8.25. フン族が現れる AD370
AD370、フン族がボルガ川を西へ渡り、初めて騎馬族の大軍が認識されました。フン族は、阿蘭を取り込み、更に西進して東ゴート族、西ゴート族を追討しながら、ヨーロッパへ突入しました。

ほぼ同時期、AD370頃、Kidariteが、中央アジアのKushanを完全に駆逐しました。Kushanは東からGuptaにも攻められ滅びました。インドはGuputa朝、中央アジアはKidarite、という勢力図に変わりました。中央アジアはKidarite, Alchon, Nezak, Hephthaliteと続くHuna支配者となります。神をも凌ぐHuna支配者は、イラン様式に習いCoins発行を始めます。Kidaritesは、4世紀末にカシミール・カラコルムに縮小します。中央アジアではAlchonが覇者となります。Hunaは南下してインドへ攻め込みます。

 

一方、HUNAに攻め込まれたインドのグプタ朝は大騒動です。AD460、インドのグプタ朝のSkandaguptaが、Bhitari Pillarの石碑に刻んでいます。Hunaに攻め込まれ、その時のダメージが記録されています。
 "the earth was made to tremble…, since he caused a terrible whirlpool",
 "sounds like the twanging of bow (sarṅga) in ears." (sarṅga=Ganges River)

Gupta Empire は急速に勢力を失い、100年後に完全に消滅します。Bhitari Pillarは、"9.4. Whirlpool of Bhitari Pillar"で見ます。

シルダリア川の北に粟特という国があります。
[北魏書 卷一百二 列傳第九十 粟特]
<原文>“粟特國,在葱嶺之西,古之奄蔡,一名溫那沙。居於大澤,在康居西北,去代一萬六千里。先是,匈奴殺其王而有其國,至王忽倪已三世矣。”

<概訳> "粟特" (Sogdiana)は、"葱嶺"(パミール高原)の西。古の奄蔡。"粟特"の別名は"溫那沙"。大きな湖の湖畔で、西北に康居。"代", "北魏"から1万6千里。匈奴がそこの王を殺して"粟特"王となった。それから3世代。
<コメント> カザフスタンのタラス川付近です。"粟特"は、全くの"匈奴"です。1世代20年として60年前。次の文がAD450頃なので、AD390頃。ペルシャの記録では、AD390頃にトルクメニスタン・イラン北東部へ東からKidaritesが攻め込んでいます。Kidaritesは中国名では"粟特"で、別名が"溫那沙"のようです。モンゴル語の"荷車" (Tegreg)のカザフ語への転写かもしれません。Kidaritesの本拠地はアフガニスタン・パキスタン北部です。記述にある"粟特"はウズベキスタンのさらに北のカザフスタンの西南部です。"粟特"はそこに60年間居ます。Kidaritesの居場所より北です。AD370-390頃のKidaritesと"粟特"の連合軍かもしれません。Kidaritesは4世紀末にカシミール・カラコルムへ縮小します。402年には東のモンゴル高原で"社崙"が覇を唱えます。さらに"大檀"が428年に覇を唱えます。390-440が"溫那沙","社崙","大檀"の絶頂期です。

 

<原文>“其國商人先多詣涼土販貨,及克姑臧,悉見虜。高宗初,粟特王遣使請贖之,詔聽焉。自後無使朝獻。”
<概訳> 粟特の多数の商人が涼州に来てcoinで取引していた。姑臧を捕虜にした。北魏の高宗(AD452-465)初のAD452頃、粟特は捕虜の姑臧を買い取るように要求してきた。北魏はこの申し出を聴きいれた。粟特は以後、朝献しなかった。

 

粟特の北に悅般という国があります。
[北魏書 卷一百二 列傳第九十 悅般]
<原文>“悅般國,在烏孫西北,去代一萬九百三十里。其先,匈奴北單于之部落也。為漢車騎將軍竇憲所逐,北單于度金微山,西走康居,其羸弱不能去者住龜茲北。地方數千里,眾可二十餘萬。涼州人猶謂之「單于王」。其風俗言語與高車同,而其人清潔於胡。俗剪髮齊眉,以醍醐塗之,昱昱然光澤,日三澡漱,然後飲食。其國南界有火山,山傍石皆燋鎔,流地數十里乃凝堅,人取為藥,即石流黃也。”
<TRANS>-
<原文>“與蠕蠕結好,其王嘗將數千人入蠕蠕國,欲與大檀相見。入其界百餘里,見其部人不浣衣,不絆髮,不洗手,婦人舌舐器物,王謂其從臣曰:「汝曹誑我入此狗國中!」乃馳還。大檀遣騎追之不及,自是相仇讎,數相征討。”<TRANS>-
<コメント> 涼州人は「單于王」と慕っています。風俗言語は高車と同じです。風貌も鼻が高い。ヨーロッパに現れたフン族とは全く異なります。次の文のように社崙・大檀の柔然を嫌っています。つまり悅般は北からカザフスタンのPavlodar Provinceに南下してきた別の種族のようです。

 

<原文>“真君九年,遣使朝獻。并送幻人,稱能割人喉脉令斷,擊人頭令骨陷,皆血出或數升或盈斗,以草藥內其口中,令嚼咽之,須臾血止,養瘡一月復常,又無痕瘢。世祖疑其虛,乃取死罪囚試之,皆驗。云中國諸名山皆有此草,乃使人受其術而厚遇之。又言其國有大術者,蠕蠕來抄掠,術人能作霖雨狂風大雪及行潦,蠕蠕凍死漂亡者十二三。”<TRANS>-
<原文>“是歲再遣使朝貢,求與官軍東西齊契討蠕蠕。世祖嘉其意,命中外諸軍戒嚴,以淮南王他為前鋒,襲蠕蠕。仍詔有司以其鼓舞之節施於樂府。自後每使貢獻。”
<概訳> 同じ真君九年(AD448)、悅般が再び北魏へ朝貢して来て、協力して"蠕蠕" (Juan-Juan, or 柔然)を討伐しようと提案してきた。北魏の世祖(AD423-452)は大いに喜び、北魏軍を出し、"蠕蠕" (Juan-Juan, or 柔然)を討伐した。悅般は以後、毎年北魏へ朝献した。
<コメント> しかし、少し後、 たぶんAD452, "蠕蠕" (Juan-Juan, or 柔然)が悅般へ攻め込み、悅般は行方知れずになります。直後に、南の粟特の地域にHephthalitesが現れます。Alchon、Hephthalitesの『頭蓋変形』のcoinは有名です。Hephthalitesの支配勢力は、完全に"蠕蠕" (Juan-Juan, or 柔然)と旧粟特です。

話が少し前後します。 中央アジアのKidarites = Kan Ishka (韓 石家, Japanese) は、4世紀末にカシミール・カラコルムへ縮小しました。 しかし元々アルタイから来たと言われる Kan Ishka (韓 石家, Japanese)は、東へ返り咲きます。"蠕蠕" (Juan-Juan, or 柔然)の"社崙" (AD402-410)、"大檀" (AD414-429) として、モンゴル高原の覇者になります。モンゴル帝国の首都名はカラコルムです。

真君九年(AD448)に、北魏・悅般連合軍が"蠕蠕" (Juan-Juan, or 柔然)を攻めた。逆にAD452に"蠕蠕" (Juan-Juan, or 柔然)が悅般に攻め込み、悅般は行方知れずになった。さらに北魏の高宗(AD452-465)初のAD452頃、粟特が北魏へ涼州の姑臧の捕虜を買い取るように要求してきた。これより、粟特と"蠕蠕" (Juan-Juan, or 柔然)は連合軍です。
旧粟特の地域のHephthalitesが現れます。そしてHephthalitesはAD484頃にはペルシャも破る『頭蓋変形』の最強の軍団になっています。Hephthalites自身のcoinでは、その王の『頭蓋変形』がハッキリ確認できます。Coinの図柄の王の風貌はAsia系とは異なります。中央アジアに残っていたギリシャ系とも少し異なります。しかし鼻が高く北方の民族です。悅般と涼州はウラル山脈の西側さらにカザンタタールの北から来たようです。
AltaiのKarasuk付近の高車も"蠕蠕" (Juan-Juan, or 柔然)と争っていましたが反乱を起こします。

 

高車とは
先に周辺の地図を見てみます。バイカル湖南と北は"丁零" (Dingling)です。その南は"鮮卑" (Xianbei)。さらに南は赤峰付近の"烏恒" (Wuhuan)です。 "蠕蠕" (Juan-Juan, or 柔然)の主体は古の赤峰 (Chifeng)の北の"東胡" (Donghu)です。匈奴は遺恨の宿敵です。さらに"東胡"のオリジナルはCucuteniです。"蠕蠕" (Juan-Juan)はAD560に西へ敗走した時、Cucuteniからカルパチア山脈を越えて中欧ハンガリーまで逃げています。
一方、中央アジアのKushanのKan Ishka (韓 石家, Japanese pinyin)は、AD402に社崙としてモンゴル高原に戻ってきています。さらにAltai西部の旧悅般の地域で、"鐵勒" (Tiele)または"荷車" (Tegreg)となっています。騎馬族の匈奴は、チャリオット戦車の覇権を奪われた宿敵です。カザフスタン・モンゴル高原での放牧には騎馬族が絶対的に優位です。Kan Ishka (韓 石家, Japanese)のオリジナルはMykopです。中国では、"石家莊" (Shijiazhuang)が根拠地です。ロシアでは、"蠕蠕" (Juan-Juan)の時代のKhakassia (墓 石家, Japanese)に痕跡があります。中国の山西省、モンゴル高原、ロシアのKhakassiaは、石炭の共通点があります。モンゴル系の地域です。今でも石炭が露天掘りで採掘されています。
そして"高車" (Gaoche)は、古のスポーク車輪のShintashtaを通過して来たのは確実です。"高車"とその南の"悅般"は同じ風俗言語です。"悅般" (Yueban)と"涼州" (Liang Province, now Wuwei-city)は同族のようです。"高車" (Gaoche)と風俗言語が同じ"悅般" (Yueban)と"涼州" (Liang Province)ですが、"高車" (Gaoche)とは少し異なるルートで西北から来たようです。"悅般"は、テュルク系の"蠕蠕" (Juan-Juan)とは異なる言語であり、"蠕蠕" (Juan-Juan)の風俗を嫌い、ずっと争っています。"悅般" (Yueban)と"涼州" (Liang Province)は、AD452、"蠕蠕" (Juan-Juan)と"粟特" (Sogdiana)に同時に滅ぼされています。

 

AD550頃の高車の反乱は"蠕蠕" (Juan-Juan)が鎮圧します。しかし、この時に鍛鉄奴隷であった突厥が独立して、"蠕蠕" (Juan-Juan)を滅ぼします。これから考えると高車と突厥は近い関係にあるように思われます。モンゴル高原の"蠕蠕" (Juan-Juan)は560年頃に完全に滅びます。
敗走した"蠕蠕" (Juan-Juan)は、カフカス東部でApal、東欧・中欧ではSvarです。特にHungaryでは、『頭蓋変形』の風習が、相当後年まで確認されます。支配階級の遺骨は欧州系ではなく、完全にアジア系です。カザフスタン系ではなく、モンゴル系ということです。AD370に欧州に侵入したHuns、AD560にモンゴル高原の"蠕蠕" (Juan-Juan)が西へ敗走したSvar、これらをまとめて、欧州ではフン族と認識しているようです。欧州では、フン族の起源を、モンゴル高原の北匈奴とする説が優勢です。ただ欧州ではSvarを出戻りとも認識しているようです。混在です。一方、モンゴルの突厥では、「お客さんを追い返した」、「2度と来るな」との逸話も残っています。強烈な「フン族遮断」の歴史は続きます。
さらに中央アジアのHuna Coinsの最後のHephthaliteも、AD560に、北の突厥とイランのササン朝により滅ぼされました。

 


8.26. 亀茲(Kuqa)と『和同開弥』初鋳 AD640,AD708
AD560の中央アジアのHuna Coinsの滅亡に伴い、『頭蓋変形』の風習も終焉すると考えます。ところが『頭蓋変形』の風習は、秘かに継続していました。東の山を越えた中国のタリム盆地西部のカシュガル(Kashgar)と亀茲(Kuqa)でAD640に確認されています。唐の僧侶の大唐西域記に記録されています。この中で亀茲では官製遊郭もあります。日本の江戸時代に似ています。カシュガルと亀茲は共に治安が相当悪いと記されています。唐のこの僧侶はキルギスタン、カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、アフガニスタン、パキスタン、タジキスタンと中央アジアの全ての国を通過していますが、他に『頭蓋変形』の風習の特記はありません。カシュガルと亀茲だけです。BC560以前の中央アジアのHuna Coinsの残党が、西突厥とササン朝ペルシアから隔絶された山影で生き残ったようです。そして日本へ来た。

 

AD640頃、"唐" (Tang)から中央アジアへのシルクロードの天山南路では、Mani教が盛行していました。各拠点には大乗仏教の僧兵がいるのですが。西方のPersiaのSasanianの開祖はゾロアスター教の神官出身です。ゾロアスター教から派生したMani教は一部教義が似ているようです。Mani教はタリム盆地のシルクロードから更にイランへのmerchantの宗教です。"唐" (Tang)に見られるPersia系の特産品は、"Artificial Cranial Deformation"のstrange folkwaysのある喀什(Kashgar)と亀茲(Kuqa)を通過するシルクロード天山南路を経由して輸入されていました。Mani教のmerchantが通商の権益を握っていたようです。相当高額だったでしょう。

 

最後に「日本へのコイン発行の渡来」です。AD663に呉系の百済は唐・新羅連合軍に敗れ滅びました。AD668に遼東の高句麗も滅びました。遼西の赤峰(Chifeng)・胡芦島は、渤海の海人がいなくなった為に、渤海・黄海の海路を失いました。しかし渤海の海人は東方へ逃れ、渤海国を建国しました。渤海国から日本海側の舞鶴への海路は、遣唐使も帰路に使うなど記録に残っています。この海路で、直接、東突厥の本物の牛飼い、さらにHuna Coinsの残党である亀茲・赤峰が流入したようです。平城京の初頭、AD708に和同開弥が初鋳です。平城京では唐車とも呼ばれる牛車が往来し、天然痘が流行りました。日本で初めて牛飼いが輸入された証拠です。遣唐使さらにモンゴル高原の突厥からの移民です。天然痘ワクチンは牛からつくります。天然痘ワクチンに関する歴史は古く、牛頭王薬師如来様が初めのようです。また舞鶴周辺の京都・福井・富山県は美人が揃っていることで有名です。


8.27. "炒鋼"story完結編
"炒鋼" Story (4/4) START:

"炒鋼"storyの完結編です。現在の製鉄法は、高炉-製鋼が7割、電炉-製鋼が3割です。製鋼のメイン工程が転炉つまり炒鋼です。炭素含有量の調節、そして現在の転炉は不純物除去もします。日本は1901年に英国より高炉-製鋼を技術導入しました。中国の四川省からではないです。中国の炒鋼は、ある時代から消えています。炒鋼は突然BC326に中国の四川省に現れ、秦(BC220-BC210)、前漢・後漢(BC202-AD220)、そして魏呉蜀の三国時代(AD220-AD265)は確実にありました。この時代の中国の皇帝から周辺諸国の王へ、炒鋼の鉄剣と高純度の金印が贈答されています。しかし西晋の後の中国は、五胡十六国の分裂状態の戦乱になって、はっきりしません。空白期間があって、中世の中欧そして産業革命の西欧に、確実に炒鋼つまり転炉が現れています。炒鋼は、何時、中欧に戻ったのか。

 

図は1つの可能性のあるタイミングです。中国が西域さらに中央アジアまで勢力圏を伸ばしたのは唐の時代です。1つの興味ある逸話があります。AD751に大国である唐・カルルク連合軍とイスラムの大国のAbbasidがカザフスタンのタラス川で対戦しました。この戦いでカルルクが敵に寝返り、唐軍は分裂して大敗しました。この逸話は、ずっと昔BC326、アレキサンダー大王がインダス川上流のCophenの戦いで副将を失い、中流域のHydapesの戦いで大王自身の愛馬を失った出来事と何か似ています。BC326のアレキサンダー大王の時は、炒鋼の工人が別れて東の中国の四川へ移動ました。このAD751の唐軍の時も、炒鋼の工人が別れて西へ戻ったという可能性です。別の逸話として、このAD751のタラス川の戦いの唐の大敗で、Abbasidの捕虜となった唐人から、Abbasidへ製紙技術が伝わりました。しかし炒鋼はAbbasidに現れていません。西へ飛んで中欧に炒鋼が現れています。途中がありません。図のように、AD751に北のMagyarokに一旦移住したのではないかと考えました。ウラル南麓のMagyarokの大公Arpadが、炒鋼のSteelを見て、再び特別褒賞が出た。Back to Belgrade.

AD890に大公Arpadに率いられ、南ウラルのMagyarokが、炒鋼の工人と共に中欧のハンガリーへ大移住した。中世のハンガリーそして隣国オーストリアでは、騎士の鉄の鎧と剣・斧型槍の武器は凄いものが揃っています。ハンガリーの北の古名がBadenであり、ヨーロッパの青銅器の故地のチェコとスロバキアです。ドイツとチェコ国境の世界遺産のErgebirge/Krusnohoriにヨーロッパの主要なSn鉱山があります。ハンガリーの南はセルビアで、マイナーなSn鉱山がDanub川南の鯖にあります。首都ベルグラードです。Indusの子供の元奴隷の炒鋼の発明者の故地です。1300年間の時を経て戻ってきました。これ以降、中世・産業革命と欧州が突出して発展します。

 

ただアルパード大公は、平坦な平野部で騎馬族が並んだフランク王国には敗北します。再び上述した10枚の平板です。地中海ではダマスカス鋼です。波線パターンの折り返し鍛造です。"折り返し" is great.

 

また中欧のロマ族にY-haplo Hが高頻度で確認されます。そしてロマ族は、今でも、南ウラルの古のアラン(阿蘭)の風習である馬車を住居とします。『インダスの子供の元奴隷が発明した"炒鋼"が、中国の巴蜀から南ウラルを経由して、中欧セルビアに戻った。』、という話の1つの拠りどころかもしれません。
"炒鋼" Story (4/4) END