形』はもちろんあるのですが、
特に、『シャニダール1号の遺骨の病変箇所』に着目しました。

①左眼窩(orbit's lateral wall)、②下顎頭(mandibular condyle)、③耳(ear)、

④第5頸椎の前下端(antero-inferior edge of C5 vertebral body)、

⑤肩甲骨の鉤状突起(corocoid process of scapulardy)

 

自分の体験談から言うと、これはカンジタ(Candida)症です。

 

「突然、神が舞い下りてきた。」ような話になりましたので、自分の体験談と、シャニダール1号の病変箇所を対比させ、1箇所づつ述べます。

 

①左眼窩(orbit's lateral wall)
<体験談>左眼がコロコロ痒く、そして影が見えるようになりました。左右に眼を動かすと一緒に影も動きます。眼科に行きました。検査しました。水晶体に濁りがあり、カンジタ性の飛蚊症でした。

 

②下顎頭(mandibular condyle)
<体験談>一番最初に現れた症状で、左奥歯の奥の内壁に、1cm径の楕円の大きな口内炎ができました。歯ブラシで剥すと赤く血が滲みました。驚いて歯科に来ました。医師が診て、すぐカンジタだと言われました。

 

③耳(ear)
<体験談>寝ている時、左耳から液が出ていることに気付きました。綿棒で液を吸い取り、耳を乾燥させました。しかしまた液が出てきました。耳鼻科に行きました。耳の液の菌検査結果はカンジタ菌でした。耳から出てきた液は、カンジタ性の『耳漏』でした。
* ③耳(ear)は、シャニダール1号も外耳道の骨化閉塞があるという記述も見かけるのですが、元文献を見かりませんでした。

 

④第5頸椎の前下端(antero-inferior edge of C5 vertebral body)
<体験談>喉扁桃、首の横を指で抑えると、骨のように硬く尖ったものができました。首の前の喉ボトケとは違います。喉ボトケ斜め上くらい、首の横です。

 

⑤肩甲骨の鉤状突起(corocoid process of scapulardy)
<体験談>左腕が、痛いため肩の高さより上げられません。右手で抑えて確認すると、特に、背中側の首の付け根、左肩の肩関節の少し下(背中側)に、強い痛みがありました。左腕が上がりません。

 

以上が自分の体験談との対比です。眼窩、口腔、耳鼻咽喉、そして腕が上がらなくなる肩甲骨、これらは自分の体験と完全に一致します。『頭蓋変形』の風習のあるネアンデルタール人の
シャニダール1号は、カンジタ(Candida)症です。



以下は引用した『シャニダール1号の遺骨の病変箇所』です。
①左眼窩
[Lietava, p185] 

<Original> "The skull. In the area of the right frontal tuber there is a scar due to a blunt injury, with no signs of lamina externa fracture. The splanchnocranium exhibits a crushing fracture of the left orbit's lateral wall interferring with the frontal process of the zygomatic bone and zygomatic process of the frontal bone. The fracture was fully healed intra vitam with the remaining deformity and the narrowing of the left orbit's lateral wall."
<概訳> 頭蓋骨。 右前頭結節の領域には鈍的外傷による傷跡があり、外板骨折の兆候はありません。 内臓頭蓋は、頬骨の前頭突起および前頭骨の頬骨突起を妨害する左眼窩の側壁の破砕骨折を示す。 骨折は生体内で完全に治癒し、残りの変形と左眼窩の側壁の狭窄が見られました。

 

②下顎頭
[Lietava, p185] 

<Original> "The left mandibular condyle was affected by degenerative disease with outlined flattening of capitulum."
<概訳> 左下顎頭は、頭頂部の輪郭が平坦化した変性疾患に冒されていた。

 

③耳
カンジタ性の『耳漏』と外耳道の骨化が、カンジタの典型的な症状です。体験談でも、『耳漏』の漏出液の菌検査で、カンジタ菌が検出されました。シャニダール1号も外耳道の骨化閉塞があるという記述も見かけるのですが、元文献を見つけれませんでした。

 

④第5頸椎の前下端
[Lietava, p185] 

<Original> "The vertebrae. Despite the fragmentary condition of the vertebrae, we can detect osteophytes on the antero-inferior edge of the C5 vertebral body and an ossification in the ligamentum intervertebrale inf. sin. of L3."
<概訳> 椎骨。 椎骨の断片的な状態にもかかわらず、C5 椎体の前下端に骨棘と椎間靭帯の骨化を検出できます。 罪。 L3の。

 

⑤肩甲骨の鉤状突起
[Shanidar_1, p411]  
<Original> "The diagnosis is supported by small enthesopathic osteophytes on the preserved femoral greater trochanter and scapular corocoid process."

<概訳> 診断は、保存された大腿骨大転子および肩甲骨の鉤状突起にある小さなエンセソパシー性骨棘によって裏付けられます。


この"9.3."の引用文献
[Lietava]
JAN LIETAVA, ANTHROPOLOGIE XXVI/3: 183-196, 1988
A DIFFERENTIAL DIAGNOSTICS OF THE RIGHT SHOULDER GIRDLE DEFORMITY IN THE SHANIDAR 1 NEANDERTHAL

 

[Shanidar_1]
Shanidar 1 : A Case of Hyperostotic Disease (DISH) in the Middle Paleolithic
Eric Crubezy and Erik Trinkaus, American Journal of Physical Anthropology 89: 411-420 (1992).

 

トップに、赤い芽が出てきました。
真芽です。


写真は、水やり時です。

水やり具


外径3mm内径1mmのステンレスパイプ

先端は、水やり時に傷付けないように、丸く鏡面

9. History of Cranial Deformation & Coins
『頭蓋変形(cranial deformation)』は、世界的には膨大な数の発掘例があります。ただし日本の『頭蓋変形』の遺跡数は大変少なく、熊本県の和水町の遺跡と鹿児島県南種子町の広田遺跡で確認されているくらいです。しかし広田遺跡だけで39体もの『頭蓋変形』の遺骨が、集中的に発掘されています。最初に広田遺跡を見ます。次に、"9.2.Ganj Dareh の頭蓋変形"、"9.3.Neanderthal Shanidar 1" では最も古い頭蓋変形を見ます。"9.4.Whirlpool of Bhitari Pillar" は、Huna Coinsに攻め込まれたインドの状態が刻まれています。"9.5.亀茲の頭蓋変形と官製遊廓" では、大唐西域記より亀茲の『Coins・遊郭』とコンビの頭蓋変形を見ます。そして"9.6." 以降で、日本の『Coins』を『神功開寶』を中心に見ます。

 


9.1. 広田遺跡の頭蓋変形
日本で『頭蓋変形』が確認された広田遺跡は、鹿児島県の種子島の島の南部域の南種子町です。広田遺跡の始まりは、次のように記されています。

 

[木下尚子2020, p314]
"広田遺跡は、広田式古期 (
弥生時代終末期から古墳時代初頭並行期) に、オオツタノハ腕輪をはめヤコウガイ匙を副葬し在地墓制(覆石墓)を継承する人々が、砂丘北側に埋葬されることで始まった墓地である。腕輪の着装は、九州人のオオツタノハ需要に対応して導入された可能性がある。筆者は装身具によって広田人を分類し、彼等を腕輪グループの人々と呼んだ。"
着目点は「広田遺跡は弥生終末に始まった。」ことです。そして、広田式古期(弥生終末-古墳初頭)は、在地墓制の腕輪グループだけだった。

[木下尚子2020, p314]
"広田式新期 (古墳前期-中期初頭並行期) になると、腕輪グループの人々に加えて、それまでにみられなかった、彫刻をもつ貝符、竜佩型貝製垂飾、大量の貝製玉類で飾られる人々 (貝符グループの人々) が、配石墓・土坑墓、側臥葬、二次葬、墓を上に重ねる埋葬習俗を伴って加わり、砂丘南側に二つの異なる習俗をもつ人々の共同の墓地が形成され始める。"

広田式新期(古墳前期-古墳中期並行)に、異なる墓制の貝符グループが新たに加わった。

 

[木下尚子2020, p314]
"二つのグループは対峙していたが排他的ではなく、相互の装身習俗・埋葬習俗はすみやかに融合し始める。"

在地系の腕輪グループ、そして

非在地系の新規参入の貝符グループ
この2つのグループは、最初は対峙した。しかし、
すみやかに融合した。このように要約できそうです。

 


表の中央の"広田遺跡の土器型式"の縦欄で、"広田式"/"(古)"は弥生時代の終末期に始まっています。そして"(新)"と続いています。その右の"貝符による時代区分"の縦欄で、"下層タイプii貝符"があります。

 

これが次図の最上段の図柄の"広田下層式ii類?"です。乳房タイプです。図中では双眼類と記されています。熊本県和水町のチブサン古墳と全く同じ図柄です。朝鮮半島系です。

しかし左端列だけ異なり、幾何学パターンです。BC900頃のギリシャのスパルタの土器の口縁部と同じです。ギリシア雷文(meander)です。豚骨ラーメン丼の縁には必ず付いています。スパルタはエーゲ海ではなく、東地中海の東岸系です。古のビシュリ山の遊牧商人Amurru、青銅器帝国シュメール語でMartuです。ただしBC1100以降はハマ・ダマスカスを拠点とする"Syro-Hittite"の鉄器商人アラム人に変わっています。しかし日本の考古学では、この幾何学パターンを「工字文」と呼びます。「工字文」を持つ土器を「大洞式土器」と呼びます。以前は「亀ヶ岡式土器」と呼ばれていました。標識遺跡は大船渡市の「大洞貝塚」です。「大洞貝塚」の時期は日本の縄文晩期です。日本の縄文晩期は確定していなく、BC1046(周建国)からBC770(東周再興)と幅があります。BC900頃のギリシャのスパルタとほぼ同時期です。スパルタは頭が変形する系列かもしれません。

『頭蓋変形』
日本国内では数箇所しかない『頭蓋変形』の遺跡ですが、広田遺跡だけで39体もの『頭蓋変形』の遺骨があります。
[米元史織 et al., p266]
"観察可能であった頭蓋骨52体分のうち、後頭部が扁平を呈する(左右非対称の変形も含む)頭蓋骨は39体であり..."

 

次は『頭蓋変形』とは関係ない殴打による頭蓋骨陥没骨折です。虐待の痕跡です。
[米元史織 et al., p266]
"広田遺跡出土人骨の中で最も特徴的であった個体がC地区8号人骨である。…前頭骨の右側に陥没痕が認められる(馬場 1998)。これは先述した頭蓋変形と関連する可能性のある陥凹とは形態的に異なり、頭蓋骨の陥没骨折の可能性がある。前頭部の陥没骨折は小物体の打撃などによって生じることが多いと指摘されている(萩野・松島 2009)が、陥没の範囲が広く右側に円形状の凹みが確認される。外傷であった場合石鏃のような先端鋭利なものよりも鈍器による外傷が想定される。"
[米元史織 et al., p267]
"N2号西側人骨・C地区4号人骨の後頭骨中央部に陥凹が、A地区8号人骨の前頭骨中央部とC地区5号人骨の前頭骨左側に陥凹が認められた。A地区8号・C地区5号人骨の前頭骨の陥凹は、形状がC地区8号人骨のそれとは異なり陥凹の面積が狭く、左側の創縁が明瞭で深い破裂傷と考えられ、鈍体による作用の結果の可能性も考えられる(石山 1978)。上記5体が何らかの外傷を頭蓋骨に受けた可能性があるが、いずれもよく治癒している。"

頭蓋骨が陥没骨折するほど、激しい殴打による虐待を受けています。しかし致命傷ではありません。治癒しています。死なない程度に激しく殴打。

 

[米元史織 et al., p266]
"下層から出土したと考えられる頭蓋骨は79体分であった(表2)。そのうち性別のわかる個体(表3)は男性28体、女性28体と同数であった。…未成人は5体のみであり下層人骨のみにおいても中橋(2003)で指摘された未成人骨の少なさは看取される。"

弥生時代は一般に乳幼児の死亡率が高く、墓地での乳幼児の遺骨の割合は通常は4-5割ある。ところが5体のみで1割にも満たず少なすぎる。これより広田遺跡は、生活し、出産し、育児をするという生活形態は無い。奴隷が連れて来られ、貝符製作の労働を強制される。死ねば、新しい奴隷を連れてくる。奴隷が逆らえば容赦なく死なない程度に激しく殴打する。そして、他の奴隷への見せしめにもする。
広田遺跡は、貝符製作の奴隷村だった。

 

広田遺跡のこの状態は、8世紀まで、一部は9世紀初めまで続いたようです。(上記の図5より) 日本の時代区分では、『日出ずる国の天子、日没する国の天子へ…』で始まる遣隋使の上奏文、つまり7世紀初め頃が最盛期のようです。ただ「日没する国と言われ激怒した隋の煬帝が秘密裏に討伐軍を出し、鹿児島南部の隼人を討伐して、連れ去った。」という逸話があります。「隼人は閑散となった。」という記録はあります。しかし7世紀末の天武天皇の親政、そして8世紀の平城京の時代も、南種子町広田遺跡の貝符製作は続いています。そして京都の平安京になった9世紀初め頃に、南種子町広田遺跡は終焉しています。平安京に遷都したのは桓武天皇です。"和同開珎"、"神功開寶"などの銅銭の発行が定着しました。殷商のように、"貝貨"が貨幣として採用される可能性は全く無くなった。
 

 


朝鮮半島の弥生終末期 (AD245-248)
広田遺跡は弥生終末に始まっていました。補足としてAD245-248の朝鮮半島を見てみます。AD245、朝鮮半島の魏の"帶方太守"の"弓遵"が賊に殺されました。これがトリガーです。魏の弱体化が露呈しました。AD245-248が日本の弥生終末期です。わずか3年間ですが、勢いついた朝鮮半島の反女王卑弥呼グループが、大挙して九州北部へ乗込んできました。九州北部では弥生終末期の朝鮮半島系の住居跡や出土遺物が大量に発掘されています。
まず注目するのは、女王卑弥呼を討ったと記録されている、南の"狗奴國"の"狗古智卑狗"です。遠賀川河口の芦屋に上陸して、遠賀川沿いを南下し、熊本北部の菊池川流域へ廻り込みました。女王卑弥呼に従わない"狗奴國"の"狗古智卑狗"の根拠地です。この"狗奴國"がAD247に女王卑弥呼の吉野ヶ里遺跡を攻めました。そして女王卑弥呼は没した。(没年が無く、翌AD248としています)
以下、古文書記録を見てみます。最初は弥生後期後半『AD238の女王卑弥呼の魏への朝献』をおさらいします。次に弥生後期末つまり弥生終末AD245-248の『激動の朝鮮半島の情勢』を見てみます。

AD238の女王卑弥呼の魏への朝献
[魏志倭人傳]
<原文> "景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻…"

<概訳・コメント> 景初二年(AD238)六月、倭女王が帯方郡に来訪し、天子への朝献を求めた…
"其年十二月、詔書報倭女王曰:「制詔親魏倭王卑彌呼…"
<概訳・コメント> 景初二年(AD238)十二月、詔が出て、倭女王卑弥呼を「親魏倭王」とする…
[魏志明帝紀2]
<原文> "(景初二年)十二月乙丑、帝寢疾不豫。"

<概訳・コメント> 景初二年(AD238)十二月乙丑の日、帝が重病で倒れた。前述の[倭人条]では、景初二年十二月に倭女王への「親魏倭王」の詔を決定しています。重病で倒れた後に詔を出すはずがありません。延期になるはずです。詔を出したのは倒れる前、十二月初旬頃です。直後の十二月中旬に明帝は重病で倒れた。あっけなく、翌景初三年正月元旦に崩じた。倭女王へ金印授与の詔を出した明帝は、反女王卑弥呼グループによって毒殺されたと、断定します。しかし倭女王へ授ける鉄刀は計画通り、景初三年夏に作製された。そして翌年の正始元年春に金印・鉄刀・銅鏡100枚などが倭女王へ直接授けられた。以上、倭女王の朝献を景初二年(AD238)六月とすれば、タイムラインでの全ての話のつじつまが合う。
<原文> "三年春正月丁亥、…即日、帝崩于嘉福殿、時年三十六。癸丑、葬高平陵。"
<概訳・コメント> 景初三年春正月丁亥の日、帝は嘉福殿で崩じた。享年三十六。仮に、倭女王の朝献を景初三年(AD239)六月とするならば、明帝は昇天後の御陵?で、倭女王の朝献遣使に謁見。?

AD238朝献 - - AD239に鉄刀作製 - - AD240女王へ - - -
[魏志倭人傳]
<原文> "正始元年、太守弓遵…奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王…"

<概訳・コメント> 正始元年(240)、帯方太守弓遵が…詔書・印綬・鉄刀・銅鏡100枚などを倭国の倭王に直接授けた。
<原文> "(正始)其四年、倭王復遣使…"
<概訳・コメント> 正始四年(243)、女王卑弥呼が再び朝献した。

 

AD245-248日本では弥生終末 - - -
[魏志倭人傳]

<原文> "(正始)其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。"
<概訳・コメント> 正始六年(245)、帯方郡から倭を呼び出した。朝鮮半島での戦乱が原因ですが、後で見ます。
<原文> "(正始)其八年、太守王頎到官。"
<概訳・コメント> 正始八年(247)、賊に殺された帯方太守弓遵の後任、新しい太守王頎が着任。
<原文> "倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和…"
<概訳・コメント> 倭女王卑彌呼は狗奴国のAD247当時の男王の卑彌弓呼と元々不和で
<原文> "…其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。"
<概訳・コメント> その南の狗奴国の男王は狗古智卑狗。女王に属さず。
<原文> "卑彌呼以死…。"
<概訳・コメント> 卑彌呼が没した。没年が無いので翌AD248としています。
[魏志韓傳]
<原文> "景初中、明帝…越海定二郡、諸韓國臣智加賜邑君印綬、其次與邑長。"

<概訳・コメント> 参考として "狗古智卑狗"の"智"の漢字の意味を考えてみました。まず上記原文の概訳は景初中(237~239)、明帝は…海を越えて楽浪帯方2郡を平定し、韓の各国の臣智を邑君、副官を邑長とした。文脈より"臣智"とは韓人の各国の君主または王です。上述の"狗古智卑狗"の"智"は韓人の王です。"狗古智"で、そのままの地名で、現在の"菊池"で残っています。 "卑狗"は、"彦"であり首長ですから、"狗古智彦"は現代風に言えば菊池市長です。また現在の菊池市の西隣が同じ菊池川流域で山鹿市です。遠賀川河口の芦屋町の遠賀川河口東岸が、山鹿という地名です。残っている地名から考えると、「遠賀川河口の芦屋に上陸した韓人が、熊本北部の菊池川流域の菊池市と山鹿市に移住した。」と推定できます。さらに山鹿市の西隣の同じ菊池川流域の和水町に「チブサン古墳」があります。乳房タイプの図柄です。女王卑弥呼を討ったと記録のある狗奴國の推定地は、菊池市・山鹿市・和水町と相当広範囲です。

AD245-248の激動の朝鮮半島の情勢 (帶方太守の弓遵に着目)
[魏志韓傳] 濊
<原文> "正始六年、樂浪太守劉茂・帶方太守弓遵以領東濊屬句麗、興師伐之、不耐侯等舉邑降。"

<概訳・コメント> 正始六年(245)、楽浪太守劉茂と帶方太守弓遵は、東濊が高句麗に服属して、郡に従わないので、軍隊を出動して討った。東濊の不耐侯らは邑を挙げて服属してきた。AD245帶方太守の弓遵はまだ生存しています。
[魏志毌丘倹傳]
<原文> "(正始)六年、復征之、宮遂奔買溝。儉遣玄菟太守王頎追之、過沃沮千有餘里、至肅慎氏南界"

<概訳・コメント> 正始六年(245)、再び高句麗を討った。高句麗の東川王は買溝に逃走した。玄菟太守の王頎が追討し、威鏡道あたりの沃沮を通り過ぎ、さらに東へ千余里、粛慎の南限まで追討した。AD245、江原道の東濊・高句麗、威鏡道の沃沮さらに肅慎氏南限、はるか東の現在のアムール川のハバロフスク付近まで追討しています。朝鮮半島北部を徹底的に討伐しています。厳しい追討で、反女王卑弥呼グループは、さらに東へ、サハリン・北海道さらに青森まで逃げたかもしれません。南へは九州北部さらに九州南部・沖縄まで逃げたかもしれません。反女王卑弥呼系の逃亡兵が、大挙して日本列島に逃げ込んで来たことになります。AD245、日本の弥生終末が始まる。
[魏志韓傳]
<原文> "分割辰韓八國以與樂浪、吏譯轉有異同、臣智激韓忿、攻帶方郡崎離營。時太守弓遵・樂浪太守劉茂興兵伐之、遵戰死、二郡遂滅韓。"

<概訳・コメント> 帯方太守の弓遵が戦死。没年AD245 or AD246 (記載が無い)。
[魏志倭人傳]
<原文> "(正始)其八年、太守王頎到官。"

<概訳・コメント> 正始八年(247)、賊に殺された帶方太守の弓遵の後任、新しい帶方太守の王頎が着任。王頎はAD245は玄菟太守でした。AD247に新しい帶方太守として着任していますから、前任の弓遵の没年は、その前のAD245 or AD246です。AD245弓遵の生存は確認されています。しかし、弓遵没をAD245の年末と仮定します。日本の弥生終末はAD245末からです。

広田遺跡と朝鮮半島情勢の関連性
AD245、朝鮮半島は激動であり、反女王卑弥呼の逃亡兵が日本列島へ大挙逃げ込んで来ていました。日本の弥生終末期です。南種子町に現れた新しい外来系の貝符グループも、この時の逃亡兵でしょう。
途中、熊本北部の菊池川流域に狗奴国の拠点があります。この中の和水町でも、日本では数少ない広田遺跡と同じ『頭蓋変形』が、確認されています。AD245、日本の弥生終末期、朝鮮半島AD245→九州北部・芦屋→熊本北部の和水町→鹿児島の南種子町という経路が想定できます。逃亡兵であるため、朝鮮半島に近い九州北部は素通りして、ずっと奥(南)の山影や、更にずっと南の離島・種子島へ逃げ潜んだのでしょう。
南種子町で貝符製作を始めた逃亡兵は、貝貨を使っていた昔の中国の殷(-Ad1046)の残党である、中国の西遼の夏家店上層文化の"赤峰,Chifeng"、"大凌河,Daling River"だと想像できます。円形の銅銭だけでなく、刀銭・刀幣も使われていました。金貨用の金山ならぬ、貝貨用の貝海です。奴隷を使って貝を採らせ加工すれば大金持ちです。
一方、広田遺跡で発掘される貝符の幾何学紋様は、熊本北部の和水町の隣の山鹿市の装飾古墳であるチブサン古墳の幾何学紋様の乳房タイプに大変よく似ています。赤峰は、騎馬族の放牧牛ではなく、元々Kushanヒンズル教で農業奴隷女の雑穀豚畜産です。たとえそれが幼い赤ん坊であったとしても神の力がみなぎる。装飾は、PAINTEDの彩陶系です。Cucuteni- Trypillianです。

 

貝の加工所だけに、『頭蓋変形』が局所的に集中しています。ある特定のグループである『殷の貝貨の残党』と確信します。

『頭蓋変形』
=殷の貝貨の残党
=夏家店上層文化の"赤峰,Chifeng"、"大凌河,Daling River"
=反女王卑弥呼
=魏の曹操・青州兵

※ 魏の曹操は、女王卑弥呼の出身地である山東省で、川が血の海になるほど徹底的に皆殺しにしましたから。殷の姜族虐殺は有名です。『頭蓋変形』は軽いものです。

日本での珍しい人工頭蓋変形の広田遺跡を見ましたが、世界の『人工頭蓋変形』の歴史は相当古く広域です。さらに「9.3」で後述するShanidar caveの最下層のネアンデルタールの『人工頭蓋変形』は6万年前とさらに限りなく古いです。これから見ると、6万年前のネアンデルタールのShanidar caveの風習が、BC10000にホモサピエンスのNatufian系のShanidar cave、さらに中国の吉林省Houtaomugaでも、復活したことになります。フランスの農民では、ごく最近まで、バンダナを巻くという『人工頭蓋変形』が普通に実施されていました。6万年前のネアンデルタールから『人工頭蓋変形』の歴史は続いています。

 

 


この"9.1."の引用文献

 

[木下尚子2020]
"第1章 土器とその移動"
https://kumadai.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=31734&item_no=1&attribute_id=21&file_no=8&page_id=13&block_id=21

木下尚子 , 第Ⅱ部 第3章 広田人とその移動 2.埋葬と装身習俗から見た広田遺跡 - 下層期の3-5世紀を中心に -, pp.281-327, 木下尚子編 広田遺跡の研究 人の形質・技術・移動, 平成29年度-令和元年度科学研究補助金基盤研究(B)研究成果報告書, 2020.

[米元史織 et al.]
"第3章 広田人とその移動" 
https://kumadai.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=31753&item_no=1&attribute_id=21&file_no=1

米元史織 et al., 第Ⅱ部 第3章 広田人とその移動 1. 広田遺跡出土人骨の再検討, pp.263 - 279,  木下尚子編 広田遺跡の研究 人の形質・技術・移動, 平成29年度-令和元年度科学研究補助金基盤研究(B)研磨孔報告書 , 2020.

三國志 (5冊組), 陳壽, 中華書局, 1959.
[魏志倭人傳] 第2/5冊(魏書2), 巻30, 烏丸鮮卑東夷傳:倭人.
[魏志東夷傳] 第2/5冊(魏書2), 巻30, 烏丸鮮卑東夷傳:東夷
[魏志韓傳] 第2/5冊(魏書2), 巻30, 烏丸鮮卑東夷傳:韓
[魏志毌丘倹傳] 第2/5冊(魏書2), 巻28, 王毌丘諸葛鄧鍾傳(1):毌丘倹.
[魏志明帝紀2] 第1/5冊(魏書1), 巻3, 明帝紀(2):明帝

 

8.25. フン族が現れる AD370
AD370、フン族がボルガ川を西へ渡り、初めて騎馬族の大軍が認識されました。フン族は、阿蘭を取り込み、更に西進して東ゴート族、西ゴート族を追討しながら、ヨーロッパへ突入しました。

ほぼ同時期、AD370頃、Kidariteが、中央アジアのKushanを完全に駆逐しました。Kushanは東からGuptaにも攻められ滅びました。インドはGuputa朝、中央アジアはKidarite、という勢力図に変わりました。中央アジアはKidarite, Alchon, Nezak, Hephthaliteと続くHuna支配者となります。神をも凌ぐHuna支配者は、イラン様式に習いCoins発行を始めます。Kidaritesは、4世紀末にカシミール・カラコルムに縮小します。中央アジアではAlchonが覇者となります。Hunaは南下してインドへ攻め込みます。

 

一方、HUNAに攻め込まれたインドのグプタ朝は大騒動です。AD460、インドのグプタ朝のSkandaguptaが、Bhitari Pillarの石碑に刻んでいます。Hunaに攻め込まれ、その時のダメージが記録されています。
 "the earth was made to tremble…, since he caused a terrible whirlpool",
 "sounds like the twanging of bow (sarṅga) in ears." (sarṅga=Ganges River)

Gupta Empire は急速に勢力を失い、100年後に完全に消滅します。Bhitari Pillarは、"9.4. Whirlpool of Bhitari Pillar"で見ます。

シルダリア川の北に粟特という国があります。
[北魏書 卷一百二 列傳第九十 粟特]
<原文>“粟特國,在葱嶺之西,古之奄蔡,一名溫那沙。居於大澤,在康居西北,去代一萬六千里。先是,匈奴殺其王而有其國,至王忽倪已三世矣。”

<概訳> "粟特" (Sogdiana)は、"葱嶺"(パミール高原)の西。古の奄蔡。"粟特"の別名は"溫那沙"。大きな湖の湖畔で、西北に康居。"代", "北魏"から1万6千里。匈奴がそこの王を殺して"粟特"王となった。それから3世代。
<コメント> カザフスタンのタラス川付近です。"粟特"は、全くの"匈奴"です。1世代20年として60年前。次の文がAD450頃なので、AD390頃。ペルシャの記録では、AD390頃にトルクメニスタン・イラン北東部へ東からKidaritesが攻め込んでいます。Kidaritesは中国名では"粟特"で、別名が"溫那沙"のようです。モンゴル語の"荷車" (Tegreg)のカザフ語への転写かもしれません。Kidaritesの本拠地はアフガニスタン・パキスタン北部です。記述にある"粟特"はウズベキスタンのさらに北のカザフスタンの西南部です。"粟特"はそこに60年間居ます。Kidaritesの居場所より北です。AD370-390頃のKidaritesと"粟特"の連合軍かもしれません。Kidaritesは4世紀末にカシミール・カラコルムへ縮小します。402年には東のモンゴル高原で"社崙"が覇を唱えます。さらに"大檀"が428年に覇を唱えます。390-440が"溫那沙","社崙","大檀"の絶頂期です。

 

<原文>“其國商人先多詣涼土販貨,及克姑臧,悉見虜。高宗初,粟特王遣使請贖之,詔聽焉。自後無使朝獻。”
<概訳> 粟特の多数の商人が涼州に来てcoinで取引していた。姑臧を捕虜にした。北魏の高宗(AD452-465)初のAD452頃、粟特は捕虜の姑臧を買い取るように要求してきた。北魏はこの申し出を聴きいれた。粟特は以後、朝献しなかった。

 

粟特の北に悅般という国があります。
[北魏書 卷一百二 列傳第九十 悅般]
<原文>“悅般國,在烏孫西北,去代一萬九百三十里。其先,匈奴北單于之部落也。為漢車騎將軍竇憲所逐,北單于度金微山,西走康居,其羸弱不能去者住龜茲北。地方數千里,眾可二十餘萬。涼州人猶謂之「單于王」。其風俗言語與高車同,而其人清潔於胡。俗剪髮齊眉,以醍醐塗之,昱昱然光澤,日三澡漱,然後飲食。其國南界有火山,山傍石皆燋鎔,流地數十里乃凝堅,人取為藥,即石流黃也。”
<TRANS>-
<原文>“與蠕蠕結好,其王嘗將數千人入蠕蠕國,欲與大檀相見。入其界百餘里,見其部人不浣衣,不絆髮,不洗手,婦人舌舐器物,王謂其從臣曰:「汝曹誑我入此狗國中!」乃馳還。大檀遣騎追之不及,自是相仇讎,數相征討。”<TRANS>-
<コメント> 涼州人は「單于王」と慕っています。風俗言語は高車と同じです。風貌も鼻が高い。ヨーロッパに現れたフン族とは全く異なります。次の文のように社崙・大檀の柔然を嫌っています。つまり悅般は北からカザフスタンのPavlodar Provinceに南下してきた別の種族のようです。

 

<原文>“真君九年,遣使朝獻。并送幻人,稱能割人喉脉令斷,擊人頭令骨陷,皆血出或數升或盈斗,以草藥內其口中,令嚼咽之,須臾血止,養瘡一月復常,又無痕瘢。世祖疑其虛,乃取死罪囚試之,皆驗。云中國諸名山皆有此草,乃使人受其術而厚遇之。又言其國有大術者,蠕蠕來抄掠,術人能作霖雨狂風大雪及行潦,蠕蠕凍死漂亡者十二三。”<TRANS>-
<原文>“是歲再遣使朝貢,求與官軍東西齊契討蠕蠕。世祖嘉其意,命中外諸軍戒嚴,以淮南王他為前鋒,襲蠕蠕。仍詔有司以其鼓舞之節施於樂府。自後每使貢獻。”
<概訳> 同じ真君九年(AD448)、悅般が再び北魏へ朝貢して来て、協力して"蠕蠕" (Juan-Juan, or 柔然)を討伐しようと提案してきた。北魏の世祖(AD423-452)は大いに喜び、北魏軍を出し、"蠕蠕" (Juan-Juan, or 柔然)を討伐した。悅般は以後、毎年北魏へ朝献した。
<コメント> しかし、少し後、 たぶんAD452, "蠕蠕" (Juan-Juan, or 柔然)が悅般へ攻め込み、悅般は行方知れずになります。直後に、南の粟特の地域にHephthalitesが現れます。Alchon、Hephthalitesの『頭蓋変形』のcoinは有名です。Hephthalitesの支配勢力は、完全に"蠕蠕" (Juan-Juan, or 柔然)と旧粟特です。

話が少し前後します。 中央アジアのKidarites = Kan Ishka (韓 石家, Japanese) は、4世紀末にカシミール・カラコルムへ縮小しました。 しかし元々アルタイから来たと言われる Kan Ishka (韓 石家, Japanese)は、東へ返り咲きます。"蠕蠕" (Juan-Juan, or 柔然)の"社崙" (AD402-410)、"大檀" (AD414-429) として、モンゴル高原の覇者になります。モンゴル帝国の首都名はカラコルムです。

真君九年(AD448)に、北魏・悅般連合軍が"蠕蠕" (Juan-Juan, or 柔然)を攻めた。逆にAD452に"蠕蠕" (Juan-Juan, or 柔然)が悅般に攻め込み、悅般は行方知れずになった。さらに北魏の高宗(AD452-465)初のAD452頃、粟特が北魏へ涼州の姑臧の捕虜を買い取るように要求してきた。これより、粟特と"蠕蠕" (Juan-Juan, or 柔然)は連合軍です。
旧粟特の地域のHephthalitesが現れます。そしてHephthalitesはAD484頃にはペルシャも破る『頭蓋変形』の最強の軍団になっています。Hephthalites自身のcoinでは、その王の『頭蓋変形』がハッキリ確認できます。Coinの図柄の王の風貌はAsia系とは異なります。中央アジアに残っていたギリシャ系とも少し異なります。しかし鼻が高く北方の民族です。悅般と涼州はウラル山脈の西側さらにカザンタタールの北から来たようです。
AltaiのKarasuk付近の高車も"蠕蠕" (Juan-Juan, or 柔然)と争っていましたが反乱を起こします。

 

高車とは
先に周辺の地図を見てみます。バイカル湖南と北は"丁零" (Dingling)です。その南は"鮮卑" (Xianbei)。さらに南は赤峰付近の"烏恒" (Wuhuan)です。 "蠕蠕" (Juan-Juan, or 柔然)の主体は古の赤峰 (Chifeng)の北の"東胡" (Donghu)です。匈奴は遺恨の宿敵です。さらに"東胡"のオリジナルはCucuteniです。"蠕蠕" (Juan-Juan)はAD560に西へ敗走した時、Cucuteniからカルパチア山脈を越えて中欧ハンガリーまで逃げています。
一方、中央アジアのKushanのKan Ishka (韓 石家, Japanese pinyin)は、AD402に社崙としてモンゴル高原に戻ってきています。さらにAltai西部の旧悅般の地域で、"鐵勒" (Tiele)または"荷車" (Tegreg)となっています。騎馬族の匈奴は、チャリオット戦車の覇権を奪われた宿敵です。カザフスタン・モンゴル高原での放牧には騎馬族が絶対的に優位です。Kan Ishka (韓 石家, Japanese)のオリジナルはMykopです。中国では、"石家莊" (Shijiazhuang)が根拠地です。ロシアでは、"蠕蠕" (Juan-Juan)の時代のKhakassia (墓 石家, Japanese)に痕跡があります。中国の山西省、モンゴル高原、ロシアのKhakassiaは、石炭の共通点があります。モンゴル系の地域です。今でも石炭が露天掘りで採掘されています。
そして"高車" (Gaoche)は、古のスポーク車輪のShintashtaを通過して来たのは確実です。"高車"とその南の"悅般"は同じ風俗言語です。"悅般" (Yueban)と"涼州" (Liang Province, now Wuwei-city)は同族のようです。"高車" (Gaoche)と風俗言語が同じ"悅般" (Yueban)と"涼州" (Liang Province)ですが、"高車" (Gaoche)とは少し異なるルートで西北から来たようです。"悅般"は、テュルク系の"蠕蠕" (Juan-Juan)とは異なる言語であり、"蠕蠕" (Juan-Juan)の風俗を嫌い、ずっと争っています。"悅般" (Yueban)と"涼州" (Liang Province)は、AD452、"蠕蠕" (Juan-Juan)と"粟特" (Sogdiana)に同時に滅ぼされています。

 

AD550頃の高車の反乱は"蠕蠕" (Juan-Juan)が鎮圧します。しかし、この時に鍛鉄奴隷であった突厥が独立して、"蠕蠕" (Juan-Juan)を滅ぼします。これから考えると高車と突厥は近い関係にあるように思われます。モンゴル高原の"蠕蠕" (Juan-Juan)は560年頃に完全に滅びます。
敗走した"蠕蠕" (Juan-Juan)は、カフカス東部でApal、東欧・中欧ではSvarです。特にHungaryでは、『頭蓋変形』の風習が、相当後年まで確認されます。支配階級の遺骨は欧州系ではなく、完全にアジア系です。カザフスタン系ではなく、モンゴル系ということです。AD370に欧州に侵入したHuns、AD560にモンゴル高原の"蠕蠕" (Juan-Juan)が西へ敗走したSvar、これらをまとめて、欧州ではフン族と認識しているようです。欧州では、フン族の起源を、モンゴル高原の北匈奴とする説が優勢です。ただ欧州ではSvarを出戻りとも認識しているようです。混在です。一方、モンゴルの突厥では、「お客さんを追い返した」、「2度と来るな」との逸話も残っています。強烈な「フン族遮断」の歴史は続きます。
さらに中央アジアのHuna Coinsの最後のHephthaliteも、AD560に、北の突厥とイランのササン朝により滅ぼされました。

 


8.26. 亀茲(Kuqa)と『和同開弥』初鋳 AD640,AD708
AD560の中央アジアのHuna Coinsの滅亡に伴い、『頭蓋変形』の風習も終焉すると考えます。ところが『頭蓋変形』の風習は、秘かに継続していました。東の山を越えた中国のタリム盆地西部のカシュガル(Kashgar)と亀茲(Kuqa)でAD640に確認されています。唐の僧侶の大唐西域記に記録されています。この中で亀茲では官製遊郭もあります。日本の江戸時代に似ています。カシュガルと亀茲は共に治安が相当悪いと記されています。唐のこの僧侶はキルギスタン、カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、アフガニスタン、パキスタン、タジキスタンと中央アジアの全ての国を通過していますが、他に『頭蓋変形』の風習の特記はありません。カシュガルと亀茲だけです。BC560以前の中央アジアのHuna Coinsの残党が、西突厥とササン朝ペルシアから隔絶された山影で生き残ったようです。そして日本へ来た。

 

AD640頃、"唐" (Tang)から中央アジアへのシルクロードの天山南路では、Mani教が盛行していました。各拠点には大乗仏教の僧兵がいるのですが。西方のPersiaのSasanianの開祖はゾロアスター教の神官出身です。ゾロアスター教から派生したMani教は一部教義が似ているようです。Mani教はタリム盆地のシルクロードから更にイランへのmerchantの宗教です。"唐" (Tang)に見られるPersia系の特産品は、"Artificial Cranial Deformation"のstrange folkwaysのある喀什(Kashgar)と亀茲(Kuqa)を通過するシルクロード天山南路を経由して輸入されていました。Mani教のmerchantが通商の権益を握っていたようです。相当高額だったでしょう。

 

最後に「日本へのコイン発行の渡来」です。AD663に呉系の百済は唐・新羅連合軍に敗れ滅びました。AD668に遼東の高句麗も滅びました。遼西の赤峰(Chifeng)・胡芦島は、渤海の海人がいなくなった為に、渤海・黄海の海路を失いました。しかし渤海の海人は東方へ逃れ、渤海国を建国しました。渤海国から日本海側の舞鶴への海路は、遣唐使も帰路に使うなど記録に残っています。この海路で、直接、東突厥の本物の牛飼い、さらにHuna Coinsの残党である亀茲・赤峰が流入したようです。平城京の初頭、AD708に和同開弥が初鋳です。平城京では唐車とも呼ばれる牛車が往来し、天然痘が流行りました。日本で初めて牛飼いが輸入された証拠です。遣唐使さらにモンゴル高原の突厥からの移民です。天然痘ワクチンは牛からつくります。天然痘ワクチンに関する歴史は古く、牛頭王薬師如来様が初めのようです。また舞鶴周辺の京都・福井・富山県は美人が揃っていることで有名です。


8.27. "炒鋼"story完結編
"炒鋼" Story (4/4) START:

"炒鋼"storyの完結編です。現在の製鉄法は、高炉-製鋼が7割、電炉-製鋼が3割です。製鋼のメイン工程が転炉つまり炒鋼です。炭素含有量の調節、そして現在の転炉は不純物除去もします。日本は1901年に英国より高炉-製鋼を技術導入しました。中国の四川省からではないです。中国の炒鋼は、ある時代から消えています。炒鋼は突然BC326に中国の四川省に現れ、秦(BC220-BC210)、前漢・後漢(BC202-AD220)、そして魏呉蜀の三国時代(AD220-AD265)は確実にありました。この時代の中国の皇帝から周辺諸国の王へ、炒鋼の鉄剣と高純度の金印が贈答されています。しかし西晋の後の中国は、五胡十六国の分裂状態の戦乱になって、はっきりしません。空白期間があって、中世の中欧そして産業革命の西欧に、確実に炒鋼つまり転炉が現れています。炒鋼は、何時、中欧に戻ったのか。

 

図は1つの可能性のあるタイミングです。中国が西域さらに中央アジアまで勢力圏を伸ばしたのは唐の時代です。1つの興味ある逸話があります。AD751に大国である唐・カルルク連合軍とイスラムの大国のAbbasidがカザフスタンのタラス川で対戦しました。この戦いでカルルクが敵に寝返り、唐軍は分裂して大敗しました。この逸話は、ずっと昔BC326、アレキサンダー大王がインダス川上流のCophenの戦いで副将を失い、中流域のHydapesの戦いで大王自身の愛馬を失った出来事と何か似ています。BC326のアレキサンダー大王の時は、炒鋼の工人が別れて東の中国の四川へ移動ました。このAD751の唐軍の時も、炒鋼の工人が別れて西へ戻ったという可能性です。別の逸話として、このAD751のタラス川の戦いの唐の大敗で、Abbasidの捕虜となった唐人から、Abbasidへ製紙技術が伝わりました。しかし炒鋼はAbbasidに現れていません。西へ飛んで中欧に炒鋼が現れています。途中がありません。図のように、AD751に北のMagyarokに一旦移住したのではないかと考えました。ウラル南麓のMagyarokの大公Arpadが、炒鋼のSteelを見て、再び特別褒賞が出た。Back to Belgrade.

AD890に大公Arpadに率いられ、南ウラルのMagyarokが、炒鋼の工人と共に中欧のハンガリーへ大移住した。中世のハンガリーそして隣国オーストリアでは、騎士の鉄の鎧と剣・斧型槍の武器は凄いものが揃っています。ハンガリーの北の古名がBadenであり、ヨーロッパの青銅器の故地のチェコとスロバキアです。ドイツとチェコ国境の世界遺産のErgebirge/Krusnohoriにヨーロッパの主要なSn鉱山があります。ハンガリーの南はセルビアで、マイナーなSn鉱山がDanub川南の鯖にあります。首都ベルグラードです。Indusの子供の元奴隷の炒鋼の発明者の故地です。1300年間の時を経て戻ってきました。これ以降、中世・産業革命と欧州が突出して発展します。

 

ただアルパード大公は、平坦な平野部で騎馬族が並んだフランク王国には敗北します。再び上述した10枚の平板です。地中海ではダマスカス鋼です。波線パターンの折り返し鍛造です。"折り返し" is great.

 

また中欧のロマ族にY-haplo Hが高頻度で確認されます。そしてロマ族は、今でも、南ウラルの古のアラン(阿蘭)の風習である馬車を住居とします。『インダスの子供の元奴隷が発明した"炒鋼"が、中国の巴蜀から南ウラルを経由して、中欧セルビアに戻った。』、という話の1つの拠りどころかもしれません。
"炒鋼" Story (4/4) END

 

8.22. 黄巾の乱 AD184-AD196

次は[後漢書・孝霊帝紀]の光和六年の文です。洪水と意味不明な文だけです。女王卑弥呼が後漢朝貢した為です。詳細はシリーズ2を見てください。
"光和六年" (AD183)
“夏,大旱。…秋,金城河水溢。五原山岸崩。…冬,東海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。”

 

翌年、中平元年春二月(AD184FEB)に、『蒼天已死、黄天當辰』のスローガンを掲げた"黄巾の乱"が勃発します。①-⑤の"黄天"の各拠点から次々と武装蜂起が起きます。"黄巾の乱"のトリガーは、上述の光和六年(AD183)の女王卑弥呼の後漢朝貢です。
"中平元年" (AD184)
“春二月,鉅鹿人張角自稱黃天,其部帥有三十六萬,皆著黃巾,同日反叛。安平、甘陵人各執其王以應之。”
“夏四月…汝南黃巾敗太守趙謙於邵陵。廣陽黃巾殺幽州刺史郭勳及太守劉衛。六月,南陽太守秦頡擊張曼成,斬之。冬十月,皇甫嵩與黃巾賊戰於廣宗,獲張角弟梁。角先死,乃戮其屍。以皇甫嵩為左車騎將軍。十一月,皇甫嵩又破黃巾于下曲陽,斬張角弟寶。”


"中平二年" (AD185)
“二月己酉,南宮大災,火半月乃滅。癸亥,廣陽門外屋自壞。”
"中平三年" (AD186)
“春二月,江夏兵趙慈反,殺南陽太守秦頡。”
中平三年、黄巾の乱は、小康状態になりました。

 

翌年の中平四年十二月に『內侯』(たぶん卑弥呼)へ、『假金印紫綬』の詔が出ています。
中平4年、女王卑弥呼は、再び『後漢朝貢』したようです。

ゆえに、再び黄天の武装蜂起が次々起きた。
"中平四年" (AD187)
“三月,河南尹何苗討滎陽賊、破之、拜苗為車騎將軍。…夏四月、涼州刺史耿鄙討金城賊韓遂,鄙兵大敗、遂寇漢陽、漢陽太守傅燮戰沒。扶風人馬騰、漢陽人王國並叛、寇三輔。”
“六月…漁陽人張純與同郡張舉舉兵叛,攻殺右北平太守劉政、遼東太守楊終、護烏桓校尉公綦稠等。舉兵自稱天子,寇幽、冀二州。…冬十月,零陵人觀鵠自稱「平天將軍」,寇桂陽,長沙太守孫堅擊斬之。”

“十一月,太尉崔烈罷,大司農曹嵩為太尉。”
⑤“十二月,休屠各胡叛。”
“是歲,賣關內侯,假金印紫綬,傳世,入錢五百萬。”

 

"中平五年" (AD188)
“春正月,休屠各胡寇西河,殺郡守邢紀。…三月,休屠各胡攻殺并州刺史張懿,遂與南匈奴左部胡合,殺其單于。…夏四月,汝南葛陂黃巾攻沒郡縣。”

東大寺山古墳で出土した"中平"鉄刀は、たぶん"中平五年五月丙午(AD188JUL07)" つまり七夕の日に製作された。
“六月丙寅,大風。”
“秋七月,射聲校尉馬日磾為太尉。”

 

"中平六年" (AD189)
“夏四月丙午朔,日有食之。…太尉馬日磾免…。丙辰,帝崩于南宮嘉德殿,年三十四。戊午,皇子辯即皇帝位,年十七。”
中平五年、女王卑弥呼への贈答は、太尉の馬日磾の指揮下、秘密裏に遂行されたようです。中平六年三月に、女王卑弥呼は、金印と"中平"鉄刀を、日本の九州北部で受け取った。皆が気付いた。中国では翌四月、太尉馬日磾は罷免され、さらに霊帝も崩御します。

 

一方、武装蜂起した黄天の各拠点を参考に以下に列挙します。
 鉅鹿人・甘陵人:趙魏斉そして燕の根拠地で①張角が蜂起。
 汝南・南陽:戦車の趙・韓の根拠地だった洛陽の南の大平原で蜂起。
 金城賊韓:馬家窯の蘭州で蜂起。(長城外)
 漁陽人:東胡の分派の烏桓で蜂起。燕です。
 休屠各胡:ついに胡が蜂起。旧東胡。(長城外)
 與南匈奴左部胡合:山西省北部の韓の封地の太原で長城内の胡が蜂起。
内モンゴルのオルドス(鄂尔多斯市)-フフホト(呼和浩特市)-赤峰の地域に黄巾賊の本拠地があるようです。かつての"Hamin Mangha, Miaozigou"の地域です。後の"柔然"または"蠕蠕" (Juan-Juan, or 柔然)です。"柔然"は、"韓"の"社崙"によって再興された国名です。"阿抜" (Avars or Apal)はその民族名です。辮髪が有名です。そしてそれは満州と同じです。ヨーロッパでは、"Apal"は"Svars"とも呼ばれます。また東ローマ帝国では"Apal"は"Hermichion"と記録されています。


 零陵人・桂陽・長沙:これは長江の南の湖南省です。道県の玉蟾岩(Yuchanyan)の東隣です。北の趙・韓・魏・斉とは異なり、舜陵のあるところです。Y-haplo Oが爆発的に増えたところです。

すぐ南に福建省の闽越(Maing Yue)と香港の百越(Bai Yue)があります。また日本の鹿児島県、川内ではなく、薩摩半島の南端の開聞岳の北麓に、瑞安瑞応院の『舜請の墓』があります。「目玉が飛び出して、神罰が…」という伝説です。『舜』という漢字は日本で他に使うことは無いです。東限は、富士川河口西側の浜松市辺りで、太平洋岸にポツポツと見かけますが珍しいです。次図のように中国南部の福建省や湖南省寧遠県の舜陵の系譜に琉球海路を通じてつながりがあります。
さらに北の黄天と南の黄天は中国の東海岸沿いの海路でつながっています。同じ瑞安という地名があります。葫芦島市はかつて端安県と呼ばれていました。南の瑞安は今でも健在です。浙江省最南部の飛雲江河口の瑞安華僑という商業集団です。すぐ南の福建省の泉州では中国で唯一のMani教寺院が継続しています。この地域は何度も討伐で鎮圧されているのですが、飛雲江河口を拠点とする海運華僑はそのたびに復活します。

 


8.23. 三国分裂 AD196-AD265
AD189に後漢の最後の皇帝である献帝が即位し、董卓に連れられ翌AD190西の長安に遷都します。しかしAD193に魏の曹操と斉の青州兵が、徐州の湅鋼の住民を皆殺し虐殺します。四川省の巴蜀の炒鋼は僚友を失い孤立します。中国の徐州は、日本の九州北部の女王卑弥呼の出身地です。女王卑弥呼は中国での拠り所を失いました。中国のこの大虐殺は、日本の女王卑弥呼が"中平"鉄刀を受け取った3年後です。金海の "退化" = "燕"が、怒り狂ったようです。

 

献帝がAD196に魏の曹操の根拠地の許に入城します。AD196-220、許が後漢の首都になります。AD220に後漢が滅びて、魏・呉・蜀の並立が始まります。しかし実質的にはAD196が三国時代の始まりです。

一方、中央アジアの大月氏のAD229の朝献の記録があります。
[魏志明帝紀] 太和三年 AD229
<原文> "太和…三年…十二月…癸卯、大月氏王波調遣使奉獻、以調為親魏大月氏王。"

<概訳> 太和三年十二月(AD229DEC)の癸卯の日、大月氏の王の波調が朝献して来た。魏の皇帝は、大月氏の王の波調へ、"親魏大月氏王"の称号を授けた。
<コメント> この大月氏の王の波調は、Vas udeva Ⅰ(AD191-227)とされていまが、年代が合いません。年代からは、波調はKan Ishka Ⅱ(AD228-248)です。Kan Ishka (韓石家, Japanese) は、盟友の"魏"に挨拶に来たように思える。Kan Ishka (韓石家, Japanese) は、元々、中国の "盧水胡"またはオルドス(Ordos, HUNANは黄河の南岸の意味)の出身です。

 

中国では、BC221-BC210の"秦"、そしてBC202からの"前漢"の時代、"炒鋼"による統一中国が続き、"退化"の"燕"は中国から追い出されました。しかし、AD196頃、"退化"が大きくなり、逆に"炒鋼"は小さくなっています。さらに"炒鋼"は、僚友の"湅鋼"を失い孤立しています。

 

一方、朝鮮半島南東岸の金海の大成洞の王墓が、AD150に木棺墓から木槨墓へ変わりました。木槨墓は"燕"の墓制です。これは、"炒鋼"により中国から追い出された"退化"の"燕"が、朝鮮半島の金海で、復活したということを意味します。

 

また木槨墓は元々はスキタイの墓制です。"8.21"の"AD136-150頃、ステップ草原の似た逸話集"で見たように、AD136-150頃、黒海北岸の旧王族スキタイから朝鮮半島南岸まで、旧王族スキタイが復活したことも示唆します。
AD150頃の金海の"袋状鉄斧"は7章の「7.金海の袋状鉄斧」で見ました。直接製鉄法の"塊煉鉄"です。これを鍛造法で折り返し鍛錬して成形し、表面だけを"浸炭"処理したものです。金海の製鉄は古のインド西端の国際貿易都市国家GujaratのKutch島の由来の"塊煉鉄"の直接製鉄法です。孔雀が出てきます。"許氏"です。更に金海では鍛鉄の"金氏"です。Kutch島はシリアのダマスカス鋼とも貿易があります。ローマ帝国の貿易地図にも出てきます。金海には"許氏"と"金氏"という系譜があります。ここに、表面処理だけの"退化"の"燕"が現れ、AD150頃に王墓だけが、"燕"の木槨墓となったようです。つまり朝鮮半島の"許氏"の金海の"退化"は、中国の魏の曹操の"許"です。BC221には"炒鋼"により中国から追い出された"退化"の"燕"が、AD150に朝鮮半島の金海で復活し、AD196に中国の魏の曹操の"許"となって戻ってきました。

 

"退化"が中国へ戻った理由が一つ想像できます。次のような「アルタイ鍛鉄」と「鉄の冷却固化現象」の例え話です。
"炒鋼" Story (3/4) START:

同じ1mの長さで、縦横が10×10cmの角棒1本と、1×10cmの平板10本の、冷却固化現象を比較します。
10×10cmの角棒の冷却固化は外周部が先に固化します。冷却途中で芯部は半熔融状態なので、純鉄Feだけになる傾向があります。逆に、先に固化した外周部は不純物である炭素含有量が多い組成になります。これは鉄に限らず、不純物が固化のトリガーとなる一般的な冷却固化時の現象です。冷却過程を時間分解で見ると、外周部の不純物の多い組成が先に固化します。multi-trigger-coreです。固化は熱力学的に発熱反応なので、不純物の少ない組成は冷却操作をしているにもかかわらず熔融状態を保ちます。熔融状態の不純物の少ない組成の液体の中で、先に固化した不純物の多い組成の固体が浮いている状態です。より冷却される外周部から芯部へ、これが繰り返されて、全体が固化します。結果として、芯部は炭素含有量が少ない純鉄Feになります。つまり芯部は柔らかく曲がりやすい。
一方、1×10cmの平板は全て外周部と見なせます。冷却固化時は全域が硬い外周部として固化します。柔らかい芯部がありません。
この1×10cm長さ1mの平板を10枚重ねると、10×10cmの長さ1mの角棒と同じ重さになります。この同じ長さ、同じ重さの「平板10枚重ね」と「角棒1本」、2つの曲げ強度を比較してみます。角棒は芯部が柔らかいので10tNほどの力で曲がります。一方、平板10枚重ねは柔らかい部分が無いので、曲げるのに20tN以上の力が必要です。折り返し曲げのForging Iron品は、平板10枚重ねの構造です。"炒鋼"より曲げ強度が強いということです。これがGimhaeの"退化"の"燕"が、再びChinaの魏の曹操の許として戻って来たと考えられる理由の1つです。
余談ですが、日本のたたら製鉄の歴史の中に玉鋼(たまはがね)という製法があります。インドのウーツ鋼の由来かもしれません。まず熔鉱炉の間接製鉄法で砂鉄または鉄鉱石を完全に熔融還元します。炭素含有量は2%超です。これを冷却固化させます。固化した鉄の塊の外周部は単素含有量3%超のクズ鉄です。しかし芯部の玉鋼と呼ばれる部分は炭素含有量1%前後の最高の鋼(はがね)です。鉄の塊を打撃で割って芯部の玉鋼だけを採取して使う方法です。ただ鉄の塊を強い打撃で割るのが大変です。鉄槌を打ち下ろして割っていたようです。出雲大社で出土した大社殿のように高層です。
1901年に"炒鋼"の転炉を技術導入した日本でも、第2次世界大戦中、軍刀だけは折り返し曲げ鍛造で製作していました。上述のように「平板10枚重ね」の方が曲げ強度が強いからです。しかし鍛造は鍛接線の空隙があり錆びやすいので軍刀は常に油を塗った状態にする必要があります。軍刀は武士の魂です。常に薄く油を塗ります。さらに鍛造は大量生産できないので、"退化"で製作するのは第2次世界大戦中の軍刀だけだった。他の列車, レール, 船などは八幡製鉄所の"炒鋼"の転炉で製作していた。
現在の鉄骨造高層ビルはH型鋼という平板を組み合わせた形を使います。柔らかい芯部がありません。これは炒鋼である転炉で大量生産可能であり、曲げ強度も充分あります。一方、カスガイを掛ける、梁を張るなど、大型建物の構造的な強度問題は別の話です。また超硬刃チップなど、硬さ・鋭さの特に特殊用途のものは現在でも少量生産です。
もう1つの大きな理由は、"炒鋼"の発明者が元々の出身がインドであったことです。同じインド出身の許氏のGimhaeを多少容認したかもしれません。しかし「8.22. 黄巾の乱」で見たように、"退化"の"燕"はBC1900の暗黒時代そのものです。"炒鋼"の発明者のIndusの子供がBC1800に奴隷にされた暗黒時代の張本人です。軍刀だけが唯一の勝ち点である鍛造の"退化"が主流となった中国は、AD220から魏呉蜀の三国・西晋、そして五胡十六国と戦乱の分裂の時代に逆戻りします。軍の旗艦は釜山です。しかしAD589に隋が中国を再統一します。さらにしかし、直ぐAD618李淵の建国した唐に簒奪禅譲されます。そして"炒鋼"はAD751についに中国を去ります。残された唐の鉄は鍛造の"退化"の軍刀だけです。大量生産できません。唐の宮廷では芸術品の陶器だけが並びます。そしてAD907に唐が滅び、再び五代十国さらに北宋・南宋の分裂状態になります。次は鍛造と騎馬族のモンゴルの元の時代がAD1368まで、"退化"の明がAD1662まで続きます。そして次は、金・清と、モンゴルの鍛造と燕の"退化"の中間地点の内モンゴルの帝国が続きます。軍刀に常に油をたっぷり塗って防錆して、内モンゴルで長期政権を保っています。軍人は常に軍刀に油をたっぷり塗ります。しかし中国では軍刀以外、西欧に見られる"炒鋼"による鉄の大量生産は現れません。"炒な真似するな"の諺通り、"炒鋼"は、ある時代に中国から消えています。
"炒鋼" Story (3/4) END:



8.24. 西晋・五胡十六国 AD265-AD370
ギリシャ文書記録にAD150頃からAD370までのヴォルガ川より東の情報はありません。Sassanidの文書記録でも中央アジアは伝聞・断片的であり、Sassanidの完全に支配地域外です。しかし近年の発掘調査で、南ウラル・中央アジアでは2-4世紀の『人工頭蓋変形』が多量に発掘されています。AD370にヴォルガ川を西へ渡ったフン族が認識されるまで、人知れず『人工頭蓋変形』の奴隷貴族が、南ウラル・中央アジアで増殖していたようです。

 

8.20. 後漢再興 … AD25-AD91
王莽はAD8に"新"を建国しました。王莽はBC1046に"商"を滅ぼした"周"を模倣しました。"新"は人気が無く短命でした。AD25に光武帝が後漢を再興しました。しかし光武帝の即位は"燕"="商"の軍事力を背景にしていました。これが重要です。そして光武帝は首都を洛陽におきました。Dark AgesのBC1900-BC1600の黄帝の時代の都があった地です。前漢は西の長安を都としていたので西漢とも呼ばれます。後漢は東の洛陽を都にしていたので東漢とも呼ばれます。

 

AD57のJanuary、光武帝は、日本の倭・奴國に金印を贈る詔を出しました。日本の福岡市博物館に展示されている国宝「漢委奴國王」の金印です。ところが、奴國は"燕"="退化"の"Gimhae"(金海)の競合勢力だったのです。光武帝は"燕"の敵へ金印を贈ったのです。

 

翌February、光武帝は崩御しました。たぶん毒殺でしょう。つまり"燕"の軍事力を背景に再興した光武帝の後漢は、事実上、"燕"に簒奪されている状態です。皇帝さえも、あっさりと毒殺される。

 

AD57には、中国では、もう一つ出来事があります。トルコ南西部から来ていたLukka(婼羌)に関する悲報です。また四川省の巴蜀へ来ていたインダスの元奴隷の"炒鋼"は婼羌の紹介でした。紹介者が居なくなりました。後のAD750頃に、"炒鋼"が完全に中国から消えた遠因だと思います。紹介者のLukka、婼羌がいなければ、インダスの元奴隷の"炒鋼"は、中国では全く異民族ですから。居続ける理由がありません。まずAD57のLukkaの悲報を見てみます。
[REF.後漢書卷八十七,西羌傳第七十七]
<Original> “時燒何豪有婦人比銅鉗者,年百餘歲,多智筭,為種人所信向,皆從取計策。時為盧水胡所擊,比銅鉗乃將其眾來依郡縣。種人頗有犯法者,臨羌長收繫比銅鉗,而誅殺其種六七百人。”
“顯宗憐之,乃下詔曰:「昔桓公伐戎而無仁惠,故春秋貶曰『齊人』。[一] 今國家無德,恩不及遠,羸弱何辜,而當并命!夫長平之暴,非帝者之功,[二] 咎由太守長吏妄加殘戮。比銅鉗尚生者,所在致醫藥養視,令招其種人,若欲歸故地者,厚遣送之。其小種若束手自詣,欲效功者,皆除其罪。若有逆謀為吏所捕,而獄狀未斷,悉以賜有功者。」”
[一] 春秋莊公三十年:「齊人伐山戎。」公羊傳曰:「此齊侯也。其稱人何=貶也。」何休注云:「戎亦天地之所生,乃迫殺之,惡不仁也。」
[二] 言帝王好生惡殺,故不以為功也。史記曰,白起,昭王時為上將軍,擊趙,趙不利,將軍趙括與六十萬人請降,起乃盡阬之,遺其小者二百四十人。” 

<概訳,下線部だけ> "羌族"の"燒何"集落のリーダーは、銅金属製作用の"坩堝"(jp;Rutubo, Metallic Crucible)を使う婦人である。盧水胡(鄂尔多斯市の匈奴の離宮つまり韓)に襲撃されて、婼羌の"羌族"は後漢の郡県を頼った。しかし逆に、後漢の郡県は銅鉗とその衆6-7百人を皆殺しにした。顯宗つまり明帝(AD57-75)はこの出来事を憐れんで次のように言った。「商殷の桓公の時代、"齊羌族"の"齊人"が"羌族"を虐殺して、次の周の時代には"齊人"とけなされた。…長平の暴挙(白起が趙の兵を生き埋めにした事件)は昭王の命ではない。…逆誅の婼(若)羌がまだ居れば更に捕らえよ。…捕らえた者には帝自らが論功を賜る。」

 

この出来事はAD57です。後漢の光武帝はAD57のFebruaryに崩御し、すぐ明帝が即位しています。"Lukka"の出来事は明帝が即位して一番最初にやりたかったことです。そして明帝は自分は桓公だとしっかり認識している。犬に育てられた猫のCMではないですが。古は桓公・明帝は、大月氏の系譜だったのですが既に完全に変容しています。後の中国のAD184黄巾の乱に連動して、中央アジアのBalkhの大月氏は消滅しました。Mani教が変わります。その前兆です。

 

また、"燒何豪"の意味は、羌族の"焼当"グループの"何"集落のリーダー。"銅鉗"の意味は、金属銅製作用の"坩堝"(jp;Rutubo or Ruka, Metallic Crucible)を使う部族である。"焼当"は、Hittiteの秘匿技術の"退化" (annealing)の隠語です。日本では"大火"です。トルコ南西部の"Lukka"は、中国名ではそのまま"坩堝"、"坩何"(jp;Ruka) or "銅鉗"(jp;Doru,人形?)。つまりタクラマカン砂漠南部へ、トルコ南西部"Lukka"から来ていた集落は、AD57の2月の明帝の即位直後に皆殺しにされた。この時に、"羌族"を実際に襲撃した盧水胡は、pre-HUNAとなり、西のペシャワールつまりインダス北部まで制圧した。後にRed Huns = India Hunaと呼ばれるKidaritesです。中国の盧水胡は、河南=HUNANのオルドスの韓です。河南の意味は黄河の南側です。ゆえに河南と呼ばれる場所は2箇所あります。1つは陝西省の北の内モンゴルのオルドスです。もう1つは河南省です。河南省は戦車チャリオット時代の韓の本拠地でした。オスドスは匈奴の冬季の離宮で騎馬族時代の韓です。どちらも韓です。また中央アジアでは、1世紀から『頭蓋変形』の風習が見られ始めます。


ある人の言葉では、秦・漢の法は完璧であり小さな改変をする必要は無く、秦・漢の法を遵守していけばいい。この言葉を鉄器製作に置き換えると、2000年間も続いてきた鉄器製作技術は紀元前後には原型が完成していた。今でも製鉄の製鋼工程では、"炒鋼"の発展型の転炉を使っていますから。
そして後漢の国自体が"商"="燕"="退化"に簒奪された。そして"商"は、邪魔な北匈奴をAD91に追い払い、利権を独占します。外患は無くなりました。宮廷の後宮の時代になります。今度は宦官ではなく、幼帝が連続します。3才・4才の皇帝まで登場します。外戚政治になります。

 


8.21. AD150の出来事 AD92-AD183
AD91、南匈奴・後漢連合軍に攻撃され、北匈奴(Northern Xiongnu)は西へ敗走して行方知れずになります。西の南ウラルのサルマタイ(Sarmatian)の集落へ敗走したようです。このあたりには阿蘭(Aryana)もいます。阿蘭はカフカス山脈を南へ攻め出します。対パルティア(Parthia)そして小アジアでも連戦連勝の長期遠征です。

一方、カザフスタンの草原では次のような記録があります。
[後漢書,西域伝]
<Original> “延光二年,敦煌太守張璫上書陳三策,以為「北虜呼衍王常展轉蒲類、秦海之间,專制西域,共為寇鈔。今以酒泉屬國吏士二千餘人集昆侖塞,先擊呼衍王,絕其根本…」朝廷下其議。”

<概訳> "延光二年, AD123",「北匈奴の残党と思われる北慮の呼衍王が、現在の哈密市(Kumul)の北の巴里坤湖(Bali Kun Lake)である"蒲類海"と、"秦海" (ローマ帝国の海なので黒海, Black Sea)を制圧している。攻撃して根本を絶ちたい。」、と敦煌太守が朝廷に上奏していますが却下されています。
<Comments> 北慮の呼衍王は野放しです。黒海北岸、南ウラル、カザフステップ、そして中国のジュンガル盆地を自由に行き来していたようです。

AD136-150頃、ステップ草原の似た逸話
AD136、阿蘭の本国の北カフカスに「何者か」が侵入した様です。
この時期、同じような逸話がステップ草原の西から東へと続きます。

 

① カフカスの南へ攻め出した阿蘭の兵は、10年近く本国を留守にした。その間に妻が奴隷と交わってしまった。AD136。

 

② モンゴルの鮮卑の檀石塊は、AD150頃に、長期遠征中に妻が霞を飲み込んで身籠った子です。檀石塊は幼少期、母方の月氏で育てられた。ゆえに元々は月氏の系譜だったようです。

 

③ 朝鮮半島南東岸では、製鉄遺跡である金海(Gimhae)の大成洞遺跡では、2世紀初頭、たぶんAD107頃、王墓は『木棺墓』が優勢になります。しかしAD150頃に、再び王墓の墓制が変わり、『木棺墓』→『木槨墓』となります。戦乱の痕跡はありません。『木棺墓』は、朝鮮半島半部および九州北部では、北カフカスに起源を持つドルメン系です。阿蘭つまりサルマタイです。一方、『木槨墓』は黒海北岸で、サルマタイに敗れて奴隷となった旧スキタイ系(ミトリダデス)の墓制です。中国では河北の"燕"の墓制です。"退化"です。トルコではNeo-Hittiteのチャリオット戦車の"TABAL"です。この頃、古の"燕"つまり"退化"の旗艦は、朝鮮半島南東岸の製鉄遺跡である金海(Gimhae)の大成洞遺跡にあります。

 

これらから推察すると、"阿蘭" (Aryana)の北カフカスの本国に侵入した「何者か」とは、旧スキタイ系(ミトリダーデス)です。

中国でAD147に桓帝が即位します。

[後漢書,西域伝] 
<Original>“桓帝元嘉元年…夏,遣敦煌太守司馬达將敦煌、酒泉,張掖屬國吏士四千餘人救之,出塞至蒲類海,呼衍王聞而引去,汉軍无功而還。”

<概訳> 151年(桓帝元嘉元年)、後漢は敦煌太守司馬达將の軍を派遣し、蒲類海まで出陣した。"呼衍王"は去っていった。
<コメント> これが『後漢書』における北匈奴(Northern Xiongnu)の残党と推定される最後の記録です。

 

そして日本の九州北部の宝満川ではAD150頃、住血吸虫が突然現れて、住血吸虫症で腹が膨れました。ここでも腹が腫れます。

 

朝鮮半島南東岸の金海の大成洞では、AD150頃、王墓だけが木棺墓から、木槨墓へ変わります。

 


中央アジアの大月氏の地域でも2世紀から『人工頭蓋変形』が激しくなっています。北匈奴は月氏を目の敵にしていたので可能性は高いです。ただ1世紀から既に少し始まっています。中国では大月氏を次のように記録しています。
[後漢書, 西域傳 大月氏] 
<Original> “五部翕侯。後百餘歲,貴霜翕侯丘就卻攻滅四翕侯,自立為王,國號貴霜。侵安息"

<概訳> 大月氏は翁侯を5人設置して百余年、共同統治した。貴霜翁の丘就卻が他の4翕侯を攻め滅ぼし単独の王となった。国号は貴霜国。安息国:Parthiaを攻めた。

 

大月氏が中央アジアに到着したのはBC100頃です。百余年後は紀元前後です。中央アジアの遺跡では1世紀頃から『頭蓋変形』が確認されています。つまり"貴霜翕侯丘就卻"は中央アジアの『頭蓋変形』の奴隷貴族の始祖です。この中国の記録の"貴霜翕侯丘就卻"は、Kushan EmpireのKujula Kadphisesとされます。彼の風貌はグレコ・バクトリアのギリシャ系です。彼は『頭蓋変形』が確認できる。

 

 それまでの戒律の仏教は意味を無くします。

 

 新しい大乗仏教は、極楽浄土だけが教義です。

 

中央アジアのKushanは、Kadphisesの家系が続きましたが、AD126のKan Ishika (韓石家,Japanese Pinyin)から、Ishika (石家)の家系に変わっています。王朝交代があったようです。KushanのIshika (石家)の家系はAD270まで続きました。

 

2世紀の中央アジアでは『頭蓋変形』が大変盛行しています。しかしコインの図柄のカニシカ王自身の肖像では『頭蓋変形』は確認できません。前述のアルタイから黒海北岸の北慮の呼衍王と中央アジアのカニシカ王が同時代です。中央アジアのコインで『頭蓋変形』が確認できるのは、AD370以降のHUNA Coins以降です。

 

一方、南ウラルでは、2世紀になると、旧サウロマタイ(Sauromatian)に対する『頭蓋変形』は激しくなったことが発掘調査より確認されています。AD370にヴォルガ川を西に越えて現れた鼻が潰れて頭蓋変形したHuns、このHunsのprotoタイプが既に2世紀から南ウラルで増殖していたのです。

8.17. しかし匈奴に完敗 BC202-BC141

BC200、匈奴(Xiongnu)が長城を越えて、韓王信が封されていた太原(jp;TABARA)に攻め込みました。太原はアルタイ語の一派と見なされる日本語で読むと、トルコのNeo-Hittiteの古地名TABALです。"退火"です。韓王信は匈奴に寝返りました。韓は以後、モンゴルと中国を行き来します。激怒した劉邦は自ら出陣して匈奴を追討します。ところが劉邦は逆に匈奴軍に包囲され、命からがら敗走して惨敗します。逸話では劉邦の騎馬隊が先走りして包囲され、劉邦の歩兵の大部隊が追いついたのが1週間後だったということです。軍内部の騎馬隊と鉄器重武装歩兵の勢力争いのようにも見えますが。とにかく騎馬族に圧倒的に有利な条件で停戦協定が結ばれます。多大な毎年の報納金・食料が約束され、前漢は匈奴に全く手が出せなくなりました。
北では匈奴の勢力は圧倒的に絶大となります。河南のオルドス(鄂尔多斯市)まで冬季の離宮とします。さらに匈奴は月氏を徹底的に西へ追い払います。月氏は遠く中央アジアで大月氏となります。

 

しかし匈奴への多大な報納金にもかかわらず、劉恒・劉啓の時代に、前漢の人口は急増し、国庫は潤った。

 


8.18. 中興の武帝 BC141-BC49

前漢で武帝がBC141に即位すると、国庫の貯えを背景に、外征を始めます。匈奴を北に追い払います。衛青が活躍します。BC109には衛氏朝鮮を倒して漢四郡を設置しました。この時に咸興市の在地住民の濊族を移住させBlank(空白地帯)にしたことにより、朝鮮半島は中国とは全く別の国になりました。また宣帝の時代には匈奴の呼韓邪が漢に入朝し、匈奴は西匈奴と東匈奴に分裂しました。なにやら烏恒・啓・衛・韓と、BC1900-BC1600の暗黒時代、BC1600-1046の殷商の時代のメンバーが再び現れてきました。漢の雲行きが怪しくなってきました。

 


8.19. 呼韓邪・新 BC49-AD25
前時代に武帝に攻め込まれた匈奴は単干が5人も並立する内紛状態になりました。中国の戦国時代の末のBC300頃まで戦車の大国であった趙と韓は、前漢末には騎馬族の匈奴の一員となって呼韓邪・烏籍(オゼキ)として確認されています。東匈奴の呼韓邪は有力だったのですが敗れ、漢(HAN)に入朝します。韓は再び長城の内側に戻ってきました。一方、西匈奴の郅支 (Zhizhi)は、東匈奴の呼韓邪が前漢と組んだのを見て、康居へ逃げ込み、"都赖水"(タラス川, Talas River)の河畔に城をかまえた。しかしBC36に西匈奴の郅支 (Zhizhi)は、前漢に敗れました。ここはAD751の"怛羅斯戰役" (Battle of Talaz)としても有名です。歴史的な場所です。

 

一方、呼韓邪が再び長城の内側に戻ってきた前漢の宮廷では宦官政治となります。そして遂にAD8に王莽に簒奪され前漢は滅びます。

 

8.15. 秦の中国統一 BC330-BC221-BC210

中国では、BC330河北省の"燕"に"退化"、BC326四川省の巴蜀に"炒鋼"が到着しました。この2者が中国の戦国時代末の主役になります。ただ巴蜀はすぐBC316に秦に併合されます。秦は雲南も併合します。秦の始皇帝陵はBC4700のCu-Zn合金の真鍮の姜寨(Jiangzhai)のすぐ東にあります。雲南はCu-Sn合金の青銅器のSn大鉱山です。当時の秦は既に鍛造の鉄器を量産していた大国でした。巴蜀の併合により最新型の"炒鋼"も揃った秦は、中国統一への道を歩き始めます。
一方、東の河北省の"燕"も、"退火"(annealing)で鉄器を大量生産します。

 

"退火"による表面脱炭素鋳鉄の農工具が大量生産されて、農業の生産性が上がり、"燕"の人口が大幅に増えたことも確かです。ただし"退火"による表面脱炭素鋳鉄の欠点は、内部は炭素高含有鋳鉄のままで硬過ぎて脆く、激しい打撃や衝撃で全体が真っ二つに割れることです。しかし真っ二つに割れれば、また作ればいいという離合集散の戦時下の状況です。

 

中国の東部では"燕"が急激に強勢となります。BC280には遼西の東胡を北へ追い払い燕長城を築きます。"燕"の西にはチャリオット戦車を駆使する趙もいます。南の斉は重歩兵軍団です。Hittite時代と同じ軍団が揃っています。北の内モンゴルでは騎馬族が活発でしたが、秦長城・趙長城・燕長城に遮られています。中国の国内だけの戦いがメインです。

 

西の秦の"炒鋼" VS 東の燕の"退火"が、BC3世紀の中国で再び激突します。一大転機は、BC284に東の大国であった斉が突然凋落したことです。皮肉なことに斉の凋落は、"退火"で強勢となった"燕"が斉へ攻め込んだことです。この斉の凋落により、西の秦の"炒鋼"の一強時代になります。これ以降、中国統一まで秦の連勝連勝です。途上BC229、秦の将軍・白起は戦車の趙の将兵四十万人を生き埋めにしました。冗談のような逸話ですが本当の話のようです。長平では多数の集団遺骨が数十か所発掘されています。長平の暴挙と言われています。"韓"は前年BC230に"秦"に滅ぼされています。さらにBC225に、"秦"は"魏"を滅ぼしました。これにより"秦"は黄河中流域の大穀倉地帯を手中にして、圧倒的な大国になりました。そしてBC223に"楚"、BC222に"燕"、BC221に"斉"を次々と滅ぼし、BC221に"秦"は中国統一を完了しました。初めて中国全土を統一した"秦"は、始皇帝として即位しました。

 


滅びた"燕"と"斉"の王族は、遺民として東へ逃亡したようです。しかし秦・漢の時代の朝鮮半島に"燕"と"斉"の実体は確認できません。何処かに潜んでいたようです。秦・漢の時代の朝鮮半島では、BC108以降は楽浪郡の漢墓も発掘されますが、馬韓の遺跡が多数発掘されます。箕子(Gija)を打倒した"満"です。馬韓の家屋は特徴があり、出入口が上にあります。BC6100のトルコのCatal Hoyukの遺跡のようです。遼西のBC6000の興隆窪・興隆溝の遺跡もCatal Hoyukに酷似していました。"満"~馬韓のようです。さらにBC3000のMykop時代の蘭州の馬家窯の韓も混じっているようです。

 

秦・漢の時代に"燕"が潜んでいた場所ですが、はるか東のロシアのアムール川の粛慎は、秦・漢の時代に朝貢に現れていません。Anti-秦・漢です。ここの可能性があります。もう一つは日本列島の日本海側です。"燕"の特徴である"退火"、"木槨墓"、"鉄戈"が、再びハッキリ現れるのは、ずっと後年のAD150の朝鮮半島の南東端のGomhaeの大成洞の王墓です。中国の戦国末期の"燕"そのものです。BC220-AD150の約370年間、何処かに潜んでいたようです。全く気付きませんでした。ここから"燕"の"退火"は中国に復帰します。"退火"による朝鮮半島の完全支配は第2次世界大戦後まで約2000年間という長い年月続きます。

 

Bc221に即位した始皇帝は、わずか10年後、BC210に崩御し始皇帝陵に葬られました。始皇帝陵はBC4700の真鍮の姜寨(Jiangzhai)のすぐ東にあります。また始皇帝の命を受けた徐福に連れられた山東省の数千人の子供たちが日本の佐賀県を訪れました。この子供たちが邪馬台国の卑弥呼です。

 


8.16. 漢の中国統一 BC210・BC202
秦の始皇帝の死後、BC210-BC202の間、中国は再び戦乱となります。「楚漢戦争」または「項羽と劉邦」として有名です。項羽は楚に、劉邦は漢中に本拠地を構えます。漢中の劉邦は、蕭何を留守居役に残し、各地を転戦します。蕭何は巴蜀による"炒鋼"の鉄器武器と兵糧で支援します。

最初は圧倒的に優位だった楚の項羽ですが、人望を失ったこともあり、最終的には敗れます。覇者となった劉邦は、BC202に高祖として皇帝に即位し、漢を建国します。首都は長安です。高祖自身は、BC1900の黄帝の首都であった洛陽を考えていたようです。軍人であり首都は黄帝の洛陽、鉄器は鍛鉄という認識だったのでしょう。しかし勝因の1つは漢中の留守居役の蕭何による潤沢な"炒鋼"の鉄器武器の供給でした。"炒鋼"は鋼(steel)を大量生産できますから。高祖も第一の論功賞を蕭何に与えています。このあたりのいきさつは、アレキサンダー大王遠征と通じるところがあります。

 

一方、BC210-BC202の楚漢戦争の間、長城の北の内モンゴルでは、匈奴が東胡を滅ぼし、月氏を西へ追い払い、内モンゴルを支配する強大な覇者になっていました。