8.15. 秦の中国統一 BC330-BC221-BC210

中国では、BC330河北省の"燕"に"退化"、BC326四川省の巴蜀に"炒鋼"が到着しました。この2者が中国の戦国時代末の主役になります。ただ巴蜀はすぐBC316に秦に併合されます。秦は雲南も併合します。秦の始皇帝陵はBC4700のCu-Zn合金の真鍮の姜寨(Jiangzhai)のすぐ東にあります。雲南はCu-Sn合金の青銅器のSn大鉱山です。当時の秦は既に鍛造の鉄器を量産していた大国でした。巴蜀の併合により最新型の"炒鋼"も揃った秦は、中国統一への道を歩き始めます。
一方、東の河北省の"燕"も、"退火"(annealing)で鉄器を大量生産します。

 

"退火"による表面脱炭素鋳鉄の農工具が大量生産されて、農業の生産性が上がり、"燕"の人口が大幅に増えたことも確かです。ただし"退火"による表面脱炭素鋳鉄の欠点は、内部は炭素高含有鋳鉄のままで硬過ぎて脆く、激しい打撃や衝撃で全体が真っ二つに割れることです。しかし真っ二つに割れれば、また作ればいいという離合集散の戦時下の状況です。

 

中国の東部では"燕"が急激に強勢となります。BC280には遼西の東胡を北へ追い払い燕長城を築きます。"燕"の西にはチャリオット戦車を駆使する趙もいます。南の斉は重歩兵軍団です。Hittite時代と同じ軍団が揃っています。北の内モンゴルでは騎馬族が活発でしたが、秦長城・趙長城・燕長城に遮られています。中国の国内だけの戦いがメインです。

 

西の秦の"炒鋼" VS 東の燕の"退火"が、BC3世紀の中国で再び激突します。一大転機は、BC284に東の大国であった斉が突然凋落したことです。皮肉なことに斉の凋落は、"退火"で強勢となった"燕"が斉へ攻め込んだことです。この斉の凋落により、西の秦の"炒鋼"の一強時代になります。これ以降、中国統一まで秦の連勝連勝です。途上BC229、秦の将軍・白起は戦車の趙の将兵四十万人を生き埋めにしました。冗談のような逸話ですが本当の話のようです。長平では多数の集団遺骨が数十か所発掘されています。長平の暴挙と言われています。"韓"は前年BC230に"秦"に滅ぼされています。さらにBC225に、"秦"は"魏"を滅ぼしました。これにより"秦"は黄河中流域の大穀倉地帯を手中にして、圧倒的な大国になりました。そしてBC223に"楚"、BC222に"燕"、BC221に"斉"を次々と滅ぼし、BC221に"秦"は中国統一を完了しました。初めて中国全土を統一した"秦"は、始皇帝として即位しました。

 


滅びた"燕"と"斉"の王族は、遺民として東へ逃亡したようです。しかし秦・漢の時代の朝鮮半島に"燕"と"斉"の実体は確認できません。何処かに潜んでいたようです。秦・漢の時代の朝鮮半島では、BC108以降は楽浪郡の漢墓も発掘されますが、馬韓の遺跡が多数発掘されます。箕子(Gija)を打倒した"満"です。馬韓の家屋は特徴があり、出入口が上にあります。BC6100のトルコのCatal Hoyukの遺跡のようです。遼西のBC6000の興隆窪・興隆溝の遺跡もCatal Hoyukに酷似していました。"満"~馬韓のようです。さらにBC3000のMykop時代の蘭州の馬家窯の韓も混じっているようです。

 

秦・漢の時代に"燕"が潜んでいた場所ですが、はるか東のロシアのアムール川の粛慎は、秦・漢の時代に朝貢に現れていません。Anti-秦・漢です。ここの可能性があります。もう一つは日本列島の日本海側です。"燕"の特徴である"退火"、"木槨墓"、"鉄戈"が、再びハッキリ現れるのは、ずっと後年のAD150の朝鮮半島の南東端のGomhaeの大成洞の王墓です。中国の戦国末期の"燕"そのものです。BC220-AD150の約370年間、何処かに潜んでいたようです。全く気付きませんでした。ここから"燕"の"退火"は中国に復帰します。"退火"による朝鮮半島の完全支配は第2次世界大戦後まで約2000年間という長い年月続きます。

 

Bc221に即位した始皇帝は、わずか10年後、BC210に崩御し始皇帝陵に葬られました。始皇帝陵はBC4700の真鍮の姜寨(Jiangzhai)のすぐ東にあります。また始皇帝の命を受けた徐福に連れられた山東省の数千人の子供たちが日本の佐賀県を訪れました。この子供たちが邪馬台国の卑弥呼です。

 


8.16. 漢の中国統一 BC210・BC202
秦の始皇帝の死後、BC210-BC202の間、中国は再び戦乱となります。「楚漢戦争」または「項羽と劉邦」として有名です。項羽は楚に、劉邦は漢中に本拠地を構えます。漢中の劉邦は、蕭何を留守居役に残し、各地を転戦します。蕭何は巴蜀による"炒鋼"の鉄器武器と兵糧で支援します。

最初は圧倒的に優位だった楚の項羽ですが、人望を失ったこともあり、最終的には敗れます。覇者となった劉邦は、BC202に高祖として皇帝に即位し、漢を建国します。首都は長安です。高祖自身は、BC1900の黄帝の首都であった洛陽を考えていたようです。軍人であり首都は黄帝の洛陽、鉄器は鍛鉄という認識だったのでしょう。しかし勝因の1つは漢中の留守居役の蕭何による潤沢な"炒鋼"の鉄器武器の供給でした。"炒鋼"は鋼(steel)を大量生産できますから。高祖も第一の論功賞を蕭何に与えています。このあたりのいきさつは、アレキサンダー大王遠征と通じるところがあります。

 

一方、BC210-BC202の楚漢戦争の間、長城の北の内モンゴルでは、匈奴が東胡を滅ぼし、月氏を西へ追い払い、内モンゴルを支配する強大な覇者になっていました。