8.17. しかし匈奴に完敗 BC202-BC141

BC200、匈奴(Xiongnu)が長城を越えて、韓王信が封されていた太原(jp;TABARA)に攻め込みました。太原はアルタイ語の一派と見なされる日本語で読むと、トルコのNeo-Hittiteの古地名TABALです。"退火"です。韓王信は匈奴に寝返りました。韓は以後、モンゴルと中国を行き来します。激怒した劉邦は自ら出陣して匈奴を追討します。ところが劉邦は逆に匈奴軍に包囲され、命からがら敗走して惨敗します。逸話では劉邦の騎馬隊が先走りして包囲され、劉邦の歩兵の大部隊が追いついたのが1週間後だったということです。軍内部の騎馬隊と鉄器重武装歩兵の勢力争いのようにも見えますが。とにかく騎馬族に圧倒的に有利な条件で停戦協定が結ばれます。多大な毎年の報納金・食料が約束され、前漢は匈奴に全く手が出せなくなりました。
北では匈奴の勢力は圧倒的に絶大となります。河南のオルドス(鄂尔多斯市)まで冬季の離宮とします。さらに匈奴は月氏を徹底的に西へ追い払います。月氏は遠く中央アジアで大月氏となります。

 

しかし匈奴への多大な報納金にもかかわらず、劉恒・劉啓の時代に、前漢の人口は急増し、国庫は潤った。

 


8.18. 中興の武帝 BC141-BC49

前漢で武帝がBC141に即位すると、国庫の貯えを背景に、外征を始めます。匈奴を北に追い払います。衛青が活躍します。BC109には衛氏朝鮮を倒して漢四郡を設置しました。この時に咸興市の在地住民の濊族を移住させBlank(空白地帯)にしたことにより、朝鮮半島は中国とは全く別の国になりました。また宣帝の時代には匈奴の呼韓邪が漢に入朝し、匈奴は西匈奴と東匈奴に分裂しました。なにやら烏恒・啓・衛・韓と、BC1900-BC1600の暗黒時代、BC1600-1046の殷商の時代のメンバーが再び現れてきました。漢の雲行きが怪しくなってきました。

 


8.19. 呼韓邪・新 BC49-AD25
前時代に武帝に攻め込まれた匈奴は単干が5人も並立する内紛状態になりました。中国の戦国時代の末のBC300頃まで戦車の大国であった趙と韓は、前漢末には騎馬族の匈奴の一員となって呼韓邪・烏籍(オゼキ)として確認されています。東匈奴の呼韓邪は有力だったのですが敗れ、漢(HAN)に入朝します。韓は再び長城の内側に戻ってきました。一方、西匈奴の郅支 (Zhizhi)は、東匈奴の呼韓邪が前漢と組んだのを見て、康居へ逃げ込み、"都赖水"(タラス川, Talas River)の河畔に城をかまえた。しかしBC36に西匈奴の郅支 (Zhizhi)は、前漢に敗れました。ここはAD751の"怛羅斯戰役" (Battle of Talaz)としても有名です。歴史的な場所です。

 

一方、呼韓邪が再び長城の内側に戻ってきた前漢の宮廷では宦官政治となります。そして遂にAD8に王莽に簒奪され前漢は滅びます。