8.22. 黄巾の乱 AD184-AD196

次は[後漢書・孝霊帝紀]の光和六年の文です。洪水と意味不明な文だけです。女王卑弥呼が後漢朝貢した為です。詳細はシリーズ2を見てください。
"光和六年" (AD183)
“夏,大旱。…秋,金城河水溢。五原山岸崩。…冬,東海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。”

 

翌年、中平元年春二月(AD184FEB)に、『蒼天已死、黄天當辰』のスローガンを掲げた"黄巾の乱"が勃発します。①-⑤の"黄天"の各拠点から次々と武装蜂起が起きます。"黄巾の乱"のトリガーは、上述の光和六年(AD183)の女王卑弥呼の後漢朝貢です。
"中平元年" (AD184)
“春二月,鉅鹿人張角自稱黃天,其部帥有三十六萬,皆著黃巾,同日反叛。安平、甘陵人各執其王以應之。”
“夏四月…汝南黃巾敗太守趙謙於邵陵。廣陽黃巾殺幽州刺史郭勳及太守劉衛。六月,南陽太守秦頡擊張曼成,斬之。冬十月,皇甫嵩與黃巾賊戰於廣宗,獲張角弟梁。角先死,乃戮其屍。以皇甫嵩為左車騎將軍。十一月,皇甫嵩又破黃巾于下曲陽,斬張角弟寶。”


"中平二年" (AD185)
“二月己酉,南宮大災,火半月乃滅。癸亥,廣陽門外屋自壞。”
"中平三年" (AD186)
“春二月,江夏兵趙慈反,殺南陽太守秦頡。”
中平三年、黄巾の乱は、小康状態になりました。

 

翌年の中平四年十二月に『內侯』(たぶん卑弥呼)へ、『假金印紫綬』の詔が出ています。
中平4年、女王卑弥呼は、再び『後漢朝貢』したようです。

ゆえに、再び黄天の武装蜂起が次々起きた。
"中平四年" (AD187)
“三月,河南尹何苗討滎陽賊、破之、拜苗為車騎將軍。…夏四月、涼州刺史耿鄙討金城賊韓遂,鄙兵大敗、遂寇漢陽、漢陽太守傅燮戰沒。扶風人馬騰、漢陽人王國並叛、寇三輔。”
“六月…漁陽人張純與同郡張舉舉兵叛,攻殺右北平太守劉政、遼東太守楊終、護烏桓校尉公綦稠等。舉兵自稱天子,寇幽、冀二州。…冬十月,零陵人觀鵠自稱「平天將軍」,寇桂陽,長沙太守孫堅擊斬之。”

“十一月,太尉崔烈罷,大司農曹嵩為太尉。”
⑤“十二月,休屠各胡叛。”
“是歲,賣關內侯,假金印紫綬,傳世,入錢五百萬。”

 

"中平五年" (AD188)
“春正月,休屠各胡寇西河,殺郡守邢紀。…三月,休屠各胡攻殺并州刺史張懿,遂與南匈奴左部胡合,殺其單于。…夏四月,汝南葛陂黃巾攻沒郡縣。”

東大寺山古墳で出土した"中平"鉄刀は、たぶん"中平五年五月丙午(AD188JUL07)" つまり七夕の日に製作された。
“六月丙寅,大風。”
“秋七月,射聲校尉馬日磾為太尉。”

 

"中平六年" (AD189)
“夏四月丙午朔,日有食之。…太尉馬日磾免…。丙辰,帝崩于南宮嘉德殿,年三十四。戊午,皇子辯即皇帝位,年十七。”
中平五年、女王卑弥呼への贈答は、太尉の馬日磾の指揮下、秘密裏に遂行されたようです。中平六年三月に、女王卑弥呼は、金印と"中平"鉄刀を、日本の九州北部で受け取った。皆が気付いた。中国では翌四月、太尉馬日磾は罷免され、さらに霊帝も崩御します。

 

一方、武装蜂起した黄天の各拠点を参考に以下に列挙します。
 鉅鹿人・甘陵人:趙魏斉そして燕の根拠地で①張角が蜂起。
 汝南・南陽:戦車の趙・韓の根拠地だった洛陽の南の大平原で蜂起。
 金城賊韓:馬家窯の蘭州で蜂起。(長城外)
 漁陽人:東胡の分派の烏桓で蜂起。燕です。
 休屠各胡:ついに胡が蜂起。旧東胡。(長城外)
 與南匈奴左部胡合:山西省北部の韓の封地の太原で長城内の胡が蜂起。
内モンゴルのオルドス(鄂尔多斯市)-フフホト(呼和浩特市)-赤峰の地域に黄巾賊の本拠地があるようです。かつての"Hamin Mangha, Miaozigou"の地域です。後の"柔然"または"蠕蠕" (Juan-Juan, or 柔然)です。"柔然"は、"韓"の"社崙"によって再興された国名です。"阿抜" (Avars or Apal)はその民族名です。辮髪が有名です。そしてそれは満州と同じです。ヨーロッパでは、"Apal"は"Svars"とも呼ばれます。また東ローマ帝国では"Apal"は"Hermichion"と記録されています。


 零陵人・桂陽・長沙:これは長江の南の湖南省です。道県の玉蟾岩(Yuchanyan)の東隣です。北の趙・韓・魏・斉とは異なり、舜陵のあるところです。Y-haplo Oが爆発的に増えたところです。

すぐ南に福建省の闽越(Maing Yue)と香港の百越(Bai Yue)があります。また日本の鹿児島県、川内ではなく、薩摩半島の南端の開聞岳の北麓に、瑞安瑞応院の『舜請の墓』があります。「目玉が飛び出して、神罰が…」という伝説です。『舜』という漢字は日本で他に使うことは無いです。東限は、富士川河口西側の浜松市辺りで、太平洋岸にポツポツと見かけますが珍しいです。次図のように中国南部の福建省や湖南省寧遠県の舜陵の系譜に琉球海路を通じてつながりがあります。
さらに北の黄天と南の黄天は中国の東海岸沿いの海路でつながっています。同じ瑞安という地名があります。葫芦島市はかつて端安県と呼ばれていました。南の瑞安は今でも健在です。浙江省最南部の飛雲江河口の瑞安華僑という商業集団です。すぐ南の福建省の泉州では中国で唯一のMani教寺院が継続しています。この地域は何度も討伐で鎮圧されているのですが、飛雲江河口を拠点とする海運華僑はそのたびに復活します。

 


8.23. 三国分裂 AD196-AD265
AD189に後漢の最後の皇帝である献帝が即位し、董卓に連れられ翌AD190西の長安に遷都します。しかしAD193に魏の曹操と斉の青州兵が、徐州の湅鋼の住民を皆殺し虐殺します。四川省の巴蜀の炒鋼は僚友を失い孤立します。中国の徐州は、日本の九州北部の女王卑弥呼の出身地です。女王卑弥呼は中国での拠り所を失いました。中国のこの大虐殺は、日本の女王卑弥呼が"中平"鉄刀を受け取った3年後です。金海の "退化" = "燕"が、怒り狂ったようです。

 

献帝がAD196に魏の曹操の根拠地の許に入城します。AD196-220、許が後漢の首都になります。AD220に後漢が滅びて、魏・呉・蜀の並立が始まります。しかし実質的にはAD196が三国時代の始まりです。

一方、中央アジアの大月氏のAD229の朝献の記録があります。
[魏志明帝紀] 太和三年 AD229
<原文> "太和…三年…十二月…癸卯、大月氏王波調遣使奉獻、以調為親魏大月氏王。"

<概訳> 太和三年十二月(AD229DEC)の癸卯の日、大月氏の王の波調が朝献して来た。魏の皇帝は、大月氏の王の波調へ、"親魏大月氏王"の称号を授けた。
<コメント> この大月氏の王の波調は、Vas udeva Ⅰ(AD191-227)とされていまが、年代が合いません。年代からは、波調はKan Ishka Ⅱ(AD228-248)です。Kan Ishka (韓石家, Japanese) は、盟友の"魏"に挨拶に来たように思える。Kan Ishka (韓石家, Japanese) は、元々、中国の "盧水胡"またはオルドス(Ordos, HUNANは黄河の南岸の意味)の出身です。

 

中国では、BC221-BC210の"秦"、そしてBC202からの"前漢"の時代、"炒鋼"による統一中国が続き、"退化"の"燕"は中国から追い出されました。しかし、AD196頃、"退化"が大きくなり、逆に"炒鋼"は小さくなっています。さらに"炒鋼"は、僚友の"湅鋼"を失い孤立しています。

 

一方、朝鮮半島南東岸の金海の大成洞の王墓が、AD150に木棺墓から木槨墓へ変わりました。木槨墓は"燕"の墓制です。これは、"炒鋼"により中国から追い出された"退化"の"燕"が、朝鮮半島の金海で、復活したということを意味します。

 

また木槨墓は元々はスキタイの墓制です。"8.21"の"AD136-150頃、ステップ草原の似た逸話集"で見たように、AD136-150頃、黒海北岸の旧王族スキタイから朝鮮半島南岸まで、旧王族スキタイが復活したことも示唆します。
AD150頃の金海の"袋状鉄斧"は7章の「7.金海の袋状鉄斧」で見ました。直接製鉄法の"塊煉鉄"です。これを鍛造法で折り返し鍛錬して成形し、表面だけを"浸炭"処理したものです。金海の製鉄は古のインド西端の国際貿易都市国家GujaratのKutch島の由来の"塊煉鉄"の直接製鉄法です。孔雀が出てきます。"許氏"です。更に金海では鍛鉄の"金氏"です。Kutch島はシリアのダマスカス鋼とも貿易があります。ローマ帝国の貿易地図にも出てきます。金海には"許氏"と"金氏"という系譜があります。ここに、表面処理だけの"退化"の"燕"が現れ、AD150頃に王墓だけが、"燕"の木槨墓となったようです。つまり朝鮮半島の"許氏"の金海の"退化"は、中国の魏の曹操の"許"です。BC221には"炒鋼"により中国から追い出された"退化"の"燕"が、AD150に朝鮮半島の金海で復活し、AD196に中国の魏の曹操の"許"となって戻ってきました。

 

"退化"が中国へ戻った理由が一つ想像できます。次のような「アルタイ鍛鉄」と「鉄の冷却固化現象」の例え話です。
"炒鋼" Story (3/4) START:

同じ1mの長さで、縦横が10×10cmの角棒1本と、1×10cmの平板10本の、冷却固化現象を比較します。
10×10cmの角棒の冷却固化は外周部が先に固化します。冷却途中で芯部は半熔融状態なので、純鉄Feだけになる傾向があります。逆に、先に固化した外周部は不純物である炭素含有量が多い組成になります。これは鉄に限らず、不純物が固化のトリガーとなる一般的な冷却固化時の現象です。冷却過程を時間分解で見ると、外周部の不純物の多い組成が先に固化します。multi-trigger-coreです。固化は熱力学的に発熱反応なので、不純物の少ない組成は冷却操作をしているにもかかわらず熔融状態を保ちます。熔融状態の不純物の少ない組成の液体の中で、先に固化した不純物の多い組成の固体が浮いている状態です。より冷却される外周部から芯部へ、これが繰り返されて、全体が固化します。結果として、芯部は炭素含有量が少ない純鉄Feになります。つまり芯部は柔らかく曲がりやすい。
一方、1×10cmの平板は全て外周部と見なせます。冷却固化時は全域が硬い外周部として固化します。柔らかい芯部がありません。
この1×10cm長さ1mの平板を10枚重ねると、10×10cmの長さ1mの角棒と同じ重さになります。この同じ長さ、同じ重さの「平板10枚重ね」と「角棒1本」、2つの曲げ強度を比較してみます。角棒は芯部が柔らかいので10tNほどの力で曲がります。一方、平板10枚重ねは柔らかい部分が無いので、曲げるのに20tN以上の力が必要です。折り返し曲げのForging Iron品は、平板10枚重ねの構造です。"炒鋼"より曲げ強度が強いということです。これがGimhaeの"退化"の"燕"が、再びChinaの魏の曹操の許として戻って来たと考えられる理由の1つです。
余談ですが、日本のたたら製鉄の歴史の中に玉鋼(たまはがね)という製法があります。インドのウーツ鋼の由来かもしれません。まず熔鉱炉の間接製鉄法で砂鉄または鉄鉱石を完全に熔融還元します。炭素含有量は2%超です。これを冷却固化させます。固化した鉄の塊の外周部は単素含有量3%超のクズ鉄です。しかし芯部の玉鋼と呼ばれる部分は炭素含有量1%前後の最高の鋼(はがね)です。鉄の塊を打撃で割って芯部の玉鋼だけを採取して使う方法です。ただ鉄の塊を強い打撃で割るのが大変です。鉄槌を打ち下ろして割っていたようです。出雲大社で出土した大社殿のように高層です。
1901年に"炒鋼"の転炉を技術導入した日本でも、第2次世界大戦中、軍刀だけは折り返し曲げ鍛造で製作していました。上述のように「平板10枚重ね」の方が曲げ強度が強いからです。しかし鍛造は鍛接線の空隙があり錆びやすいので軍刀は常に油を塗った状態にする必要があります。軍刀は武士の魂です。常に薄く油を塗ります。さらに鍛造は大量生産できないので、"退化"で製作するのは第2次世界大戦中の軍刀だけだった。他の列車, レール, 船などは八幡製鉄所の"炒鋼"の転炉で製作していた。
現在の鉄骨造高層ビルはH型鋼という平板を組み合わせた形を使います。柔らかい芯部がありません。これは炒鋼である転炉で大量生産可能であり、曲げ強度も充分あります。一方、カスガイを掛ける、梁を張るなど、大型建物の構造的な強度問題は別の話です。また超硬刃チップなど、硬さ・鋭さの特に特殊用途のものは現在でも少量生産です。
もう1つの大きな理由は、"炒鋼"の発明者が元々の出身がインドであったことです。同じインド出身の許氏のGimhaeを多少容認したかもしれません。しかし「8.22. 黄巾の乱」で見たように、"退化"の"燕"はBC1900の暗黒時代そのものです。"炒鋼"の発明者のIndusの子供がBC1800に奴隷にされた暗黒時代の張本人です。軍刀だけが唯一の勝ち点である鍛造の"退化"が主流となった中国は、AD220から魏呉蜀の三国・西晋、そして五胡十六国と戦乱の分裂の時代に逆戻りします。軍の旗艦は釜山です。しかしAD589に隋が中国を再統一します。さらにしかし、直ぐAD618李淵の建国した唐に簒奪禅譲されます。そして"炒鋼"はAD751についに中国を去ります。残された唐の鉄は鍛造の"退化"の軍刀だけです。大量生産できません。唐の宮廷では芸術品の陶器だけが並びます。そしてAD907に唐が滅び、再び五代十国さらに北宋・南宋の分裂状態になります。次は鍛造と騎馬族のモンゴルの元の時代がAD1368まで、"退化"の明がAD1662まで続きます。そして次は、金・清と、モンゴルの鍛造と燕の"退化"の中間地点の内モンゴルの帝国が続きます。軍刀に常に油をたっぷり塗って防錆して、内モンゴルで長期政権を保っています。軍人は常に軍刀に油をたっぷり塗ります。しかし中国では軍刀以外、西欧に見られる"炒鋼"による鉄の大量生産は現れません。"炒な真似するな"の諺通り、"炒鋼"は、ある時代に中国から消えています。
"炒鋼" Story (3/4) END:



8.24. 西晋・五胡十六国 AD265-AD370
ギリシャ文書記録にAD150頃からAD370までのヴォルガ川より東の情報はありません。Sassanidの文書記録でも中央アジアは伝聞・断片的であり、Sassanidの完全に支配地域外です。しかし近年の発掘調査で、南ウラル・中央アジアでは2-4世紀の『人工頭蓋変形』が多量に発掘されています。AD370にヴォルガ川を西へ渡ったフン族が認識されるまで、人知れず『人工頭蓋変形』の奴隷貴族が、南ウラル・中央アジアで増殖していたようです。