9. History of Cranial Deformation & Coins
『頭蓋変形(cranial deformation)』は、世界的には膨大な数の発掘例があります。ただし日本の『頭蓋変形』の遺跡数は大変少なく、熊本県の和水町の遺跡と鹿児島県南種子町の広田遺跡で確認されているくらいです。しかし広田遺跡だけで39体もの『頭蓋変形』の遺骨が、集中的に発掘されています。最初に広田遺跡を見ます。次に、"9.2.Ganj Dareh の頭蓋変形"、"9.3.Neanderthal Shanidar 1" では最も古い頭蓋変形を見ます。"9.4.Whirlpool of Bhitari Pillar" は、Huna Coinsに攻め込まれたインドの状態が刻まれています。"9.5.亀茲の頭蓋変形と官製遊廓" では、大唐西域記より亀茲の『Coins・遊郭』とコンビの頭蓋変形を見ます。そして"9.6." 以降で、日本の『Coins』を『神功開寶』を中心に見ます。

 


9.1. 広田遺跡の頭蓋変形
日本で『頭蓋変形』が確認された広田遺跡は、鹿児島県の種子島の島の南部域の南種子町です。広田遺跡の始まりは、次のように記されています。

 

[木下尚子2020, p314]
"広田遺跡は、広田式古期 (
弥生時代終末期から古墳時代初頭並行期) に、オオツタノハ腕輪をはめヤコウガイ匙を副葬し在地墓制(覆石墓)を継承する人々が、砂丘北側に埋葬されることで始まった墓地である。腕輪の着装は、九州人のオオツタノハ需要に対応して導入された可能性がある。筆者は装身具によって広田人を分類し、彼等を腕輪グループの人々と呼んだ。"
着目点は「広田遺跡は弥生終末に始まった。」ことです。そして、広田式古期(弥生終末-古墳初頭)は、在地墓制の腕輪グループだけだった。

[木下尚子2020, p314]
"広田式新期 (古墳前期-中期初頭並行期) になると、腕輪グループの人々に加えて、それまでにみられなかった、彫刻をもつ貝符、竜佩型貝製垂飾、大量の貝製玉類で飾られる人々 (貝符グループの人々) が、配石墓・土坑墓、側臥葬、二次葬、墓を上に重ねる埋葬習俗を伴って加わり、砂丘南側に二つの異なる習俗をもつ人々の共同の墓地が形成され始める。"

広田式新期(古墳前期-古墳中期並行)に、異なる墓制の貝符グループが新たに加わった。

 

[木下尚子2020, p314]
"二つのグループは対峙していたが排他的ではなく、相互の装身習俗・埋葬習俗はすみやかに融合し始める。"

在地系の腕輪グループ、そして

非在地系の新規参入の貝符グループ
この2つのグループは、最初は対峙した。しかし、
すみやかに融合した。このように要約できそうです。

 


表の中央の"広田遺跡の土器型式"の縦欄で、"広田式"/"(古)"は弥生時代の終末期に始まっています。そして"(新)"と続いています。その右の"貝符による時代区分"の縦欄で、"下層タイプii貝符"があります。

 

これが次図の最上段の図柄の"広田下層式ii類?"です。乳房タイプです。図中では双眼類と記されています。熊本県和水町のチブサン古墳と全く同じ図柄です。朝鮮半島系です。

しかし左端列だけ異なり、幾何学パターンです。BC900頃のギリシャのスパルタの土器の口縁部と同じです。ギリシア雷文(meander)です。豚骨ラーメン丼の縁には必ず付いています。スパルタはエーゲ海ではなく、東地中海の東岸系です。古のビシュリ山の遊牧商人Amurru、青銅器帝国シュメール語でMartuです。ただしBC1100以降はハマ・ダマスカスを拠点とする"Syro-Hittite"の鉄器商人アラム人に変わっています。しかし日本の考古学では、この幾何学パターンを「工字文」と呼びます。「工字文」を持つ土器を「大洞式土器」と呼びます。以前は「亀ヶ岡式土器」と呼ばれていました。標識遺跡は大船渡市の「大洞貝塚」です。「大洞貝塚」の時期は日本の縄文晩期です。日本の縄文晩期は確定していなく、BC1046(周建国)からBC770(東周再興)と幅があります。BC900頃のギリシャのスパルタとほぼ同時期です。スパルタは頭が変形する系列かもしれません。

『頭蓋変形』
日本国内では数箇所しかない『頭蓋変形』の遺跡ですが、広田遺跡だけで39体もの『頭蓋変形』の遺骨があります。
[米元史織 et al., p266]
"観察可能であった頭蓋骨52体分のうち、後頭部が扁平を呈する(左右非対称の変形も含む)頭蓋骨は39体であり..."

 

次は『頭蓋変形』とは関係ない殴打による頭蓋骨陥没骨折です。虐待の痕跡です。
[米元史織 et al., p266]
"広田遺跡出土人骨の中で最も特徴的であった個体がC地区8号人骨である。…前頭骨の右側に陥没痕が認められる(馬場 1998)。これは先述した頭蓋変形と関連する可能性のある陥凹とは形態的に異なり、頭蓋骨の陥没骨折の可能性がある。前頭部の陥没骨折は小物体の打撃などによって生じることが多いと指摘されている(萩野・松島 2009)が、陥没の範囲が広く右側に円形状の凹みが確認される。外傷であった場合石鏃のような先端鋭利なものよりも鈍器による外傷が想定される。"
[米元史織 et al., p267]
"N2号西側人骨・C地区4号人骨の後頭骨中央部に陥凹が、A地区8号人骨の前頭骨中央部とC地区5号人骨の前頭骨左側に陥凹が認められた。A地区8号・C地区5号人骨の前頭骨の陥凹は、形状がC地区8号人骨のそれとは異なり陥凹の面積が狭く、左側の創縁が明瞭で深い破裂傷と考えられ、鈍体による作用の結果の可能性も考えられる(石山 1978)。上記5体が何らかの外傷を頭蓋骨に受けた可能性があるが、いずれもよく治癒している。"

頭蓋骨が陥没骨折するほど、激しい殴打による虐待を受けています。しかし致命傷ではありません。治癒しています。死なない程度に激しく殴打。

 

[米元史織 et al., p266]
"下層から出土したと考えられる頭蓋骨は79体分であった(表2)。そのうち性別のわかる個体(表3)は男性28体、女性28体と同数であった。…未成人は5体のみであり下層人骨のみにおいても中橋(2003)で指摘された未成人骨の少なさは看取される。"

弥生時代は一般に乳幼児の死亡率が高く、墓地での乳幼児の遺骨の割合は通常は4-5割ある。ところが5体のみで1割にも満たず少なすぎる。これより広田遺跡は、生活し、出産し、育児をするという生活形態は無い。奴隷が連れて来られ、貝符製作の労働を強制される。死ねば、新しい奴隷を連れてくる。奴隷が逆らえば容赦なく死なない程度に激しく殴打する。そして、他の奴隷への見せしめにもする。
広田遺跡は、貝符製作の奴隷村だった。

 

広田遺跡のこの状態は、8世紀まで、一部は9世紀初めまで続いたようです。(上記の図5より) 日本の時代区分では、『日出ずる国の天子、日没する国の天子へ…』で始まる遣隋使の上奏文、つまり7世紀初め頃が最盛期のようです。ただ「日没する国と言われ激怒した隋の煬帝が秘密裏に討伐軍を出し、鹿児島南部の隼人を討伐して、連れ去った。」という逸話があります。「隼人は閑散となった。」という記録はあります。しかし7世紀末の天武天皇の親政、そして8世紀の平城京の時代も、南種子町広田遺跡の貝符製作は続いています。そして京都の平安京になった9世紀初め頃に、南種子町広田遺跡は終焉しています。平安京に遷都したのは桓武天皇です。"和同開珎"、"神功開寶"などの銅銭の発行が定着しました。殷商のように、"貝貨"が貨幣として採用される可能性は全く無くなった。
 

 


朝鮮半島の弥生終末期 (AD245-248)
広田遺跡は弥生終末に始まっていました。補足としてAD245-248の朝鮮半島を見てみます。AD245、朝鮮半島の魏の"帶方太守"の"弓遵"が賊に殺されました。これがトリガーです。魏の弱体化が露呈しました。AD245-248が日本の弥生終末期です。わずか3年間ですが、勢いついた朝鮮半島の反女王卑弥呼グループが、大挙して九州北部へ乗込んできました。九州北部では弥生終末期の朝鮮半島系の住居跡や出土遺物が大量に発掘されています。
まず注目するのは、女王卑弥呼を討ったと記録されている、南の"狗奴國"の"狗古智卑狗"です。遠賀川河口の芦屋に上陸して、遠賀川沿いを南下し、熊本北部の菊池川流域へ廻り込みました。女王卑弥呼に従わない"狗奴國"の"狗古智卑狗"の根拠地です。この"狗奴國"がAD247に女王卑弥呼の吉野ヶ里遺跡を攻めました。そして女王卑弥呼は没した。(没年が無く、翌AD248としています)
以下、古文書記録を見てみます。最初は弥生後期後半『AD238の女王卑弥呼の魏への朝献』をおさらいします。次に弥生後期末つまり弥生終末AD245-248の『激動の朝鮮半島の情勢』を見てみます。

AD238の女王卑弥呼の魏への朝献
[魏志倭人傳]
<原文> "景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻…"

<概訳・コメント> 景初二年(AD238)六月、倭女王が帯方郡に来訪し、天子への朝献を求めた…
"其年十二月、詔書報倭女王曰:「制詔親魏倭王卑彌呼…"
<概訳・コメント> 景初二年(AD238)十二月、詔が出て、倭女王卑弥呼を「親魏倭王」とする…
[魏志明帝紀2]
<原文> "(景初二年)十二月乙丑、帝寢疾不豫。"

<概訳・コメント> 景初二年(AD238)十二月乙丑の日、帝が重病で倒れた。前述の[倭人条]では、景初二年十二月に倭女王への「親魏倭王」の詔を決定しています。重病で倒れた後に詔を出すはずがありません。延期になるはずです。詔を出したのは倒れる前、十二月初旬頃です。直後の十二月中旬に明帝は重病で倒れた。あっけなく、翌景初三年正月元旦に崩じた。倭女王へ金印授与の詔を出した明帝は、反女王卑弥呼グループによって毒殺されたと、断定します。しかし倭女王へ授ける鉄刀は計画通り、景初三年夏に作製された。そして翌年の正始元年春に金印・鉄刀・銅鏡100枚などが倭女王へ直接授けられた。以上、倭女王の朝献を景初二年(AD238)六月とすれば、タイムラインでの全ての話のつじつまが合う。
<原文> "三年春正月丁亥、…即日、帝崩于嘉福殿、時年三十六。癸丑、葬高平陵。"
<概訳・コメント> 景初三年春正月丁亥の日、帝は嘉福殿で崩じた。享年三十六。仮に、倭女王の朝献を景初三年(AD239)六月とするならば、明帝は昇天後の御陵?で、倭女王の朝献遣使に謁見。?

AD238朝献 - - AD239に鉄刀作製 - - AD240女王へ - - -
[魏志倭人傳]
<原文> "正始元年、太守弓遵…奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王…"

<概訳・コメント> 正始元年(240)、帯方太守弓遵が…詔書・印綬・鉄刀・銅鏡100枚などを倭国の倭王に直接授けた。
<原文> "(正始)其四年、倭王復遣使…"
<概訳・コメント> 正始四年(243)、女王卑弥呼が再び朝献した。

 

AD245-248日本では弥生終末 - - -
[魏志倭人傳]

<原文> "(正始)其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。"
<概訳・コメント> 正始六年(245)、帯方郡から倭を呼び出した。朝鮮半島での戦乱が原因ですが、後で見ます。
<原文> "(正始)其八年、太守王頎到官。"
<概訳・コメント> 正始八年(247)、賊に殺された帯方太守弓遵の後任、新しい太守王頎が着任。
<原文> "倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和…"
<概訳・コメント> 倭女王卑彌呼は狗奴国のAD247当時の男王の卑彌弓呼と元々不和で
<原文> "…其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。"
<概訳・コメント> その南の狗奴国の男王は狗古智卑狗。女王に属さず。
<原文> "卑彌呼以死…。"
<概訳・コメント> 卑彌呼が没した。没年が無いので翌AD248としています。
[魏志韓傳]
<原文> "景初中、明帝…越海定二郡、諸韓國臣智加賜邑君印綬、其次與邑長。"

<概訳・コメント> 参考として "狗古智卑狗"の"智"の漢字の意味を考えてみました。まず上記原文の概訳は景初中(237~239)、明帝は…海を越えて楽浪帯方2郡を平定し、韓の各国の臣智を邑君、副官を邑長とした。文脈より"臣智"とは韓人の各国の君主または王です。上述の"狗古智卑狗"の"智"は韓人の王です。"狗古智"で、そのままの地名で、現在の"菊池"で残っています。 "卑狗"は、"彦"であり首長ですから、"狗古智彦"は現代風に言えば菊池市長です。また現在の菊池市の西隣が同じ菊池川流域で山鹿市です。遠賀川河口の芦屋町の遠賀川河口東岸が、山鹿という地名です。残っている地名から考えると、「遠賀川河口の芦屋に上陸した韓人が、熊本北部の菊池川流域の菊池市と山鹿市に移住した。」と推定できます。さらに山鹿市の西隣の同じ菊池川流域の和水町に「チブサン古墳」があります。乳房タイプの図柄です。女王卑弥呼を討ったと記録のある狗奴國の推定地は、菊池市・山鹿市・和水町と相当広範囲です。

AD245-248の激動の朝鮮半島の情勢 (帶方太守の弓遵に着目)
[魏志韓傳] 濊
<原文> "正始六年、樂浪太守劉茂・帶方太守弓遵以領東濊屬句麗、興師伐之、不耐侯等舉邑降。"

<概訳・コメント> 正始六年(245)、楽浪太守劉茂と帶方太守弓遵は、東濊が高句麗に服属して、郡に従わないので、軍隊を出動して討った。東濊の不耐侯らは邑を挙げて服属してきた。AD245帶方太守の弓遵はまだ生存しています。
[魏志毌丘倹傳]
<原文> "(正始)六年、復征之、宮遂奔買溝。儉遣玄菟太守王頎追之、過沃沮千有餘里、至肅慎氏南界"

<概訳・コメント> 正始六年(245)、再び高句麗を討った。高句麗の東川王は買溝に逃走した。玄菟太守の王頎が追討し、威鏡道あたりの沃沮を通り過ぎ、さらに東へ千余里、粛慎の南限まで追討した。AD245、江原道の東濊・高句麗、威鏡道の沃沮さらに肅慎氏南限、はるか東の現在のアムール川のハバロフスク付近まで追討しています。朝鮮半島北部を徹底的に討伐しています。厳しい追討で、反女王卑弥呼グループは、さらに東へ、サハリン・北海道さらに青森まで逃げたかもしれません。南へは九州北部さらに九州南部・沖縄まで逃げたかもしれません。反女王卑弥呼系の逃亡兵が、大挙して日本列島に逃げ込んで来たことになります。AD245、日本の弥生終末が始まる。
[魏志韓傳]
<原文> "分割辰韓八國以與樂浪、吏譯轉有異同、臣智激韓忿、攻帶方郡崎離營。時太守弓遵・樂浪太守劉茂興兵伐之、遵戰死、二郡遂滅韓。"

<概訳・コメント> 帯方太守の弓遵が戦死。没年AD245 or AD246 (記載が無い)。
[魏志倭人傳]
<原文> "(正始)其八年、太守王頎到官。"

<概訳・コメント> 正始八年(247)、賊に殺された帶方太守の弓遵の後任、新しい帶方太守の王頎が着任。王頎はAD245は玄菟太守でした。AD247に新しい帶方太守として着任していますから、前任の弓遵の没年は、その前のAD245 or AD246です。AD245弓遵の生存は確認されています。しかし、弓遵没をAD245の年末と仮定します。日本の弥生終末はAD245末からです。

広田遺跡と朝鮮半島情勢の関連性
AD245、朝鮮半島は激動であり、反女王卑弥呼の逃亡兵が日本列島へ大挙逃げ込んで来ていました。日本の弥生終末期です。南種子町に現れた新しい外来系の貝符グループも、この時の逃亡兵でしょう。
途中、熊本北部の菊池川流域に狗奴国の拠点があります。この中の和水町でも、日本では数少ない広田遺跡と同じ『頭蓋変形』が、確認されています。AD245、日本の弥生終末期、朝鮮半島AD245→九州北部・芦屋→熊本北部の和水町→鹿児島の南種子町という経路が想定できます。逃亡兵であるため、朝鮮半島に近い九州北部は素通りして、ずっと奥(南)の山影や、更にずっと南の離島・種子島へ逃げ潜んだのでしょう。
南種子町で貝符製作を始めた逃亡兵は、貝貨を使っていた昔の中国の殷(-Ad1046)の残党である、中国の西遼の夏家店上層文化の"赤峰,Chifeng"、"大凌河,Daling River"だと想像できます。円形の銅銭だけでなく、刀銭・刀幣も使われていました。金貨用の金山ならぬ、貝貨用の貝海です。奴隷を使って貝を採らせ加工すれば大金持ちです。
一方、広田遺跡で発掘される貝符の幾何学紋様は、熊本北部の和水町の隣の山鹿市の装飾古墳であるチブサン古墳の幾何学紋様の乳房タイプに大変よく似ています。赤峰は、騎馬族の放牧牛ではなく、元々Kushanヒンズル教で農業奴隷女の雑穀豚畜産です。たとえそれが幼い赤ん坊であったとしても神の力がみなぎる。装飾は、PAINTEDの彩陶系です。Cucuteni- Trypillianです。

 

貝の加工所だけに、『頭蓋変形』が局所的に集中しています。ある特定のグループである『殷の貝貨の残党』と確信します。

『頭蓋変形』
=殷の貝貨の残党
=夏家店上層文化の"赤峰,Chifeng"、"大凌河,Daling River"
=反女王卑弥呼
=魏の曹操・青州兵

※ 魏の曹操は、女王卑弥呼の出身地である山東省で、川が血の海になるほど徹底的に皆殺しにしましたから。殷の姜族虐殺は有名です。『頭蓋変形』は軽いものです。

日本での珍しい人工頭蓋変形の広田遺跡を見ましたが、世界の『人工頭蓋変形』の歴史は相当古く広域です。さらに「9.3」で後述するShanidar caveの最下層のネアンデルタールの『人工頭蓋変形』は6万年前とさらに限りなく古いです。これから見ると、6万年前のネアンデルタールのShanidar caveの風習が、BC10000にホモサピエンスのNatufian系のShanidar cave、さらに中国の吉林省Houtaomugaでも、復活したことになります。フランスの農民では、ごく最近まで、バンダナを巻くという『人工頭蓋変形』が普通に実施されていました。6万年前のネアンデルタールから『人工頭蓋変形』の歴史は続いています。

 

 


この"9.1."の引用文献

 

[木下尚子2020]
"第1章 土器とその移動"
https://kumadai.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=31734&item_no=1&attribute_id=21&file_no=8&page_id=13&block_id=21

木下尚子 , 第Ⅱ部 第3章 広田人とその移動 2.埋葬と装身習俗から見た広田遺跡 - 下層期の3-5世紀を中心に -, pp.281-327, 木下尚子編 広田遺跡の研究 人の形質・技術・移動, 平成29年度-令和元年度科学研究補助金基盤研究(B)研究成果報告書, 2020.

[米元史織 et al.]
"第3章 広田人とその移動" 
https://kumadai.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=31753&item_no=1&attribute_id=21&file_no=1

米元史織 et al., 第Ⅱ部 第3章 広田人とその移動 1. 広田遺跡出土人骨の再検討, pp.263 - 279,  木下尚子編 広田遺跡の研究 人の形質・技術・移動, 平成29年度-令和元年度科学研究補助金基盤研究(B)研磨孔報告書 , 2020.

三國志 (5冊組), 陳壽, 中華書局, 1959.
[魏志倭人傳] 第2/5冊(魏書2), 巻30, 烏丸鮮卑東夷傳:倭人.
[魏志東夷傳] 第2/5冊(魏書2), 巻30, 烏丸鮮卑東夷傳:東夷
[魏志韓傳] 第2/5冊(魏書2), 巻30, 烏丸鮮卑東夷傳:韓
[魏志毌丘倹傳] 第2/5冊(魏書2), 巻28, 王毌丘諸葛鄧鍾傳(1):毌丘倹.
[魏志明帝紀2] 第1/5冊(魏書1), 巻3, 明帝紀(2):明帝