8.20. 後漢再興 … AD25-AD91
王莽はAD8に"新"を建国しました。王莽はBC1046に"商"を滅ぼした"周"を模倣しました。"新"は人気が無く短命でした。AD25に光武帝が後漢を再興しました。しかし光武帝の即位は"燕"="商"の軍事力を背景にしていました。これが重要です。そして光武帝は首都を洛陽におきました。Dark AgesのBC1900-BC1600の黄帝の時代の都があった地です。前漢は西の長安を都としていたので西漢とも呼ばれます。後漢は東の洛陽を都にしていたので東漢とも呼ばれます。

 

AD57のJanuary、光武帝は、日本の倭・奴國に金印を贈る詔を出しました。日本の福岡市博物館に展示されている国宝「漢委奴國王」の金印です。ところが、奴國は"燕"="退化"の"Gimhae"(金海)の競合勢力だったのです。光武帝は"燕"の敵へ金印を贈ったのです。

 

翌February、光武帝は崩御しました。たぶん毒殺でしょう。つまり"燕"の軍事力を背景に再興した光武帝の後漢は、事実上、"燕"に簒奪されている状態です。皇帝さえも、あっさりと毒殺される。

 

AD57には、中国では、もう一つ出来事があります。トルコ南西部から来ていたLukka(婼羌)に関する悲報です。また四川省の巴蜀へ来ていたインダスの元奴隷の"炒鋼"は婼羌の紹介でした。紹介者が居なくなりました。後のAD750頃に、"炒鋼"が完全に中国から消えた遠因だと思います。紹介者のLukka、婼羌がいなければ、インダスの元奴隷の"炒鋼"は、中国では全く異民族ですから。居続ける理由がありません。まずAD57のLukkaの悲報を見てみます。
[REF.後漢書卷八十七,西羌傳第七十七]
<Original> “時燒何豪有婦人比銅鉗者,年百餘歲,多智筭,為種人所信向,皆從取計策。時為盧水胡所擊,比銅鉗乃將其眾來依郡縣。種人頗有犯法者,臨羌長收繫比銅鉗,而誅殺其種六七百人。”
“顯宗憐之,乃下詔曰:「昔桓公伐戎而無仁惠,故春秋貶曰『齊人』。[一] 今國家無德,恩不及遠,羸弱何辜,而當并命!夫長平之暴,非帝者之功,[二] 咎由太守長吏妄加殘戮。比銅鉗尚生者,所在致醫藥養視,令招其種人,若欲歸故地者,厚遣送之。其小種若束手自詣,欲效功者,皆除其罪。若有逆謀為吏所捕,而獄狀未斷,悉以賜有功者。」”
[一] 春秋莊公三十年:「齊人伐山戎。」公羊傳曰:「此齊侯也。其稱人何=貶也。」何休注云:「戎亦天地之所生,乃迫殺之,惡不仁也。」
[二] 言帝王好生惡殺,故不以為功也。史記曰,白起,昭王時為上將軍,擊趙,趙不利,將軍趙括與六十萬人請降,起乃盡阬之,遺其小者二百四十人。” 

<概訳,下線部だけ> "羌族"の"燒何"集落のリーダーは、銅金属製作用の"坩堝"(jp;Rutubo, Metallic Crucible)を使う婦人である。盧水胡(鄂尔多斯市の匈奴の離宮つまり韓)に襲撃されて、婼羌の"羌族"は後漢の郡県を頼った。しかし逆に、後漢の郡県は銅鉗とその衆6-7百人を皆殺しにした。顯宗つまり明帝(AD57-75)はこの出来事を憐れんで次のように言った。「商殷の桓公の時代、"齊羌族"の"齊人"が"羌族"を虐殺して、次の周の時代には"齊人"とけなされた。…長平の暴挙(白起が趙の兵を生き埋めにした事件)は昭王の命ではない。…逆誅の婼(若)羌がまだ居れば更に捕らえよ。…捕らえた者には帝自らが論功を賜る。」

 

この出来事はAD57です。後漢の光武帝はAD57のFebruaryに崩御し、すぐ明帝が即位しています。"Lukka"の出来事は明帝が即位して一番最初にやりたかったことです。そして明帝は自分は桓公だとしっかり認識している。犬に育てられた猫のCMではないですが。古は桓公・明帝は、大月氏の系譜だったのですが既に完全に変容しています。後の中国のAD184黄巾の乱に連動して、中央アジアのBalkhの大月氏は消滅しました。Mani教が変わります。その前兆です。

 

また、"燒何豪"の意味は、羌族の"焼当"グループの"何"集落のリーダー。"銅鉗"の意味は、金属銅製作用の"坩堝"(jp;Rutubo or Ruka, Metallic Crucible)を使う部族である。"焼当"は、Hittiteの秘匿技術の"退化" (annealing)の隠語です。日本では"大火"です。トルコ南西部の"Lukka"は、中国名ではそのまま"坩堝"、"坩何"(jp;Ruka) or "銅鉗"(jp;Doru,人形?)。つまりタクラマカン砂漠南部へ、トルコ南西部"Lukka"から来ていた集落は、AD57の2月の明帝の即位直後に皆殺しにされた。この時に、"羌族"を実際に襲撃した盧水胡は、pre-HUNAとなり、西のペシャワールつまりインダス北部まで制圧した。後にRed Huns = India Hunaと呼ばれるKidaritesです。中国の盧水胡は、河南=HUNANのオルドスの韓です。河南の意味は黄河の南側です。ゆえに河南と呼ばれる場所は2箇所あります。1つは陝西省の北の内モンゴルのオルドスです。もう1つは河南省です。河南省は戦車チャリオット時代の韓の本拠地でした。オスドスは匈奴の冬季の離宮で騎馬族時代の韓です。どちらも韓です。また中央アジアでは、1世紀から『頭蓋変形』の風習が見られ始めます。


ある人の言葉では、秦・漢の法は完璧であり小さな改変をする必要は無く、秦・漢の法を遵守していけばいい。この言葉を鉄器製作に置き換えると、2000年間も続いてきた鉄器製作技術は紀元前後には原型が完成していた。今でも製鉄の製鋼工程では、"炒鋼"の発展型の転炉を使っていますから。
そして後漢の国自体が"商"="燕"="退化"に簒奪された。そして"商"は、邪魔な北匈奴をAD91に追い払い、利権を独占します。外患は無くなりました。宮廷の後宮の時代になります。今度は宦官ではなく、幼帝が連続します。3才・4才の皇帝まで登場します。外戚政治になります。

 


8.21. AD150の出来事 AD92-AD183
AD91、南匈奴・後漢連合軍に攻撃され、北匈奴(Northern Xiongnu)は西へ敗走して行方知れずになります。西の南ウラルのサルマタイ(Sarmatian)の集落へ敗走したようです。このあたりには阿蘭(Aryana)もいます。阿蘭はカフカス山脈を南へ攻め出します。対パルティア(Parthia)そして小アジアでも連戦連勝の長期遠征です。

一方、カザフスタンの草原では次のような記録があります。
[後漢書,西域伝]
<Original> “延光二年,敦煌太守張璫上書陳三策,以為「北虜呼衍王常展轉蒲類、秦海之间,專制西域,共為寇鈔。今以酒泉屬國吏士二千餘人集昆侖塞,先擊呼衍王,絕其根本…」朝廷下其議。”

<概訳> "延光二年, AD123",「北匈奴の残党と思われる北慮の呼衍王が、現在の哈密市(Kumul)の北の巴里坤湖(Bali Kun Lake)である"蒲類海"と、"秦海" (ローマ帝国の海なので黒海, Black Sea)を制圧している。攻撃して根本を絶ちたい。」、と敦煌太守が朝廷に上奏していますが却下されています。
<Comments> 北慮の呼衍王は野放しです。黒海北岸、南ウラル、カザフステップ、そして中国のジュンガル盆地を自由に行き来していたようです。

AD136-150頃、ステップ草原の似た逸話
AD136、阿蘭の本国の北カフカスに「何者か」が侵入した様です。
この時期、同じような逸話がステップ草原の西から東へと続きます。

 

① カフカスの南へ攻め出した阿蘭の兵は、10年近く本国を留守にした。その間に妻が奴隷と交わってしまった。AD136。

 

② モンゴルの鮮卑の檀石塊は、AD150頃に、長期遠征中に妻が霞を飲み込んで身籠った子です。檀石塊は幼少期、母方の月氏で育てられた。ゆえに元々は月氏の系譜だったようです。

 

③ 朝鮮半島南東岸では、製鉄遺跡である金海(Gimhae)の大成洞遺跡では、2世紀初頭、たぶんAD107頃、王墓は『木棺墓』が優勢になります。しかしAD150頃に、再び王墓の墓制が変わり、『木棺墓』→『木槨墓』となります。戦乱の痕跡はありません。『木棺墓』は、朝鮮半島半部および九州北部では、北カフカスに起源を持つドルメン系です。阿蘭つまりサルマタイです。一方、『木槨墓』は黒海北岸で、サルマタイに敗れて奴隷となった旧スキタイ系(ミトリダデス)の墓制です。中国では河北の"燕"の墓制です。"退化"です。トルコではNeo-Hittiteのチャリオット戦車の"TABAL"です。この頃、古の"燕"つまり"退化"の旗艦は、朝鮮半島南東岸の製鉄遺跡である金海(Gimhae)の大成洞遺跡にあります。

 

これらから推察すると、"阿蘭" (Aryana)の北カフカスの本国に侵入した「何者か」とは、旧スキタイ系(ミトリダーデス)です。

中国でAD147に桓帝が即位します。

[後漢書,西域伝] 
<Original>“桓帝元嘉元年…夏,遣敦煌太守司馬达將敦煌、酒泉,張掖屬國吏士四千餘人救之,出塞至蒲類海,呼衍王聞而引去,汉軍无功而還。”

<概訳> 151年(桓帝元嘉元年)、後漢は敦煌太守司馬达將の軍を派遣し、蒲類海まで出陣した。"呼衍王"は去っていった。
<コメント> これが『後漢書』における北匈奴(Northern Xiongnu)の残党と推定される最後の記録です。

 

そして日本の九州北部の宝満川ではAD150頃、住血吸虫が突然現れて、住血吸虫症で腹が膨れました。ここでも腹が腫れます。

 

朝鮮半島南東岸の金海の大成洞では、AD150頃、王墓だけが木棺墓から、木槨墓へ変わります。

 


中央アジアの大月氏の地域でも2世紀から『人工頭蓋変形』が激しくなっています。北匈奴は月氏を目の敵にしていたので可能性は高いです。ただ1世紀から既に少し始まっています。中国では大月氏を次のように記録しています。
[後漢書, 西域傳 大月氏] 
<Original> “五部翕侯。後百餘歲,貴霜翕侯丘就卻攻滅四翕侯,自立為王,國號貴霜。侵安息"

<概訳> 大月氏は翁侯を5人設置して百余年、共同統治した。貴霜翁の丘就卻が他の4翕侯を攻め滅ぼし単独の王となった。国号は貴霜国。安息国:Parthiaを攻めた。

 

大月氏が中央アジアに到着したのはBC100頃です。百余年後は紀元前後です。中央アジアの遺跡では1世紀頃から『頭蓋変形』が確認されています。つまり"貴霜翕侯丘就卻"は中央アジアの『頭蓋変形』の奴隷貴族の始祖です。この中国の記録の"貴霜翕侯丘就卻"は、Kushan EmpireのKujula Kadphisesとされます。彼の風貌はグレコ・バクトリアのギリシャ系です。彼は『頭蓋変形』が確認できる。

 

 それまでの戒律の仏教は意味を無くします。

 

 新しい大乗仏教は、極楽浄土だけが教義です。

 

中央アジアのKushanは、Kadphisesの家系が続きましたが、AD126のKan Ishika (韓石家,Japanese Pinyin)から、Ishika (石家)の家系に変わっています。王朝交代があったようです。KushanのIshika (石家)の家系はAD270まで続きました。

 

2世紀の中央アジアでは『頭蓋変形』が大変盛行しています。しかしコインの図柄のカニシカ王自身の肖像では『頭蓋変形』は確認できません。前述のアルタイから黒海北岸の北慮の呼衍王と中央アジアのカニシカ王が同時代です。中央アジアのコインで『頭蓋変形』が確認できるのは、AD370以降のHUNA Coins以降です。

 

一方、南ウラルでは、2世紀になると、旧サウロマタイ(Sauromatian)に対する『頭蓋変形』は激しくなったことが発掘調査より確認されています。AD370にヴォルガ川を西に越えて現れた鼻が潰れて頭蓋変形したHuns、このHunsのprotoタイプが既に2世紀から南ウラルで増殖していたのです。