世界の人よ今一度考えてくれ…
〈思い立ったら旅に出よう〜宮島・尾道吟行③蒼空の広島へ〉
広島平和記念資料館の平和データベースで、被爆者の方が自身の体験を描いた「市民が描いた原爆の絵」を検索できます。市民の手による記録であり、核兵器が人間に何をもたらすかを示す貴重な証言です。
以下は前回のブログに書いたものです

「相生橋で燃える路面電車」「川に逃げる学徒の群れ」などの作者高原良雄さんは1974年に絵を描いた1人。爆心地から約700mで被爆。至近距離でしたが石垣が熱線や爆風を弱めてくれたそう。
瓦礫には無数の遺体が埋まり川べりには鮮血に染まる人々がひしめいていました。悶え苦しむ人々の顔が脳裏に焼き付き、戦後3年間は絵筆を握ることができなかった高原さん。
「世界の人よ今一度考へてくれ」絵だけでは表現しきれない悲惨さを、最後の17枚目に高原さんはこう綴ったそうです。
そして「喉が渇き黒い雨を口で受ける女性」の作者は爆心地からわずか260mの場所で被爆し奇跡的に助かった高蔵信子さん。原爆に奪われた一人一人の命の重みを想像し
生き残った人たちのその後の人生にも思いを寄せて欲しいと願い、65歳から10年余り修学旅行の学生達に体験を語っていたという記事を見つけました。
「血を吐きながら亡くなった弟」の作者の山下正人さんは、衣料品店を営みながら原爆の絵や彫刻を通して平和を訴えたそう。18歳で被爆死した弟への思いを文章や絵本にしていました。
またあの日たまたま広島で働く自分を疎開先の山口から訪ねて来ていて被爆した母の行方を探し歩いた中で目撃した阿鼻叫喚の広島の惨劇や
自らも白血病を発症し大量の輸血を受けられたおかげで奇跡的に助かったこと、そしてその後の暮らしなどを「ピカドン地獄追憶記」というタイトルの長い手記に綴っていたのは早川耐子さん。
「一瞬に生皮を剥ぎ取られた生命が、納得できぬまま爛れた肉体に取り憑いたように、タッタッタッと私のそばを走り抜けた地獄絵さながらの光景。
屠殺場に並べられた動物のような段原小学校の人々の姿と共に、私にとって原爆は昨日のことのように鮮明であり、その昨日の痛みを背負って59年の今日を迎えています。」
「核廃絶なくして神も正義もあり得ない。世界中の人々に訴えたい。もう被爆者をつくらないで」2004年に行われた平和行進の日で締め括られている手記の最後に早川さんが綴ったメッセージです。
高齢化が進み〈被爆者なき時代〉が刻一刻と迫ってきています。私も含めて戦争を知らない世代が、記憶を継承していくことの大切さを噛み締めながら…
小さき手に 折り鶴ひとつ 若葉燃ゆ
蒼空の 原爆ドームに 夏燕
〈思い立ったら旅に出よう〜宮島・尾道吟行④しまなみ海道へ〉続く🍀
その瞬間を捉えた貴重な証言…
〈思い立ったら旅に出よう〜宮島・尾道吟行②蒼空の広島へ〉
宮島からの移動は原爆ドームがある平和記念公園までを最短で結ぶ高速船〈ひろしま世界遺産航路〉で。原爆ドームのすぐ近くの桟橋で下船するのでとても便利です。
原爆ドームは何度訪れても敬虔な気持ちになります。目の前を流れるとても穏やかな元安川は、数多の被爆者が水を求めて殺到し絶命した場所…。
人類史上最初の原子爆弾が炸裂したのは原爆ドームから南東約160m、高度約 600mの場所で、建物は爆風と3000度から4000度の熱線を浴びて大破。
本館の中心部が奇跡的に倒壊を免れたのは爆風がほとんど垂直に働いたからで、館内にいた人は全員即死だったそうです。
修学旅行生や外国の人も沢山訪れていましたが、誰もが言葉少なく青空と深緑の中に佇む原爆ドームを見つめていて、あたりは静寂に包まれていました。
リニューアルされた広島平和記念資料館を訪れるのは2回目。リニューアルにより原爆の再現人形の展示は無くなりましたが、〈人間〉の視点から原爆の悲惨さを伝えることを重視した展示に。
爆風で曲がった建物の鉄骨、人影が残る石段、誰かが乗っていた自転車、建物疎開作業に携わっていた子供達の衣服など、遺品の持ち主の名前や顔写真、被爆までの生活を合わせて展示されています。
2歳の時に被爆し後に白血病を発症して亡くなった佐々木禎子さんが丁寧に折った千羽鶴が。小さな鶴を見つめていると病気が治るようにという願いを込めた禎子さんの息遣いが聴こえてくるようでした。
原爆で亡くなった人達がその瞬間に身につけていた遺品が展示されている「魂の叫び」では、数々の遺品にはそれらを大事に保管していた遺族の言葉が添えられていました。
そしてヒロシマを証言し得る貴重な資料として特別展示から常設展示になった「市民が描いた原爆の絵」は、原爆が炸裂した〈その瞬間〉に居合わせた人達が経験したことを描いたもの。
焼け野原となった広島の写真の多くは原爆投下後に広島に入った米軍などが撮影したものであり〈その瞬間〉ではありません。被爆者自身が描いた「原爆の絵」はその空白を埋める貴重な証です。
1974から75 年にかけてNHK 中国本部(広島放送局)が募集した「原爆の絵」は資料館で保管管理されていたそうで、この時に寄せられた2225 点の絵と
2002 年に中国新聞社の協力のもとで2回目の募集が実施されて集まった1338 点、そしてその後に寄せられたものを含めると5000 点以上になるそうです。
長年、被爆の経験を語れずにいた方も多く、心の中にしまい続けていた原爆投下直後の惨状を描いた市民による「原爆の絵」には強いメッセージが込められていることに改めて気付かされました。
詳しい説明書きが添えられておらず1枚1枚の絵を描いた人が気になり、前回の訪問の後に資料館の平和データベースに掲載されていた、タイトルと作者名を頼りに自分で調べてみました。
全員は無理でしたが過去に取材を受けていたり手記を残されていた方がいました。長くなってしまったので続きは〈思い立ったら旅に出よう〜宮島・尾道吟行③蒼空の広島へ〉で
鳥居を抱く瀬戸の海…
〈思い立ったら旅に出よう〜宮島・尾道吟行① 神を斎き祀る島へ〉
また吟行の季節がやってきました
中尾ミエさんに誘われて始めた俳句の会では年に1度、吟行に出かけていますが、今回は宮島から尾道を巡りました。
まず向かったのは宮島の厳島神社。前回行った時は改修中、しかも滞在時間が非常に短かったので、今回はゆっくり巡ることが出来て良かったです。
「神を斎き祀る島」という語源のように、古くから島そのものが神として信仰されていた宮島。その海上に建っている厳島神社は1996年世界遺産に登録されています。
潮の満ち引きのある場所にわざわざ建てたのは、木を切ったり土を削るなどして、神の島である"ご神体"を傷つけないため。参拝した時は引き潮でした。
厳島神社を厚く信仰した平清盛により現在の寝殿造りの海上社殿が造営されたと言われ、伝承されている舞楽も清盛によって大阪四天王寺から移されたもの。
東と西の廻廊、高舞台、火焼前、能舞台、反橋などで構成される厳島神社。床板には隙間が空いていて、高潮時の海水の圧力を弱めたり、廻廊に上がった海水を流す役目が。
まるで海に浮かんでいるように見える厳島神社の大鳥居。真下までは行けませんでしたが、高さ16.6m、棟の長さ24.2m、主柱回は9.9m、総重量は約60トンの鳥居は圧巻。木造では日本最大。
大鳥居の屋根下の笠木と島木は箱状になっていて、中に約4トンもの小石が詰められているそうです。月光(三日月)の金具が付いている部分が笠木で、東側は日光(太陽)とのこと。
宮島のホテルに宿泊したので夕景と日の出を見ることが出来ました。こちらは夕映えの中には佇む大鳥居です。
早朝は鹿と私だけ…という感じでほとんど人気がなく、時折り聞こえる夏鶯の声と浜に打ち寄せる瀬戸内の細波の音が心地良く。そこでニ句…
夕映や 鳥居を抱く 瀬戸の海
明易や 朱鮮やかに 神の島
〈思い立ったら旅に出よう〜宮島・尾道吟行②蒼空の広島へ〉に続く🍀







































