執着をなくすには

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皆さんに名前をよく知られたお坊さんの一人に、瀬戸内寂聴さんがいます。

 瀬戸内さんは元々小説家で、ご存知の方も多いと思いますが、お若い頃はスキャンダルもありました。

 

 小学生の頃から「将来作家として身を立てたい」と思っていたそうで、人生のある時期、それまでのご主人と当時まだ4歳のお子さんと別れてまで新たな道を歩み始めました。

 

 やがて念願かない、国民的な人気作家となった瀬戸内さんでしたが、やがてむなしさを感じるようになったそうです。

「身を飾っても、旅行をしても、心の底からの喜びが湧かない。今の私には、作家としての本当の喜びがない。

 何とかして人生を、もう一度生き直してみたい」

との思いで出家されたと言います。

 

 似たようなお話は世の中に結構沢山あるのではないか、と私は感じています。

 誰もが人生において夢を持ち、その夢は叶う事もあれば叶わない事もあります。

 しかし夢が叶ったらそれで幸せか、というと、そう言い切れない所がまた難しいですね。

 

 もちろん幸せになった方も沢山いると思いますが、瀬戸内さんのように、夢は叶ったけれど思っていた生活とは全然違う、という方も少なくないでしょう。

 最近オリンピックが何かと話題ですが、メダルを取ったばかりに大変な苦悩を抱えてしまった、という話も聞きます。

 

 仏教では、人間を苦しめる大きなものとして「執着」を挙げています。

 どうしてもこうなりたいとか、人からはこう思われたいとか、こういうものを手に入れたいとか、そうした物事に対するこだわり、執着が心を苦しめるというのです。

 瀬戸内さんの場合、出家する事によってそれまでの立場や考えから離れる事ができたのでしょう。

 

 しかしだからといって、誰もが執着を簡単になくせる訳ではありません。

 昔の高僧であっても、執着を完全に捨てるのは難しかったと思います。

 では我々は、どのような心持ちで毎日を過ごせばよいのでしょうか?

 

 日蓮宗のご法要の折には必ず「開経偈(かいきょうげ)」をお読みします。

 これはお経ではなく、お経を読む前の心構えが記されたものです。

 

 この中に、「見聞触知 皆近菩提(けんもんそくち みなぼだいにちかづく)」という一節があります。

 「我々は周りをきちんと見たり、聞いたり、触ったり、知ったりして、それによって世界の真理、世の中の有り様を学び、救いの境地に近づく事ができる」というような意味合いです。

 

お天気の良い日に心地よい風に吹かれたり、暑い日に好きな飲み物を飲んだり、そうしたふとした瞬間にも我々は幸せを感じますが、普段その事は忘れがちになってしまいます。

 仏教では口を酸っぱくして「今この瞬間に集中しなさい」と教えています。

 確かにその時々の感覚に集中すると、つまり意識を「見ること、聞くこと、触ること、知ること」に向けると、何気ない瞬間の中にも沢山の喜び、沢山の幸せがある事に気づけます。

 しかし我々はどうしても大きな事ばかりに目が行ったり、考えてもしょうがない事であれこれ思い悩んでしまいます。なんだか勿体ないですね。

 

 ですからまずは「ありふれた毎日の中にも、ちゃんと沢山の喜び、幸せがあるんだ」と知っておく事が、執着を離れる大きな一歩になると思うのです。

 

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